小さな自然、その他いろいろ

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菅内閣の日本を中国にくれてやる政策、規制制度改革委員会の売国政策閣議決定

2011年07月13日 21時25分48秒 | 現代日本

働くおばさんの独り言からの転載です。

菅内閣は、震災報道の影に隠れて、大変なことを閣議決定したようです。外国人の日本滞在に関する規制緩和など、あまりに売国的な政策に力入れすぎではないですか。日本を中国人に売り渡すような政策です。この動画の田母神さんの話を聞いて下さい。驚くことばかりです。



平成23年7月10日(日)田母神俊雄会長 頑張れ日本!吉祥寺デモ後

とんでもないことを震災の陰に隠れて民主党は閣議決定しています
 
断固許せません!
 
拡散してください!

転載元 転載元: 働くおばさんの独り言


一身独立して一国独立す

2011年07月13日 21時14分26秒 | 歴史

美しい国からの転載です。

 

 

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福沢諭吉翁
 
 
 
 
 
現代は、「個人」 の時代です。今日、わが国では、大抵の人は、自分というものがなによりも大切だと感じ、個人の自由や権利を守り、自分らしく生きることが目標だと考えてい ます。そして、「個人の権利」がいたるところで主張されています。また、「個人主義」が国や社会の原理とされています。それによって「公」が後退し、 「私」が横行していますが、はたしてそれが元来日本人のあるべき姿でしょうか?
明治時代の啓蒙思想家、慶応義塾の創設者でもある、福沢諭吉翁の、「一身独立して一国独立」を読んでいただきたい。
 
 
国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶること能(あた)わず。その次第三ヵ条あり。

第一条 独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず。

 独立とは自分にて自分の身を支配し他によりすがる心なきを言う。みずから物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は、他人の智恵によらざる独立なり。 みずから心身を労して私立の活計をなす者は、他人の財によらざる独立なり。

外国へ対して自国を守るに当たり、その国人に独立の気力ある者は国を思うこと深切にして、独立の気力なき者は不深切なること推して知るべきなり。

第二条 内に居て独立の地位を得ざる者は、外にありて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず。

独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)うものなり。常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこ れに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる「習い、性となる」とはこの ことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり。

第三条 独立の気力なき者は人に依頼して悪事をなすことあり。

世間に外国人の名目を借る者はあらずや。余輩いまだその確証を得ざるゆえ明らかにここに論ずること能わざれども、昔日のことを思えば今の世の中にも疑念な きを得ず。こののち万々一も外国人雑居などの場合に及び、その名目を借りて奸(かん)を働く者あらば、国の禍(わざわい)、 実に言うべからざるべし。ゆえに人民に独立の気力なきはその取扱いに便利などとて油断すべからず。禍は思わぬところに起こるものなり。国民に独立の気力い よいよ少なければ、国を売るの禍もまたしたがってますます大なるべし。すなわちこの条のはじめに言える、人に依頼して悪事をなすとはこのことなり。

右三ヵ条に言うところはみな、人民に独立の心なきより生ずる災害なり。今の世に生まれいやしくも愛国の意あらん者は、官私を問わずまず自己の独立を謀(はか)り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。

(福沢諭吉著「学問のすすめ」より一部抜粋)

独立した個人こそが国家を支える基本であるという考えであり、誰かに頼るという人間ばかりでは社会は腐敗してしまうが、自分が国家を支えようと努力する人間が揃ってくれば社会は繁栄し国家は潤うと説いておられます。
ひとりの人間として己を厳しく戒めて質素倹約を旨として、学問に励み、多くの人のために生き抜こうとする滅私奉公の気概がなければ自分が所属する家庭、会社、地域、国家といった集団は繁栄しないという考え方で近代民主主義の基本となる教えです。
また、帝室論では、国家の統一と独立に情が果たす役割に注目し、公徳教育における報国心(「報国尽忠の主義」)の重要性を説いて、帝室を日本国民の精神的中心であると説いておられます。
個人」の概念は、今日と違って「私」の方向へではなく、「公」の方向へと向けられていたのです。すなわち、「公」のための「個」の自立です。わが国では、こうして「公」、つまり国家・民族の独立のために「個人」の概念であったのです。
 
現在の我国は国家という体すら成し得ていない状況にあります。
戦後最大の国難とも言われる、東日本大震災に福島原発事故に沖縄基地問題、一国を指導もできない愚かな政権、総理の信念なき政策により、右往左往し、迷走状態にあります。
しかも、悪意をもった隣国の存在さえ知ろうとしません。政府も国民も・・・
今、日本は大きな「分岐点」にあります。
それは、国家として本当に自立し、繁栄していく道を歩むのか。
国家に依存する国民が増えていけば、その行き着く先は「大きな政府」、社会主義国家、共産主義国家です。
独立を保てればまだしも、外国の支配者が国を統治するならば、亡国です。
 
福沢翁は、、「貧 富強弱の有様は、天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべ し。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力 を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」
 
と、日本人があるべき姿を説いておられます。
 
 
 

転載元 転載元: 美しい国


「行かないヤツはブチ込むアルヨ」 お前ら動員してるだろw

2011年07月13日 21時11分41秒 | 現代日本

日本核武装講座からの転載です。今までの歴史のウソ、捏造がもはや隠せなくなりつつありますね。盧溝橋事件が本当は共産党の工作であったということは、もう研究者の中では常識になりつつあるようですね。

 

 

 

盧溝橋事件から74年 北京・抗日戦争記念館の入館者5倍に

毎日中国経済 7月8日(金)17時39分配信
【新華社毎日電訊】 7月7日は盧溝橋事件(七七事変)から74周年となる記念日だ。同日、北京市にある中国人民抗日戦争記念館の入館者数は、通常の約1000人から5倍の5000人余りに急増。団体客も45を数えた。

7日は開館前の朝8時の段階から入場券売り場に長い列ができ、駐車場もほぼ満車となった。


(翻訳 尚蕾/編集翻訳 恩田有紀)


そう言えば7月7日って盧溝橋事件のあった日だった。
日本の間違った歴史教育では「日中戦争は盧溝橋事件から始まった」と嘘が教え込まれる。
さらに、それは軍部の暴走であると刷り込まれる。
これ、みんな嘘ですからw
  
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盧溝橋事件とは、1937年7月7日夜、演習中の日本軍に銃弾が撃ち込まれた事から端を発して、日本軍と宋哲元軍閥の29軍が小競り合いを起こした事件を指します。
日 本軍は義和団事件の北京議定書に従って、北平(北京)に駐屯していましたが、1937年7月7日1930より夜間の塹壕戦の訓練を行うため、135人の兵 士が護身用に実弾30発を持つだけで、宛平県城の北側の演習場に向かいました。2230頃数発の実弾射撃を受け、演習を中止し兵を集合させ牟田口軍司令官 との間で善後策を検討しているところ、0325に再び射撃を受けたので一木大隊長は支那軍に対して反撃した。
その後、9日になって、盧溝橋事件現地協定(松井・秦徳純停戦協定)が成立、停戦になりました。
その協定には、
  1. 第二九軍代表ハ日本軍二対シ遺憾ノ意ヲ表シ且責任者ヲ処分シテ将来責任ヲ以テ再ヒ斯ノ如キ事件ノ惹起ヲ防止スルコトヲ声明ス
  2. 中国軍ハ豊台駐屯日本軍ト接近シ過キ事件ヲ惹起シ易キヲ以テ盧溝橋城廓及龍王廟二軍ヲ駐メス保安隊ヲ以テ其治安ヲ維持ス
  3. 本事件ハ所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体ノ指導二胚胎スルコト多キニ鑑ミ将来之カ対策ヲナシ且ツ取締ヲ徹底ス

    以上各項ハ悉ク之ヲ承諾ス
と記されています。
1、については謝罪の方法も記せず、責任者も特定せず、宋哲元の自主裁量に任せる部分も多く、極めて寛大な条文です。
2、については29軍は城外には兵は居ないと言い張ったのに、実際は支那兵が居た事から立場が悪くなっていまったんですね。
で、問題なのが3です。
唐突に藍衣社とか共産党とかが出てくるわけです。
これは、日本軍と宋哲元軍閥の間に「真犯人は共産党だ」という共通した認識があったという事です。
事実1950年12月9日の『人民日報』では、
「劉少奇配下の抗日救国学生隊が『盧溝橋事件』を仕組む」
この共産党主導説は、事件直後から出ています。『読売新聞』は、1937年7月 15日付けで、「随所に出没して爆竹をならす」策動者がいたことを報じています。更に、この犯人を「共産党人民戦線派」としている。この報道は爾後、共産 党北方局とつながる清華大学生が逮捕されたことにより裏付けられている。
と書かれています。
はっきり言っておきますが、爆竹を銃声と聞き間違えたり、増してや爆竹が鳴ったのを攻撃されたと言い募り支那軍に攻めかかったなどと言っている人は、頭がパーですw
きっと、頭の中にあるのは糠みそですねえ
 
弾丸というのは空気中を飛んでくるので必ず飛翔音がします。元帝国陸軍の私のオヤジが言うには「ヒューヒューと聞こえている内は安全だ。足元でプスプスいい出したら自分が狙われている」と教えてくれました。
また、敵軍の銃撃の音と味方の銃撃の音はしっかり教育されるので聞き間違える事は無いとも言っています。
夜襲の時に迷わないようにするためです。
だから爆竹を鳴らしたからといって銃撃を受けたと誤認する事はあり得ません。
また、爆竹を名目に攻めかかって行くなどと言い始めるに至っては、アホとしか言いようがありません。
なぜなら、当時北支に駐屯していた日本軍は五千人。対する宋哲元軍閥は六万人だからです。
いくらバカでも五千人で六万人に勝てるとは思わないでしょう。
日本は結局北支に3個師団増派しますが、到着までに一カ月掛かっています。1937年8月13日までは平時編成でしたから、時間が掛かりました。そういう事も高級将校なら知っていた筈ですから、益々日本軍謀略説は成り立たないのです。
日教組あたりがこんな寝言を言ってきたら、鼻で笑ってやりましょうねw
北支に三個師団増派したので、バランス・オブ・パワーの均衡が保たれ、その後北支は平穏になりました。
しかし、上海では相変わらず手薄だったので、蒋介石は同方面で日本に戦争を仕掛けてきたのです。
 
さて、共産党謀略説というのは最も有力な説だと思います。
藍衣社(本によっては青シャツ党と記されている)というのは蒋介石のテロ団体ですが、共産党の工作員が浸透していました。
共産党は国民党と日本軍を戦わせ、漁夫の利を得る事を企んでいました。事実、日華事変から大東亜戦争中にも共産党軍は殆ど戦わず、国民党と日本軍の戦いを見ていただけでした。
後に国民党軍も殆ど戦わなくなりました。共産党の目論見に気がついたからでしょう。国民党を応援していたアメリカのウェデマイヤー将軍は大いに失望したそうです。
 
真実を知る人は、上の様な新聞記事など噴飯ものでしかありませんね。
歴史カードはもう役に立たないのですが、支那人とは滑稽です。
  
 

転載元 転載元: 日本核武装講座