古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

「三河」の地名は「三輪」由来ではないでしょうか

2018年09月23日 14時45分43秒 | Weblog
702年持統上皇三河行幸があったとされています。
以前、考えたことがありました。
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/3f19b23f95bb37da1faba3183f4e271b
持統上皇三河行幸について 2016年08月17日

なぜ「三河行幸」なのだろうかというのが、結局、どなたにもはっきりとわからないことのようです。
私も、三河が生まれ故郷だったのではないかと想像しました。
ところが、「ミカワ、ミカワ」と口ずさんでいたところ、急に、とんでもないことを思いつきました。
「三河・ミカワ」の地名は「ミワ・三輪」からきたものではないか。
《何度もやっているように
「隋書倭国伝」に記述された「阿蘇山」は「アスカ山」のことだったと考えています。
「アスカ」の「カ」の音は、通常の「カ」の発音と違って、息が出ないために、中国人には聞き取れませんでした。
「カキクケコ」の「カ」と「アスカ」の「カ」の表記は同じ「カ」ですが、発音は違っています。
(また、「中臣・ナカトミ」は「難斗米・奴のトミ・ナトミ」のことで、先代の卑弥呼の弟で、次代の卑弥呼・臺与(とよ)の父ではないかと考えています。
「難斗米・ナトミ」に「カ」を加えたものが「中臣・ナカトミ」です。
また、先代の卑弥呼と次代の卑弥呼は叔母・姪の関係ということになります。
「藤原」は「ふじはらFUJI・HARA」に「K」を加え「FUSHI・KHARA」「不死・カラ」「百済は不滅」となります)》

ということで、「三河・ミカワ」は「三輪・ミワ」に「カ」を足したものではないか。
「ミカワ」の「カ」と「アスカ」の「カ」はやはり発音は違いますが、同じ「カ」表記のために、〈抜き、足し〉が可能になります。

https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/bdfff58ff07e5407cda4a36303d6d4aa
「ハカタ」から「カ」を抜くと「ハタ」 2017年08月01日

大津皇子の祟りというものが感じられている状況では、実際には三輪山には何度でも出かけていったものと思えます。
おそらく、高市天皇崩御も大津皇子の祟りと考えられたでしょう。
祟りを防ぐということでは三輪に祈りを捧げるということは当たり前と思われたでしょう。
崇神天皇の時代に「大田々根子」を見つけたことになっています。
血を受け継いでいるものが祈る、ということが必要とされたのでしょう。
三輪山の意富多多泥古・大田々根子(おおたたねこ)は大田皇后・大津皇子と関連があるはずです。

ところが祟りが続いていたとすると、
持統は「三輪」ではなく、「三輪」を思わせ、「カ」を加えた「ミワ+カ」「三河・ミカワ」に行幸することが良いのではないか、考えたかもしれません。
「三輪」でいくら祈っても効果が見られなかったのではないか。

しかし、そんなに都合良く「三河」があったでしょうか。
「三河」の地名由来を検索したところ
《「三河」の国号の由来は、元来不明である。》そうです。
三つ河があったからだろう、と想像していました。
確かにそういう説もあるようですが、そこのところは、どうもあいまいのようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/三河国
『古事記』には「三川」と表記され、7世紀の出土木簡にもみな「三川国」と記されている[2]。律令制-平城京までは「参河」と表記。長岡京以後は、「三河」と表記したことが、木簡から判明している。また、万葉集には三河は水河とも当て替えられている。
「三河」の国号の由来は、元来不明である。山崎闇斎は、再遊紀行の中で、参河風土記逸文と称して、三大河説を唱える。さらに、江戸中期の三河国二葉松で、序文の著者である小笠原基長と太田白雪がこの三大河説を補強する。
《参河国が確実に存在したのは律令制の成立以後である。》

《「三河」の国号の由来は、元来不明である。》
《参河国が確実に存在したのは律令制の成立以後である。》ウィキペディア

「隋書倭国伝」の〈阿蘇(山)〉は〈アスカ(山)〉のことです。
そして、九州に阿蘇という地名を創ってしまいました。
魏志倭人伝が九州と近畿を混同しているので、隋書倭国伝も九州と近畿の混同が起きていることにしました。

すると
〈三河・ミカワ〉は〈三輪・ミワ〉から導かれて創られた地名と考えてもいいのではないか。
逆じゃないかと考える向きもありましょう。
「カ」が抜けるならば「ミカワ」が先ではないか。
「明日香」の「カ」が抜けて「阿蘇」になるならば、「三河・ミカワ」の「カ」が抜けて「ミワ・三輪」になるべきではないか。
でもこれはどちらも可能で、「三輪」のほうが「三河」よりも先にあったでしょうから、「三河」は後で創られたと考えます。
いつ創られたかといえば、「持統三河行幸」のときでしょう。

「三輪」でいくら祈っても、祟りは続いていたとすると、「カ」を加えた「三河・ミカワ」を創って祈ればいいのではないか。
持統天皇6年(692年)に伊勢に行幸するときに「三輪高市麻呂」は反対します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/三輪高市麻呂
三輪 高市麻呂(みわ の たけちまろ)
《持統天皇6年(692年)2月19日に、中納言直大弐(従四位上に相当)の高市麻呂は、上表して諫言し、天皇が伊勢に行幸して農事を妨ることを中止するよう求めた。3月3日に行幸の留守官が任命されると、高市麻呂は冠位を脱いで天皇に差し出し、「農作の節に車駕を動かすべきではない」と重ねて諫めた。天皇は聞き入れず、6日に発って伊勢に行き、20日に帰ったが、かわりに随行した人と労役した人のその年の調役を免じた。これより後、『日本書紀』中に高市麻呂への言及はなく、『続日本紀』で任官記録が残されている大宝2年(702年)のまでの動静は不明である。ただし、両書ともこの時期の中級官人の動向を漏らさず伝えるようには編纂されていないので、高市麻呂が官を辞したのか留まったのかはわからない。》

この伊勢行幸にはまだ「三河・ミカワ」は創られていなかったのでしょうか。
すると、692年から702年の間に「三河」という地名が創られたことになります。
「三輪高市麻呂」という名前も「高市皇子(実はこの時、天皇だったはず)」が存在しているときに不可解です。

まぁ、ともかく、三輪氏は反対してもおかしくありません。
祭祀の場所を「三輪」から「三河」に変えようというのですから。

しかし、結局、そんなことは不可能だったでしょう。
前回やった
斉明天皇陵〈大田皇后陵〉の北東45度に三輪山・大神神社・大直禰子神社(おおたたねこ)がありますし、
斉明天皇陵〈大田皇后陵〉ー三輪・大神神社・大直禰子神社ー大津皇子墓が
 直角二等辺三角形
斉明天皇陵〈大田皇后陵〉の真北が大田神社(上賀茂神社の摂社)
斉明天皇陵〈大田皇后陵〉の真東が皇大神宮(伊勢神宮・内宮)
斉明天皇陵〈大田皇后陵〉の真南が熊野本宮大社でした。

天武系が崩壊した後は、桓武天皇系と三輪氏・賀茂氏の間には話し合いがついたということではないでしょうか。


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