古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

交野という地名

2012年03月01日 11時26分06秒 | Weblog
この交点にズームインしましたが、初めは普通の民家があるように見えるだけで、取り立てて意味はあるようには思えませんでした。
しかし、少しズームアウトしたところ「交野」という地名が目に入りました。
この場所は交野市になります。

仁徳天皇陵-菟道稚郎子御墓と阿武山古墳-大山守命墓の交点は
北緯34度46分50.93秒、東経135度41分36.67秒あたりですが、
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344650.93&l=1354136.67







「交」という字に惹かれます。
「かたの」という呼び名ですが、なぜ「交野」を「かたの」と読むのでしょうか。
交点となる地だから「かたの」という地名が「交野」という字になったのではないでしょうか。
とりあえず交野市の地名由来を検索してみました。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/souzenji/katano/katano.htm
《「かたの」の地名は、この肩野物部氏が開拓指導し、永く支配した地域を「かたの」と呼ぶようになったことに由来しているようです。
また、平安時代に歌を詠む人達の優雅な発想で、「人が行き交う野」、「生き物が行き交う野」という意味で、「交野」という字が使われる様になりました。》

その他、潟野からきたものとあるのもありました。
「潟」を調べると
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%BD%9F/
内湾や浅海の一部が、砂嘴(さし)や砂州、または沿岸州によって外海から切り離され、湖となった地形で、潟湖(せきこ)・ラグーンともいう。一般に水深は浅い。・・・・・・・・

そういえば、昔は大阪はもっと海が広がっていました。
また、枚方市には片埜神社がありますが、この「片埜」はどこからきたものなのか、は別問題で、ともかく「かたの」が「交野」や「片埜」や「肩野」になったものと考えます。

で、私としては、「潟野」がそれぞれに変化させられたのではないか、と感じます。
しかし、それが正解でなくてもかまいません。
「交野」とどうしてなったのかが、今の問題です。

引用させていただいたものに
《「人が行き交う野」、「生き物が行き交う野」という意味で、「交野」という字が使われる様になりました。》
とありましたが、そうではなく「魂の交わる野」ということになるのではないでしょうか。
天の川からきたと思われる「天野川」もありますし、「星田」「機物神社」もあります。

これらから、どうしても『七夕』を思い起こします。

http://murata35.chicappa.jp/katudohokoku/mukashibanashi/index02.htm
《1年にたった一度、7月7日に天の川で織姫と牽牛が会えるという七夕。大阪・交野から枚方にかけては銀河にたとえられた「天野川」が流れ、織姫と牽牛ゆかりの地も残る、七夕伝説のふるさとといわれています。》

では、交野でどなたたちの「魂」が出会うのでしょうか。
大山守命墓・菟道稚郎子御墓・仁徳天皇陵・阿武山古墳の被葬者たちということになります。(実は他の方たちもありそうです)
物語の上では大山守命・菟道稚郎子・仁徳天皇は兄弟ということになっています。ですが、それぞれの墓の被葬者はそうではありません。
大山守命墓・仁徳天皇陵・阿武山古墳の被葬者については今までに考えてきました。
それらに照らし合わせると、菟道稚郎子御墓の被葬者と考えられるのはお一人しかいません。

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1 コメント

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交野市由来 (nao)
2014-08-27 15:10:44
はじめまして
もう一説・・・
平安時代かな・・
高貴な人たちの狩猟場であって、人の肩のように見えることから、”かたの”と、呼ばれていた。
と、子供の頃、聞いたことがあります。
ちなみに、枚方には”禁野”(キンヤ)があり、狩猟禁止場所であったらあしいです。

交野山は”こうのざん”と読みます。

交野のことを、あらためて勉強させてもらいました。
ありがとうございます。

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