古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

前回の長屋王についての見解の修正

2014年01月15日 11時28分51秒 | Weblog
前回、長屋王は王位継承の資格は、それほどあるものとしませんでしたが、間違いでした。
軽皇子(文武天皇)と同等と考えるべきでした。

説明になっているかどうかわかりませんが、・・

孝徳天皇には高市天皇と文武天皇の二人が投影されています。
草壁皇子は高市天皇のダミーで存在しなかったと考えていますから、この高市天皇と文武天皇の二人は親子です。(公式的には、文武天皇は草壁皇子の子とされています)
親子を同一人物に混同する間違いは「魏志倭人伝」の卑弥呼からきています。
「魏志倭人伝」では、卑弥呼の死んだ後に墓が造られたとありますが、これを247年のこととしています。しかし、この墓は280年ごろ造られたものであり、卑弥呼・臺与(とよ)の墓でなければなりません。
32~34年離れた年代を縮めてしまっています
その魏志倭人伝の故意ではない間違いを、日本の史書は故意に実行しています。
「魏志倭人伝」が卑弥呼復活を預言していたと理解したからです。
二人の卑弥呼は親子ではないと思えますが、(最初の卑弥呼の弟の子が卑弥呼・臺与(とよ)と考えています)、親子ほど年の差がありました。
そこで、書紀では親子を同一人物として扱っている部分があると考えています。

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/c94664d991da47c8a06d4a9840e83bb1
ヤマトタケルと孝徳天皇の脚の病気  2009年05月21日

『「隠された十字架」の変なところ』①②③
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/a93e6e51099469781606a38cc41edac9

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/900326dadaa711031e4cd3231f98dd24

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/ce6325e108cda7d26e59fa5fd8e16209

『皇極三年(644)春正月・・時に軽皇子(孝徳天皇)、患脚(みあしのやまい)して朝(まいりつか)へず。中臣鎌足連、曾(いむさき)より善(うるは)し。』
(日本書紀・岩波文庫・巻四p214)

 皇極3年(644)の孝徳天皇(軽皇子)・寵妃阿倍氏・中臣鎌足の姿は
持統3年(689)の草壁皇子・阿閉皇女(元明)・藤原不比等・〈(軽皇子、後の文武天皇)・氷高皇女(元正天皇)〉である、ということは『「隠された十字架」の変なところ』①②③で書きました。


この時はまだ草壁皇子を実在したものと考えていましたが、高市皇子(高市天皇)と同一とします。
中臣鎌足(藤原不比等)は孝徳天皇(高市天皇)の病床を訪ねたのです。
脚の悪かったのはヤマトタケルと高市天皇で、ヤマトタケルには高市天皇が投影されている部分があると考えるべきでした。(ヤマトタケルは、もともとは前王朝のシンボルでしょう。天武系王朝はつなげたのでしょう)
そして、中臣鎌足(藤原不比等)が王にしようとした軽皇子の実体は孝徳天皇ではなく文武天皇のことです。
一瞬のうちに、高市天皇と文武天皇の親子を同一のものとして混同させます。
「魏志倭人伝」が親子ほど年の離れた二人の卑弥呼を混同し同一人物としたようにです。

さて、孝徳天皇が天皇に即位するにあたってのエピソード。
古人大兄皇子も候補に上がっていました。
しかし、これが孝徳天皇(軽皇子)の時のエピソードでなく、文武天皇(軽皇子)の時のことだとすると、古人大兄皇子には長屋王が投影されていることになります。
前回、長屋王は血統的に天皇候補ではないのではないかと考えましたが、間違いでした。

長屋王は高市皇子と御名部皇女(みなべのひめみこ)の子となっています。
そして、御名部皇女で天智天皇の皇女となっていますが、天智天皇は実在しませんから皇女ではありえません。
しかし、高市皇子は高市天皇です。
とすると、軽皇子(文武天皇)は高市天皇と阿閇皇女(あへのひめみこ)の子です。
御名部皇女も阿閇皇女も阿部氏の子女ではないかと考えています。
すると、軽皇子(文武天皇)も長屋王(長屋皇子だったのではないか)も天皇位継承となると同等の権利を持っていた可能性があります。

しかし、古人大兄皇子は辞退しています。
すると、古人大兄皇子に長屋王が投影されているならば、長屋王も辞退していたことになります。

おそらく辞退せざるを得ない状況だったと思えます。
軽皇子(文武天皇)には、不比等がついています。
《中臣鎌足は軽皇子(孝徳天皇)が王位に就くことを妨げるものはいない、と発言していました》
阿部氏はどちらが天皇になろうと構わなかったかもしれません。
物部氏が問題ですが、橘三千代は物部連麻呂の子供だと考えています。
《物部守屋(物部連麻呂)の妹は蘇我馬子(藤原不比等)の妻でした》
そのうえ、光源氏が藤壺、紫の上と関係を持ったように、不比等は阿閇皇女、そしてその子供の氷高皇女とも関係を持ったと思われます。

696年、高市天皇崩御の時に後継者争いはそれほどのことはなかったと思えます。
701年、不比等と橘三千代の間に光明子が生まれたはずです。
不比等が最も充実していた時ではないでしょうか。
と、考えると、706年までは順風満帆にみえたのではないでしょうか。
文武天皇が不比等に対する反感を育てているとは気が付かずに。

この縮小では大きすぎますか。
焼津神社ー伊吹山の線はヤマトタケルに関連するはずです。











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6 コメント

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不比等は損在 (いしやま)
2014-01-30 05:22:31
藤原京は、藤原宮・・・は日本書紀ではあったのかなかったようにほとんど消されていました。しかし、最近になってその存在は、平安京を上回る規模かもしれないとされました。とすると、避諱から藤原氏の存在はあり得ません。最高権力の藤原宮と同一名称は引くはずです。名称は唯一でなくては混乱します。となると思います。長屋は親王を消されていましたが、木簡から親王と分かり天皇でしょう。高市も天皇となり、その間は阿用でしょうか。乙巳の変は平城京の12門を持つ場所のようですから、長屋の変はそれなのでしょうか。
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Unknown (永岡)
2014-01-30 09:53:06
藤原京という名称は日本書紀に出てきませんが、藤原宮は持統紀に6件ヒットします。天智7年1件、允恭紀に2件ヒットします。本来は別の名称だった、ということはありえましょう。「阿用」?
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藤原宮とは (いしやま)
2014-01-31 18:11:19
藤原宮は別な名称だったということですか。
それではちょっと・・・・・
こんな記事があります。・・・続日本紀 721年美作と備前を割いて藤原郡を作る。726年藤原郡を藤野郡に名称変更する・・・というものですが、どう思われますか。これらは
720年藤原不比等死後直後、日本紀完成直後ですね。
藤野郡は後の藤野氏改め和気氏の基盤で、吉備真備に対立しています。山部について平安遷都とゆきます。
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Unknown (永岡)
2014-02-01 12:34:39
「藤原宮」があって臣下に「藤原」が付くわけはない、ということですね。
また、逆に言えば、臣下に藤原氏がいれば、臣下の名前を宮に付けるわけはないと。
知識不足で申し訳ありませんが、「藤原宮」と書かれた木簡は出てきているのでしょうか。・・・仮に、出ていたとしても、おかしいことがあります。
藤原は「FUJI・WARA」→「FUJI・HARA」→「FUSI・KHARA」→不死-韓
で「百済は復活する」というメッセージと考えます。
ですから680年代に「藤原宮」という名称はおかしいはずです。
また「紀」は何度でも上書きできたはずです。
藤原宮・藤原氏の両方が同時に存在したとすると、天武系の罪滅ぼしの可能性でしょうか。701年の動乱は考えられません。
どこかで全体像を発表してください。そこで、読ませていただきます。
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続日本紀、日本書紀は小説 (いしやま)
2014-02-26 06:51:59
大変驚いています。同名のものはコンピューターでは存在出来ません。それと同じで権力には避諱が設定されています。ということは、「ふしから」が正解でしょうか、それを示すために日本書紀は書かれた。小説となれば、歴史事実も含まれて当然、しかし目的は藤原氏のためですから、肝心な歴史とは重ならないように作られた。中国史書の記載とは事実重ならないように細心の注意が払われていますし、聖徳太子、大化の改新、乙巳の変など、創作と判明しつつありますから、更には神話時代の創作は当然ですから、小説であることを繰り返し示していたものということになるということでしょうか。奈良時代の歴史も、怨霊や呪詛で固められていますから、これも小説であることを示すために、わざわざ置かれたキイワードなのでしょうか。
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Unknown (永岡)
2014-02-27 14:42:40
小説にもいろいろあるでしょう。
まるっきり空想の産物もあれば、事実に基づいたものもあるでしょう。
また事実に基づいているといっても、その中で占める事実の割合とか方法はさまざまでしょう。日本の史書は、源氏物語も含め、魏志倭人伝の間違いの通りの方法で記述されているというのが私の仮説です。
「魏志倭人伝」は、正確な情報であっても、間違った情報処理をしたはずです。
とはいえ、「魏志倭人伝」は小説とはいえないでしょう。
日本書紀などは意識的に「魏志倭人伝」の間違い方と同じやり方で書かれているはずです。意識的という部分では小説的ですが、事実に縛られるというよりも、「魏志倭人伝」の間違い方法に縛られるという点で、小説というジャンルに当てはまるかどうかわかりません。独特な書物と思えます。
《中国史書の記載とは事実重ならないように細心の注意が払われています》
あぁ、そうですか。そこは知りたいところでした。ありがとうございます。
なお、「怨霊」は素朴な生まれ変わりの思想が変質したもの考えています。
怨霊は実際に恐怖だったと思いますが、・・・。怨霊が小説?
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