サイタニのブログからの転載のつづきです。
明治以来、現代まで、ものが中心の文化となり、時代が進むほど進歩するという進歩史観が、今の社会を歪めているという話のようです。
明治以来、現代まで、ものが中心の文化となり、時代が進むほど進歩するという進歩史観が、今の社会を歪めているという話のようです。
敬天愛人(東北の片田舎から憂国の発信からの転載です。
故敬天愛人様のブログには、良い記事が多いですから、時々発掘して転載したいと思います。この記事は占領政策についてのものですが、占領軍の総司令官で会ったマッカーサーという人間がどういう人間であったかについては、彼が後に、日本の戦争は自衛戦争であったとか日本を弁護するような発言もしていることから、親日的な人間として、好意を持つ人もいますが、それは、彼が事実を知り、また昭和天皇の人柄に感化されたこともあって、多少そう言わざるをえない気持ちになったからでしょう。
しかし、厚木に降り立ったマッカーサーという人間が、本来復讐心をみなぎらせたいびつな人格の持ち主であったのは確かです。彼が日本に対して行った、復讐裁判及び占領憲法の押し付けの日程を見ると、彼が周到に日本国民への復讐のために選んだ日時で行われていることがわかります。
東京裁判に関して
起訴、昭和二十一年四月二十九日(天皇誕生日)
審理開始、同五月三日
判決、同二十三年十一月十二日
死刑執行、同十二月二十三日(皇太子誕生日)
日本国憲法に関して
公布、昭和二十一年十一月三日(明治節、明治天皇誕生日)
施行、同二十二年五月三日(東京裁判審理開始日)
東京裁判の死刑執行が当時皇太子であった今上陛下の誕生日であることは、マッカーサーがまさに、日本の未来を呪っているというほどの、復讐心を感じさせます。この死刑執行の翌日だったか、昭和天皇は、朝、真っ赤に泣きはらしたような眼をされていたといいます。西村眞悟氏は、さらに、この東京裁判と日本国憲法に関する日程も同時並行で不可分のものとして設定されたいると言われています。
また敬天愛人様が書きで書いておられるGHQの検閲基準の3にも
3.占領軍総司令部が日本国憲法を起草した事実への批判
と書いてあるとおり、この憲法が現在の教育では民定憲法などと教えられていることが真っ赤なウソで、はっきり、占領軍が起草して押し付けた事実を、検閲で国民に隠していたことがわかります。この憲法もまた、復讐の一環であり、いわゆる平和憲法として人類の世界遺産だとか言っている人は、寝言もいい加減にして欲しいところです。
国務省文書には「対日占領の究極的目標は、非軍事化にある」と記録されている。しかし、一時的に武装解除しても、日本人の精神、日本人の哲学を排除しない限り、やがてアメリカの脅威になると考え、この武装解除を長期的に保証するため、民主化という美名の下、教育により日本人の精神の解体、日本人の哲学を粉砕する。これがGHQの目指した民主化であった。
その政策の根底となる計画が『ウオー・ギルド・インフォメーション・プログラム』(日本人洗脳計画)です。
<占領軍の検閲基準> 1.占領軍総司令部(連合国軍最高司令官)の批判 2.東京裁判(極東国際軍事裁判)の批判 3.占領軍総司令部が日本国憲法を起草した事実への批判 4.検閲への言及 5.米国の批判 6.ソ連の批判 7.英国の批判 8.朝鮮人の批判 9.中国の批判 10.その他の連合国の批判 11.連合国の全般的批判 12.満州での日本人処遇への批判 13.連合国の戦前の政策への批判 14.第三次世界大戦への論評 15.ソ連と西側諸国との対立への論評 16.戦争弁護への宣伝 17.神国日本の宣伝 18.軍国主義の宣伝 19.民族主義(国家主義)の宣伝 20.大東亜に関する宣伝 21.その他の宣伝 22.戦争犯罪人の正当化または弁護 23.占領軍将兵の占領地女性との懇交 24.ヤミ市場の取引 25.占領軍の批判 26.飢餓状態の誇張 27.暴力行為と不穏状態の誘導 28.虚偽の陳述 29.占領軍総司令部(またはその地方支部)への言及 30.時期尚早の発表
具体的には、GHQ統治期間中には「大東亜戦争」は「太平洋戦争」へ言い換えさせられ、「神国」・「国家」・「我が国」・「国民的」・「愛国心」・国旗 日の丸・国歌君が代・「八紘一宇」・「大君」・「吉田松陰」・「乃木希典将軍」等々、日本人の精神の高揚につながると目されるものは悉く排除されたのであ ります。
転載元: 敬天愛人(東北の片田舎から憂国の発信
故敬天愛人様のブログからの転載です。ユダヤ人が語る日本人への謝罪と警告の記事の最後です。
私たちは学校で教わった歴史を何の疑問もなく覚えましたが、その歴史の言葉ひとつとっても、戦後に変えられた言葉で教えられ、太平洋戦争などと言う言葉も、アメリカ視点の言葉であり、日本人はアジア解放戦争を戦ったので、大東亜戦争と呼んでいたのです。戦後はこれが侵略戦争であると定義付けられたために、アメリカの視点での呼び名を使わされることになり、占領が終わっても、この呼名が元の大東亜戦争に戻ることはありませんでした。パール判事も、日本の独立後に来日し、あまりの自虐史観に染められた社会風潮に悲憤を禁じ得なかった様子だったといいます。パール博士は何度か来日していますが、原爆慰霊碑の碑文の自虐性を正そうとする人々が、「大亜細亜悲願之碑」が建立し、その碑文に博士の詩が刻まれています。
(福島県天栄村ブリティッシュヒルズ)
御来訪感謝申し上げます。
日本に深く関わりのあるユダヤ人長老が今からちょうど30年前に記した著書から引用しながら、ユダヤ人と日本との関わりについて御紹介して来ましたが最終章とさせていただきます。
-----------------------------------------------------------------------
■■「大東亜戦争」と「太平洋戦争」
日本の首相は、国会などで共産党、社会党から大東亜戦争責任論を質されると、おおむね、「後 世の史家の判断にゆだねられるべきもの」という意味の答弁をするのを常としているようである。これは日本の一般ジャーナリズムの東京裁判の宣伝をほとんど 鵜呑みにして、日本が戦争責任の火の粉をかぶるのが当然であるといわんばかりの軽挙からみれば、主体性のある態度といわねばならない。
ここで一つ是非注意しておきたいことは、「太平洋戦争」という言葉である。日本には本来この「太平洋戦争」という言葉は存在しない。これは勿論、戦後占領軍がそれこそ押し付けたものである。
戦後、いろいろな方面から大東亜戦争に関する歴史書が出ているが、その中に「太平洋戦争」という言葉で語っているものが如何に多いことか。これではその 歴史書はアメリカ側の立場に立って全て書かれたものと考えられて致し方ないのであるが、著者達はそれで満足なのであろうか。
問題はそれだけではすまない。日本の歴史には「太平洋戦争」という戦争はないのである。あったのは「大東亜戦争」である。よく考えてみる必要がありはしないか。これは明らかに歴史の偽造に他ならない。「日中戦争」然りである。あるのは「支那事変」である。
戦後史の跛行性という点で戦後日本は真の日本歴史の構築を放棄したのではないかとしばしば指摘されるのであるが、これでは戦後からではなく昭和16年の時点からすでに、日本歴史の真の構築を放棄していたことになりはしないか。
占領中そういう呼び名を強制されていたのは止むを得ぬかも知れないが、今日に至るも依然としてそれから脱脚できないのはどういうわけか。これは、ジャーナリズムが依然として「太平洋戦争」という言葉を使用していることに関係ないことである。日本人自身の問題である。憲法とは違って、改正の手続の問題もない。ただ正しい歴史観の認識の問題のみである。
■■なぜ満州事変以後が侵略戦争なのか
さて、この東京裁判の結論で非常に奇妙なことが一つある。裁判の本質にメスを入れる前にこの点を明確にしておくことは重要である。
この裁判の結論は、満州事変以後を「日本帝国主義」の「侵略戦争」であるとしている。
林房雄氏の「大東亜戦争肯定論」に面白いことが出ている。それは、ある共産党員が 日露戦争を侵略戦争と規定すべきかどうか迷っているという意味のこと である。これは彼の主体性のなさを物語る格好の証左であるが、また非常に重大なる問題提起でもある。何故、満州事変以後が侵略戦争で、日露戦争、シベリア 出兵、第一次大戦は「日本帝国主義」の「侵略戦争」ではないのか。これは奇妙なことではないか。
その理由はハッキリしている。これら満州事変以前の戦争が米英仏等の利害と衝突しないからである。否、むしろ利害が一致していたのである。日露戦争は 「英露戦争」とも欧米では呼ばれているぐらいである。帝政ロシアの南下政策に脅威を感じた英国は、帝政ロシアの南下を防ぐものとして日露戦争を歓迎してい たものである。日英同盟を結んだのも、その意味で考えればよい。
またシベリア出兵こそ、その意味では日本を攻撃するのに最も好都合な材料かも知れないが、これも侵略戦争という刻印を押しづらい。何故か。アメリカも出 兵しているからである。第一次大戦はどうか。これはもう地中海まで日本海軍はイギリスのためにお付き合いしているのであるから、文句のいいようがない。
結局、これらの戦争に関して日本を悪玉に仕立てようと試みると、欧米列強自身も火の粉をかぶることになりそうである。上を向いてツバをはくことになる。
一方、満州事変、支那事変、大東亜戦争は議論の余地なく、米英仏等と利害関係が対立するものである。これを徹底的にとっちめない法はない、ということである。
日本人に謝りたい
~ あるユダヤ長老の懺悔 ~
──ユダヤ長老が明かす戦後病理の原像──
(アマゾンHPのhttp://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe800.htmlより抜粋引用)
【本の解説】あるユダヤ人が天皇と日本について語った文がある。彼の名はモルデカイ・モーゼ。戦時中にルーズベルト大統領のブレーンとして日本を研究し、戦後の対日処理立案(GHQ政策)にも加わったという。彼は『日本人に謝りたい』という、極めて異例な内容を含んだ本を残している。
彼はこの本の中で、「共産主義」はユダヤ人が作り出したものだと言明し、日本を揺るがした美濃部達吉の「天皇機関説」もユダヤ人ゲオルグ・イエリネック による国家機能弱体化運動の一環であったとか、宮本共産党委員長を育てたのもユダヤのラビ(ユダヤ教指導者)だったとの衝撃的な事柄を記述しているが、そ の上で、このユダヤの長老モルデカイ・モーゼは、実はユダヤ人は日本を誤解していた、日本こそユダヤの永遠の理想があると言い切り、「日本人に謝りたい」 と語っているのである。
『日本人に謝りたい』モルデカイ・モーゼ著
(日新報道/1979年出版)
【著者の紹介】 モルデカイ・モーゼ(Mordecai Moses)
1907年、ウクライナのオデッサ生まれ。
父親は哲学者で革命家、ロシア革命では指導的役割を果たした。
レーニン没後、ソ連におけるユダヤ権力の将来に見切りをつけた父親
と共にワイマール体制下のドイツへ亡命。父親は美濃部達吉博士に
「天皇機関説」を吹き込んだゲオルグ・イエリネックと親しかった。
ベルリン大学で政治学、哲学を専攻後、国際連盟労働局で極東問題を担当。
独ソ不可侵条約が結ばれるや、いち早くその本質がユダヤ勢力の抑圧に
あることを看破し、ハルビンを経て上海に亡命。「サッスーン財閥」の
顧問となり、日本の国体、神道、軍事力の研究に従事。
1941年米国へ亡命、ルーズベルトのブレーントラストとして活躍、
1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画した。戦後十数回来日、
現在は日本研究を楽しみに余生を送っているという。
----------------------------------------------------------------------
この本の存在を知ったのは、先週、人気ブログ『日本が好きなだけなんだよ』で紹介されていて、全部で6章あるのですがこ のブログでは第4章から第6章までを引用されていました。その内容に大変興味を持ちリンク先に飛んで調べたところ、ぜひ当ブログでも紹介したいと思い、第 1章から第3章の内から抜粋して転載させていただきました。
もとより、不肖敬天愛人はユダヤの陰謀論やフリーメイソンの暗躍論などにあまり興味を持っていませんが、現実的にありえたであろうと充分に推測できる事項が多く著していたので、一個の日本人としても看過することのできない史実と思われる部分を主として引用致しました。
いくら日本事情に精通しているとはいえ、外国人に日本の歴史の裏側を教えられなければならない現実には日本人としても呆然とするしかありません。
これも戦後を歩んで来た日本の現実の姿なのでしょう。
シナだ、朝鮮だ、特亜だ、反日勢力だと叫けぶことも大事なことですが、彼らが日本国民に知られたくない史実や歴史の経緯を知る事も今の、否、今だからこそ絶対に必要不可欠なのだと意を強くしています。
今日の引用を見ても、「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と呼ぶことを半ば強制され、村山談話に代表される日本の歴史見解のベースとなっている「侵略戦争」 という認識すら、その史実としての検証の議論も封殺されて、既成の事実であるかのように堂々と歴史教科書に載せられて国民に教育して来たのが戦後日本の姿 でもあったのです。
引用の中で、いみじくも指摘されているように戦後の日本が“日本歴史の真の構築を放棄していた”のは、他ならぬ『日本人自身の問題である』のです。
詳細についての正誤の検証は必要であるにしても、30年前に出版されているこの書籍が、果たして当時どれだけの人の眼に触れることができたのかも知る由はありません。
ただ、確実に言えるのは保守派にとっても強力な武器となりうるこういう貴重な資料を自在に駆使して、マスコミや左派勢力に敢然と挑むパワーや戦略が保守派には欠如していたということは、今の日本の現状を考えるに否定できない事実でもあろうと思います。
昨日の記事で御紹介した「人間獣化計画」の19項目に見事に骨の髄まで汚染された戦後世代の日本人には無力だったのではないかとも思います。
斯く言う私もその日本人の一人でありました。しかし、ネットを通じて多くの若い世代にたくさんのことを教えていただきながら、自虐史観という洗脳を解くことができたことを思うと、何かのきっかけ(起爆剤)さえ掴めればまだまだ日本人も捨てたものではないとも考えます。
皇后陛下が「日本人の資質を信じています」ということを仰せになっていましたが、その言葉の重みを一日本人としてひたすら申し訳ないという思いで受け取らせていただきました。
保守派が反日勢力や特亜などの外国勢力に押されがちなのは、偏に「日本歴史の真の構築を放棄して来た日本人自身の問題」に帰結しているのだと、最近まで自虐史観に染まってのうのうと生きて来た我が身も含めて反省させられた書物でありました。
美しい国からの転載です。前回からのつづきです。
江戸のエコ社会はほんとに徹底したシステムでした。ここに書いてあるもの以外にも、女性が髪を梳かす時に抜ける髪を集める業者もいたそうです。おちゃない、と呼ばれ、「落ちはないかー」と言って集めたからこの名がついたそうです。カツラや入れ髪につかわれたそうです。そろばん屋という、そろばん修理の専門家もいたそうです。商家には欠かせないものだし、そろばんの調子が悪いと計算の速度も落ちますからね。新品のそろばんもよく見えるようにくくりつけて、行商に回っていたようです。その他朱肉の詰め替え屋などもあって、古くなった朱肉は固くなって付きが悪くなるので、新品の物に詰め替えてくれました。残った古い朱肉は、新しいものと混ぜて再利用されます。朱肉は新しいものだけより、使用済みのものを一定量混ぜて練り直したほうが使い勝手がよくなるのだそうです。とにかく様々なものが回収され、再利用されます。路に落ちた紙屑屋木くずも、銭湯の従業員が町内や川筋を回って拾い集めました。だから道にも塵ひとつ落ちてないような写真が残っているのですね。
夏になると江戸では、朝夕、庭先や玄関先、道などに打ち水をしました。この打ち水は礼儀的な意味もありますが、誇りや暑さを和らげる効果もありました。舗装していない道はこのうち水で、かなり土ぼこりが抑えられました。まく水は、食べ物を洗ったり、行水に使った水や、各家庭に設けられていた用水桶や防火用桶に溜まった雨水が使われました。庶民は内風呂のない人が多かったので、銭湯代も馬鹿にならず、夏は行水をして汗を流しました。涼のとり方も、エコとつながっていたのです。
今日エコが叫ばれて久しいですが、かって我国は世界に先がけてエコを実践して国だったのです。
17世紀末の約3年間(1690-1692)に滞日したドイツ人ケンペルは、我国を次のように記しています。
「こ の民は、習俗、道徳、技芸、立居振舞いの点で世界のどの国民にも立ちまさり、国内交易は繁盛し、肥沃な田畠に恵まれ、頑健強壮な肉体と豪胆な気象を持ち、 生活必需品はありあまるほどに豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくて世界でも稀に見るほどの幸福な国民である」(「日本誌」)
も ともとほとんど人がほとんど住んでいなかった武蔵野の外れに、徳川家康がお国替えで江戸に移り、今日の都市計画によって作られたのが、江戸です。急激に大 勢の人が入り込んで来たので、当初はゴミや不用品の処理に困りました。1600年代の前半には、深刻な問題となりました。しかし、この解決に取り組んで、 高度のリサイクル社会を実現したのです。
人が多く住むと、排泄物の処理が問題となります。18世紀以後、江戸の人口は百万人から120万人が住む大都市でした。糞尿の量は、年間に60万から70 万キロリットル。蒸発する分を差し引いても、50万キロリットルはあります。これは1日当たり1400キロリットル、10トン積みのトラック140台分に なります。江戸の日本人は、これを捨てずに肥料にしたのです。
江戸庶民の多くはテレビ時代劇でお馴染みですが、長屋住まいで、トイレは共同でした。糞尿の所有権は、大家にありました。大家は糞尿を農家に売りました。 その収入は、家賃より多かったといいます。一般の町家や武家では糞尿を汲み取らせる代わりに、農家から野菜や漬物などをもらいました。大人一人の糞尿代 は、1年に大根50本、ナス50個くらいが相場でした。
こうして糞尿を大切な資源として利用したので、江戸の町では、下水に流す生活廃水が少なかったのです。隅田川は、河口の佃島(つくだじま)付近でも、白魚 が豊富に取れるほど水がきれいでした。パリの空の下を流れるセーヌ川は、こうはいきませんでした。19世紀の文豪ビクトル・ユーゴーは、「レ・ミゼラブル (ああ無情)」の中で、パリの下水道を批判しているのです。当時のフランスの国家予算は20億フランでしたが、肥料の値段にして5億フラン分にもなる糞尿 を、川に流していました。その結果、土はやせ、川が病気を運ぶため、「下水道は誤った考えである」とユーゴーは主張しています。西欧の市民に比べ、江戸の 町民は、ずっと文化的な生活を送っていたのです。
昔の人は現代人と違い、ほんのわずかしかゴミを出しませんでした。
物 を大切にし、何でも最後まで使い切ることが、江戸時代の生活原則でした。いわば「もったいない」の徹底です。その例として、蝋燭(ろうそく)が挙げられま す。「蝋燭の流れ買い」という業者がいて町を巡回し、各家で燭台の上に垂れたしずくが固まったものを、秤で計って買っていきました。買い集めた蝋は、安い 蝋燭の原料として再利用されました。物を燃やして出る灰さえも、業者が回収して堆肥などに使用されました。かまどで燃やしてできた灰でさえ、灰買いが買い集め、アルカリ性物質として肥料や製紙などにも使われていました。
こ れらの業者は、ボランティアではなく、リサイクル・システムの一端を担う職業人として、活躍していました。使えるものは、すべてリサイクルした上で、最終 的に処理のしようのないゴミだけが、船で江戸湾の埋立地に運ばれました。江戸の下町の多くは、そうして造成された土地に暮らしていたのです。
21世紀の人類を脅かす最大の危機――それは、核戦争と地球環境の破壊でしょう。核兵器も地球環境危機も、科学技術をもって異民族や自然を支配しようとし た西洋近代文明が生み出したものです。世界規模で核戦争が起これば、人類はほとんど滅亡するでしょう。また、これ以上、資源・エネルギーの濫用を続ける と、近い将来、地球環境は回復不能なほど破壊されてしまうでしょう。
人類は、このかけがえのない 地球において、限られた資源を有効に使って共生する道を学ばなければなりません。この時、軍事先進国から離脱して、平和で自然と調和した社会を実現した江 戸日本文明は、これからの地球文明のモデルを提示しているといえます。私たち日本人は、先祖の優れた知恵を、世界の人々に伝える使命を持っており、誇りで もあるのです。
美しい国からの転載です。先日の記事の続きです。
江戸時代の平和と文化的水準の高さは世界史上の驚異ではないかと思います。これほどのマンモス都市が清潔で平和で道徳の行き渡った社会だったのです。ほんとに理想的な国が実現していました。
このエコシステムは、いかにも日本人的な勿体無いという精神が発揮されています。この江戸の町を見ていると、私は三内丸山遺跡を思い出します。あの縄文時代の大遺跡も非常に環境に配慮した、というか自然への畏敬の精神を感じさせるもので、そして武器がなく平和的文化的な多くの道具が沢山出土しています。人々は森を非常に大事にし、なるべく動物を狩らず、冬の食糧の乏しい時のみに限定し、しかも幼獣は絶対に狩らないという規則を守っていたそうです。栗の木を栽培して、クリを主食のようにしていたといいます。しかも貝塚は、どうやら食料となった物への鎮魂のような感謝を込めた供養のあとだったという話です。きちんと並べてあり、雑多なゴミ捨て場ではなかったようです。貝などの食糧の廃棄部分や、使用不能になった道具なども、おそらく、感謝と祈りを込めて、再生を願って祭祀した跡ではないかということです。
こうした精神が日本人の原点にあるのでしょう。これは日本人のDNAに組み込まれて、江戸のエコ社会として花開いたのかも知れません。だったら、現代の私たちにも、できるはずです。
勿体無いという、物への畏敬、自然への畏敬のこもった言葉こそ、まさにマータイさんがエコの合言葉と言われたように、地球という生命を救う”鍵”になるかも知れません。
江戸(新宿)
日本がなぜ鉄砲を捨てたのか・・(上)では日本が安土桃山時代当時に世界一の軍事大国であったことを述べました。
しかし、我国は、17世紀から西欧文明とは対極な道を歩みます。