古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

「隠された十字架」の変なところ

2006年01月28日 23時17分16秒 | Weblog
 表面上は、鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を滅ぼしたのは、聖徳太子一族を滅ぼした、蘇我氏への復讐のように見えるが、実は中臣鎌足は初めから、蘇我氏の内部分裂を利用し、まず山背大兄皇子など太子一族を滅ぼし、次に蘇我氏全体を滅亡に導く意図を持っていて、それを実行したと、梅原氏は考えています。
鎌足はすべてを見通していた、というのです。
ですから、669年に鎌足が亡くなったのも、670年に法隆寺が焼失したのも、672年に天智天皇が崩御し、壬申の乱がおき天智一族が滅亡したのも、太子の怨霊のせいだと、藤原氏や天武側は考えたのだろうと梅原氏は主張されます。
だから、藤原氏は、太子の霊を鎮めるために法隆寺を再建した、というわけです。
突っ込む所はたくさんあります。
①まず、第一の疑問は、聖徳太子の怨霊は、なぜ法隆寺を焼かなければならないのかということです。
自分の造った寺を焼いて、太子の怨霊は気が晴れるのでしょうか。しかも薬師如来の光背銘によれば、父の願った寺なのです。焼くのは変です。
では、光背銘がでたらめだとします。なんの真理も伝えていないとします。すると、最初の法隆寺は誰が、何のために、いつ造ったか、まるでわからなくなります。
聖徳太子の造った寺ならば、太子の怨霊は法隆寺を焼くわけがありません。焼くならば、まず他の寺を選ぶに決まっています。他の寺を全部焼いて最後になっても、法隆寺は焼かないはずです。
聖徳太子の造ったものでなく、例えば、天智天皇、藤原鎌足の造った寺ならば、梅原氏の推論どおり、太子の怨霊が焼くことはありえます。梅原氏の推論どおりならば、それ以外に、太子の怨霊が、法隆寺を焼くことはありえません。
しかし、最初の法隆寺が天智、鎌足の造ったものであるならば、それは既に、太子、蘇我氏の霊を慰めるものでなければなりません。
そうでなければ、最初の法隆寺と再建された法隆寺は別の寺と考えた方がいいわけです。
同じ寺と考えられる場合は、一連の出来事、鎌足の死、法隆寺焼失、天智天皇の崩御は、確かに、太子の怨霊の仕業といえるかもしれません。
ところが、その場合は建立された時期は645年から670年の間でなければなりません。乙巳の変で蘇我氏が滅んでからとなるはずですから。
しかし、太子の一族、蘇我一族を滅ぼしたからといって、すぐに彼等の霊を慰めるものを造るとは思えません。何かしら祟りでもなければ造るわけはありません。
そこで、「隠された十字架」の年表を見ますと、
654年(白雉五) 孝徳天皇歿、磯長陵に葬られる。
655年(斉明元) 板蓋宮焼けて飛鳥川原宮に移る。
656年(斉明二) 『維摩経』を誦し、中臣鎌足の病回復を祈る。
658年(斉明四) 5月、建皇子歿(8歳) 11月、有馬皇子殺される。
661年(斉明七) 7月、斉明天皇歿。
663年(天智二) 8月、日本軍、白村江において唐軍に敗れる
666年(天智五) 法隆寺の金堂半跏思惟像成る(丙寅年銘)
667年(天智六) 3月、近江大津宮に遷都。 この年金堂薬師如来像成る。
668年(天智七) 1月、中大兄皇子即位し、天智天皇となる。
669年(天智八) 鎌足、歿す(56歳)
670年(天智九) 4月30日、法隆寺全焼。
671年(天智十) 12月、天智天皇歿。
672年(天武元) 壬申の乱起こる。

661年(斉明七) 斉明天皇の葬儀に、朝倉山の上に鬼が出て、葬儀を臨み視た、という記事が書紀に載っています。これは蘇我入鹿の怨霊だという話は、書紀には載っていませんが、前に聞きました。
658年に亡くなった建皇子(たけるのみこ・建王)は中大兄皇子の御子です。
656年には中臣鎌足も病気だったようです。(これは、私の考えでは、この時の鎌足の年齢が天智天皇の崩御の実年齢です)
とすると、確かに祟りだと思われそうなことが続いています。
そこでもし法隆寺が造られていたとしたならば666年頃になります。
そして、670年には全焼してしまったことになります。
 しかし、669年には鎌足が亡くなり、671年には天智天皇が崩御したわけですから、法隆寺の建立があったとしても、法隆寺は怨霊に対して何の役割も果たしていません。
そんな寺を、710年ごろになって、再建するでしょうか。
また、白村江の敗北で、日本国内は混乱していたという話も読んだことがあります。(そこらの状況が、よくわからないのですが)
当時の状況では、法隆寺を造るどころではないようにみえます。
となると、645年以降670年以前に、天智天皇、藤原氏(この場合まだ中臣)が法隆寺を建立する可能性はなくなります。

 では、若草伽藍跡に建っていた寺はなんでしょうか。聖徳太子の建てた寺だったなら、聖徳太子の怨霊が祟って焼くはずがありません。
 失火で焼けたと考えられたなら、わざわざ書紀に書くことはありません。ところが書紀は焼失を書いて、建立の時を書いていません。
 しかし、670年には、法隆寺は焼失することはないのです。なぜなら、そこには、なにもなかったからです。若草伽藍跡に建っていた寺は、590年には消えていたはずです。発想を転換しないかぎり、無理でしょうねぇ。
 (確かめるには、若草伽藍跡の近くの谷で発見されたという瓦の焼けた年代を調べれば解決する、と思うんですが)
 
 ②突っ込み所の二番目は、中臣鎌足が、あまりにも謀略・陰謀に長けすぎているうえ、先を見通す能力に秀ですぎていることです。歴史を解明するのに、歴史上の出来事(この場合、山背大兄皇子殺害、乙巳の変の一連の事件、要するに蘇我氏の滅亡)が個人の力と意図とで進められた、という解釈は無理です。
(と、私のような平凡な人間は思います)
ただし、中臣鎌足が架空の存在ならば可能です。そして、これらの事件が架空ならば、可能です。
  ②を続けます。

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