『皇極三年(644)春正月・・時に軽皇子(孝徳天皇)、患脚(みあしのやまい)して朝(まいりつか)へず。中臣鎌足連、曾(いむさき)より善(うるは)し。』
(日本書紀・岩波文庫・巻四p214)
皇極3年(644)の孝徳天皇(軽皇子)・寵妃阿倍氏・中臣鎌足の姿は
持統3年(689)の草壁皇子・阿閉皇女(元明)・藤原不比等・〈(軽皇子、後の文武天皇)・氷高皇女(元正天皇)〉である、ということは『「隠された十字架」の変なところ』①②③で書きました。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a93e6e51099469781606a38cc41edac9
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/900326dadaa711031e4cd3231f98dd24
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/ce6325e108cda7d26e59fa5fd8e16209
そこでは孝徳天皇=草壁皇子であると解いたわけです。
しかし、最近は草壁皇子=高市皇子=ヤマトタケルということに気がつきました。
ということは、草壁皇子=高市皇子=ヤマトタケル=孝徳天皇ということになります。
少なくとも、部分的にはそうなるところがあるということです。
そして、『軽皇子(孝徳天皇)、患脚(みあしのやまい)して朝(まいりつか)へず』は象徴的になります。
なぜなら、ヤマトタケルも脚の病が原因で亡くなっていたのですから。
しかし、軽皇子(孝徳天皇)は皇極4年・大化元年、天皇に即位しているのですから、脚の病気で亡くなってはいません。
(この後の軽皇子は人格が変わって文武天皇に変化していると思われます)
どういうことかと申しますと、
不比等が脚の病で動けなくなっていた高市天皇を訪れたのは、持統3年(689)ではなく、持統10年(696)だったということです。
以前は、単純に、持統3年→皇極3年に移動させたものと考えていたのですが、そうではなかったようです。
といいますのも、
皇極3年(644)軽皇子(孝徳天皇)を尋ねて歓待された中臣鎌足の
「軽皇子(孝徳天皇)が将来、天皇になることを妨げるものは誰もいない。」という言葉の通りに、翌年、軽皇子(孝徳天皇)は即位しています。
しかし、軽皇子(文武天皇)が即位しているのは697年(文武元年)のことなのです。
不比等の「軽皇子(文武天皇)」の即位を後押しするという表現が、689年(持統3年)でしたら、「軽皇子(文武天皇)」の即位まで7年間もあることになってしまいます。
ですから、不比等は、軽皇子(文武天皇)即位の前年696年に高市天皇の病床訪問をしたことになります。
便宜上、持統何年というふうに書いていますが、事実は高市何年となるはずです。
(念のために書きます。孝徳天皇も文武天皇も軽皇子ですが、親子の世代を混同させたものとしました。
『魏志倭人伝』の二人の卑弥呼の混同は、親子ではないはずですが、親の世代と子供の世代を一緒くたに混同させたものと考えています。
それがここに利用されているはずです。
そして、書紀の中では、草壁皇子と高市皇子は別人ですが、実は同一人物です。
『魏志倭人伝』の中では、同一人物が別の名前で登場しているところがあるからです。(卑弥弓呼・卑弥呼の弟など)
そういう場合、文武天皇(軽皇子)の父は草壁皇子になっていますが、草壁皇子=高市皇子ですから、文武天皇(軽皇子)の父は高市皇子(高市天皇)になります。
この場合も、『魏志倭人伝』の中では、卑弥弓呼(卑弥呼弟)は卑弥呼トヨとは親子関係ではないですが、実は親子だったからです。(と考えています)
というわけで、この部分は『魏志倭人伝』のあらゆる間違いを利用しているはずです。)
不比等と高市皇子は『曾(いむさき)より善(うるは)し。』と描かれているところから、以前より仲が良かったことがわかります。
たぶん不比等の母と高市天皇皇后・阿閉皇女(元明)と血縁関係が近かったのではないかと考えます。
では、高市皇子(天皇)の脚の病とは何だったのでしょうか。
ヤマトタケルの脚の病と同じものでなければなりません。
ヤマトタケルの脚の病については面白い説を読みましたが、どうやって高市天皇と結びつければいいかわかりません。
本日は、ここまで、(といっても、見通しがあるわけではありません。)
(日本書紀・岩波文庫・巻四p214)
皇極3年(644)の孝徳天皇(軽皇子)・寵妃阿倍氏・中臣鎌足の姿は
持統3年(689)の草壁皇子・阿閉皇女(元明)・藤原不比等・〈(軽皇子、後の文武天皇)・氷高皇女(元正天皇)〉である、ということは『「隠された十字架」の変なところ』①②③で書きました。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a93e6e51099469781606a38cc41edac9
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/900326dadaa711031e4cd3231f98dd24
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/ce6325e108cda7d26e59fa5fd8e16209
そこでは孝徳天皇=草壁皇子であると解いたわけです。
しかし、最近は草壁皇子=高市皇子=ヤマトタケルということに気がつきました。
ということは、草壁皇子=高市皇子=ヤマトタケル=孝徳天皇ということになります。
少なくとも、部分的にはそうなるところがあるということです。
そして、『軽皇子(孝徳天皇)、患脚(みあしのやまい)して朝(まいりつか)へず』は象徴的になります。
なぜなら、ヤマトタケルも脚の病が原因で亡くなっていたのですから。
しかし、軽皇子(孝徳天皇)は皇極4年・大化元年、天皇に即位しているのですから、脚の病気で亡くなってはいません。
(この後の軽皇子は人格が変わって文武天皇に変化していると思われます)
どういうことかと申しますと、
不比等が脚の病で動けなくなっていた高市天皇を訪れたのは、持統3年(689)ではなく、持統10年(696)だったということです。
以前は、単純に、持統3年→皇極3年に移動させたものと考えていたのですが、そうではなかったようです。
といいますのも、
皇極3年(644)軽皇子(孝徳天皇)を尋ねて歓待された中臣鎌足の
「軽皇子(孝徳天皇)が将来、天皇になることを妨げるものは誰もいない。」という言葉の通りに、翌年、軽皇子(孝徳天皇)は即位しています。
しかし、軽皇子(文武天皇)が即位しているのは697年(文武元年)のことなのです。
不比等の「軽皇子(文武天皇)」の即位を後押しするという表現が、689年(持統3年)でしたら、「軽皇子(文武天皇)」の即位まで7年間もあることになってしまいます。
ですから、不比等は、軽皇子(文武天皇)即位の前年696年に高市天皇の病床訪問をしたことになります。
便宜上、持統何年というふうに書いていますが、事実は高市何年となるはずです。
(念のために書きます。孝徳天皇も文武天皇も軽皇子ですが、親子の世代を混同させたものとしました。
『魏志倭人伝』の二人の卑弥呼の混同は、親子ではないはずですが、親の世代と子供の世代を一緒くたに混同させたものと考えています。
それがここに利用されているはずです。
そして、書紀の中では、草壁皇子と高市皇子は別人ですが、実は同一人物です。
『魏志倭人伝』の中では、同一人物が別の名前で登場しているところがあるからです。(卑弥弓呼・卑弥呼の弟など)
そういう場合、文武天皇(軽皇子)の父は草壁皇子になっていますが、草壁皇子=高市皇子ですから、文武天皇(軽皇子)の父は高市皇子(高市天皇)になります。
この場合も、『魏志倭人伝』の中では、卑弥弓呼(卑弥呼弟)は卑弥呼トヨとは親子関係ではないですが、実は親子だったからです。(と考えています)
というわけで、この部分は『魏志倭人伝』のあらゆる間違いを利用しているはずです。)
不比等と高市皇子は『曾(いむさき)より善(うるは)し。』と描かれているところから、以前より仲が良かったことがわかります。
たぶん不比等の母と高市天皇皇后・阿閉皇女(元明)と血縁関係が近かったのではないかと考えます。
では、高市皇子(天皇)の脚の病とは何だったのでしょうか。
ヤマトタケルの脚の病と同じものでなければなりません。
ヤマトタケルの脚の病については面白い説を読みましたが、どうやって高市天皇と結びつければいいかわかりません。
本日は、ここまで、(といっても、見通しがあるわけではありません。)