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小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

8月の必見映画!「凛として愛」で日本の真実の歴史を知ろう/偲ぼう

2012年08月09日 09時19分48秒 | 日本人の誇り

中川昭一氏のような保守を支持します&♡ ときめく人達♡からの転載です。

『凛として愛』という映画をご存じの方もいらっしゃると思います。戦後、占領軍によって『ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム』という、日本人に戦争への罪悪意識を植えこむという政策が取られました。これは占領政策の柱であり、日本が二度とアメリカをはじめとする白人諸国へ刃向かうことをさせないための日本人改造を目指した政策でした。言論統制と検閲、そしてそれを絶対に日本人に気づかせないように行われた巧みな政策でした。それによって、日本人は、初めて経験した敗戦という事態の中で、あっという間に洗脳され、自虐史観に染まってしまいました。そして自分の国を愛するということさえ、それが侵略戦争につながるもので良くないとさえ思うようになりました。

古くからの日本人の価値観は捨てられ、個人主義利己主義がはびこり、それを人権だと思い込み、権利の主張に明け暮れるようになり、奉仕精神や絆が忘れ去られようとしていました。東日本大震災はそんな日本人が本来の自分を取り戻すきっかけになった部分があります。天災はたくさんの命を奪い、また生き残った人々にも厳しい生活を強いていますが、それでもこれを機に、もし本来の自分を取り戻すことに繋がるなら、多くの亡くなった魂にとって、何よりの供養といえるのではないでしょうか。せっかくの絆もいろいろな市民団体によって、がれき受け入れ拒否などの日本人とは思えないような主張も出ていますが、これらは日本人に絆を取り戻せないようにする左翼陣営による日本人分断工作とも言えます。実際そうした主張は特定のあやしい市民団体などが行なっていることが多いらしいです。けっして大勢の日本人がそういうふうに思っているわけではないのです。

もう一度、日本人の絆をとり戻すためにも、先人たちがどのように日本人としての絆を生きたかを知ることは重要です。ぜひ、『凛として愛』を一度見てみてください。

 

「マスコミ隠匿の掲示板」より

8月こそ、必見歴史映画「凛として愛」を見よう!
そして日本の為に命をかけて戦った英霊達に想いをはせよう!
機会があれば靖国神社に行こう!
「日本が悪いんですよ」
なんていうスットコドッコイがいたら殴りつける代わりに!(ぐっとこらえて!)
「凛として愛」をすすめよう!

そして…

英霊達の名誉を貶め続ける売国奴&特亜へ反撃しよう¥ӥ寥ê¥ޡ¼¥¯


【動画の説明】
明治開国から大東亜戦争まで
日本が戦って来た歴史を約70分でまとめてあります。
明治27年の朝鮮半島をめぐる清国との戦い
ロシア、フランス、ドイツの三国干渉
朝鮮半島、満州をめぐり大国ロシアとの戦い
満州事変、支那事変、ABCD包囲網

何故日本は戦わなければいけなかったのか。
資料に基づいて制作された映画、真実の歴史を知る事ができます。


制作の経緯

靖国神社創立百三十年記念事業の一環として
本館改修と新館増築に伴い遊就館で
真実のドキュメンタリー映画を上映する事になり
其の映画制作を依頼されたのが泉水隆一監 督でした。
監督が渾身の力を込め二年の歳月をかけて出来上がったのが
「凛として愛」でした。

映画完成前から他国からの批判を気にした保守陣営の圧力などがあり
上映はされたものの、この歴史の真実を伝える「凛として愛」を
たったの二日で上映中止にしてしまったのです。
監督の無念さは計り知れません。(`・ω・´)
http://www.hanadokei2010.com/rintositeai/index.php

『凛として愛』
反日国家、支那や朝鮮が支配している日教組や
反日売国テレビ局・マスコミにより作り上げられた日本が悪かったとの
「自虐史観」から目覚める為に、自分自身で真実を探して下さい。
日本人社会の破壊活動を進めている日教組やカルト教団及び社会主義、
共産主義社会を標榜する者達に騙されない為に、
日本人社会の破壊者をしっかり見定めて、
歴史の真実を探すのは貴方の責務です。(`・ω・´)ゞ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                
 
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JAXAの凄い技術 ものづくりの国のロケット技術

2012年08月09日 08時35分53秒 | 日本人の誇り

くにしおもほゆからの転載です。

今回は日本のロケット技術の素晴らしさの記事を3件ほど、転載します。日本人の民度が戦後だんだんに劣化してきた部分はありますが、日本民族が持つ本来の性格、物事に誠実に勤勉に取り組む姿勢、精神をつぎ込んで一心に完璧な「ものづくり」をしようとする姿勢は、変わりません。こうした縄文時代からすでにあったものづくりのDNAを再発見したとき、本来の日本人に還れば、いろいろな問題は自然に解決できてゆくのではという希望を感じます。

マスコミはなかなか、よほどセンセーショナルでない限り良いニュースは流しませんし、悪いニュースは好んで流す傾向がありますが、国民が地道にいろいろなところでがんばっている姿は、それだけで日本人としての自信を感じさせてくれます。日本の復興、そして本来の日本の良さを取り戻すこと、それが必ず出来ると信じます。

 

 



「ロケットが打ちあがりました」、「成功しました。」
この程度しか今回も報道されていません。
よくて「こうのとり」の積荷と、ISSで待機する星出さんのさんのミッション程度までです。
私はJAXAの広報でもないのに、 このままにしておくのはどうかと思って
科学オタクの立場で記事にしました。
 
発射後、第一弾がまず燃焼終了し、分離されます。
この段階ではロケットは高角度でどんどん上昇しているので、第一段は 日本の近海に落ちます。
 
問題はその後です。
第二段目は荷物である衛星などを地球を周回させるために、
上昇しながら、角度を少しづつ下げて、飛距離を延ばします。
第二段の落下地点は、日本から遠い海域。
今回はニュギニア島を犬の姿に見立てて尻尾を北にたどって、
フィリピン南部の緯度で結んだあたりの海域。
 (貼れる地図がなくて残念です)
もちろん、 船舶の航行や飛行機の運行に対して事前に情報を発していますが、 知らずに指定海域に入ってくるどこかの国の船もあるかもしれません。
だから二段目を落とす海域は小さいに越したことないのです。
第一段の落下にはわずかの誤差が出て、 その場所から第二段がスタートするのですから、その落下場所はもっと大きく誤差が出てしまいます。
 
そこでJAXAのやっている芸当のような技術!
第二段の燃料を全部使いきらずに少し残します→ 第二段が切り離された後(まだまだ慣性の法則で飛んでいる)→ くるっと前後逆向きになってエンジン噴射→ 第二段が慣性で飛行するスピードが落ち、 その分以前より手前に落ちるので、落下予測海域が小さくなり、 その分迷惑も小さくなる。
イメージ 1
 
凄い配慮と、それを可能にする凄い技術です。
もちろん一昨日の打ち上げにも行われました。
日本の細やかな思い遣りの発想が見事に発揮されて完成した技術です。
日本のことだけを考えてるんじゃないのです。
多くの日本人が知らないのは勿体ないことです。

 

H-2Bロケット 開発ストーリー  [産経の優れた科学技術啓蒙] 2012/8/6(月)

【打ち上げ重量2倍 物資輸送ロケット「H-IIB」 スピード開発で突破口】 
7月21日、種子島宇宙センターから国際宇宙ステーション(ISS)に向け、食料や実験器具などを積んだ補給機 「こうのとり」3号機が打ち上げられた。大役を担ったのは、物資輸送用ロケット「H-IIBロケット」の3号機。製造で中心的な役割を果たした三菱重工業 開発チームは、日本のものづくりの技術が、宇宙産業にも通用することを証明した。
 「こんな短期間で、こんな大型化が可能なのかと、思わず耳を疑った」。
 三菱重工業航空宇宙事業本部に所属するH-IIB統括責任者の二村幸基さんは開発当初の苦労を今でも忘れることができない。
 日本の基幹ロケットH-IIA以上の能力を持つH-IIBの開発を国や宇宙航空研究開発機構(JAXA)から 打診され、開発が本格的に始まったのは平成16年。二村さんらが背負ったミッションは、物資輸送の効率化を図ることだった。それまでH-IIAで打ち上げ られる衛星や補給機の重量は計約4トン。これをH-IIBでは8トンに倍増させる必要があった。
 
しかも、国側は、基本設計から開発、製造、初号機打ち上げまでを16~21年の5年間と計画した。通常のロケット開発に比べれば異例の短さで、約10年かけて打ち上げにこぎ着けたH-IIAの開発期間のわずか半分だ。
 二村さんはメンバーを前にこう告げた。「後ろを区切られた全力の戦いだ」。
 JAXAが求めたのは、ロケットの大型化を可能にする「打ち上げ能力向上」だった。JAXAの担当者らと打ち 合わせを重ねた結果、2つの大きな改善点が浮かび上がった。ロケット胴体(タンク)の大型化と、エンジンの複数化。理屈では簡単な話だが、作業は困難を極 めた。開発チームはまず、胴体の大型化を実現するため、H-IIAの直径4メートルに対し、H-IIBでは5・2メートルを目指した。
 そこで問題になったのは、溶接部分の強度だ。ロケットの胴体はほとんどの部分がアルミ合金でできており、 5~6枚のアルミ板を溶接でつないで、円筒形の胴体に仕上げる。ただ溶接部分はいわば“継ぎ目”だから、もとの素材部分に比べどうしても強度が落ちる。溶 接部分からひび割れや破損が起き、機器全体のトラブルにつながる懸念もある。
 
主席プロジェクト統括の新津真行さんは「ロケットは一度打ち上げたら引き返せないから、失敗は許されない。だか ら『完璧な溶接』を目指した」と話す。開発チームはさまざまな試行錯誤を重ねた結果、「摩擦撹(かく)拌(はん)接合」(FSW)と呼ばれる溶接方式にた どり着いた。
 FSWは、金属同士を完全に液状に溶かしてつなげる通常の溶接とは違い、溶接したい部分でコマのような機具を 高速回転させながら、コマの上から強い圧力で押さえ付けて接合する。コマの摩擦熱は金属を完全に溶かさず、融点以下のシャーベット状にするといい、金属の シャーベット同士を混ぜ合わせてつなげるイメージだ。これで溶接部の強度が増す。さらに、通常の溶接は完全に手作業の“職人芸”だが、FSWは一定程度は 機械化されているため、作業コストが低減するメリットもあったという。
 
 一方、エンジンの複数化にも苦労した。H-IIAと同様のエンジンを使用したため、新開発の必要はなかった が、近接する場所に2つ並べて同時点火するとなると、それぞれのエンジンが出す衝撃波や振動、炎が互いに影響し合う。「全体の推進力にどんな結果を及ぼす か未知数」(宇宙システム技術部次長の田村篤俊さん)だった。
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          豪雪の能代試験場にてエンジンテストのための調整
 
 チームは秋田県大館市の田代試験場で、繰り返しエンジンの燃焼実験を実施。豪雪に見舞われる中、熱のこもった作業が続いた。ようやく成算を得たのは試験開始から約半年後。「もう打ち上げ準備に入る、というギリギリの段階」(二村さん)だった。
 
 H-IIBの初号機を打ち上げたのは、21年9月11日。約4・5トン分の食料、実験器具、衣服、手紙などを入れた補給機「こうのとり1号」をロケット先端部に搭載し、ISSに運んだ。23年1月22日には2号機の打ち上げにも成功した。
 今後は毎年1基ずつの打ち上げを計画。将来的には、各国の商業衛星を打ち上げることも視野に入れている。開発チームの挑戦に終わりはない。(渡部一実)
 
■H-IIBロケット 宇宙航空研究開発機構(JAXA)と三菱重工業が共同開発した物資輸送用ロケット。米国 や欧州、日本、ロシアなどが合同運用する国際宇宙ステーション(ISS)に向け、食料や実験器具などを積んだ補給機「こうのとり」を打ち上げる。 H-IIAに比べ、大型の衛星を打ち上げられるH-IIBは、ISSへの補給のほかにも、各国の気象衛星などを打ち上げる「打ち上げビジネス」への転用も 期待できる。



[短報] シイタケ型大気圏突入実験機 成功! 2012/8/7(火)

 

宇宙航空研究開発機構は7日午後4時30分、鹿児島県 肝付町 ( きもつきちょう ) の内之浦宇宙空間観測所から観測ロケット「S―310」41号機(全長7・6メートル、直径31センチ、重さ760キロ)を打ち上げ、先端部に搭載した実 験機(直径22センチ、重さ16キロ)の大気圏突入実験に成功したと発表した。

 宇宙機構によると、打ち上げの1分40秒後、高度111キロ・メートルで、実験機本体に折りたたみ傘のように 巻かれた耐熱布製の傘が、ロケットの回転を利用して直径1・2メートルに広がってシイタケ形になり、ロケットから切り離された。その後、約20分間、大気 圏に突入する際の実験機の表面温度の変化や姿勢、画像などのデータを収集した。
(2012年8月7日21時07分 読売新聞)
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 左上:実験機を載せた観測ロケットの打ち上げ
 左下:シイタケ型に開いた瞬間
 右:シイタケ型の実験機がロケットから分離して下降してゆく
 
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なお、過日(7/23)の記事「『制御落下』というJAXAの凄い技術」に対して、日本の技術を誇りに思う という、とても強い反響をいただきましたが、この件をJAXA広報部に伝えたところ、H2Bロケットの制御落下を担当した方々にお伝えいただくという回答 がありました。
この旨お知らせします。


明治天皇のお話 明治天皇崩御から100年

2012年07月30日 13時00分09秒 | 日本人の誇り

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

明治に日本が世界の荒波に東洋の一小国として漕ぎだした時代、ロシアの脅威は日本の国の存亡の危機を感じさせずにおれないものでした。対応を誤れば、すぐにも、世界一の陸軍国と言われ、強大な力ですぐにも押しつぶされかねない恐怖が国民全体にあったことでしょう。この記事にある、ニコライ皇太子襲撃事件は、そんなわが国の恐怖が今にも現実化するような重大事件でした。

明治天皇は、日本の国と国民を如何に安泰に守りきるかに大変苦心されて、ロシアの皇太子に誠意を尽くされたようです。それはちょうど昭和天皇が終戦時に我が身を顧みずに終戦の決断をされたのと同じく、明治天皇自らの命にかえてもと思われたにちがいありません。

その後の日露戦争での毎日の御生活の様子の中にも、天皇という御存在が、わが子を守る親のごとくにひたすら身を挺して国と国民を思われ、祈られ、質素で慎ましい生活をなさる方だという事実に涙せずにはおれません。

 

 

 

 
 
今から100年前の今日、1912年7月30日、明治天皇が崩御されました。
明治天皇は五ヶ条の御誓文、教育勅語、軍人勅諭など我が国のあり方を示されました。
明治天皇が苦慮したのはやはり国家存亡のロシアの存在でありましょう。
 
その頃ロシアといえば、当時世界最大最強の軍国と言われていました。北欧からウラルを超え、北アジアを侵略し、これを東西に貫く鉄道で結ぶ大事業に取り掛かっていました。
このシベリア鉄道起工式にロシア皇帝アレキサンダー三世の御名代として皇太子のニコライ二世が出席の途中に日本に立ち寄りました。
 
軍艦7隻を従え、鹿児島、長崎を経て関西をめぐり、さらに東京から青森に向かいウラジオストックに渡る予定でした。当時の日本は人口3500万人、陸軍6個師、海軍はほとんどないに等しい状態でした。ロシアの軍艦7隻だけでも日本にとっては大脅威でした。
 
ニコライ皇太子は各地で遠慮のない遊興を重ね、日本側は国賓として最高の礼を尽くしました。
このニコライ皇太子一行については様々な憶測が流れました。
シベリア鉄道の最終点ウラジオストックという名は“東洋征服”という意味であり、この時期清国に対抗して朝鮮半島内にロシア勢力が浸食し始めていました。このような時に軍艦7隻も従え、ニコライ皇太子が鹿児島から青森まで視察するというのですから日本国民には“国難近し”という感じがありました。
 
明治24年5月11日、ニコライ皇太子の一行は京都の常盤旅館を出発、人力車を連ねて大津市を訪ね琵琶湖の風景を楽しんだ後、京都へ帰途に着きました。この行列は実に人力車40数台、ニコライ皇太子の随員として有栖川宮威仁親王、川上操六、滋賀県知事をはじめ、その行列の長さは200メートルにも及びました。
この長い行列が日章旗と提灯に飾られた中を通過中、警戒中の津田三蔵巡査がニコライ皇太子に挙手の礼をして見送ってから、突然帯剣を抜いて二度斬りつけたのです。
ニコライ皇太子が後頭部を押さえて車から飛び降りると、津田巡査はなおも追って斬ろうとしました。これを見たギリシャ親王殿下が竹のステッキで防ぎ、二人の車夫が津田巡査を引き倒して刀剣を奪い取りました。傷は後頭部に二か所で重傷ではないが深い傷でした。
 
日本側は驚愕しました。ニコライ皇太子は滋賀県庁に運ばれ、急きょ、京都、大阪から呼び寄せられた日本の一流医師の診療を拒絶して、京都の宿舎に引揚げ、神戸に停泊していたロシア軍艦から駆け付けた医師によってようやく傷口を縫ったのでした。
 
この事件を奏上すると、陛下(明治天皇)は非常に驚愕されました。
陛下は直ちに北白川宮親王を召され御名代として京都に行くように命じ、そして御前会議を開くと、事件の重大性が益々明らかになり、西郷従道内務大臣、青木周蔵外務大臣を続いて現地に派遣することを決定しました。
その夜、陛下は寝室に入られようともせず、ついに深夜に至って、陛下自ら京都に行幸され、
「国民3500万人に代ってロシア皇太子にお詫びしたい」と仰せ出されたのです。
 
午前5時、宮城から新橋駅までの沿道にはすでに憂い顔の国民の群れが行幸を待っていました。
国民3500万人に代って、と言われた陛下のお言葉をそのままに国民は等しく日本国の運命と自分たちの命を陛下にお預けするほかなすすべはないと感じていました。
午前6時、陛下の横顔は深く憂いておられました。国民は目頭をぬぐい、顔を両手で埋めて拝む女たちの姿が多くみられました。
陛下は列車内で軽く仮眠されただけで、不眠と心労の中、京都駅に御着になり、そのまま御所に御入りになり、直ちにロシア公使、京都府知事等を召されてニコライ皇太子の容態を聞かれました。
 
時刻はすでに深夜でありましたが、常盤旅館に宿泊治療中のニコライ皇太子をお見舞いしたい旨を申し入れましたが、先方の侍医の意見で取りやめになりました。日本側から差し向けた橋本軍医総監、スクリッパー博士、高木、池田の両侍医も、先方から辞退され戻ってきました。
日本側の憂いは一層濃くなっていきました。
陛下はその夜、西郷内相、青木外相、土方宮相等を召されて善後策を協議され、寝所に入られたのは午前3時でありました。それからわずか1時間余りの午前4時40分には起床なされていました。陛下も重臣も、一様に不眠と緊張の疲れから目を赤くしておりました。
 
午前11時、陛下は馬車だけで常盤旅館に行き、ニコライ皇太子を御訪問なされました。
この時、陛下はこう仰せられました。
「殿 下の御来遊に際して私は国家の大賓としてお迎え申し、御通過地の官民も出来る限りの御行為を示したいと思っておりますことは、鹿児島、長崎両県で親しくご 覧になったことと思います。私は殿下の御入京を、しきりにお待ち申しておりましたのに、はからずも一昨日、大津において難に遭われましたことを深く悲しみ ます。ことに、遠く離れておられる御両親のお心配は、いかばかりであろうかと、お察し申しております。暴行者は早速係官に命じて国法によって処罰すること はもちろんですが、その罪は憎みてもなお余りあるものです。私は殿下が自重加養されて1日も早く御快復になることをお祈りします。今、殿下の御容子を拝して少しく安心致しました。御快復後は、東京その他の都において、私の国の風物を広く御遊覧下さいます様希望いたします」
 
この丁重な御言葉に対してニコライ皇太子は病床から次のように答えられました。
「思いがけない難に遭い、陛下の御来臨を仰ぎ、恐縮に堪えません。この難のために、貴国に対する感情を害することはありません。けれども、私の身体は、只今、本国の両親に伺い中でありますから、その指示を待つほかありません」
陛下はこのお見舞いを済ませて御所に帰られてから、有栖川親王と榎本武揚枢密顧問を速やかにロシア王室に差し向けて、当方の不注意を詫び、皇太子のその後の容態を伝えるように命令されました。
すると間もなく、ニコライ皇太子が常盤旅館を引き払って、神戸港外に停泊中のロシア軍艦に引き上げるとの急報に接したのです。
 
陛下は「先ほど、お見舞い申した時にはさようなお話は全くなかったに」
陛下は驚かれ、再び御所を出られ、常盤旅館で皇太子の出発するまで約1時間お待ちになり、
その後汽車で神戸まで御同乗になられました。
三宮駅に着くと陛下自ら先導に立たれてニコライ皇太子を弁天浜御用邸にご案内になりました。すでに夕霧があたりに立ちこめた桟橋に、ニコライ皇太子の頭部の白い包帯と、陛下の黒いお姿が心持うつむいて痛々しい限りでありました。
 
その時、桟橋の上に立ち止まったニコライ皇太子が、ポケットから煙草ケースを取り出すと、陛下はマッチをポケットから出され、火を点じて皇太子の煙草に近づけたのです。
陛下の心遣いのほどを察し、侍立していたお伴の人たちは皆瞼を熱くしたといいます。
 
ロシア王室は皇太子の安全をはかるため、19日にウラジオストックに帰るように指示しました。
このロシア王室の意向は日本側には通知されなかったため、陛下はじめ、皇太子一行の行動に協議を重ねるばかりでした。
軍艦は19日出港とのことでしたので、日本側は「御用邸に皇太子一行を招待して送別の宴を開きたい」と申し入れましたが、「治療上の理由」で謝絶されました。
その代わりに、ロシア側から「19日に陛下に来艦してほしい」という旨の申出を受けたのです。
この招待の指名は明治天皇、北白川宮、有栖川宮の他侍従長以下数名と政府関係者は青木外相一人でした。この招待を受けるかどうか閣議で大きな問題となりました。
 
「19日はロシア軍艦の出港の日であり、黒煙を上げている軍艦はそのまま陛下と皇族を人質としてロシアに連れ去るかもしれない」
「人質とまではしなくても艦内でどんな辱めを受け、どんな難題を持ちかけられ、強迫されるか知れない」
各大臣の憂いは皆同じでありました。
「如何なる国難が来ようとも、我々国民は陛下をロシア軍艦に送ってはならぬ」という意見の一致で、陛下に御辞退なさるように奏上しました。すると陛下はこう言いました。
「お断りする理由はない。悦んで御招待に応ずる。私の一身を以て日本国の危急を救い得るならば満足である」
一同、声をのんで沈痛な顔を伏せたままでした。陛下はかえって一同にこう仰りました。
「お前たちが心配するように、ロシアへ連れて行かれたら、その時はお前たちが迎えに来ればよろしい、お断りするのは無礼である」
こうして19日の午前9時、我が国の運命をかけた行幸でありましたが、陛下は御所を御進発されました。沿道には不安顔の国民で埋め尽くされていました。
陛下の御一行をボートでロシア軍艦にお送りした後、神戸埠頭には西郷内相はじめ、高官たちがそのまま立ち並んで陛下の御帰りをお待ちしていました。数千人もの一般国民の拝観者も、沖合に黒煙を上げている7隻の軍艦を見つめたまま2時間が経ちました。
 
午後2時、艦上の交歓は終わって、陛下は無事埠頭に帰りついた時、西郷内相は感極まって声を出して泣きだしました。これをきっかけに埠頭に「万歳!」の声が起こり、拝観していた国民からもどよめきが上がりました。
こうして7隻のロシア軍艦は西に向かって進発し、陛下は沿道の万歳の声の歓呼に包まれ、午後5時15分に京都御所へお帰りになられたのです。
以上、世にいう「大津事件」の頃の明治大帝と国民の苦悩でありました。
 
その後、明治大帝はロシアとの戦争だけはお避けになりたかったのですが、あえて決断を下さねばならなかった明治大帝の御気持ちが偲ばれる御言葉があります。
事乃一蹉跌を生ぜば 朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得んと、すなわち涙さんさんとして下る
失敗することがあれば、我が高祖皇宗(御始祖と歴代天皇)の神霊に何とお詫びを申し上げ、我が子のごとく慈しむ国民に対してどうして顔向けが出来ようかと苦しみ、涙が流れるばかりである。
 
日露戦争の開戦から終戦までの約2年間、明治天皇はほとんど宮中からお出になられず、
戦地の状況をたとえ深夜であろうが報告するように指示されました。
開戦と同時に明治天皇は戦地の兵士たちを思い、ストーブを取り外されて、いかに冷え込む時でも手あぶりしかお使いになられませんでした。
しぐれして 寒き朝かな 軍人すすむ 山路は 雪やふるらむ
 
夏にはどんなに暑くても軍服をお脱ぎにならず、団扇も一切お使いにならずに御学問所で休憩もなく政務を執り続けられました。
暑しとも いはれざりけり 戦の場に あけくれたつ 人思へば
 
日露戦争の戦死者は八万八千余柱にのぼりましたが、明治天皇は戦死者の写真と名簿のすべてに目を通されたといいます。
日露戦争を勝利に導いた東郷元帥も、乃木大将も、黒木大将も、大山大将も、みな「陛下の御威徳によって勝つことが出来た」と述べています。
 
この戦より御食事がおすすみにならず、8年後に明治大帝は御隠れになるのですが、明治大帝の御心労のほどが如何ばかりだったかが偲ばれます。
 
小さな島国として短期間に世界に君臨することができたのは、明治大帝と国民がひとつになり、さまざまな苦難を乗り越えて日本を守り抜いたからであり、そのことで白人には絶対に敵わないと信じていたアジアの植民地の国々の人々に勇気と希望を与えたのでありました。
明治大帝と先人達が守り抜いた美しい我が国、強き我が国、を取り戻したいと思うのであります。
 
 
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」