goo blog サービス終了のお知らせ 

小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

日本がなぜ鉄砲を捨てたのか・・(上)

2012年05月21日 11時13分17秒 | 歴史

美しい国 からの転載です。

非常に興味深い記事です。まだ前半ですが、戦国時代には、日本の鉄砲技術が格段に発達して、おそらく伝来元のヨーロッパを凌ぐ技術とそれを使った戦術の発達があったようです。この頃のヨーロッパは日本の教科書では大航海時代という名で、恰も冒険とロマンの時代であったかに記述されていますが、実際には白人による植民地主義の到来と有色人種の悲劇の始まりの時代です。この時代を日本がどのように生きのびていくのかが、鉄砲技術の発達と、それを捨て去っていく政策を通して語っていこうとされているように思います。

 

 


鉄砲伝来の図



筆者が尊敬してやまぬ、さくらの花びら大兄様の秀逸記事、 日本兵は“鬼畜”のような存在 沖縄県教職員組合の反日教育でも述べられていますが、我国の歴史教育は15世紀を「大航海時代」と教えています。
しかし、実態は白 人種による有色人種への暴力と収奪の歴史でした。西欧文明と出合う前、中央アメリカの人口は7千万人から9千万人あったと推定されていますが、スペイン人 の侵入後、わずか1世紀の間に、350万人に激減したと見積もられます。またアフリカから奴隷として拉致された黒人は、3千万人から6千万人に及び、その 3分の2が航海途上で死亡して、大西洋に捨てられたといわれます。有色人種の犠牲者数は、世界大戦の死亡者数さえ上回ります。暴力と収奪によって、西欧文明は、大陸間の支配構造を作り出したのです。
「近代世界システム」は、1450年頃から1540年頃までに形成されました。この支配体制は、西欧を中核とし、アジア・アフリカ・ラテンアメリカを半辺境または辺境とし、この構造の中で、近代資本主義が発達し、産業革命によって支配体制を完成させたのです。

外に向かって侵略と搾取をし続ける西欧諸国は、お互いの間でも戦争が絶えず、17世紀前半の三十年戦争(1618-48)は、キリスト教の新教国・旧教国が参戦して大戦争となり、ドイツの人口が3分の1になるという悲惨さでした。


近代世界システムでは「戦争と平和」という観点から世界秩序が構想されました。この構想を最初に体系化したのは、オランダのグロチウスの著書『戦争と平和の法』(1625) でした。時まさに三十年戦争のさなかでした。この理論をもとにして、1648年にウェストファリア条約が結ばれました。以来、ヨーロッパでは、戦争を世界 観の柱として国際関係が律せられることとなりました。これが現在に続く主権国家体制です。主権国家同士の戦争は、1480年から1950年までの460年 間に278回にのぼります。約1年8ヶ月に1回の割合で戦争が起こっていた計算となり、勿論それらに伴う、莫大な軍事支出が必要となります。
1650年代のイングランドは歳出の90%を、フランスのルイ14世は75%を軍費に充てていたといいます。

 

こ れら侵略的・攻撃的な西欧文明から自らの文明を守ることは、容易でなく、力には力で対抗して身を守らないと、虐殺あるいは支配されてしまいます。ラテン・ アメリカでマヤ文明・アステカ文明などが滅ぼされ、アフリカやインドの有色人種が家畜のような奴隷労働をさせられたのは、力に対し自らを防衛する能力を欠 いていたためでした。今日の我国がその様相を呈しています。


何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ、もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなども歴史教育では教えていません。
我国は海洋国家ですが、単純に海があったからというのでは、フィリピンが同様の時期にスペインに征服されたのをどう説明すれば良いのでしょうか?

また、西洋諸国が植民地を拡大している時代に、鉄砲を捨てたような国は日本の他に存在するのでしょうか?
先人の生き様を教えずして歴史教育とはいえません。
過去の日本の歴史を、単なる史実、時系列として捉え、先人の生き様を教えようとしない、侵略、略奪、売国を肯定した赤い教職員組合の弊害と言っても過言ではありません。

本題に戻りますが、我々の先祖は西欧文明に出会った時から、見事に対応し、自衛を行いました。13世紀の元寇の記憶が働いたのかも知れません。天 文12年(1543)、ポルトガル人が種子島に鉄砲(火縄銃)を伝えると、領主・種子島時堯(ときたか)はポルトガルから鉄砲を購入し、刀鍛冶に命じて1 年後には10挺の鉄砲を作らせています。それから10年もすると、日本中の刀鍛冶が鉄砲を大量に製作し始めました。そして、16世紀後半には、日本は世界最大の鉄砲の生産・使用国となっていました。当時、地球を二分割していたポルトガル、スペインも、日本の軍事力を見て侵略を諦めざるをえませんでした。
米国のダートマス大学教授ノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」(中公文庫)には次のように記述されています。

「…アラビア人、インド人、中国人いずれも鉄砲の使用では日本人よりずっと先んじたのであるが、ひとり日本人だけが鉄砲の大量生産に成功した。そればかりか、みごと自家薬籠中の武器としたのである。」

「…今日もそうだが、日本は当時も優れた工業国であった。…日本で、もっとも大量に製造されていた物がなにかというと、それは武器であって、二百年ぐらいは世界有数の武器輸出国であった。日本製の武器は東アジア一帯で使われていた。」

「少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。」


「たとえばイギリス軍全体をとってみても、その鉄砲所有数は、 日本のトップの大名六名のうちどの大名の軍隊と比べても少なかった。…1569年イギリス枢密院がフランス侵攻の際に動員できるイギリス全体の兵隊と武器 の数を決定すべく総点検を行った時のことだ、…フランス大使はスパイを通じてその情報をつかみ、「機密にされている兵隊の集計値」は二万四千、そのうち約 六千の者が銃を所持している、とパリに報告した。」

「1584年、…戦国大名の竜造寺隆信が島原方面で有馬晴信・島津家久と対戦したが、率いていた軍勢は二万五千、そのうち九千が鉄砲隊であった。…」

すなわちイギリス国全体の軍隊の銃の数よりも肥前国の竜造寺氏の銃の数の方が五割も多く、しかも日本は独自の工夫により銃の性能を高め、「螺旋状の主動バ ネと引金調整装置を発達させ」「雨中でも火縄銃を撃てる雨よけ付属装置を考案し」、当時のヨーロッパにおける戦闘と比較して、「武器においては日本人の方 が実質的に先行していたのではなかろうか」とまで記述されています。


鉄砲だけでなく、刀も鎧も日本の物の方が優れており、ヨーロッパ製の剣などは日本刀で簡単に真っ二つに切り裂かれるということが正しいかどうかを実験したそうです。
 「今世紀(20世紀)の武器収集家ジョージ・キャメロン・ストーンが、16世紀の日本刀によって近代ヨーロッパの剣を真二つに切る実験に立ち会ったのが それだし、また15世紀の名工兼元(2代目)の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを映したフィルムが日本にある。」とまで紹介されています。

こ れほど早く鉄砲製造の技術を習得し、また自力生産、大量生産できた理由は何でしょうか?武士が政治・社会の担い手であり国防意識が高かったこと、戦国時代 だったので武器の需要があり、高級な刀剣の作成により技術水準が高く、国内で品質の高い銅・鉄を産出していたこと、人口が当時の西欧のどの国より多く教育 水準も高かったことなどが挙げられます。
日本人は物真似ばかりで独創性がないといわれますが、単にコピーするのではなく、さらに良いものに改良してしまうところに、日本人の真骨頂があります。
アメリカの銃砲専門家のロバート・キンブローは、次のように言っています。「この改造銃は、近代の火薬を使っても暴発しなかった。昔の日本の職人の技術は、最高級の賛美に値する」と。
 
鉄砲を使った戦法も世界一でした。天文3年、織田信長は、当時最強の軍団と呼ばれた武田氏を長篠の戦いで駆逐しました。この時、信長は3千人の鉄砲隊を3分隊に分けて、一斉射撃を繰り返す戦法を用います。長篠の戦いの12年後、フランスのアンリ4世が勝利を収めたクトラの戦いで25名の鉄砲隊を各槍隊の間に配置した程度に過ぎなかった事も見ても、鉄砲使用の規模と質において、当時の日本がいかに進んでいたかが分かるこの戦法などを見ても、当時の西欧の数段上を行っており、西欧で同様の戦法が見られるのは、約350年後の第1次大戦のドイツ軍だったといいます。それほど日本の軍事技術は先駆的でした。
豊臣秀吉は、この軍事力をもって戦乱の世を治め、国 内を統一しました。さらに朝鮮の役で海外に進出を試みました。しかし、これに失敗すると、徳川家康は対外的な進出を止め、内政充実の政策を取ります。さら に、幕府は「鎖国」をして「近代世界システム」から離脱します。そして、西洋諸国が内では戦争を繰り返し、外へは植民地獲得に明け暮れていたころ、江戸日 本は、戦争のない平和な社会を実現していくのです。


投稿文字数に制限がありますので、続きは次回に述べさせていただきます。




昭和天皇とマッカーサー

2012年05月18日 11時40分13秒 | 歴史

「かつて日本は美しかった」から、昭和天皇とマッカーサーについての記事を二つ転載です。

マッカーサーという人物に関しては、昭和天皇に出会ってからは、日本に少しづつ好意を持つようになり、日本は自衛のための戦争をしたのだと言ったりして日本を擁護する発言もしていますが、本来は非常に人種差別意識も強く、かなり傲慢な人物だったようです。昭和天皇との会見の前に写した写真にも、その意識が現れています。

そんなマッカーサーという人間を感動させたのですから、昭和天皇がいかに人徳の高いお方だったかがわかります。昭和天皇のお人柄は、もうまとわれる雰囲気にも強く現れており、格別だったということです。もっとも天皇とは皆そういう存在のようで、今上陛下にお会いした人も同様に言います。

昭和天皇のご生前に、各国大使がお別れの挨拶に皇居にお尋ねした時には、大使夫妻が昭和天皇との別れを惜しんで、特に夫人が泣き崩れることも多く、それにつられて大使も泣き始めて、夫婦で、振り返り振り返り退室するなどという光景も多かったと、入江元侍従長が話しておられました。

そのような御徳をそなえた方にして、マッカーサーという人種差別意識のある人間を感動させることが出来たのではないでしょうか。

 

品格の違い ~ 昭和天皇・マッカーサー会談

伝統によって育まれた品格。

S


  添付の写真を見たことのある人も多いでしょう。この写真は昭和20年(1945年)9月27日の昭和天皇とマッカーサー会談の時の写真です。話をする前に 挨拶を交わした直後に取られたもので、マッカーサーはノーネクタイのラフな格好で天皇より格が上だということを日本国民に知らしめるために撮影されまし た。ときの内閣の山崎巌内相は写真を発禁しようとしたら、直ちに公職追放されました。

  この写真は多くの日本人が衝撃を受け、敗戦を実感させられました。

作家 高見順
「かかる写真はまことに古今未曾有」

歌人 斉藤茂吉
「ウヌ!マッカーサーノ野郎」

  しかし、皇太子殿下(今上天皇)とご学友は奥日光に疎開していましたが、この写真を見るなり口々にこう叫んだというのです。

「日本が勝った!」
「マッカーサーはネクタイもしないで礼儀をしらない!」
「成り上がりの田舎っぺ!」
「アメリカはあの程度の国か!」
「日本は礼節の国だぞ!」

  皇太子殿下の前なのでご学友が気を使ったとも考えられますが、よく考えると皇太子殿下やご学友の感想は的を射ていると思います。といいますのは、日露戦争 の旅順戦の水師営で行われた乃木希典・ステッセル会談を思い浮かべるからです。水師営で乃木将軍は敗軍の将にも帯刀を許し、最大限の礼をもって迎えていま す。会見写真は一枚も撮らせませんでした。このことは世界を驚愕させました。これは明治天皇の指示によるものです。当 然、大東亜戦争当時も日本はこの精神を継続しています。ちなみに、マッカーサーの父は旅順戦に観戦武官としていましたので、マッカーサーはこの話を父から 聞いているはずですが、何も学習していないと言えます。対して昭和天皇は乃木将軍より教育を受けています。

  日本は2600年の歴史が育んだ伝統・文化があり、その基準でみれば皇太子殿下とご学友の言うとおりであり、たかだか200年の歴史しか持たない米国など 礼節をわきまえないこの程度のモノか!ということだと思います。この写真は恥辱を含んでいようとも民族の品格の違い、民度の勝利、伝統の勝利の瞬間を捉え た写真であると言えるでしょう。そして会談の内容も昭和天皇がマッカーサーを圧倒したのです。マッカーサーは昭和天皇が命乞いにきたと思っていました。

昭和天皇「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためにおたずねした」(マッカーサー回想記)

 この会見の内容は口外しない約束でしたが、マッカーサーはベラベラしゃべりました。昭和天皇は昭和52年(1977年)に記者からマッカーサーとの会見内容について聞かれ、「マッカーサー司令官とはっきりこれはどこにもいわないという約束を交わした」「男子の一言は守らなければならない」とお答えになり、生涯口外することはありませんでした。

昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter

 

【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 1

 

 

昭和天皇とマッカーサーは親密だったのか

昭和天皇が国民に語りたかったこと。

S_2



  昭和天皇とマッカーサーは戦後、11回にわたり会談しています。このことから親密な関係ぶりが印象付けられているように思いますが、会談の内容は平坦なものではなく、特に安全保障の面では対立の様子さえ見えます。

  マッカーサーが解任されたとき昭和天皇はアメリカ大使館を訪問し、別れの挨拶をしています。

共同通信 昭和26年4月15日
「玄 関には軍装姿のマ元帥が出迎え、陛下は『ごきげんよう』のあいさつのうちに元帥と握手され、そのまま元帥と並んでパーラーに入られた、いつものように松井 御用掛の通訳でお二人だけの会見であった、陛下は元帥進駐以来の日本にたいする好意に深く感謝され、また心からのお別れのあいさつをされて、終始にこやか にご歓談された」

  こうした親密な印象から反皇室思想の人はさまざまなデマゴギーを作り出しています。たとえば自分が助かるために東條らを戦犯にすることを認めたなどという のを聞いたことがあります。しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、昭和天皇は見送りにいかず侍従長を派遣したのみでした。

  月日は流れ昭和39年(1964年)マッカーサーは84歳で死去。バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。

  昭和50年(1975年)、昭和天皇は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきました。しかし、昭和天皇はこれを断りました。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを相手にしませんでした。
  訪米した昭和天皇はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられました。この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離 にありました。それでも昭和天皇は記念館に行きませんでした。マッカーサーの未亡人は怒ってホワイトハウスの天皇歓迎ディナーの招待を断りました。

  明らかに昭和天皇はマッカーサーを拒否しています。

  昭和天皇はこのときの訪米を前に外国人記者団とこんなやりとりをしています。
記者
「陛下は、過去30年間における日本人の価値観の変化をお感じになりますか」
陛下
「戦争の終結以来、いろいろな人々がいくつもの意見を述べたことを承知しています。しかし、広い観点からみるならば、戦前と戦後の(価値観の)変化があるとは思っていません(略)」

記者「陛下は先の質問に対するお答えで、戦前と戦後の変化はないとおっしゃいましたが、これは日本が軍事大国に復活する可能性があると、お考えになっていることを意味しているのですか?」
陛下
「考えていません。日本国憲法は日本が軍事大国になることを認めていません」

記者「戦後の日本の民主化、皇室自体の変化、婦人や労働組合の変化など具体的な問題をどう考えられますか」
陛下
「そのような動きを変化と呼べるかもしれません。しかし、日本の民主主義の基盤は、明治時代の初期にさかのぼるものです。わが国の旧憲法は明治天皇の『五箇条の御誓文』に基づいていました。私はこの五箇条が日本の民主主義の基盤であったと信じています」

記者「日本が再び軍国主義の道を歩む可能性があるとお考えですか?」
陛下
「いいえ、私はその可能性についてはまったく懸念していません。それは憲法で禁じられているからです」

  私はこれらのことを見るとGHQの政策によって洗脳され骨抜きにされた国民に対して昭和天皇はこういいたかったのではないかと思えてなりません。

「マ元帥の意思は朕の意思にあらず。日本には伝統的によいものがあり、国民は自信と誇りをもってそれを大切にせよ」 


参考文献
  幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
  講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
  「新潮45 2009/9」『二重外交展開、占領下も君主でありつづけた昭和天皇』川西秀哉
添付画像
  昭和天皇の陵墓「武蔵野陵」(むさしののみささぎ)

広島ブログ クリックで応援お願いします。

【昭和天皇】 マッカーサーとの会見 2

 


戦争中、日本は世界一の民主国であった

2012年05月09日 22時16分08秒 | 歴史

今は幽明の境を超えられた敬天愛人様のブログ敬天愛人(東北の片田舎から憂国の発信)から転載させて頂きました。生前素晴らしい記事をたくさん読ませて頂きましたが、私が知る以前の記事を読んでいなかったことに、気づき、読んでみたいと思いました。

そこで、まずはカテゴリーが自虐史観からの脱却となっている記事からみていこうと思います。戦争中は、暗黒の時代のように書かれたりしていますが、実は世界の国々は、日本どころではなく、国民は制限を受けていたり、時には拘束されることもあって、日本はそれに比べると、かなり平時に近い政治姿勢だったようです。もちろん物資の不足など、生活は困窮していますが、政治面が外国ほどひどくなかったということです。これは、日本には独裁者が存在しなかったことが大きな要因でもあるようです

 

 

 

      (終戦の詔書)

 
 御来訪感謝申し上げます。
 不肖敬天愛人ごときがブログで鳩山左翼政権の文句ばかり言ってても、簡単に政治が好転するほど甘くないのも政治であります。ならば、本ブログ立ち上げ時 の最大テーマである『自虐史観からの脱却』の原点に戻り、日本人が同じことを書くとマスコミに妨害されそうな外国人による著書等を資料として紹介しなが ら、反日勢力が最も嫌がる「日本人の覚醒」を主題とした記事を少し続けたいと存じます。

-----------------------------------------------------------------------
 戦争中、日本は世界一の民主国であった 
 
ヘブライ大学ユダヤ人教授、ベン・アミー・シロニー博士著書『天皇陛下の経済学』(1982年光文社)より抜粋引用 
 
 ■大東亜共栄圏とドイツ第三帝国
1930年代と1940年代の日本の戦争は、ナチスドイツのやり方とよく比較される。
 両者とも第二次世界大戦で結束して戦ったため、日本は「東洋のナチス国家」という印象を西洋に与えたようだ。
 だが、両者が非常によく似た点をもっていたとはいえ、戦時下の日本は、戦時下のドイツとはまったく違っていた。というのも、日本は戦闘を続けながらも、ドイツのもっていなかった多くの抑制をまだ保ちつづけていたからである。  
 
 ナチスと日本の政治姿勢の違いは、占領下の人々にどう対処したかによく現われている。日本は過酷な戦いを挑みながらも、少なくとも公式上の扱いは、まるで兄弟のようであった。
 日本の声明、宣伝は、日中戦争を、まるで兄である日本が弟である中国に教訓を与えるために懲(こ)らしているのだと説明した。日本政府の目的は、占領下にあるアジアの国民との兄弟的な交わりをもつことであるといった。
 このやり方は、ヨーロッパの、非アーリア人種を従属させ、奴隷にし、時には絶滅をはかるという、ナチスドイツの基本方式とは、まったく異なっていた。日 本人が中国やフィリピンで、人道を逸した行為をした時でさえ、ナチスなみの計画的大量虐殺などという発想はみじんももっていなかった。この意味で、日本の 大東亜共栄圏構想は、ドイツ第三帝国とは根本的に異なっていた。だからこそ、アジア諸国の民族主義運動の多くの指導者は、日本が西洋帝国主義との絆を断ち 切ってくれるという確信のもとに、日本人に対し協力的であったのである。
 
 ■戦争中、日本は世界一の民主国であった
 ナチスドイツと戦時下の日本との最大の相違点は、両者の国内統治体制にみられる。
 ドイツでは、政府、政党、秘密警察が、国民に権力をふるい、人々を裁判もせず投獄し、殺していた。
 国民全体が、独裁者ヒトラーのもとで支配されていた。独裁者の権力は、無限であり、 その威光は、最高をきわめていた。ヒトラーの判断は法律以上の力をもっており、すべての兵士や党員は、それぞれがヒトラーに対して忠誠を誓った。 
 日本の場合はそうではない。明治時代に発達した政治体制は、変化しなかった。憲法は廃止されずにそのまま維持され、帝国議会は、戦時中も事あるごとに開 かれた。1942年に、日本で普通選挙が行なわれるようになり、大政翼賛会の候補者に加えて多くの無所属議員が出馬し、当選したりもした。
 カリスマ的指導者や独裁者は、日本には出現しなかった。当時の西洋のマス・メディアが、「東條英機首相は、日本のヒトラーだ」と誇張して報道してはいても、それはあくまでも事実をふまえたうえでの報道ではなかった。 
 東條は最高責任者であったが、彼はヒトラーの権威も権力ももっていなかった。東條は当たり前のように有力者となっていき、戦時中、批判が高まると、当たり前のように権力の座から引きさがった。
 東條は国家の主権者でもなく、総司令官でもなかった。東條は陸軍や海軍の参謀本部に指図する権限はなく、自分の見解に反対の大臣たちを追放することはほとんど不可能であった。
 東條は、ヒトラーやムッソリーニという同盟国の独裁者たちよりわずかな権力しかもっていなかっただけでなく、軍隊に命令を下すことのできたルーズベルト やチャーチルのような敵国の民主主義者たちの権力さえももっていなかった。スターリンや蒋介石と比べる必要は、もはやないであろう。
 日本は第二次大戦中、正当な合法的方法で内閣が二度変わった唯一の主要戦闘国であった。
 ヒトラーやムッソリーニやスターリンが、暴動が起こることもなく、流血もなく、拘引されることもなしに、全面戦争の真っ最中に権力の座から降りることができようとは、誰が考えるだろうか。東條が辞職したときには、誰も殺されることも拘引されることもなかったのである。
 独裁者の国ではよく起こるような、後継者たちの非難も東條に対してはなされなかった。その後も東條は、つねに尊敬されるべき国民であり、天皇に助言を与えるべき人物であったのである。
 
 ■「政治犯収容所」のなかった日本
 戦争状態が続き、民主主義の色が徐々にうすくなってきても、日本は、ヨーロッパの圧制に苦しむ国々とは、歴然と違っていた。日本には「政治犯収容所」は なく、日本人が自分の信条のために処刑されるということは滅多になかった。左翼の人が捕らえられても“転向”すなわち考えを改めさえすれば、速やかに釈放 された。転向を拒否した人々は留置されたままであったが、その人数はそれほど多くはなかった。
 戦争が終わったとき、日本の獄中にいた政治犯は、スパイの容疑者や、根っからの共産党員を含めて、たった2500人しかいなかった。もちろん彼らは、無傷で釈放されたのである。
 収容されていた人々が監獄で死んだこと、とくに食料不足や爆撃のあった終戦の年に多数死んだことは事実であるが、政策的な政治犯殺害計画などは、日本では一度も存在しなかった。
 憲兵や特高(特別高等警察)は、国策に反対する人々を弾圧しようとしたが、その力も社会のすみずみにまではおよばなかった。憲兵や特高はそれぞれ陸軍や 内務省の管轄下にあり、ドイツの秘密警察ゲシュタポやロシアのKGB(国家保安委員会)のような独立した権力をもっていなかったのである。
 どの国であっても、最高職につく人材は、権力の基盤を築ききってしまわないうちに、危機にみまわれる。日本の場合にも、東條政権の最初の時期に、彼に反 対の動きがあった。そうした動きが彼の地位を危うくさせたとき、特高はこれを鎮圧して東條政権を守る力をもっていなかったのである。
 
 ■降伏時に示された武士道
 こうした日本国内をおおっていた抑制は、日本降伏の時にも如実に現われた。
日本軍は、何年もの間、決して降伏に応じず、恥ずべき敗北より栄誉の戦死を選ぶよう教育されていた。この教育を受けた兵士たちの戦法が、実戦では玉砕、特 攻隊、そして“カミカゼ”となって現われた。これは、軍全体、国全体が一丸となり、命令されれば死をも覚悟で戦う決意であることを示している。
 ところが、いったん政府が降伏を決定すると、狂信的な軍部は再び徹底して命令にしたがった。すべての戦場で、敗北の経験のなかった中国においてさえ、日本の将校や兵士は武器を置き、敵にみずからを受け渡し、いつでも死ぬ覚悟をもったのである。
 戦争機械(ウォー・マシン)となって働いていた日本人のこの豹変ぶりは、日本人が降伏するなど考えもおよばなかったアメリカ人を驚愕させた。降伏という日本の決定は、雄々しい死を選ぶ武士道の伝統を否定するものと思われたからだ。
 当時のアメリカ人の見解は、的を射ていなかった。日本の降伏のあり方こそ、死を覚悟せねばならぬ武士道の発露であり、また自己抑制の極致ともいうべきものであっただろう。これは日本の伝統の一環ではなかったか。
 90年前、ペリーの軍艦が日本に向かってきたとき、日本人は体裁も感情も捨てて国を守りぬいた。日本降伏の様子もこれと通じているのではないだろうか。

 ※ヘブライ大学教授ベン・アミー・シロニー博士
 大の親日家で、日本に関する本を多数出している。専門は日本の歴史と文化
-------------------------------------------------------------------------
 引用文の中に一部首をかしげる部分もありますが、外国人歴史学者の歴史に対するひとつの見解ということでスルーします。
 我々戦後世代の日本人は学校教育において、今の民主主義は戦後GHQ占領下でもたらされたものであり、戦前は日本にはあたかも民主主義は存在していなかったかのような歴史教育を受けて来ました。
 つまり、今日本人が享受している自由と民主主義は総てアメリカ様のお蔭であると。
 日本が戦争に負けたことで民主社会が実現したのだと、私は日教組組合員の教師に教えられました。
 大人の言う事に素直に従う良い子であった私は、ご丁寧な事に実家が朝日新聞を購読していたこともあって、日本は侵略者であり世界でも最も悪い国の一つで あった歴史を持つ凶状持ちの国の一員として、国が高度経済成長を遂げ、アメリカに次ぐ経済大国になっても奢り昂ぶらず謙虚に国際社会に臨む大人にならなく てはならないと自分に言い聞かせながら成人して行ったと自分勝手に思い込んでいます。
 しかし、自分が教わったことは世界中から恐れられたサムライ日本人を去勢する事を目的とした連合国の深謀遠慮の政策の賜物であったと気付くまでに50を 超える齢となってしまいました。 「素直も業のうちである」と言われたことがありますが、戦後の○×教育も日本人から思考力を奪うための方策だったという 事実を知るにつけ、ようやくその意味が理解できた次第です。
 田母神空幕長の歴史論文が世に出た時、左翼勢力が牛耳るマスコミや政界が慌てふためいて火消しに奔走した事を思えば、田母神氏の劇的な登場も日本が歴史的な転換期に差し掛かったことを物語っているのだと思います。

 次回のエントリーではユダヤ人が『日本が国体を守れるのは、世界に比類無き天皇という存在があるからだ』と日本に敬意を込めて著した文献を資料に御紹介させていただきます。 
  

 


従軍慰安婦という捏造

2012年04月18日 09時23分08秒 | 歴史

かつて日本は美しかったからの転載です。

従軍慰安婦問題は、元は吉田清治という人の捏造記事から始まったものですが、韓国はしっかりとした検証もすることなく、日本を貶めるためなら、その捏造を世界に広めることに熱心な国です。何れはこうした行為はいつか自分たちに帰ってくるのではと思います。

日本政府も、はっきりと今は世界にむけて真実を述べるべきであり、村山談話や河野談話などに拘って、自虐史観をいつまでも抱いていると、世界から信用を失ってしまいます。日本が説明し、真実を言えば、そこにはきちんと事実としての証拠もあるのであり、一気に世界への認識は変わるのではないかと思います。

戦後、敗戦国の日本は、日本は悪くなければいけなかったという前提で、歴史が書き換えられ、教えられてきましたが、既に戦後70年に迫ろうとする今、本来の姿を取り戻しても良いのではないでしょうか。中国韓国のいうがままの、捏造歴史を受け入れることをやめて、南京事件も従軍慰安婦問題も日本の方から打って出る時機ではないでしょうか。

 

 

従軍慰安婦という捏造

従軍慰安婦は捏造された言葉だった。

S_2


 従軍慰安婦・・・この言葉は戦後捏造 されたものです。南支派遣軍福山部隊看護婦婦長・若狭ももえさんによると「慰安婦」という言葉すらそもそもあまり使われていなかったといいます。戦前は 「慰安所」という言葉があり、そこで働く女性は「おんな」と呼ばれていました。戦前は朝鮮半島にいた私の祖父の半島での回想記録を見ると「慰安婦」「売春 婦」「遊郭」という言葉が見られます。

 慰安所業者は軍のそばで商売すれば儲かるので慰安所を設置していたのです。そして軍は衛生上の都 合や軍事機密の都合上、監視していたのです。(※1) 軍が強制的に「おんな」を狩り集めたということはありません。そのようなことをすれば軍の威信にか かわります。業者でも悪質なものは憲兵が取り締まりしています。(※2) また慰安所は民間女性の被害を防ぐ目的もありました。シンガポール首相となった リー・クアンユーは慰安所の設置でシンガポール女性の貞操を守ることができ、現実的で効率的な選択とみていました。

 韓国では「慰安婦」 と「挺身隊」は同じだと教えられているそうです。「挺身隊」というのは昭和18年(1943年)に創設された14歳以上25歳以下の女性が市町村長、町内 会、部落会、婦人団体等の協力によって構成されていた勤労奉仕団体のことです。女性の労働力を産業の現場に動員したということです。男性が戦争にいってし まうので、国内の労働力不足を補うためのものです。戦争があった時代はどこの国でも同じでした。韓国では在韓米軍相手の慰安婦は挺身隊とも呼ばれていたよ うで、このあたりから後々ごっちゃになったか、悪意ある反日思想から生まれたものでしょう。ソウル大学教授の李榮薫(イ・ヨンフン)教授によると1969 年の「修羅道」という小説の中で挺身隊が慰安婦になったと書かれたことから混同が始まったのではないかと述べています。

 「慰安婦」と なった女性たちは貧しい家の女性たちが多かったようです。また、業者に騙された人も多かったようです。(就職斡旋と称して) たしかに軍の強制ではなかっ たにしろ、慰安婦になった女性たちの運命は同情を禁じえないものがあります。しかし、そんな面だけでしょうか。
 当時は今とは全く「豊かさ」が異なります。「貧困」の中で生きるため、家族にお金を送るために耐え忍び、強く生きた女性たちの姿もそこにはあるはずです。

南支派遣軍福山部隊 看護婦婦長 若狭ももえさん談(福岡県)
「博多のさる料亭の女将さんは大陸で稼いで料亭を買い、妹と二人の弟を上の学校にやったのです。上のほうの弟は、某県の知事になりました」

  こうした話は稀ではなかったようです。朝鮮人女性でも貯金が5万円になったらソウルに戻って小料理屋をするという夢を持った人がおり、日本の軍人がそれを 聞いて感動し表彰した話や、ビルマ戦線にいた文玉珠という女性は5千円もの大金を故郷の実家に送金してもまだ2万5千円が残っている貯金通帳を持っていた といいます。ラバウルで朝鮮人慰安婦が本国へ帰還する日本兵に200円預けて、実家への送金を依頼したとき、その日本兵は
”山梨にある自分の家の価格より高いな”と思ったそうです。慰安婦は月に300円~1500円ぐらい稼いでいました。陸軍大尉の月給が110円という時代です

 貧しかった時代の女性の悲劇もあれば強く生きた姿もある。歴史はこうして両面見て、未来につなげていくべきだと思います。ウソの歴史は未来にも影を落とすと思います。



※1 慰安所には軍が直接経営したもの(少ない)、軍が業者を指定したもの、軍が指定しているが民間人が利用するものとあった。
※2 女性を強制連行した業者は処罰された記事が昭和14年朝鮮の「東亜日報」にある。インドネシアでも現地女性が慰安所に連行され、軍司令部が慰安所を閉鎖、同事件に関与した将校らを処罰している。


参考文献
 文藝春秋「大韓民国の物語」李 榮薫(著)/ 永島広紀(訳)
 歴史通WiLL2010.1月号「『従軍看護婦が語る』戦地の実相」若狭ももえ
 文藝春秋「日本よ、歴史力を磨け」櫻井よし子(編)
 徳間書店「歴史を偽造する韓国」中川八洋(著)
参考サイト
 WikiPedia「女子挺身隊」

添付画像
 晋州の妓生の剣舞(PD)
 朝鮮国に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露するために準備された女性。しかし実際の妓生の位置付けは芸妓を兼業とする娼婦である。(Wikiより)

広島ブログ クリックで応援お願いします。

 

 


パラオ・ペリリュー島の桜花  大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア「親愛なる日本の皆様に」

2012年04月16日 13時45分38秒 | 歴史

近野滋之・民族主義者の警鐘からの転載です。

パラオ共和国は、オセアニアのあたりの島国で、赤道付近にあります。大変素朴な人々で、非常な親日の国です。親日なのは、戦前に日本の統治下にあって、日本により教育や産業の開発が行われ、現地の住民のためを思う親身な統治が、彼らを親日国にしました。

此の純朴な親日国に、戦後の日本は少しでも、心を振り向けてきたかといえば、殆ど無視しているに近かったのではと思います。

戦前の日本の親身な働きかけに比べ、戦後は、日本人は自分達の過去の歴史はすべて悪かったとする自虐史観に陥り、そうした親日国の感情すらも、それらが日本統治の良さを証明することになるのは都合が悪いとして、否定し無視して来たと言えます。多くの東南アジア諸国の親日感情にも、ピント外れな謝罪外交のみで、ひたすら謝っており、彼らが独立のきっかけとして日本への感謝を表しても、ただただ迷惑をかけたという一点張りで謝って来ました。

自虐史観は、親日国の人々には、うんざりするような見苦しさに感じられるのではないでしょうか。過去の日本人を知る人々は、情けない思いで日本人を見ているでしょう。

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
最初に、応援のクリックをお願い致します
 
 
 
良識ある日本国民の皆様には、南洋にあるパラオ共和国はご存知だと考えます。
 
本日は、4月9日の記事「パラオ・ペリリュー島の桜花」(1)の続きになりますが、まだ(1)をお読みになられていない方はこちらをクリックして下さい。
 
 
 
 
 
ペリリュー島の戦いが終って島に戻った住民は、多くの日本兵の遺体を見て泣きました。
 
「アメリカ人は日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに征服民族の本性を見る」と。
 
住民はこぞって日本軍の遺体を葬り、そして日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃に心掛けました。
 
敵将、ニミッツ提督は、その著「太平洋海戦史」の中でペリリュー島の戦闘に相当のページをさき、次のように結んでいます。
 
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られ なかった最高の戦闘損害比率(約40パーセント)を甘受しなければならなかった。既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲 者を出して、この島を占領したことは今もって疑問である」
 
昭和57年に「ペリリュー神社」が再建されて、御祭神は「天照大神」と「戦死者一万余名の護国の英霊」です。
 
 
 
そして、敵将ニミッツの詩」が建立されて、以下の日英2文が記されています。
 
 
 
「諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕したかを伝えられよ」
米大平洋艦隊司令長官 C.W.ニミッツ
 
「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」 
 
この詩は、戦終ればかつて敵であった日本軍の愛国心を、この島を訪れる旅人にその勇戦ぶりを伝えてくれと、日本兵戦死者に代って願っているのです。
 
大東亜戦争終結後、パラオなど南洋の島々は米国の統治領となりました。
 
大東亜戦争終結により日本が立ち去った後、パラオの公用語は英語に変わり、アメリカによる目に余る反日教育が行われていました。
 
歴史の授業では米国で作られた教科書が使われて、日本人による「パラオ人虐殺事件」などの掲載された、反日的歴史教科書もありました。
 
ところがパラオの年長者が、「そんな話しはない」と否定したために、この疑わしい史実はパラオには浸透しませんでした。
 
 
 
パラオとマーシャル諸島の切手
 
米国より独立後の1997年、パラオで初の「パラオ史」の国定教科書が作られました。
 
国定教科書では、全462ページのうち36ページもが日本統治時代にあてられて、章には「日の丸の旗のもとに」というタイトルがつけられています。
 
日本がパラオを統治するようになった経緯だけでなくて、日本の行った学校教育・産業・経済活動などについても詳しく述べられています。
 
学校教育については、当時の日本式の教育方針がそのまま持ち込まれて、日本人は体罰で非常に厳格なしつけを行った。
 
としながらも、一年生ですらかけ算の九九を暗記することができたなど、教育水準の高さも語られています。
 
「当時の生徒は学年末、とりわけ権威のある年間賞をもらう儀式で認められたくて、とてもよく働き勉強したものだった。その儀式は特別で、村の人たち全員が出席し、子供がなしとげた誇りを分かち合った」と。
 
身分を問わず、努力次第で公平に認められる社会を構築した成果についても書かれて、日本教育を経験した人の、「学校の厳しいしつけが人生に役立った」というコメントも載っています。
 
産業に関する記述にも、「日本統治のもとで、パラオの島々の経済発展は産業の強化をもたらした」と、農業、漁業、鉱山業の発展について公平に評価がなされています。
 
また、「1年半働くと、7日間の一時帰休と永久就職の保証が与えられた。15歳以下の者は雇用されなかった」と、現代で言う福利厚生、労働基準が定められていた事も記されています。
 
日本統治時代について当然の評価をし、理由なき糾弾もなく、実に冷静な視点で事実のみが教えられているというのが、パラオの国定教科書です。
 
パラオ共和国は1981年に憲法を制定して、日系人のハルオ・レメイク氏が初代大統領に就任し、1993年にクニオ・ナカムラ氏が大統領に就任した翌年、1994年に米国より独立して国連に加盟しました。
 
パラオ共和国が独立した際には、「ペリリュー兵士の歌」が作られて、ペリリュー兵士とは日本兵のことです。
 
題して「ペ島の桜を讃える歌」、作詞者はオキヤマ・トヨミ氏・ショージ・シゲオ氏、パラオの人々です。
 
今でも日本を慕って止まない心から、国民の半数以上は姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣もあります。
 
国のために尊い命を捧げて、命に代えてパラオのペリリュー島民を守り抜いた日本兵を桜にたとえ、その日本兵への感謝の心をつづった歌です。
 
1、激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた、強兵たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる

2、小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ、山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない

3、将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ これが最期の伝えごと、父母よ祖国よ妻や子よ 別れの”桜"に意味深し

4、日本の”桜"は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る、ペ島(じま)の”桜"は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に

5、今 守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡、古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る

6、平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に、教えて散りし"桜花" 今では平和が甦る

7、どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは、椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる

8、戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく、必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを
 
 
南洋に住むパラオの人々は、桜を見た事はないかもしれませんが、桜を日本人の心だと感じていたのです。
 
 
靖国神社の桜花
 
パラオがアメリカから独立した際に定められた「国旗」は、一般国民から公募した70数点の中で、「青い太平洋に浮かぶ、黄色い月」が一番の人気で現在の国旗となりました。
 
 
 
パラオでは、この国旗について伝えられるエピソードがあります。
 
 
 
 
「太陽(日本)」があってこそ「月(パラオ)の輝きがある」という意味が込められて、月が中心から微妙にずれているのは、「日本に敬意を表し、同じでは日本に失礼だから」と、わざと中心からはずしたといわれています。
 
パラオの人々は、日本軍は私たちを命に代えて守ってくれたという感謝の気持ち、そして、強力な米軍と戦った日本人の勇敢さと純粋さに敬意を抱いています。
 
日本兵は勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのだと、今でも日本を敬っています。
 
1995年10月1日、パラオでは独立一周年を祝う式典が催され、世界の国家元首が祝電を贈っても、村山首相だけは、親日国家のパラオに祝電さえ贈りませんでした。
 
 
 
パラオ共和国は、中華民国(台湾)を国家として認めて、中華人民共和国を国家として認めていないからです。
 
この日、世界各国の国旗の中に「日の丸」の旗はなくて、クニオ・ナカムラ大統領は深い悲しみに包まれました。
 
2006年8月15日、靖国神社を参拝した小泉元総理に、トミー・レメンゲサウ大統領は、「すべての人のために祈るのは正しいこと」と、支持を表明しました。
 
また、「死後の魂は安らかな場に置かれるべきだ」と、所謂A級戦犯を合祀する靖国神社のあり方に理解を示しています。
 
靖国神社参拝への批判についても、「生きている人間の間で善意の交流を促進すべきで、過去に集中すべきではない」と指摘しました。
 
親愛なる日本の皆様に
 
日本は第二次世界大戦終戦から今日に至るまでの年月で敗戦から見事に立ち上がり、それどころか、産業・経済・文化など様々な分野において、世界のリーダーとして活躍されています。
 
そんな日本の皆様たちのバイタリティが、実は私たちの国パラオを造ったという事実をご存じでしょうか。
 
終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。
 
そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。
 
パラオ共和国大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニア
   
 
 
 
 
「日本パラオ国際交友協会」抜粋
 
 
 
「サクラサクラ」の電文で桜花のごとく散った日本兵と、日本国に感謝をしているのがパラオ共和国で、日本人が知らなければならない大東亜戦争の真実です。
 
良識ある日本国民の皆様、桜花のごとく散った日本軍の美徳ある武士道精神についてご考慮下さい。
 
 
 
↓↓ランキングの応援クリックお願い致します↓↓
 
人気ブログランキング http://blog.with2.net/in.php?646336