古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

山背大兄王はなぜ戦わなかったのか

2017年09月18日 13時27分22秒 | Weblog
しつこいですが、確認させてください。
《乙巳の変(大化の改新)-白村江の戦い-壬申の乱》という流れの中の、
《乙巳の変(大化の改新)・壬申の乱》は創作で、白村江の戦いの責任を,百済王・豊璋になすりつけるために創られたと考えているわけです。
最初はそうだったわけですが、その後の権力の変化(天武系→天智・百済系)のために、記述に変化が生じました。
初めは正の政権が百済王・豊璋に倒され、白村江の戦いに日本全体が引っ張られたものの、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱で正の政権に戻した,ことにしました。
これらはすべて唐に対するアリバイ工作で、もともと日本は唐に反逆するつもりなどないのだ,と表明しました。それが天武天皇の編纂した日本書紀本来の目的のはずです。
さて、天智天皇《中大兄皇子》は蘇我氏を倒したわけですが、現在の日本書紀では正義が悪を倒したことになっています。
ですが、逆だとすると、悪が正義を倒したことになります。

継体・敏達・蘇我・天武・文武・元明の年数の関係 2009年10月06日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a25560e9d7f2d238ab6314ceeed75d07

ここでは、蘇我氏と天武系が紀年では結びついていることをみました。

その他に、
藤原氏と蘇我氏は1年違いの関係 2013年04月24日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/210207e74c3ea923b655d466e19c94d5

ということをやりましたが、やはり、天武系と蘇我氏は結びつけられていた、といってよかったです。

元明天皇の崩御年721年と蘇我氏一族の崩年の関係  2008年03月07日
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/c37e5a6dff73286a223b8da5d7912128

現在の日本書紀の構成は、天武系が悪の蘇我氏と結びつけられているようです。
要するに、最後の日本書紀の編纂の段階では天武系は悪になっているわけです。

さて、しかし、乙巳の変で悪が正義を倒したことにするには、最も簡単にするには、百済王・豊璋が聖徳太子を倒したことにすればよかったのではないでしょうか。

その場合、聖徳太子の御子の山背大兄王(やましろおおえのみこ)は必要なのでしょうか。

妄想に妄想を重ねます。
どうしても山背大兄王は必要でした。
なぜか。
「山背」といえばまず「秦氏」を思い浮かべます。
そして、山背大兄王は蘇我入鹿に襲撃され、斑鳩宮から脱出します。
山背大兄王は部下から戦闘を起こせば蘇我入鹿に勝てる、と進言されますが、戦いを望まず、一族もろとも自害します。
『そんな馬鹿な』と全く評判の悪い山背大兄王の行動です。
ですが、これが唐に向けてのメッセージとしたらどうでしょう。
こういう平和主義の「山背」が戦争・白村江の戦いに行くわけがありません、というメッセージになります。
「山背」で「秦氏」を意味し、「秦氏」には宗像氏や息長氏が含まれると考えています。
また、唐の編纂した「隋書倭国伝」では倭国には『秦王国』の流れのものたちがいて、野蛮なもののはずがない、とされていました。

これをひるがえって考えれば、「秦氏」はズブズブに白村江に参戦していたことになります。

妄想が続きます。
乙巳の変では、中大兄皇子(と中臣鎌足)が蘇我入鹿を襲撃します。そして、その後、父親の蘇我蝦夷は自害します。
これが天武天皇の最初の構想では、百済王・豊璋が聖徳太子を襲います。その後、戦いを好まない山背大兄王は自害します、だったのではないでしょうか。

なお、ついでですが、気に入っているところです。
乙巳の変では「古人大兄皇子」が登場し、私邸に逃げ帰って、
「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)といいます。
百済王・豊璋ならば「韓人」でいいでしょう。
また日本書紀では「古人大兄皇子」は「古人太子(ふるひとひつぎのみこ)」とも書かれています。「古人太子(ブルータス)」と読めます。
日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
《或本云、古人太子。或本云、古人大兄。此皇子、入吉野山、故或云吉野太子。》
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/1a08ee29729c04fb626cfc0c833f7afb
カエサルと蘇我入鹿の暗殺の共通点 2014年03月30日

その他の場面でも外国の場面からとられている、とされているものがあるようです。
大和朝廷は西洋のことも東洋のこともよく知っている人たちで構成されていました。

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