古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

隋書の「秦王国」を京都・平安京に変化させるには

2017年05月23日 00時17分57秒 | Weblog
隋書には竹斯国の東に秦王国がある、とされています。
「竹斯」は「ちくし」と読むのでしょうから,「秦王国」が「豊前・豊後」であり、「京都郡」であるのは当然と思えます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E7%8E%8B%E5%9B%BD
明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹嶋 南望[身冉]羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也
— 隋書 列傳第四十六 東夷 俀國[1]
「翌年(大業4年 608年)文林郎裴清を倭国へ遣し、百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(つしまこく?)(対馬)を経て大海に出、東に一支国、竹斯国(ちくしこく?)(筑紫)、また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」
隋書記述の位置関係や阿蘇山の出現から、秦王国を豊前・豊後[3][4]に比定する研究者がいる。

しかし、中国の史書の日本に関する記述は間違っていなければなりません。
「魏志倭人伝」は、何度も言いますが、二人の卑弥呼を同一人物と間違ったために、「卑弥呼復活」を宣言していたことになりました。
二人の卑弥呼の死は、年代も違えば、場所も北九州とヤマトの三輪山近辺と違っていました。
そして、直角の間違いは、北九州の奴国の南に邪馬台国(ヤマト国)があったのではなく東であった、ということからきたものです。
「隋書倭国伝」も「魏志倭人伝」と同じ間違いをしなければなりません。
一つは「阿蘇山」です。これは「アスカ」のことです。この「カ」の発音が中国人には聞き取れなかったために「阿蘇」と表記されたのですが,九州に「阿蘇山」を創り出すことで、「隋書」に「魏志倭人伝」と同じ間違いをさせることになります。(要するに,九州の阿蘇山という名前は後につけられた,と考えています。九州とヤマトを入れ替えるために。)

さて、では「竹斯」の東の「秦王国」はどうなるでしょうか。
「魏志倭人伝」の方角の間違いは「南→東」で、左回りに90度・直角に間違えたものです。
ですから、秦王国の位置が間違えならば、東は北に変化するべきです。
しかし、筑紫の北では意味を持ちません。
で、いささか強引ですが、「京都」で結びつくのは、やはり、京都・平安京でしょう。
その,京都を結びつけるには,まず京都郡を真東に行きますと熊野本宮大社になります。
そして、熊野本宮大社を真北にいきますと、大和朝廷の都がずらっと並んでいます。
一直線とはなっていませんが、藤原京・平城京・平安京が,熊野本宮大社の北に並びます。
《京都と豊前・京都郡》と《東を北に変化させる》を結びつけます。



勝手な空想で進めます。
この7世紀初頭の時期は、日本では卑弥呼・臺与(とよ)の子孫がヤマトに戻ってきていました。前王朝は滅びましたが、しかし、単独の力ではなく、各豪族が協力してまつりあげたものです。
なぜかといえば、それは「魏志倭人伝」の卑弥呼復活の予言のためです。
それが6世紀の終わり頃です。
ですから、統一国家といっても緩やかな連帯で、各豪族の力は強かったと想像します。
そこで、筑紫の東の「秦王国」とはどんなものかと想像しますと,渡来人の自治区のようなものだったのではないでしょうか
「王国」は大げさでしょうが、「隋書倭国伝」の「秦王国」は実在したでしょう。
しかし、これを間違いにしなければなりません。
どうするかというと,筑紫の北ではなく、熊野の北に「秦王国」、「京都郡」ではなく「京都」が存在することになりました。
平安京の地は「秦氏」の提供したものだ、そうです。
平安京は「秦王国」だったことになります。








http://feb27.sakura.ne.jp/national_history20.html
平安京と秦氏
《平安京の造営長官は藤原小黒麻呂であった。長岡京と平安京の造営された山背国は、秦氏の根拠地であった。また、桓武天皇の母方の一族百済王族の根拠地でもあり、桓武天皇もここで育った可能性がつよい。山背国は、794年の平安京遷都にあたり、山城国と改称された。藤原種継の母と藤原小黒麻呂の妻は、秦氏の出身である。村上天皇(946年~967年在位)の日記には、「大内裏は秦河勝の宅地跡に建っている」とある。大内裏にある右近の橘は、河勝の屋敷の庭にあったものであった。
 秦氏は、長岡京と平安京の造営にあたり、その一族の財力を上げて取り組んだ。造営関係の役職にも、多くの名を連ねている。》

筑紫の東に「秦王国」「京都郡」そして「熊野」,熊野の北に「秦氏の地(秦王国)」「京都」となります。

しかし、筑紫の東を,筑紫の北でなく、熊野の北に変えていいものかどうか
そして、筑紫と熊野に共通点はあるかどうか。

△豊前国府跡公園-熊野本宮大社-京都御所
熊野本宮大社→京都御所
 ①359°32′50.30″ ②179°32′27.16″ ③131,302.107(m)
熊野本宮大社→豊前国府跡公園
 ①269°07′55.66″ ②86°28′08.35″ ③444,019.377(m)
豊前国府跡公園→京都御所
 ①70°00′51.30″ ②252°42′43.71″ ③463,907.785(m)

熊野本宮大社での角度
 359°32′50.30″-269°07′55.66″=90°24′54.64″≒90.4152度
京都御所での角度
 252°42′43.71″-179°32′27.16″=73°10′16.55″≒73.1713度
豊前国府跡公園での角度
 86°28′08.35″―70°00′51.30″=16°27′17.05″≒16.4547度

△豊前国府跡公園-熊野本宮大社-平安宮大極殿跡
熊野本宮大社→平安宮大極殿跡
 ①358°44′38.89″ ②178°43′34.99″ ③130,729.789(m)
熊野本宮大社→豊前国府跡公園
 ①269°07′55.66″ ②86°28′08.35″ ③444,019.377(m)
豊前国府跡公園→平安宮大極殿跡
 ①70°01′04.53″ ②252°42′15.53″ ③461,984.473(m)

熊野本宮大社での角度
 358°44′38.89″-269°07′55.66″=89°36′43.23″≒89.6120度
平安宮大極殿跡での角度
 252°42′15.53″-178°43′34.99″=73°58′40.54″≒73.9779度
豊前国府跡公園での角度
 86°28′08.35″-70°01′04.53″=16°27′03.82″≒16.4511度

平安宮大極殿跡
北緯35度01分07.76秒 東経135度44分31.52秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350107.76&l=1354431.52

熊野本宮大社
北緯33度50分26.24秒 東経135度46分24.53秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=335026.24&l=1354624.53

豊前国府跡公園
北緯33度41分12.79秒 東経130度59分1.01秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=334112.79&l=1305901.01
33°41'12.79"N 130°59'1.01"E

下鴨神社(賀茂御祖神社)
北緯35度02分20.96秒 東経135度46分22.90秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350220.96&l=1354622.90
35°02’20.96”N,135°46’22.90”E社

京都御所
北緯35度01分27.23秒 東経135度45分43.61秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=350127.23&l=1354543.61

伏見稲荷大社
北緯34度58分01.69秒 東経135度46分21.46秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=345801.69&l=1354621.46
http://maps.google.co.jp/maps?=&q=fusimiinaritaisya
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