近野滋之・民族主義者の警鐘からの転載です。日本が東南アジアや南アジアで何を目指して大東亜戦争を戦ったかがとても良く分かる記事です。
良識ある日本国民の皆様には、インドネシア共和国はご存知だと考えます。 |
インドネシアには、古くから伝わる「ジョヨボヨ王の予言」(12世紀前半、東ジャワのクディリ王国のジョヨボヨ王が書き記したバラタユダの一説)、という伝承がありました。 |
「我らが王国は、白い人びとに支配される。彼らは離れたところから攻撃する魔法の杖を持っている。この白い人の支配は長く続くが、空から黄色い人びとがやってきて白い人を駆逐する。この黄色い人びとがいるのは、ジャゴン(トウモロコシ)が育つのと同じくらいの期間だ」 |
1602 年のオランダ東インド会社設立頃より、350年間に渡ってインドネシアはオランダの植民地とされ、1930年前後からインドネシアにも独立を希求する民族 運動が発生しましたが、オランダはこれを厳しく弾圧して徹底した愚民政策で、インドネシア全土を植民地支配しました。 |
多数の部族を互いに敵対させて、オランダ人に従順な一部の部族を警官とし、経済は華僑を利用して、統一言語ができると抵抗運動がおきるので部族間の言葉はそのままにさせ、道ばたで3人以上のインドネシア人が話していると処罰するほどの、徹底した奴隷支配でした。 |
1941 年、日本がアジア開放のために大東亜戦争を開戦すると、インドネシアにも日本軍がやってくるらしいという噂が流れ始め、ある日、インドネシア人が爆音に空 を見上げると、空にはいくつもの白い花が咲き戦士達が降下して、これが空の神兵と呼ばれる日本軍の落下傘兵でした。 |
これこそがジョヨボヨ王の予言にある「空からの黄色い人々ではないか!」と、 インドネシア人は驚き、そして日本軍を歓迎して協力をしました。 |
1942 年1月11日、日本軍はセレベス島のナドへの攻撃を皮切りにジャワ島を目指し、スマトラ島では幽閉されていたスカルノ、ハッタ、シャフリールら、当時のイ ンドネシアの代表的な指導者を解放して、今村均中将率いる陸軍16軍は3月1日にジャワに上陸、わずか9日間でオランダ軍を降伏させました。 |
イ ンドネシア人は、自分たちを350年も支配して来た白い人びとを、わずか9日間で駆逐してしまった黄色い人びとが現実となり、これはまさにジョヨボヨ王の 予言の実現であることを知ると共に、インドネシア人は白人が決して全能の神ではなく、アジア人が彼らの奴隷ではないことを確信しました。 |
そ の後、インドネシアは日本軍政の支配下に置かれ、国名は蘭印からインドネシアに、オランダ名だった首都バタヴィアは、古インドネシア王国のジャヤカルタに 倣ってジャカルタに改称され、オランダ語の廃止、新しくインドネシア語(当時はジャワ語の分かる日本人がいなかったので、特務機関で学習されていたマレー 語を採用)が作られました。 |
日 本は、将来のインドネシア独立の方針を推し進め、インドネシア人の若者による「郷土防衛義勇軍」(PETA)を組織し、日本軍式の軍事教練を施して、この PETAはインドネシア独立戦争の中心戦力となり、後のインドネシア国軍の母体となったので、今でもPETA出身の軍高官は、「日本精神のおかげでオラン ダに立ち向かうことができた」と語っています。 |
日 本は、1945年3月にインドネシアの独立準備委員会を発足し、8月19日にスカルノ、ハッタ、ラジマンによって、独立宣言をするという方針を決定・承認 していましたが、8月15日に日本は大東亜戦争終を終結、日本の軍政は3年半と、これもジョヨボヨ王の予言にある、トウモロコシが育つまでの期間と同じで した。 |
8月17日、後の初代大統領スカルノによって独立宣言文が読まれましたが、この宣言文の日付は「17805(05年8月17日)」と、西暦ではなく日本の「皇紀」で書かれています。 |
日 本軍はポツダム宣言受諾以降、連合軍が来るまで現地の治安維持と、武器の管理を命じられていましたが、秘密裏に武器を流すなどして自らが育てたPETAを 支援して、武器庫の番をしていた日本軍兵士が暴徒化したインドネシア人に殺された時、自らの血で「インドネシアの独立に栄光あれ」と壁に書いて息絶え、こ のような日本軍将兵の姿勢はインドネシア人に衝撃を与えました。 |
イ ンドネシアの独立を認めずに、再びインドネシアを植民地支配するために、イギリス軍とオランダ軍が侵略してきましたが、日本の統治によってインドネシア人 は猫から虎に変わり、そして、2000人以上の日本軍将兵は現地に残ってPETAと運命を共にし、4年にも及ぶ独立戦争を戦い抜いたのです。 |
残っ た日本軍将兵の動機は様々でしょうが、彼らは玉音放送における、「朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」(私は 日本と共に、終始東アジアの解放に協力してくれた諸盟邦に対してすまなく思う)との、昭和天皇の大御心を代わりに果たして、インドネシアの独立の礎となっ たのです。 |
1949年12月のハーグ円卓会議で、インドネシアはオランダからの独立を承認されましたが、インドネシア独立のために戦い散った日本軍将兵は1000人、英霊達の御霊はジャカルタにあるカリバタ国立英雄墓地に祀られています。 |
8 月17日のインドネシア独立記念日には、毎年盛大な独立記念祭が行なわれて、インドネシアの人びとは日本の軍歌を歌いながら行進し、インドネシア国軍のパ レードで使われているのは「PETAマーチ」で、パレードのクライマックスではインドネシア人の男女2名と、日本陸軍のふん装をした男性による3名で、イ ンドネシアの国旗を掲揚するのです。 |
「郷土防衛義勇軍(PETA)マーチ」(斉藤守氏訳)
1、
アジア すでに敵に向かい 蜂起せり
己を捨てて 全力を尽くす 連合国を粉砕せんと
玉散ることもいとわず 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
2、
古きアジア 不幸に苦しむ列しき圧制に
幾世紀も忍ぶ 大日本 雄々しく立てり
アジアを救い 我らを守る 進め進め 義勇軍
アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ
スカルノ氏 インドネシア元大統領
「インドネシアの独立戦争では、約3,000名の日本兵がインドネシアの為に戦ってくれました。
私たちはその『心』を大切にし、同じアジアの民族として伝えなければなりません。
その『心』は日本とアジアばかりではなく、世界の平和にも繋がるのです。
ところが、インドネシアの独立で通じ合った日本の犠牲的精神を、
今の日本の若い人達はほとんど知りません。残念でたまりません。
私達の独立の為に戦ってくれた日本兵の事を、きちんと日本で語り継いでほしいと思います。
そしてインドネシアに来られたら、ジャカルタの英雄墓地に眠る日本兵の奥城にお詣りして下さい。
その墓標には、みなイスラムの名前と日本人の名前が彫られています」
サンパス元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝する事は、戦争が終わってから日本軍人約2000人が帰国せず、
インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれた事である。
日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、
それだけで済むものではない」
アラムシャ元第3副首相
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、
350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知なスパイ網と強靱な武力と
苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、
たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。
インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である」
ブン・トモ氏 元情報相
「日本軍がアメリカ・オランダ・フランスを我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。
我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。
そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、我々がやらねばならなかった。
それなのに全て日本に背負わせ日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった。申し訳ない」
ムルデカ 17805 インドネシア独立と日本軍兵士
昭和天皇の大御心を代わりに果たして、インドネシアの独立の礎となった日本軍将兵は美徳ある日本の武士道精神で、インドネシアをオランダによる350年の植民地支配から開放し、「ムルデカ(独立)」させたのが大東亜戦争の真実です。 |
良識ある日本国民の皆様、インドネシアの独立の礎となった日本軍将兵についてご考慮下さい。 |
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転載元: 近野滋之・民族主義者の警鐘