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古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

光源氏(不比等)はなぜ藤壺(元明)、若紫(元正)と

2009年07月09日 12時02分21秒 | Weblog
 本日も勝手な思いつきで、そういうこともあるかもしれない、くらいに思っていただければありがたいです。
そんな馬鹿な、でもいいです。

 小説、物語を読むときに、一々筋に引っかかっていたのでは面白くありませんし、疲れてしまいます。
 そこで、変だなと思ったり、納得できないと思ったりしても、たいていの場合、ともかく、そのまま読み続けてしまいます。
 読了後、多くの場合は、その引っかかったことは忘れてしまいます。

 源氏物語を読んだとはとてもいえませんが、私は、どうも光源氏・藤壺、光源氏・若紫の関係にずっと引っかかっていたようです。
 超イケメンのモテモテの光源氏が、なぜ天皇の寵妃・藤壺に執拗に迫るのか、理解しにくいのです。
 ドラマとして成立するには、天皇の寵愛が藤壺から離れているという条件が必要です。
 絶対的権力を持った天皇とそのときの第一の寵妃のもつ緊張感の間に入り込めるものなどいないはずです。

(中国ドラマ「紫禁城・華の嵐」を見るとそうです。全然関係ありませんが、ドラマの中でわかったことがありますので付け加えます。神武天皇と同じように清の始祖もカラスに守られたことになっています。これは、もともとは『魏志倭人伝』の「戴斯烏越(サスウオ=スサノヲ」の烏からきているはずです。すなわち、ジンギスカン=源義経のうえ、「清王朝」もその系列になるということです。それだけでは強引ですが、可能性は十分あります。カラスがそんなに簡単に登場するわけがありません。確か高木彬光氏の「成吉思汗・・」の最後に「清」のことが出てきたような気が・・。)

 また、モテモテの光源氏が行動に自己規制をかけられないということが不思議です。
 ところで、光源氏が年上好みかというと、そうでもなく、若紫にまで手を出します。
 理由としては、藤壺も若紫も母親に似ているから、ということだけのようです。
 また、光源氏は若紫を十分に手なずけてから関係を持ちます。
 確信犯といっていいです。
 ですが、若紫は母親似の少女なのです。
 そういう少女を初めから計画的に(としか思えません)、ということがわかりません。
 マザコンにしても変です。
 そんなこともあるのかな、と思いつつも、モヤモヤしてすっきりしません。

 さて、「記・紀」「源氏物語」は『魏志倭人伝』と同じで、事実に基づいて書かれていながら、フィクションになっています。

 「源氏物語」にはモデルがいます。
 いろいろあげられているようですが、私が考えるには、この藤壺の部分での光源氏は不比等です。
 藤壺は「元明天皇(阿閉皇女)」になります。
 光源氏と若紫は、二組あり「スサノヲと卑弥呼トヨ」及び「不比等と元正天皇(氷高皇女)」です。

 不比等は阿閉皇女ともその娘の氷高皇女とも関係を結んだはずです。
 藤壺、若紫の話から、不比等は阿閉皇女、氷高皇女と関係したと考えたのです。
 しかし、その想像が正しいとしても、不比等の行動は光源氏よりも理解できません。
 不比等がなぜ二人とそんなことになるのか、わかりません。
 必然性があったのでしょうか。
 不比等が光源氏と同じように単に「好色」というだけなのかな、と釈然としないながらも、そこに留めていました。

 釈然としなかったのは、不比等と文武天皇が敵対し、不比等は文武天皇を殺害することになるからです。
 文武天皇と不比等の敵対の一番の理由は、不比等が文武天皇の母、姉と関係を持ったせいではないかと考えられたからです。
 後に、もう一つの理由として、朝鮮に対する政策の違いがあったことに気づきました。

 神功皇后の新羅遠征とスサノヲと魏志倭人伝・・・2006・12/31
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a82a224c4c10605160783ac487b8400d

 ここに付け加えます。
 ヤマトタケルの子の仲哀天皇を、草壁皇子=高市天皇の子の文武天皇とすると、神功皇后は元正天皇、武内宿禰は不比等になります。
 とすると、文武天皇と元正・不比等には朝鮮政策の違い、すなわち国内安定を優先するか、または百済奪還を優先するかという政策の違いがあったと思われます。
 神功皇后は仲哀天皇の后であり、元正天皇は文武天皇の姉という違いはありますが、それは『魏志倭人伝』の卑弥呼と卑弥弓呼(卑弥呼の弟または夫としてのスサノヲ)の間違いを応用したものでしょう。

 ですが、なぜ不比等は「家庭内」に問題を起こすような不条理な行動をしたのでしょうか。

 また、後に草壁皇子と高市皇子は同一人物であり、高市皇子は実は天皇であったはずだ、と考えるようになりました。
 しかも、不比等と高市天皇は仲良しであり、不比等は高市天皇に庇護されたところもあったはずです。
 高市天皇は病床で「後をよろしく頼む」といったでしょう。
 ですが、それは後見ということでしょう。
 それにもかかわらず、不比等は、高市天皇の崩御後のことでしょうが、その人の妻と、さらに子までにも、関係を求めたことになります。

 隠された十字架の変なところ・・2006・2/3
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/ce6325e108cda7d26e59fa5fd8e16209

 ヤマトタケルと孝徳天皇の脚の病気・・2009・5/21
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/c94664d991da47c8a06d4a9840e83bb1

 その他に
 崇峻天皇と蘇我馬子の関係も文武天皇と不比等の関係と考えています。
 (真の文武崩706-崇峻崩592=114=19×6、
  馬子と聖徳太子の国記編纂・620=不比等と長屋王の日本書紀・720)


 不比等は百済王・豊璋の子であり、百済奪還を遺言として残されていたでしょう。長く続いた百済が父の時代で終わるという不名誉は、父のためにも残したくはなかったでしょう。
 そう考えて、以下を思いつきました。

 不比等の不条理な、理不尽な行動には、朝鮮・百済を奪還しようという情熱が日本国内に急速に衰えていた、またはあきらめがあったことに対する不比等の焦りがあり、阿閇皇女(あへのひめみこ・元明)・氷高皇女(元正)を動かして政治の舵を百済奪還へと取ろうとしたのではないでしょうか。
 そして、それは不比等と文武天皇の激突という悲劇をもたらしたのです。
 さらに、長屋王の悲劇にもつながっていきます。

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