1,さよならウラン、こんにちはトリウム
米中印が続々参入…福島原発事故で浮上した未来の原発
米国は持っていたボールを落としてしまった
同じ量の燃料からウランの約90倍のエネルギー
オバマ大統領が言及しないのは、政治的な配慮か
新“敬天愛人”のブログ からの転載を二つ紹介します。いつもながら敬天愛人さんのブログの、ズバリと確信をついたような洞察力、小気味良い論調は、 きもちいいですね。
転載元: 新“敬天愛人”のブログ
御来訪感謝申し上げます。
今日の読売朝刊に西岡武夫参院議長が菅首相へ退陣を求める勧告文を寄稿しました。
与党出身の議長が新聞紙面で辞任を促すというのは、異例中の異例であり、読売新聞の電子版には寄稿文は載っていないので、政治史に残る椿事として朝刊から書き起こしたものを全文転載させていただきます。
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「首相の責務 自覚ない」
菅直人内閣総理大臣殿
昼夜を分かたぬご心労、推察致します。御苦労様です。
私は、国権の最高機関を代表する一人として、この一文で敢えて率直なことを申し上げます。
菅首相、貴方は、即刻、首相を辞任すべきです。
いま、東日本大震災の被災者の方々、東京電力福島第一原子力発電所事故により避難を余儀なくされおられる皆さん、多くの国民の皆さん、野党各党、また、 与党の国会議員の中にも、私と同じ考えの方は多いと思われます。また、地方自治体の長、議員の皆さんも、菅首相に対する不信と不安を持っておられると思い ます。
それでも、「菅首相、お辞めなさい」という声がなかなか表面化しないのは、理由があるようです。
国政に限らず重大な問題が生じた時、そうして事柄が進行中に、最高責任者を代えるのは、余程のことだ、という考えが一般的だからです。
しかし、3月11日の震災発生以来、菅直人氏は、首相としての責務を放棄し続けてこられました。
これこそが、余程のことなのです。
実は、昨年、尖閣諸島沖の中国漁船衝突問題の時も、首相としての責任を放棄されたのですから、貴方は、首相の国務に関しての責務に自覚をお持ちでないのでしょう。
こうした私の菅首相への「怒り」に、反論する格好の言葉が、日本にはあります。曰く、「急流で馬を乗り換えるな」。
この言葉は、私も賛成です。しかし、それは、馬に、急流を何とか乗り切ろうと、必死になって激流に立ち向かっている雄々しい姿があってのことです。
けれど、菅首相には、その必死さも、決意も、術もなく、急流で乗り換える危険よりも、現状の危険の方が大きいと判断します。
今、菅首相がお辞めにならなければ、東日本の被災者の皆さんの課題のみならず、この時点でも、空中に、地中に放射能・放射線を出し続け、汚染水は海に流されているという、原発事故がもたらす事後の重大な課題も解決できません。
ここで、3月11日以来、なぜ菅首相がやらなかったのか、やる気がなかったのか、私が疑問を持ち続けていることについて触れてみたい、と思います。
その一。 首相は、なぜ、3月11日以降、直ちに「緊急事態法」をまとめ、立法化を図らなかったのか。
多くの会議を作り、指揮命令系統を敢えて混乱させてきました。これは首相の責任を曖昧にして、決断を延ばすための手法です。
震災では、県市町村の長、職員、地元の消防団、消防署、警察官、東京消防庁、地域の民生委員、自衛隊の皆さんに並々ならぬご苦労をかけています。
看過できないのは、首相が10万人もの自衛隊員に出動を命じるのに、安全保障会議を開かなかったことです。
安全保障会議は、「国防と共に、重大緊急事態への対処に関する重要事項を審議する機関」です。
首相は法律を無視しているのです。
その二。 原発事故は、国際社会の重大な関心事です。首相が初動段階で、米軍の協力の申し出を断ったことが大きな判断の誤りです。
現時点でも、事故の収束について、首相には、なんの展望もないのです。
その三。 首相が、被災された東日本の皆さんのために、今の時点で、緊急になすべき事は、「8月上旬」などと言わず、避難所から仮設住宅、公営住宅の空 き部屋、賃貸住宅、とあらゆる手段を動員し、被災された方々に用意することです。さらに、資金の手当て、医療体制の整備が急務です。
その四。 また、首相の責務は、災害による破損物の処理です。この分別は予想以上に大変で、梅雨入りを迎えて緊急の課題です。
さらに、新たな国土計画、都市計画、農林、水産業、中小零細企業再建の青写真、新たな教育環境の創造等々、期限を切って方向性をまず明示すべきでした。
その五。 居住の場所から非難を強いられている方々は勿論、原発事故の収束に向かう状況について、固唾を呑んで見守っておられる日本全国の皆さんに、正確で真実の情報を知らせるべきでした。
原発が、案の定、炉心溶解(メルトダウン)を起こしていたではありませんか。
私は、この事実を、東電も首相も、知っていたのではないかという疑いを持っています。
その六。 首相の政治手法は、すべてを先送りする、ということです。この国難に当たっても、前段で指摘した課題のほとんどは、期限を明示しませんでした。
批判が高まって、慌てて新たな行程表を5月17日に発表しましたが、予算の裏づけはありません。
大震災に対する施策も、原発事故の処理費用も、新たな電力政策も、それらに要する財源は明らかではないのです。もし、それらが、政権担当能力を超えた難題なら、自ら首相の座を去るべきです。
このままでは、政権の座に居続けようとするための手法と受け取られても弁明できないでしょう。あたかも、それは、「自分の傷口を他人の血で洗う」仕草ではありませんか。
我が国は、山積する外交問題、年金問題を始めとする困難な内政問題等、多くの難題を現に抱えています。
私は、菅直人首相には、それを処理する能力はない、と考えます。
すべてが後手後手にならないうちに、一刻も早く、首相の職を辞されることを重ねて強く求めます。
野党が多数の参院で問責決議案を可決しても、貴方は居座るかも知れません。もしお辞めにならないのであれば、26、27両日の主要8カ国(G8)首脳会議前に、野党が衆院に内閣不信任決議案を出す以外に道はないのです。
私は、いま、己の長い政治経験と、菅政権を誕生させた責任を感じ、断腸の思いです。
放射能・放射線のために、自分の生まれた土地を後にしたことも知らない幼児、母校を離れて勉強している子どもたちの澄んだ瞳を、私は真っ直ぐ見つめられるだろうか、自問自答しています。
国会議員が党派を超え、この大震災と原発事故が、少なくとも、子どもたちの未来に影を落すことのないよう、身命を賭して取り組まなければなりません。
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不肖敬天愛人がつけ加えるコメントは何もありません。
菅総理が退陣することが復興への足がかりの一歩となります。
もう猶予はありません。
菅総理、西岡議長の言葉は重いぞ!!
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転載元: 新“敬天愛人”のブログ
サイタニのブログからの転載です。菅は誰が見ても変です。最終決定はいつも誰かに決めさせて、自分が責任をとらなくてもいいようにしながら、提案のような形で、実質命令なんですから。そうやってパフォーマンスばかりで、熟慮もなく思いつきの政策ばかり。西岡さんがやめろというのは、正論です。
即刻、国家統治の大権を天皇に奉還し奉る時である。
転載元: サイタニのブログ
明治維新が世界史上、類の無い無血の大変革と習ったことがありますが、江戸300年の幕藩体制の中で、各藩での藩主やそれに使える武士階級は、既得権益があったはずです。
それをすべて返上するという大改革を断行し、欧米列強の植民地主義の負けずに、世界の荒波の中に漕ぎ出すために、護国の意識を強く共有して、私心を捨ててこうに奉じようとした武士道の精神には感嘆せずに入られません。
この幕末の武士道の忠誠の対象である天皇という存在の大きさもあって、わが国固有の精神で、神国日本を守ろうという精神は、ペリー来航から僅か15年で、明治維新という大変革を成し遂げ、封建体制から、近代国家に生まれ変わって、明治の時代を歩み始めます。
まるで奇跡のような、この出来事。現代の国難と言われる時代に、同じような精神で、日本を護ることができるでしょうか。
美しい国からの転載です。
今日の政府民主党などが声高らかに唱えている、政治主導、平成維新などという文字の羅列は、改革でも革命でもない、ただのママゴトにしかすぎません。ただ國を混乱させ、疲弊させているにすぎないのです。
我國において、革命と呼べるのは、明治維新しかありません。
明治維新は、世界でも類のない変革であったのです。
幕末の日本は、アメリカのペリー提督が黒船を引き連れて浦賀に現れた時から、激動の時代に入りました。それからわずか15年で、維新が実現しました。それによって、260年間も続いた徳川幕藩体制が終わり、新しく近代国家が誕生しました。
15年の間に、開国か鎖国か、倒幕か佐幕かなど、日本の進路をめぐっての争いがありましたが、当時の人々に一貫していたのは「護国」の精神でした。
戊辰戦争から西南戦争までの死者は、2万人~3万人。フランス革命の死者が200万人といわれることに比べると驚くほど少なく、中国が現在の國家となるのには、長い年月を要しています。
どうしてこれほど大きな変革が、これほど短期間に、しかも流血が極めて少ない形で、実現できたのでしょうか。
幕末の日本人は、昨年の「龍馬伝」でもありましたが、ペリー来航以来、非常な危機感を感じていたことにあります。欧米列強は強力な軍事力と高い科学技術を保持していました。
また、不平等条約を余儀なくされました。ここで外圧の対処に失敗すれば、白人種に隷属することになりかねず、また、もし日本人同士が争えば、その隙に欧米諸国に付け入られる危機を感じてたのです。
この絶体絶命の状況をどう乗り越えるか、その危機意識が明治維新を促進したのです。
昨年、中国が、尖閣諸島へ進出してきましたが、多くの日本人、政府が危機を感じていなかったのとは雲泥の差があります。
政権は、大政奉還(1867)によって、幕府から朝廷に移動しました。
しかし、新政府と言っても、まだ全国に大名がいて各地方を支配する封建体制はそのまま残っています。この社会の仕組みを根本的に変えなくては、変革にはなりません。
維新直後の明治新政府の課題は、一日も早く近代国家を建設して、欧米列強に支配されることのないようにすることでした。明治2年6月に版籍奉還が行なわれ、各藩の土地と人民は朝廷に返還されたものの、実質的には藩はそのままの形で残っていました。そこで行なわれたのが、廃藩置県(明治4年)です。
当時の明治政府の収入は幕府直轄地より、引継いだ年貢収入のみで860万石、全国の石高が3000万石ですから、約三分の一程度でした。
財政の基盤を作り出さねば、新しい国造りはできません。それには、各藩の徴税権を中央政府に集約するしかありませんでした。
廃 藩置県は、鎌倉幕府以来、700年もの間日本を支配してきた武士階級を一挙に廃止するものでもあり、西洋でいえば領主の身分を廃止して土地を取り上げ、明 日から平民にするといった大変革でした。ヨーロッパではこのような変革は、流血の革命を通してしか実現できませんでした。
各藩から経済的基盤を奪い去るのですから、激しい抵抗が起こり大乱となるかもしれません。維新最大の難題でした。この改革の中心となったのが、西郷隆盛でした。
実行の段階になると、首脳会議は紛糾しました。時期尚早ではないかとか、抵抗が起こるのではないかと、大久保と木戸は大激論になったのです。しかし、黙って聞いていた西郷が、口を開きました。
「貴殿らの間で実施についての事務的な手順ができているのなら、その後のことは、自分が引き受ける。もし暴動が起これば、自分がすべて鎮圧する。貴殿らは心配せずに、やって下され」。
この西郷の一言で、廃藩置県が断行されました。
明治4年7月14日、政府は東京に住む元大名の知藩事を集め、明治天皇陛下の詔勅が発せられました。
【廢藩置縣の詔・明治四年七月十四日】
朕、惟ふに、更始の時に際し、内、以て億兆を保安し、外、以て萬國と對峙せんと欲せば、宜しく名實相副ひ、政令、一に歸せしむべし。
朕、曩に諸藩、版籍奉還の議を聽納し、新たに知藩事を命じ、各々其の職を奉ぜしむ。然るに數百年、因襲の久しき、或は其の名ありて、其の實、擧がらざる 者あり。何を以て億兆を保安し、萬國と對峙するを得んや。朕、深く之を慨す。仍て今ま更に藩を廢し、縣と爲す。是れ勝(つと)めて冗を去り簡に就き、有名 無實の弊を除き、政令多岐の憂ひ無からしめんとす。汝群臣、其れ朕が意を體せよ。
しかし、彼らにも全国の武士たちにも、抵抗らしい抵抗はほとんどありませんでした。一日にして藩は廃止され、全国の土地は中央政府の管轄になりました。政 府は全国から税を徴収できるようになり、財政の基盤を確立できたのです。それゆえ、廃藩置県は、世界史にも類を見ない無血革命といわれます。
当時261名もいた藩主は、全員そろって、先祖代々、保持してきた絶大な特権を返上したのでした。
明 治4年、サンフランシスコで行われた岩倉使節団歓迎会で、伊藤博文は「数百年の強固さをほこった日本の封建制度は、一個の弾丸も放たず、一滴の血も流さず して撤廃せしめられたのだ。この驚くべき事実は、政府と人民の共同行為によって達成され、今や相一致して進歩の平和的道程を前進しつつある。戦争なくして 封建制度を打破した国がどこにあるだろうか」と述べています。
ヨーロッパではこのような変革は、流血の革命を通してしか実現できませんでした。
当時、欧州ではこのことに驚き、大英帝国の首府ロンドンの新聞は、一面扱いで大々的に取り上げています。
廃藩置県は、これまで特権階級だった武士階級にとって、収入の基盤を失うことを意味しましたが、どうしてこれほどの改革が、無血のうちに実現できたのでしょうか?
明治維新を行った武士階級は、逆に自分たちの特権をなくす改革を行ったのです。しかも、それによって、武士という階級そのものを自ら消滅させる改革だったのです。
ここに、我が国の武士道の精神、お国柄があります。
武 士道は、大義に生きる精神であり、主君への忠誠のためには、「私」を捨てるのが武士です。幕末の武士たちは、藩を超えて日本國のために行動しなければなら ないと考えるようになっていきました。そして、忠誠の対象は、藩主から天皇陛下へと変わっていました。そして維新の過程で、全国の武士たちは、日本という 「公」のために、自ら「私」を捨てたのです。
昨日の本ブログでも述べましたように、西郷隆盛は公正無私の英傑でありました。その無私の精神が、全国の武士たちに「私」を超え、「公」に尽くす行動をなさしめたのです。
自らをリストラした武士、崇高な精神です。
「公」の精神が薄れつつある今日、私たちの先祖・先人が持っていた武士道の精神、お国柄を見直すべきではないでしょうか?
転載元: 美しい国