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小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

日本の精神は苦しく困難な時こそ発揮されるものである。

2013年02月16日 16時34分17秒 | 日本人の誇り

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

日本人は昔から、非常に律儀でしたが、戦時国際法をもっとも守った国といえるのではないでしょうか。日本は敵が投降してきたら、きちんと捕虜として収容しました。しかしアメリカなどは、捕虜を殆ど取らなくて、すべて殺してしまうのが普通でした。尋問するから捕虜を取れと言われてやっと捕虜にしたという話もあります。これはリンドバークがはっきりと日記に書いているのです。そして、ドイツのユダヤ人の殺戮に相当する程ひどいと書いています。

日本は、パターン死の行進とか言われて、捕虜を虐待したと言われましたが、実際には、その時戦況不利になったマッカーサーが自分だけ逃げて、残された兵が予想を超えた大人数で投降してきたので、食料の在庫もなく、仕方なく近くの収容所に移動させることになり、その際に移動のための車両も足りないために歩かせるしかなかったのです。それは虐待しようとして歩かせたのではなかったのですが、状況的に過酷な行進となり、死者がでましたが、意図したことではなかったのです。

それ以外では、日本はさくらの花びらさんが書いておられるように、自分たちの食糧を削っても捕虜に食べさせているのです。敗戦後の連合国の日本人捕虜の扱いの酷さ、ここに書かれているイギリス、あるいはシベリアで行ったソ連の日本人捕虜の酷い扱い、そこにある悪意を考えれば、敵に対してさえ発揮された日本人の誠実さというものが、どれだけすごいものかと思います。こういう部分だけ見ても、本当の正義はどちらだったのかと思います。実際に人種差別を行なっていた白人諸国に対して、アジア解放を旗印に本気で戦った日本は、敗戦はしてもその目的を達したのです。多くの日本兵は一途にその目的のために命を賭けたのです。

ここに書かれているレンバン島という死の島で日本人捕虜たちは、この地獄のような苦しい時でも自暴自棄にならずに、お互い助け合って精一杯のことをして頑張ったのです。既に命令系統は失われていたのに、秩序を保って争うことなく助け合ったのです。非常事態には、人間性がむき出しになると言われますが、日本人は自分さえ良ければという風にならずに助け合ったのです。

まるで今回の東日本大震災での被害者の方々と同じです。また救援活動の自衛隊の方々が自分たちは缶詰や乾パンのような冷えたものしか食べなくても、被災者には炊き出しで温かいものを提供されていたその崇高な誠意が思い浮かびます。いざとなれば、日本人はやはり変わってないと思いますね。

 

 

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                     (レンパン島 日本兵抑留の碑)
 
日本は大東亜戦争の開戦時に大量の敵捕虜を想定し15か所に収容施設をつくりました。そして、英・米・蘭の将兵30万人を収容し、捕虜を管理する国の責任として彼らに寝具、衣服、食器を与えました。
当時、日本人の食生活は欧米人に比べて肉類の摂取が極端に少ないものでした。しかし、捕虜の食事はその点を配慮し、日本国民の配給を上回る特別配給を続けていました。
 
戦後、占領軍が日本に上陸すると直ちに捕虜キャンプに大量の食料とビタミンを届け捕虜たちを解放しました。
終戦により武装解除された軍隊は戦時捕虜ではありませんが、日本の内地に復員するまで日本将兵は言語に絶する”捕虜”として扱われました。
 
東南アジアの最大の収容施設レンパン島(恋飯島)でのことです。シンガポール南方のこの無人島に日本兵8万人が移動を命じられました。
ここはかつて第1次大戦でドイツ軍捕虜2000人がマラリアで全員死んだ島でした。
その後もここで民間が開発をしましたがすべて失敗し、放棄されてきた島でした。
この島は蛇以外の生き物は少なくヤシの木も少ないまさに「死の島」と言われていました。イギリス人はこの「死の島」へ日本兵を“地獄”に追いやるために移動させたのです。
 
この島の施設はすべて日本軍の手で建設させられました。日本軍はあり合わせの道具と自前の食料を持って、桟橋、道路、倉庫から何から何まで作らされました。
雨期に吹きさらしの甲板に積まれて到着した設営隊は、後続部隊のために掘立小屋を建てながら、約束していたイギリス軍による食料を待っていましたが島には何も届かないのです。
日本兵たちの1日分の米は1合5勺にされ、全員が空腹と栄養失調になっていきました。彼らは生きるためにあらゆる動植物が食料となるのか試され、毒以外の野草は取り尽くしていました。蛇、サソリ、ムカデ、ナメクジまで貴重な栄養源だったのです。
軍医部の報告では主食のカロリーは必要量の3分の1、タンパク質は16グラムに過ぎず、餓死寸前に至ったと書いています。
 
最重点で取り組んだ開墾から農産物自給が進められ、食糧の生産と採集が行われました。そして、遂に蛇もムカデも取り尽くされて絶滅してしまいました。
8万人に餓えが迫った12月8日、イギリス軍の食糧5000トンが届きました。
しかし、この食料は熱帯で半年も貯蔵されイギリス軍が廃棄するものを持って来て、しかもわざと日本の記念日である12月8日(真珠湾攻撃の日)まで待たせておいて、この日に日本兵にくれてやったのです。
イギリス、オーストラリア軍の食料は3300~4200カロリーありましたが、日本兵はこの1食分を3食に分けて食べ、それでも今までの倍の量を食べることができたのです。
 
こういう過酷な状況の中でも日本兵は抵抗もなく、脱走もなく、餓死者も出さなかったのは奇跡であったといえます。命令系統が失われていたので混乱があってもおかしくありませんが、日本兵の秩序は乱れませんでした。
白人が「死の島」と言った無人のジャングルを切り開き、飢餓に迫られながらも、しのいだ日本兵。あらゆるものを利用して道路、農地、井戸、貯水池、宿舎、倉庫、司令部、病院まで建設しました。塩、みそ、しょうゆ、石鹸、履物まで工夫して作っていたのです。
世界のどの軍隊でも、敗戦後の極限状態に追い詰められながら落胆し、意気消沈し、絶望に自暴自棄になる状況でも、これだけの統率を取ることができた日本兵は“皇軍”としての誇りであったからであります。
 
この白人の陰湿な日本兵への扱いに対して、日本に居た捕虜の扱いはどうであったでしょうか。
昭和20年、戦局悪化の一途の中、我が国の民需が枯渇し、「欲しがりません、勝つまでは」のもと、食べざかりの子供達までお国のためにあらゆることを我慢し、わずかな配給に列をつくって日本国民全体が飢えていた時、敵捕虜に対しての待遇は日本の将兵と同じであったのです。
敵の将兵に妻子に与える2倍の食料を供給し続けたのです。日本国民が極度の窮乏の中でも戦時国際法は固く守られていたのです。これこそ白人社会ではあり得ない日本精神であり、武士道精神でもあるのです。
 
このことはなぜか戦後隠されたままです。
同胞を殺した憎き敵に対しても、我が先人たちの高潔なる”誠”の行いを日本人は広く知り、誇ってもいいのではないでしょうか。
 
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変えられない日本人の本質

2013年01月28日 15時23分40秒 | 日本人の誇り

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」から二件の記事を転載です。

どちらの記事も本来の日本人が長い歴史の中で変わらず持っていた本質について書いておられます。これは戦後占領政策によって、日本人が変わったと思われていた日本人の性格、あるいは考え方で、近年日本人の民度が落ちたという批判もあったのですが、この日本人の本来の特質、これがそんな浅薄なものではなかったということを、東日本大震災では非常な強い印象とともに、世界に広め、また日本人自身も思わぬ自分自身を発見したともいえるのではないでしょうか。アメリカのメディアも、アメリカは占領政策で日本人を変えたと思っていたが、日本人は少しも変わってなかったと言っていたほどです。

この日本人の特質は、平時の何もない時には戦後教育で培われた利己主義が顔を出すことも多かったのですが、こうした非常時の個人的な『はからい心』が通用しない同胞全体が生きるか死ぬかという程の危機に面して、自分を捨てても他を助けたいという思い、自分がひとに迷惑をかけてはいけないという自重の心、そうした自分を無にして公のことを考える気持ちが一気に自然に出てきたのです。これは理屈を超えた心であり、それゆえに、多くの日本人が自然に規律のある行動をだれも指図するわけでもないのにとれたのです。

これこそ日本人が歴史以前から、すでにこの日本列島に住み始めた時から民族の発生とともにすでに持っていたものであり、民族の本質的な性格と言えます。また同じように日本民族として神話とともにあり続けた天皇という存在も、自然発生的な自然観、宇宙観から始まった統治者であり、祭祀王であるということが、他の国の君主と決定的に違うところです。

いずれも太古の原始の、神秘が生きている時代に、人間が自然や宇宙に畏敬の心を持っている時代に生れた特質だと思います。天皇は、そうした民族的な共感の中で生れ、継続してきた君主であるということです。

だから戦後のご巡幸の時に天皇に批判的な言葉を浴びせようと待っていた共産党が、昭和天皇を間近に見て、思わず「天皇陛下万歳!」と叫んだという話も、皆理屈を超えた民族の深層の心から湧き出してくる心情であるからです。

日本の天皇が古来より変わらず、国民の親のような心で、私心を捨てて国のため、民のために祈られ、行動されるのは、皇室が今も神話とともに神々とともに生きて居られ、日本の国柄そのものの本質の中で生きておられるからです。国民もそれがわかっているから、国民の心、民族の心が、帰るところが天皇であると思っているから、天皇陛下にあった人々が皆思わず涙するのでしょう。

 

 

 

変えられない日本人の本質

 

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もし、国家の平和と国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、愛する祖国や同胞を守るために、それぞれの立場で勇気を出して頑張ります、と覚悟を決め、力を尽くしましょう。
 
明治神宮で購入できる携行用の『教育勅語』の意訳(口語文)にこのような一文があります。
原文は「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」という短い文ですが、意訳すると上のよう長い文になるのです。
 
今の日本人は非常事態に直面しても、教育によって個人主義で自分の権利ばかり主張し、ましてや平和教育の名のもとに国のために自己犠牲などとんでもない。いかに自分だけが助かるかを考えてばかりでそんなことは絶対に出来ない、と言われてきました。
 
しかし、東日本大震災での自己犠牲の精神はどういうことだったのでしょう。
世界の多くが称賛していましたが、日本人は誰に教わるわけでもなく、必死ではありましたが、互いに助け合い、譲り合い、淡々と冷静で沈着な行動をとっていました。
これは私も被災地に居て直接肌で感じたことです。普段なら我先に自分勝手な振る舞いをするのが、あの時ばかりはそういう空気ではなかったのです。
 
自衛隊が福島原発で放水作戦の出動が決まった時、「これは覚悟の作戦である。強制はしない。行ける者は一晩じっくり考えて自分の気持ちを固めて欲しい」と上官が言うと、隊員たちは全員が「自分が行きます」と口を揃えて答えました。
 
ある消防レスキュー隊の隊長が勤務先から直接福島原発へ行くように命令が下った。その時、妻に「必ず返ってくるから、それまで安心して待っていてくれ」とメールをすると、妻からは「家族のことは心配なさらず、日本の救世主になって下さい」とのメールが返ってきた。
 
自己犠牲をいとわず公のために任務を遂行する姿勢。
自衛隊には「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえる」と宣誓して自衛官になっています。他の公務員にはない自衛官にだけ課せられた重い義務です。
 
これらは『教育勅語』の「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」という精神があるといえます。
日本人の中には、このように非常事態に直面すると、無意識に自己犠牲の精神と良質な精神を持ち合せているのではないでしょうか。そのことに多くの国民が感じたはずです。
平時は知らずとも、非常時には、占領政策によって変えられたと思っていたこと、悪質な教育で表面に塗り被せたものは、やがて剥がれ落ち、本来の輝きを取り戻すのです。それは結局、本質は何も変わっていないということなのでしょう。
 
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東日本大震災で甚大な被害のあった宮城県南三陸町。この町の佐藤仁町長は震災当時、南三陸町防災対策庁舎に詰めて、そして津波の様子を確認するために屋上に上がった途端、津波に襲われ、同時に庁舎に詰めていた職員30名も罹災しました。
その後も繰り返し襲いかかる津波で遂に庁舎は骨組みになり、それでも屋上のアンテナにしがみついて佐藤町長他10名が一命を取り留めたのです。しかし、残念ながら他の職員は津波に流されてしまいました。
佐藤町長は一晩、凍るような寒い中、屋上で過ごし、「流された職員の分まで頑張らなければ」と語っていたという。そして、大震災の翌々日に災害対策本部を設置して公務に復帰し、「拾った命。これから町民のために全力を尽くす」と話していました。
しかし、これに対して震災から1年たった平成24年3月、職員が犠牲になったとして、職員の2遺族が「町長が高台に避難させなかったために津波で亡くなった」と、業務上過失致死容疑で告訴しました。
気持ちはわからないでもないが、あの突発的な大震災という天災で、後付けのような理由を言い立てるのはどうでありましょう。
 
さて、この佐藤町長は震災後の南三陸町で、両陛下のお姿に感激してこのように記録していました。
「ヘリコプターで高台にある小学校に到着された両陛下は、グランドから壊滅した町並みを見られた後に、深々と黙礼されました。その後、約200人 が避難していた中学校の体育館を訪れたのですが、とても心に残ることがありました。両陛下にはスリッパが用意されていました。私は先に体育館に入ってお待 ちしていたのですが、入口付近で皇后陛下は私がスリッパをはいていないのを見られると、自らもさっさとお脱ぎになられたのです。また、天皇陛下もそうなさ れようとしたので、私はそのままお履きいただけるように必死でお願い致しました。こうした両陛下のさりげない謙虚な姿勢から、国民はいつも勇気と元気をいただいているのでしょう。皇室の存在感というものを間近で実感いたしました。
さらに私が感動したのは、避難所の体育館を出られる際、天皇陛下から『がんばって下さい』とお声を掛けられると、町民から『ワァ』という大きな歓声と同時に拍手が巻き起こったことです。泣いている人もいました。
それまで町民は慣れぬ避難所生活で疲れ、精神的にもギスギスしていたところを、両陛下のお見舞いによって本当に救われたのです」
 
両陛下は真っ先に被災した町のがれきに向かい、深々と頭を下げられ、黙祷を捧げられました。そしてスリッパのことも被災者とともにあろうとする御心であります。
そして何より、陛下からお声をいただくと、歓声が上がり、泣く人までいるのです。
 
そういう私も、被災地にいて、やっと電気が通った3月16日、突然、陛下がテレビに現れて、異例の「お言葉」を発されていたことにグッと目頭が熱くなり、何としても復興せねばと励まされたものでした。
 
 

 
 
 
 
 
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大丈夫! スパコン「京」は世界一です

2012年11月15日 15時10分20秒 | 日本人の誇り

くにしおもほゆからの転載です。

 日本のスパコン「 京 ( けい ) 」の優秀さが世界でトップだということの証明となる記事です。力を入れて開発すれば非常に優れたものができる「ものづくりの国」日本ですが、民主党政権は、このスパコンをはじめ宇宙開発など、これからの時代に国の発展の基礎となる可能性を持つ分野の予算を遠慮会釈なく切り取りました。形ばかりのパフォーマンスで実態を無視した政治をやったからだと思います。

それでもこれだけの成果を得られたのは、日本人の誠実さにあるのではないでしょうか。人に対する誠実さ、仕事に対する誠実さ、小さなことに対する誠実さ、それらは長い歴史を通して、またこの国土の自然などを通して、そういう性質に日本人を育んで来ました。

日本人の本来の生き方、本来のあり方、そうしたものを見なおして、二度と民主党政権のようなまやかしの政権を作らないようにしたいものです。

 

スパコン「京」、総合力4部門中3部門で世界一

 理化学研究所のスーパーコンピューター「 京 ( けい ) 」が、スパコンの総合能力を問う「HPCチャレンジ賞」4部門のうち3部門で世界1位になった。
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 米ソルトレークシティーで開催中の国際会議で賞の結果が示され、理研などが14日発表した。同賞は、桁の多い複雑 な連立方程式を解く演算能力など4部門で性能を比較するもの。「京」は12日に発表された計算速度の世界ランキングで、前回の2位より順位を下げて3位 だった。
(2012年11月14日19時01分 読売新聞)
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要は「どれだけ実際の役にたつか」という視点で比べてみれば、世界一ですね。
「京」は先日、宇宙の創世記がどのようであったかのシュミレーションを成し遂げたばかりです。(この「記事のURL:http://blogs.yahoo.co.jp/watch_compass/7866011.html
新薬開発、防災、その他いろんな研究分野で使われて、今後どんどん成果が出てくると思います。
愚かな仕分けが大手を振って闊歩するような日本には、もう二度と戻してはなりません。
 
計算速度だけでは抜かれてしまいましたが、奪還を目指し、もう既に「京」の後継となる次代のスパコンも開発が富士通と理化学研究所の連携で始まっています。

宮内庁 英国で雅楽公演にスタンディングオペレーション

2012年09月11日 12時44分37秒 | 日本人の誇り

くにしおもほゆからの転載です。

雅楽が英国で、盛大な拍手とスタンディングオベーションを博したとのことです。これは本当に日本人の伝統文化に対して、誇りを感じるべき出来事です。このような古来からの伝統が、未だに受け継がれているのは、世界でも日本だけだといっていいでしょう。世界の多くの国は、古い国だといっても、千年を越している国はほんとにありません。

たとえ中国四千年の歴史といっても、国が続いているわけではなく、従って何かが継承されて続いているわけではないのです。多くの国の過去は、古代の遺物、歴史的な記録文書、発掘されたものから検証はできるでしょうが、現代までそれを先祖から子孫へと受け継いてそれが現代まで行われている伝統として、古来からのものが今なお現役のものとして失われていないというのは日本ならではのことなのです。

日本は世界で唯一の古代国家と言われますが、古代の多くの民族には、おそらく何か共通の魂を揺さぶる人類の根っこのような感覚があったのではないでしょうか。伊勢神宮を訪れる外国人が皆一様に、なにか魂を揺さぶられる感動を覚えるといいます。トインビーは、「我々も昔は同じようなものを持っていたはずだが、今は失ってしまった」といったような感覚を、この雅楽の演奏でも、揺り起こされた感じがあるのではないかと思っています。

文明の進歩の中で、人類が失ってしまった、自然との一体感あるいは宇宙との一体感のようなものが、日本の文化伝統には残っているのではないかという気がします。

 

 

 

 

宮内庁の楽部は、10年ぶりの海外公演として、 先月に世界最大級の英国の芸術祭「 エディンバラ国際フェスティバル」 に出演しました。
 宮内庁によると、公演は1900人の満席で、最後の曲目が終わると、 盛大な拍手とスタンディングオベーションが起こったということです。
エディンバラ市長は「 これまで聞いたことのないこの世のものとは思えない規則正しい音楽」と称賛。
 
イメージ 1
 
 
イメージ 2西洋人はコンサートでは儀礼的な拍手とかは、あまりしないと聞いています。
スタンディング・オペレーション、つまり会場の聴衆が立ち上がって拍手というのは凄いです。
単に「珍しい音楽」ということではなくて、魂が揺さぶられた感激を率直に表現していると思います。
       右は太鼓の組み立ての光景
 
そのあとオランダ公演が続くということです。
 
 
 
 
雅楽は現存する世界最古のオーケストラです。
 
1300年前に大宝律令によって公式の音楽として定められました。
ベトナムを含む大陸各地から伝わった音楽に日本古来の歌謡が
融合した音楽と舞踊の芸術です。
宮内庁式部職楽部は、伝統と技術を守ってきています。
『雅楽への誘い』(宮内庁楽部の紹介の動画)↓
長いですが、完璧に説明されています。
なお、晩さん会などには西洋のクラシック音楽を同じメンバーで演奏しているのが、これも凄いです。
 
一番有名な『越天楽』 こちらは高岡市の保存会の皆様です。
 
 
日本には世界に誇るものがいくらでもあります。





尖閣上陸の志士たち、軽犯罪法違反容疑で取り調べ? シナ人が無罪放免なのに日本国民が有罪? 

2012年08月23日 15時15分00秒 | 日本人の誇り

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

魚釣島に上陸した日本人が軽犯罪法違反とはおかしな話です。軽犯罪法違反とは、他人の土地に正当な理由もなく不法に侵入することですが、畑だとか、人の住居の敷地への侵入です。今回はこういう不法侵入とは違い、しっかりとした理由もあり、本来は国がやるべきことを代わりに行い、慰霊祭も行なっているのです。シナ人の場合は即本国に無罪放免しておいて、同じ日本人を逮捕とは、まるで中国様に気兼ねしている属国根性丸出しです。映像で見ると、シナ人は海上保安庁の船に物を投げつけたり、自分たちの船をぶつけてきたり、明らかに公務執行妨害です。これは逮捕して裁判にかけるべき事態であるにもかかわらず、強制送還するのは、中国の顔色を伺って中国に恐れをなして、日本の法を曲げているということです。しかも日本人には軽犯罪法違反を適用するとは、あまりに弱腰というか、これでは尖閣諸島を自国の領土だと主張する根拠を失いかねない態度です。

魚釣島に上陸した10人(正確には上陸は9人)は、シナ人の不法上陸に対して、日本人も上陸して慰霊祭や、島の調査など、自国領土としての活動を行ったという実績を作られ、非常によくやられたと思います。日本側が上陸しての活動を行わなければ、シナに上陸されたという実績を作られる一方です。政府はそのたびに逮捕しては無罪放免するつもりでしょうか。シナを恐れていては、尖閣は守り切れないと思います。

 

 

 

 
 
 
 
 
 
本日8月19日、日本人の有志たちが尖閣の魚釣島に上陸しました。
しかし、今回、なぜ8月18日と8月19日に行動したのでしょう・・・。
 
昭和20年7月3日に尖閣列島戦時遭難事件が起きました。
戦時中であった当時、石垣島から台湾に行くために疎開船が2隻が出発しましたが、米軍機がそれを爆撃して1隻は爆発炎上して沈没し、もう1隻は航行不能になりました。爆発した疎開船でかろうじて生き残った人たちは航行不能になった疎開船に救助され、その後そのまま尖閣の魚釣島に漂着しました。しかし島には食料もなく、日が経つにつれて飢餓と病気で多数の方々が亡くなりました。
彼らは救援を求めるために海岸にあった難破船を遭難者の中にいた船大工と陸軍工兵が建造し直し、決死隊を組んで石垣島へ助けを求めに行きました。この事態を知った日本軍は台湾の日本軍機でまずは食料を魚釣島に投下し、軍医を乗せた救助船が魚釣島に行き、8月18日に到着し、そして8月19日に遭難者たちは石垣島へ2カ月半ぶりに帰還したのでありました。
 
石垣市にある「尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑」(下画像)には亡くなられた80名の名前が記されていています。本来、慰霊之碑は亡くなられた魚釣島になければならないものですが、日本政府が「中国を刺激する」という理由で、石垣市に慰霊之碑を造ったのが2002年で、毎年慰霊祭が行われています。
 
遭難された方で今も生きている方が数十名おられ、その方たちが元気なうちに魚釣島で慰霊式を行いたいということが数年前から言われていました。そこでこの慰霊式を魚釣島で行おうと日本の領土を守るため行動する議員連盟(会長・山谷えり子自民党参院議員)が野田政権に上陸を申し入れましたが断られたのです。そのため、せめて尖閣で洋上慰霊をしようと8月18日に150名の有志たちが20隻で石垣を出港し、8月19日に10名が魚釣島に泳いで上陸を果たしたのです。
 
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上陸の日本人 軽犯罪法違反容疑で取り調べ
海上保安庁によりますと、魚釣島に上陸したのは慰霊祭に訪れていた日本人のうち、少なくとも9人とみられています。立ち入り禁止区域になっている尖閣諸島に上陸するには国の許可が必要なため、軽犯罪法違反にあたる可能性があるということです。今後、警察が詳しく事情を聴くとみられています。(2012.8.19 テレビ朝日系ANN)
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洋上慰霊に参加された田母神閣下はツイッターでこのように書いています。
「石垣島に帰って来たらテレビの取材で、『尖閣上陸は軽犯罪法違反ではないか』と聞かれました。しかし中国人が無罪放免なのに、まさか日本国民が有罪になることはないでしょう。」
 
このテレビ局というのは上のテレビ朝日系のことでしょうか。
日 本人として政府が国の責任として行わない先人たちへの慰霊という正しい行動に対して、「犯罪の可能性あり」などとよく言えたものです。本来、日本の領土で あると公言している日本政府が、日本人を上陸許可をさせないことこそ大きな問題であり、支那に付け入る隙を与えているのです。
日本の報道が本来問うべきはそういうことであり、正しい勇気ある行動をあえて犯罪者扱いするのが日本の報道のあり方なのか、心底腐りきっていると強く憤りを感じます。
 
 
 
 
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