継体6年の任那四県割譲として書かれている事件は、年代も継体6年とされる512年でもなく、場所も朝鮮で起きたことではありません。
ただ、二つのことが同時に記述されているということもありますから、《二人の卑弥呼が殺害された別々の争乱を『魏志倭人伝』は一つの事件と勘違いしてしまいましたから》一つは朝鮮で似たようなことが起きていたかもしれません。
しかし、朝鮮で起きたことは見えてきません。
そして、この任那割譲は、日本で起きたことが書かれていることは明白でした。
説明が厄介ですが、この任那とされている地域は琵琶湖周辺です。
百済王豊璋は蒲生野で落雷を受け、瀕死の重傷を負い、それが元で何ヶ月か後に亡くなりました。
安土に邸宅があったのではないかと推測もしました。
また、近江大津京錦織遺跡が琵琶湖の南西側にあります。
ですから、かなりの広範囲の土地を百済の末裔が影響力を持っていたとしか考えられませんでした。
ですが、まさかそこが「任那」として記述されているとは思いもしませんでした。
しかし、そこを任那とすると合点のいくことがあります。
天智天皇の娘と天武天皇や天武天皇の息子の姻戚関係はありえないことだ、ということは何度も書いています。
そこでたどり着いた結論は、天武天皇は有力な豪族の娘と婚姻することにより、(一種の安全保障条約でしょう)、支配の影響力を増していったのでしょうが、その豪族の娘を非存在の天智天皇の娘として一括りにしてしまったのです。
天武天皇系は朝鮮から戻ってから、姻戚関係を育てる時間の余裕があったのでしょうが、百済系が支配力を持ったときには、そんな時間がありません。
ですから、豪族の娘を天智天皇の娘とすることによって、一気に豪族との血縁関係を築いてしまったのではないでしょうか。(紙の上だけですけれど)
初めに気づいたのは阿閇皇女(あへのひめみこ・元明)です。
【父:天智天皇 、母:蘇我姪娘(父:蘇我倉山田石川麻呂)
同母姉:御名部皇女 、夫:草壁皇子】・・ウィキペディア(Wikipedia)
姉の御名部皇女(みなべのひめみこ)にも阿閉皇女にも(ABE・あべ)が入りますから、本当は阿倍氏の娘なのではないかと考えました。(草壁もABEが入りますが、草壁皇子=高市皇子(天皇)ですから、どうなのでしょうか)
また、天武天皇と鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・持統)の息子は草壁皇子とされていますが、じつは高市皇子だと考えています。
で、高市皇子は【胸形尼子娘を母とする。母の父は胸形君徳善】ウィキペディア(Wikipedia)ということで、鸕野讚良皇女(持統)は(胸形・宗形・宗像)氏の娘ではないか、想像されます。(諏訪に追われたのは建御名方神です)
で、問題は天智天皇の第一皇女で、大津皇子の母の大田皇女です。
一体、誰の娘なのでしょうか。
この方が大伴氏の娘だとすると、継体6年(512)大伴金村が任那割譲を奏上したのは、百済滅亡後の664年以降のことで、任那と書かれたのは近江など琵琶湖周辺のことである、という推測が成り立つかもしれません。
構成としてはあっているような気はしますが、まだまだ眉唾ものですね。

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ただ、二つのことが同時に記述されているということもありますから、《二人の卑弥呼が殺害された別々の争乱を『魏志倭人伝』は一つの事件と勘違いしてしまいましたから》一つは朝鮮で似たようなことが起きていたかもしれません。
しかし、朝鮮で起きたことは見えてきません。
そして、この任那割譲は、日本で起きたことが書かれていることは明白でした。
説明が厄介ですが、この任那とされている地域は琵琶湖周辺です。
百済王豊璋は蒲生野で落雷を受け、瀕死の重傷を負い、それが元で何ヶ月か後に亡くなりました。
安土に邸宅があったのではないかと推測もしました。
また、近江大津京錦織遺跡が琵琶湖の南西側にあります。
ですから、かなりの広範囲の土地を百済の末裔が影響力を持っていたとしか考えられませんでした。
ですが、まさかそこが「任那」として記述されているとは思いもしませんでした。
しかし、そこを任那とすると合点のいくことがあります。
天智天皇の娘と天武天皇や天武天皇の息子の姻戚関係はありえないことだ、ということは何度も書いています。
そこでたどり着いた結論は、天武天皇は有力な豪族の娘と婚姻することにより、(一種の安全保障条約でしょう)、支配の影響力を増していったのでしょうが、その豪族の娘を非存在の天智天皇の娘として一括りにしてしまったのです。
天武天皇系は朝鮮から戻ってから、姻戚関係を育てる時間の余裕があったのでしょうが、百済系が支配力を持ったときには、そんな時間がありません。
ですから、豪族の娘を天智天皇の娘とすることによって、一気に豪族との血縁関係を築いてしまったのではないでしょうか。(紙の上だけですけれど)
初めに気づいたのは阿閇皇女(あへのひめみこ・元明)です。
【父:天智天皇 、母:蘇我姪娘(父:蘇我倉山田石川麻呂)
同母姉:御名部皇女 、夫:草壁皇子】・・ウィキペディア(Wikipedia)
姉の御名部皇女(みなべのひめみこ)にも阿閉皇女にも(ABE・あべ)が入りますから、本当は阿倍氏の娘なのではないかと考えました。(草壁もABEが入りますが、草壁皇子=高市皇子(天皇)ですから、どうなのでしょうか)
また、天武天皇と鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・持統)の息子は草壁皇子とされていますが、じつは高市皇子だと考えています。
で、高市皇子は【胸形尼子娘を母とする。母の父は胸形君徳善】ウィキペディア(Wikipedia)ということで、鸕野讚良皇女(持統)は(胸形・宗形・宗像)氏の娘ではないか、想像されます。(諏訪に追われたのは建御名方神です)
で、問題は天智天皇の第一皇女で、大津皇子の母の大田皇女です。
一体、誰の娘なのでしょうか。
この方が大伴氏の娘だとすると、継体6年(512)大伴金村が任那割譲を奏上したのは、百済滅亡後の664年以降のことで、任那と書かれたのは近江など琵琶湖周辺のことである、という推測が成り立つかもしれません。
構成としてはあっているような気はしますが、まだまだ眉唾ものですね。

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