古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

持統上皇三河行幸について

2016年08月17日 11時42分46秒 | Weblog
『大宝二年(702)12月13日持統太上天皇の病が重くなり、12月22日崩御。』
その直前ともいえる9月19日、三河に行幸するための準備として、五国に行宮を造ります。
『702年9月19日伊勢・伊賀・美濃・尾張・三河の五国に行宮を造ります。』
そして、10月3日三河国に行幸するために諸々の神々を鎮め祭ります。
10月10日三河国に行幸します。(出発したのではなく、三河についたことのようです)
そして、一ヶ月ほど三河に滞在したようです。
一ヶ月余り後11月13日に尾張国に行ったとあるからです。

《大宝二年(七〇二)九月癸未(十九)》○癸未。遣使於伊賀。伊勢。美濃。尾張。三河五国。営造行宮。》(ここは三河になっていました)
9月19日使いを伊勢・伊賀・美濃・尾張・三河の五国に遣わして行宮(かりみや)を造営させた。(続日本紀・宇治谷猛p53講談社学術文庫)

《大宝二年(七〇二)十月丁酉(三)》
鎮祭諸神。為将幸参河国也。》
諸々の神々を鎮め祭った。これから参河国に行幸されようとするためである。

さて、死の直前、死期を悟った人が一ヶ月ほども三河に出かけているならば、三河が生まれ故郷だったからではないか、と前回考えた次第です。
一般人ならば、生まれ故郷でなくとも、少なくとも、個人的な思い出の地であるはずです。

ところが、やはり、持統上皇は一般人ではないようで、その位置が重要のようです。(三河が生まれ故郷である、ということが完全否定されているわけではないと思えますが。)

その位置を検討する前に、三河への行き帰りで気になったことがありますので、まずそちらを。

《大宝二年(七〇二)十月甲辰(十)》○甲辰。太上天皇幸参河国。令諸国無出今年田租》
 太上天皇(持統)が参河国に行幸された。そこで関係の諸国は、今年の田租を免ぜられた。

《大宝二年(七〇二)十一月丙子(甲子朔十三)》○十一月丙子。行至尾張国。
《大宝二年(七〇二)十一月庚辰(十七)》○庚辰。行至美濃国。
《大宝二年(七〇二)十一月乙酉(廿二)》○乙酉。行至伊勢国
《大宝二年(七〇二)十一月戊子(廿五)》○戊子。車駕至自参河。

参河に着いたのが10月10日ということで、一ヶ月後は帰り道を描いているようです。(「魏志倭人伝」の邪馬臺国から最も離れた奴国という書き方を思い起こします)

「魏志倭人伝」では奴国から邪馬臺国へは(奴国→不彌国→投馬国→邪馬台国)となっていました。
そして、邪馬臺国から奴国への道が
《邪馬国(邪馬臺国)→躬臣国(河内)→巴利国(播磨)→支惟国(吉備)→烏奴国(穴門)→奴国》と記されているのではないかと考えました。
しかし、というか、しかもというか、この二つの奴国は別の国だと、「魏志倭人伝」は考えているようでした。
ともかく、奴国→邪馬臺国、邪馬臺国→奴国の道で、「魏志倭人伝」は混乱しています。
特徴としては、帰り道の方が細かく記されているようにみえます。

持統上皇(鸕野讃良・うののさらら)の三河行幸も、そのように記述されているようです。
三河への行路はわかりませんが、帰り道は詳しくなっています。

『《伊勢・伊賀・美濃・尾張・三河の五国に行宮を造る》
行きの順路としては、伊勢→伊賀→美濃→尾張→三河だと思えましたが、変です。』

位置関係として、今回は一つだけあげておきます。
持統上皇は三河で行宮を造らせていました。
現在残されている、持統上皇行在所跡ではないかと思われます。



瀧原宮
北緯34度21分57.81秒 東経136度25分32.32秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342157.81&l=1362532.32

持統上皇行在所跡
北緯34度48分15.47秒 東経137度19分17.74秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344815.47&l=1371917.74

熱田神宮
北緯35度07分38.57秒 東経136度54分31.31秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350738.57&l=1365431.31

瀧原宮→熱田神宮
 Ⅰ27°30′16.75″ Ⅱ207°46′47.92″ Ⅲ95,339.342(m)
瀧原宮→持統上皇行在所跡
 Ⅰ59°08′42.79″ Ⅱ239°39′13.67″ Ⅲ95,499.687(m)
熱田神宮→持統上皇行在所跡
 Ⅰ133°25′43.22″ Ⅱ313°39′55.08″ Ⅲ52,025.125(m)

瀧原宮での角度
 59°08′42.79″-27°30′16.75″=31°38′26.04”≒31.6406度
熱田神宮での角度
 207°46′47.92″-133°25′43.22″=74°21′04.70”≒74.3513度
持統上皇行在所跡での角度
 313°39′55.08″-239°39′13.67″=74°00′41.41”≒74.0115度

頂角30度、底角75度の二等辺三角形になるようです。







http://www.net-plaza.org/KANKO/toyokawa/siseki/jitou/index.html
持統上皇行在所跡 

こちらによりますと、位置が少しずれたようです。
PHOTO-5

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
邪魔者のツルにも花が・・。先週。




調べたところ、ヘクソカズラ(屁糞葛)という名前でした。
聞いたことはありましたが、これでしたか。(追記 8/18 1:12)

http://amuzow.com/hekusokazura/
ヘクソカズラ(屁糞葛)
気になるヘクソカズラの花言葉は「人嫌い」
更には「誤解を解きたい」というちょっと切ないもの、「意外性のある」という、これまたそのままの花言葉が存在するようです。
何もしなければ匂わないけれど、折れたり切れたりして組織が傷つくと「メルカプタン」が発動するみたいです

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%83%A9
ヘクソカズラ(屁糞葛、学名: Paederia scandens)は、アカネ科ヘクソカズラ属の蔓性多年草で、至る所に多い雑草。葉や茎に悪臭があることから屁屎葛(ヘクソカズラ)の名がある。古名はクソカズラ(糞葛・屎葛)。別名ヤイトバナ、サオトメバナ。
干して水分を飛ばした果実、または生の実を薬用とする。
万葉集(巻十六)
かわらふじに 延ひおほとれる屎葛 絶ゆることなく宮仕えせむ(高宮王)
諺「屁糞葛も花盛り」
いやなにおいがあってあまり好かれない屁糞葛でも、愛らしい花をつける時期があるように、不器量な娘でも年頃になればそれなりに魅力があるということ。類語に「鬼も十八番茶も出花」がある。


8/16 台風接近中

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