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日本民族国家の形成と天皇御存在の意義  3

2012年06月30日 15時50分06秒 | 歴史

サイタニのブログからの転載のつづきです。

明治以来、現代まで、ものが中心の文化となり、時代が進むほど進歩するという進歩史観が、今の社会を歪めているという話のようです。

 

 

 

 
 
 
―時代は新しい程よく、世の中は先に行く程よくなるという素朴な盲
信が生んだ歪み!物だけが文化だという歪んだものの考え方は必
ずしも新しいことでなく、信長の頃からもあった―
 
戸田  今、村松さんから、今日の日本で憂えなければいけない四つの癌にあたるものをお指摘いただいたんですが、それらが全都相互に作用しあっていて、その結果、 それこそ病肓膏(やまいこうこう)に入るの感じになっているのが今の日本だと考えられます。そのまず第一が、「正しい文化概念の喪失」、「誤った文化概念 の流布」ということでありました。これは明治時代に伝統的な文化観が失われて、文化概念がヨオロッパ化したからであり、戦後はアメリカ化したからであると みられます。そういった一種の西欧化、近代化ですね、執拗に日本が西欧化、近代化を追いかけてきたところに誤った文化観が出てきている、そうみて来ると明 治以降の日本人の文化のとらえ方には、一貫しているものがあるんじゃな
いかと思うんですが。
 
村松  そう、近代信仰ですね。時代というのは新しいほどいいんだという信仰。これは福田さんの方が御専門だと思いますが、そんなに古いものじゃなくて十八世紀以 降の所産ですね。十七世紀にはまだ、古いのと新しいのとどっちがいいかといって、フランスじゃ大論争をやっています。十八世紀の末以後、進歩信仰、先へ行 くほど世の中はよくなるんだという信仰が一般化した。ちょうどその進歩信仰が盛んな時代に日本はヨオロッパに窓を開いたので、日本人ほそれにもろに飛びつ いてしまった。

飛びつく理由はまさにあったわけでして、当時あまりにも技術較差が大きすぎたからです。日本が鎖国していた二百四十年は、不幸なことにヨオ ロッパでは産業革命の時代です。十六世紀にポルトガル人が日本に来た時には、それほどむこうに劣ってはいなかったんですが、もう十九世紀になりますと、大 変な差が出てきた。日本としては何とかして技術の差を縮めないことには、植民地にされる。だから富国強兵政策をとったのですし、これは私、大変正しい政策 だったと思います。あの政策・をとらなきゃ、今の日本はないですからね、とうに列強に分割されています。

その意味で富国強兵は正しかったのですが、それが 文化観に対するゆがみをもたらした。船を自分で造ること、鉄道を敷くことが、欧米に追いつくことだった。成功するたびに日本人は非常に喜んできたのです ね。やっと欧米に追いついたといって。それを約一世紀繰り返してきている間に、物だけが文化だという歪んだものの考え方が定着してしまった。これはもう明 治以来今日に到るまで変らないわけで、明治時代にとり入れたものだって、別にヨオロツパの精神なんていうものじゃない。技術でしょ。第二次大戦後も、アメ リカの物量、豊かさに接して目をまわした。「物」中心の文化観が日本に、ほとんど癒し難いほどに強くなってしまったという順序じゃないかと思います。この頃は、「"物〃じゃない、"心〃だ」なんて言いだしてますけれども、現実にはそうじゃないんで、物質主義が日本人を支配している。
 
福田 それは、そのとおりですね。今の村松さんのお話のとおりで、つい数年前は"物じゃない、心だ"とか、或いはみんな"生きがい"を求めているとか、今の繁栄社会で空虚感を感じてきているとか、もっともらしいことがいわれましたね、そのとき僕はそんなことは、嘘っぱちだ、空虚感なんか感じていない、といったんですけど。それが証拠に、石油ショックで生きがい論というのが吹っ飛んじゃったですね。だから実際は生きがいは石油にあったんだということを証明したわけです。これは日本の"物〃の根元ですから。本当におっしゃる通り、"物〃或いは現実的な豊かさという以外に生きがいはなかったんですよ。今でも大部分はそうですね。私は一般論しかいいませんから、少数の例外者を相手にいってもしようがないから、一般的にそういう状態になっているということは、僕も同感です。

そ の前に明治以前にはそうじゃなかったかというと、それは日本の民族性にもあるんじゃないかと思うんですよ。私は断定はしませんが、これは手近の例でいう と、西洋の輸入ということは、もう、信長から始まってますよ。やっぱり必要なのは鉄砲で、群雄割拠の中での信長の寓国強丘策ですよ。
 
種 子ガ島は手に入れる、大事であると。キリシタンは、別に大したことはないと思ってたんですけれど、後で禁制になっちゃうでしょう。これは信長じゃないです けれど。別に私はキリシタンはいいという意味でいうんじゃないですが。それから密輸というものが商人の手によって行なわれるけれど、使っている品物は、便 利な物、豊かなもの、ものめずらしい物とか、とにかく、さっきの文化住宅と同じ概念でみんな入れてきた。文化何々というとき、その"文化"というのは西洋ふうで便利だということしか意味してない。


 
―この世のものの有効性を重くみる点が世俗化をうながした、。しか
し、昔は精神を入れる努力が強く立派にあった。例えば鎌倉時代に
は非常に新鮮な地上の道徳観念として「義」が生かされていた―
 
 
福田  日本では何でも世俗化するということですね。これは宗教でも道徳でもすべて世俗化するということが、日本民族の民族性としてあるのではないかと思う。もっ と古くさかのぼれば古代国家において、かなり精神的に仏教でも儒教でも入れてきた。ところがそれは長つづきはしないんで、平安朝になると世俗化してくる。 シナでその時代の日本に比べて進んでいるものを日本に入れてくると、例えば宗教の場合、宗教そのものは世俗化してくる。

だから鎌倉で、一つの宗教改革が起 るんだと思うのですが。それじゃ、それで落ち着くかというと、後でまた世俗化されてしまう。だから本当に心の救いという意味、魂の救いという意味の宗教は いつのまにか、御利益の為のものと、ただ形ばかりの神杜仏閣参りの為のものになって風俗化してくる、葬式に必要な仏教、結婚式に必要な神道というように世 俗化する。それというのは、どうも日本人の中にそうさせるものがある。

アメリカの文化的特徴としてプラグマテイズム(実用主義)と いうが、どうも日本人の方が非常にプラグマティズムではないのか。それは必ずしも悪い面とは申しませんけれども。そういう要素は深い民族性の中にあって、 それが明治のような時代になってくると、極端になって現われる。つまり先進国に追いつかなきゃならない危機感から。有用なものが鎖国時代と違って入ってく るということはあるけれども、しかし有用性という点では似てやしないかと、私は思うんですがね。
 
村松 大筋はそうでしようけれども、その福田さんの御意見に全部賛成しちゃうと、私の方が救われなくなっちゃう()ので、若干の異を唱えます。

シ ナ大陸からいろんなものが、朝鮮経由などで入ってくるわけですが、確かに仏教は日本に入ると、極端に世俗化して、日本化されて……日本化というのは要する に世俗化と似てますね。日本の仏教界の大部分は浄土宗、浄土真宗、それから日蓮宗と、日本でつくった宗派でして、各派の創始者はともかくとして、共通項は 極めて世俗的である。

南無阿弥陀仏だけを唱えていれば、南無妙法蓮華経だけを唱えていれば救われるという、おそろしく簡単な教えです。戒もだんだんなく なって、世俗的な宗教になっています。仏教の中の学問的形而上学的な都分は、日本に入るとどこかへ消えてしまう、わずかな都分が学問寺に残っている、とい う程度ですね。だから仏教は日本では完全に相貌を変えていると一般論的にはいってもいい位だろうと思います。若干の偉い人は別ですが。それはその通りです が、にもかかわらず、ともかく昔は、物だけじゃなく、思想を入れようと努力をしています。
 
例 えば、朱子学が鎌倉に入ってくる。そして、「太平記」で初めて「義」ということばが、無数にでてくる。『平家物語』ではまだ非常に少ないですね。重盛のと ころで、若干「義」が出てきますが、全般には少ないです。それが『太平記」で「義」だらけになっちゃう。あれは日本人にとって、非常に新鮮な地上の道徳 だったと思うのです。仏教は少なくとも日本ではあまり、地上の強力な道徳を与えてはくれなかったのですが、儒教がそのかわり地上の道徳体系として、急速に 拡まります。これは一例でして、精神的なものを取り入れようとする努力は、やはり私はあったと思うんです。

それから、確かに信長から江戸にかけては宗教そ のものの力が衰えてきた時代です。キリシタンの受容も、世俗的な、流行を追うような形で入っておりますが、あれだって入った当初は道徳的要求があったので しょう。さきほど申しました、儒教の「義」だけでは、天国とのつながりがわるい。死後のこ
とが儒教では論じられませんし、かといつて浄土信仰では、死後のことは世話してくれるけれど現世の道徳の方に基準がはっきりしていません。
 
キ リシタンの教えは、来世とか後生を助かるとか、仏教語をそのままとり入れている。そして現世の生き方は、イェズス会は儒教に似てきびしく規定しています。 ひとことでいえばキリシタンは、浄土信仰と儒教をワンセツトにしたような、貫徹した道徳体系としての新鮮さをもっていたのですね。
 
それがキリシタンがあんなに流行した大きな原因だつた、と思うのです。もちろんキリスト教徒を利用して鉄砲を買おうとしたり、一向一挨に対抗させようとしたとか、そういう世俗的な理由もあったにしても。あれほど拡がった背景には、精神的欲求も無視はできないのではないか。
 
それから江戸は、まさに世俗化の時代ですが、その世俗化の中でそれなりの美的な様式をつくり出しています。時 代が安定していたからできたんでしようけれど、とにかく美的な様式を作り上げるだけの力をもっていた。それから特に末期になると、武士道―昔は武士道とい うことばはなかったらしくて、士道といったらしいのですがー士道の傑作とでもいうべき人物を生んでいますね。「武士は食わねど高楊枝」というストィシズム(禁欲主義)は油がなくなったからといって大あわてするのとは、正反対の精神です。
 
例 えば、乃木大将という人は、一つの顕著な例だと思います。乃木さんは、戦争はあまり上手じゃなかったように思いますが、言葉もどれだけできたんだか。しか し彼は接触した外国の新聞記者達を非常に感動させているでしょう。武士道の生んだある種の型を自分に強制し、そのことによって、全く違ったものの考え方を する外国人達にも感動をあたえた。そういう人間像の原型を、江戸はつくり出していたのですね、世俗化の過程の中で。現代に、それがあるか、ということで す。
 
福田 それはそうですね、私のはあまりに巨視的にいったんで……。
 
 


自虐史観と占領政策

2012年06月28日 14時08分07秒 | 歴史

敬天愛人(東北の片田舎から憂国の発信からの転載です。

故敬天愛人様のブログには、良い記事が多いですから、時々発掘して転載したいと思います。この記事は占領政策についてのものですが、占領軍の総司令官で会ったマッカーサーという人間がどういう人間であったかについては、彼が後に、日本の戦争は自衛戦争であったとか日本を弁護するような発言もしていることから、親日的な人間として、好意を持つ人もいますが、それは、彼が事実を知り、また昭和天皇の人柄に感化されたこともあって、多少そう言わざるをえない気持ちになったからでしょう。

しかし、厚木に降り立ったマッカーサーという人間が、本来復讐心をみなぎらせたいびつな人格の持ち主であったのは確かです。彼が日本に対して行った、復讐裁判及び占領憲法の押し付けの日程を見ると、彼が周到に日本国民への復讐のために選んだ日時で行われていることがわかります。

 東京裁判に関して
 起訴、昭和二十一年四月二十九日(天皇誕生日)
 審理開始、同五月三日
 判決、同二十三年十一月十二日
 死刑執行、同十二月二十三日(皇太子誕生日)


 日本国憲法に関して
 公布、昭和二十一年十一月三日(明治節、明治天皇誕生日)
 施行、同二十二年五月三日(東京裁判審理開始日)

 

東京裁判の死刑執行が当時皇太子であった今上陛下の誕生日であることは、マッカーサーがまさに、日本の未来を呪っているというほどの、復讐心を感じさせます。この死刑執行の翌日だったか、昭和天皇は、朝、真っ赤に泣きはらしたような眼をされていたといいます。西村眞悟氏は、さらに、この東京裁判と日本国憲法に関する日程も同時並行で不可分のものとして設定されたいると言われています。

また敬天愛人様が書きで書いておられるGHQの検閲基準の3にも

3.占領軍総司令部が日本国憲法を起草した事実への批判

と書いてあるとおり、この憲法が現在の教育では民定憲法などと教えられていることが真っ赤なウソで、はっきり、占領軍が起草して押し付けた事実を、検閲で国民に隠していたことがわかります。この憲法もまた、復讐の一環であり、いわゆる平和憲法として人類の世界遺産だとか言っている人は、寝言もいい加減にして欲しいところです。



 今回は、今、日本人を蝕んでいる「自虐史観」の成り立ちのおさらいを日本青年会議所「近現代史検証報告書」を資料に記事にしたいと思います。

 

 まず、GHQの占領政策究極目標について米国国務省文書から
 
国務省文書には「対日占領の究極的目標は、非軍事化にある」と記録されている。しかし、一時的に武装解除しても、日本人の精神、日本人の哲学を排除しない限り、やがてアメリカの脅威になると考え、この武装解除を長期的に保証するため、民主化という美名の下、教育により日本人の精神の解体、日本人の哲学を粉砕する。これがGHQの目指した民主化であった。 
 その政策の根底となる計画が『ウオー・ギルド・インフォメーション・プログラム』(日本人洗脳計画)です。 
 この計画は「東京裁判が倫理的に正当であり、侵略戦争を遂行した日本国民の責任を明確にし、原爆を正当化すること。そして強靭な日本国民の精神を徹底的 に破壊し、戦争についての罪悪感、戦争贖罪(ウオー・ギルド)意識を日本人の心に植え付けるための洗脳目的の情報宣伝計画だったのです。
 具体的には、検閲、学校教育、映画上映、音楽、新聞報道・書籍・ラジオ放送などあらゆるメディアも独占し巧みに利用することを行なったのです。

 

 GHQは検閲方法として、法的には「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令し、マスメディアを厳しく取り締まったのですが、国民には検閲を受けていることは知らされませんでした。
 
<占領軍の検閲基準>  1.占領軍総司令部(連合国軍最高司令官)の批判  2.東京裁判(極東国際軍事裁判)の批判  3.占領軍総司令部が日本国憲法を起草した事実への批判  4.検閲への言及  5.米国の批判  6.ソ連の批判  7.英国の批判  8.朝鮮人の批判  9.中国の批判  10.その他の連合国の批判  11.連合国の全般的批判  12.満州での日本人処遇への批判  13.連合国の戦前の政策への批判  14.第三次世界大戦への論評  15.ソ連と西側諸国との対立への論評  16.戦争弁護への宣伝  17.神国日本の宣伝  18.軍国主義の宣伝  19.民族主義(国家主義)の宣伝  20.大東亜に関する宣伝  21.その他の宣伝  22.戦争犯罪人の正当化または弁護  23.占領軍将兵の占領地女性との懇交  24.ヤミ市場の取引  25.占領軍の批判  26.飢餓状態の誇張  27.暴力行為と不穏状態の誘導  28.虚偽の陳述  29.占領軍総司令部(またはその地方支部)への言及  30.時期尚早の発表
 具体的には、GHQ統治期間中には「大東亜戦争」は「太平洋戦争」へ言い換えさせられ、「神国」・「国家」・「我が国」・「国民的」・「愛国心」・国旗 日の丸・国歌君が代・「八紘一宇」・「大君」・「吉田松陰」・「乃木希典将軍」等々、日本人の精神の高揚につながると目されるものは悉く排除されたのであ ります。

 

 「起立」・「礼」という号令も禁止されたことをみても、『日本人が団結した時の凄まじさを、アメリカは如何に恐れ ていたか』を表わす事例であり、また、日本人の誇りを持たせないようにして、再びアメリカに刃向かうことのない弱い国にしようという遠大な計画でもあった ようです。

 

 そして日本の「3大国体破壊政策」として「神道指令」天皇陛下の「人間宣言」「教育勅語の廃止」を行なったのであります。

 

 「天皇陛下の人間宣言」は今までは、日本側が自主的に採った政策であるとされていましたが、明星大学高橋史朗教授 がアメリカで発見した公文書により、「神道指令」の破壊と「人間宣言」がセットで出さなければ目的の効果は得られないとしてアメリカの強要であったことも 判明しています。

 

 上記の「検閲基準事項」を見ても、如何にがんじがらめの検閲を受け、真実は全く知らされず、捏造・歪曲の温床としてその後のマスコミの自主規制とやらにまで結びついていったのかもと想像できると思います。

 

 今現在でも、マスコミは上記項目の相当な部分に自主規制を入れております。
 今の規制事項で上記に含まれていないのは、「創価学会・公明党への批判」位です。

 

 ここで大きなポイントになるのは、表面的には「民主化」を装いながら裏では国民には「検閲」の事実を知らせずに言論統制を行い、国民の洗脳化を行なっていたことなのです。
 また、これにマスコミも加担してきた事実も含めて、 次回は、この「洗脳化」の仕上げとも言うべき、新聞に強制的に掲載させ「自虐史観」を植え付けさせるためのバイブルとなったGHQ捏造・歪曲の自作自演編纂史である『太平洋戦争史』について記事にさせていただきます。

 

      

転載元 転載元: 敬天愛人(東北の片田舎から憂国の発


歴史の放棄

2012年05月28日 15時44分08秒 | 歴史

故敬天愛人様のブログからの転載です。ユダヤ人が語る日本人への謝罪と警告の記事の最後です。

私たちは学校で教わった歴史を何の疑問もなく覚えましたが、その歴史の言葉ひとつとっても、戦後に変えられた言葉で教えられ、太平洋戦争などと言う言葉も、アメリカ視点の言葉であり、日本人はアジア解放戦争を戦ったので、大東亜戦争と呼んでいたのです。戦後はこれが侵略戦争であると定義付けられたために、アメリカの視点での呼び名を使わされることになり、占領が終わっても、この呼名が元の大東亜戦争に戻ることはありませんでした。パール判事も、日本の独立後に来日し、あまりの自虐史観に染められた社会風潮に悲憤を禁じ得なかった様子だったといいます。パール博士は何度か来日していますが、原爆慰霊碑の碑文の自虐性を正そうとする人々が、「大亜細亜悲願之碑」が建立し、その碑文に博士の詩が刻まれています。

激動し変転する歴史の流れの中に
道一筋につらなる幾多の人達が
万斛の思いを抱いて 死んでいった
しかし
大地深く打ち込まれた
悲願は消えない
抑圧されたアジアの
解放のため その厳粛なる
誓いにいのち捧げた
魂の上に幸あれ
ああ 真理よ
あなたは我が心の
中に在る その啓示
に従って 我は進む
一九五二年一一月五日
ラダビノード・パール

 

 

イメージ 1

(福島県天栄村ブリティッシュヒルズ)

 
 
 御来訪感謝申し上げます。
 日本に深く関わりのあるユダヤ人長老が今からちょうど30年前に記した著書から引用しながら、ユダヤ人と日本との関わりについて御紹介して来ましたが最終章とさせていただきます。

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 ■■「大東亜戦争」と「太平洋戦争」
 日本の首相は、国会などで共産党、社会党から大東亜戦争責任論を質されると、おおむね、「後 世の史家の判断にゆだねられるべきもの」という意味の答弁をするのを常としているようである。これは日本の一般ジャーナリズムの東京裁判の宣伝をほとんど 鵜呑みにして、日本が戦争責任の火の粉をかぶるのが当然であるといわんばかりの軽挙からみれば、主体性のある態度といわねばならない。 
 ここで一つ是非注意しておきたいことは、「太平洋戦争」という言葉である。日本には本来この「太平洋戦争」という言葉は存在しない。これは勿論、戦後占領軍がそれこそ押し付けたものである。
 戦後、いろいろな方面から大東亜戦争に関する歴史書が出ているが、その中に「太平洋戦争」という言葉で語っているものが如何に多いことか。これではその 歴史書はアメリカ側の立場に立って全て書かれたものと考えられて致し方ないのであるが、著者達はそれで満足なのであろうか。
 問題はそれだけではすまない。日本の歴史には「太平洋戦争」という戦争はないのである。あったのは「大東亜戦争」である。よく考えてみる必要がありはしないか。これは明らかに歴史の偽造に他ならない。「日中戦争」然りである。あるのは「支那事変」である。
 戦後史の跛行性という点で戦後日本は真の日本歴史の構築を放棄したのではないかとしばしば指摘されるのであるが、これでは戦後からではなく昭和16年の時点からすでに、日本歴史の真の構築を放棄していたことになりはしないか。
 占領中そういう呼び名を強制されていたのは止むを得ぬかも知れないが、今日に至るも依然としてそれから脱脚できないのはどういうわけか。これは、ジャーナリズムが依然として「太平洋戦争」という言葉を使用していることに関係ないことである。日本人自身の問題である。憲法とは違って、改正の手続の問題もない。ただ正しい歴史観の認識の問題のみである。
■■なぜ満州事変以後が侵略戦争なのか
 さて、この東京裁判の結論で非常に奇妙なことが一つある。裁判の本質にメスを入れる前にこの点を明確にしておくことは重要である。
 この裁判の結論は、満州事変以後を「日本帝国主義」の「侵略戦争」であるとしている。
 林房雄氏の「大東亜戦争肯定論」に面白いことが出ている。それは、ある共産党員が 日露戦争を侵略戦争と規定すべきかどうか迷っているという意味のこと である。これは彼の主体性のなさを物語る格好の証左であるが、また非常に重大なる問題提起でもある。何故、満州事変以後が侵略戦争で、日露戦争、シベリア 出兵、第一次大戦は「日本帝国主義」の「侵略戦争」ではないのか。これは奇妙なことではないか。
 その理由はハッキリしている。これら満州事変以前の戦争が米英仏等の利害と衝突しないからである。否、むしろ利害が一致していたのである。日露戦争は 「英露戦争」とも欧米では呼ばれているぐらいである。帝政ロシアの南下政策に脅威を感じた英国は、帝政ロシアの南下を防ぐものとして日露戦争を歓迎してい たものである。日英同盟を結んだのも、その意味で考えればよい。
 またシベリア出兵こそ、その意味では日本を攻撃するのに最も好都合な材料かも知れないが、これも侵略戦争という刻印を押しづらい。何故か。アメリカも出 兵しているからである。第一次大戦はどうか。これはもう地中海まで日本海軍はイギリスのためにお付き合いしているのであるから、文句のいいようがない。
 結局、これらの戦争に関して日本を悪玉に仕立てようと試みると、欧米列強自身も火の粉をかぶることになりそうである。上を向いてツバをはくことになる。
 一方、満州事変、支那事変、大東亜戦争は議論の余地なく、米英仏等と利害関係が対立するものである。これを徹底的にとっちめない法はない、ということである。


             日本人に謝りたい
          ~ あるユダヤ長老の懺悔 ~
         ──ユダヤ長老が明かす戦後病理の原像──

(アマゾンHPのhttp://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe800.htmlより抜粋引用) 
 【本の解説】あるユダヤ人が天皇と日本について語った文がある。彼の名はモルデカイ・モーゼ。戦時中にルーズベルト大統領のブレーンとして日本を研究し、戦後の対日処理立案(GHQ政策)にも加わったという。彼は『日本人に謝りたい』という、極めて異例な内容を含んだ本を残している。
 彼はこの本の中で、「共産主義」はユダヤ人が作り出したものだと言明し、日本を揺るがした美濃部達吉の「天皇機関説」もユダヤ人ゲオルグ・イエリネック による国家機能弱体化運動の一環であったとか、宮本共産党委員長を育てたのもユダヤのラビ(ユダヤ教指導者)だったとの衝撃的な事柄を記述しているが、そ の上で、このユダヤの長老モルデカイ・モーゼは、実はユダヤ人は日本を誤解していた、日本こそユダヤの永遠の理想があると言い切り、「日本人に謝りたい」 と語っているのである。
              『日本人に謝りたい』モルデカイ・モーゼ著
                  (日新報道/1979年出版)

【著者の紹介】 モルデカイ・モーゼ(Mordecai Moses)
   1907年、ウクライナのオデッサ生まれ。
   父親は哲学者で革命家、ロシア革命では指導的役割を果たした。
   レーニン没後、ソ連におけるユダヤ権力の将来に見切りをつけた父親
   と共にワイマール体制下のドイツへ亡命。父親は美濃部達吉博士に
  「天皇機関説」を吹き込んだゲオルグ・イエリネックと親しかった。
   ベルリン大学で政治学、哲学を専攻後、国際連盟労働局で極東問題を担当。
   独ソ不可侵条約が結ばれるや、いち早くその本質がユダヤ勢力の抑圧に
   あることを看破し、ハルビンを経て上海に亡命。「サッスーン財閥」の
   顧問となり、日本の国体、神道、軍事力の研究に従事。
   1941年米国へ亡命、ルーズベルトのブレーントラストとして活躍、
   1943年頃から対日戦後処理の立案にも参画した。戦後十数回来日、
   現在は日本研究を楽しみに余生を送っているという。

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 この本の存在を知ったのは、先週、人気ブログ『日本が好きなだけなんだよ』で紹介されていて、全部で6章あるのですがこ のブログでは第4章から第6章までを引用されていました。その内容に大変興味を持ちリンク先に飛んで調べたところ、ぜひ当ブログでも紹介したいと思い、第 1章から第3章の内から抜粋して転載させていただきました。
 もとより、不肖敬天愛人はユダヤの陰謀論やフリーメイソンの暗躍論などにあまり興味を持っていませんが、現実的にありえたであろうと充分に推測できる事項が多く著していたので、一個の日本人としても看過することのできない史実と思われる部分を主として引用致しました。
 いくら日本事情に精通しているとはいえ、外国人に日本の歴史の裏側を教えられなければならない現実には日本人としても呆然とするしかありません。
 これも戦後を歩んで来た日本の現実の姿なのでしょう。
 シナだ、朝鮮だ、特亜だ、反日勢力だと叫けぶことも大事なことですが、彼らが日本国民に知られたくない史実や歴史の経緯を知る事も今の、否、今だからこそ絶対に必要不可欠なのだと意を強くしています。
 今日の引用を見ても、「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と呼ぶことを半ば強制され、村山談話に代表される日本の歴史見解のベースとなっている「侵略戦争」 という認識すら、その史実としての検証の議論も封殺されて、既成の事実であるかのように堂々と歴史教科書に載せられて国民に教育して来たのが戦後日本の姿 でもあったのです。
 引用の中で、いみじくも指摘されているように戦後の日本が“日本歴史の真の構築を放棄していた”のは、他ならぬ『日本人自身の問題である』のです。
 詳細についての正誤の検証は必要であるにしても、30年前に出版されているこの書籍が、果たして当時どれだけの人の眼に触れることができたのかも知る由はありません。
 ただ、確実に言えるのは保守派にとっても強力な武器となりうるこういう貴重な資料を自在に駆使して、マスコミや左派勢力に敢然と挑むパワーや戦略が保守派には欠如していたということは、今の日本の現状を考えるに否定できない事実でもあろうと思います。
 昨日の記事で御紹介した「人間獣化計画」の19項目に見事に骨の髄まで汚染された戦後世代の日本人には無力だったのではないかとも思います。
 斯く言う私もその日本人の一人でありました。しかし、ネットを通じて多くの若い世代にたくさんのことを教えていただきながら、自虐史観という洗脳を解くことができたことを思うと、何かのきっかけ(起爆剤)さえ掴めればまだまだ日本人も捨てたものではないとも考えます。
 皇后陛下が「日本人の資質を信じています」ということを仰せになっていましたが、その言葉の重みを一日本人としてひたすら申し訳ないという思いで受け取らせていただきました。 
 保守派が反日勢力や特亜などの外国勢力に押されがちなのは、偏に「日本歴史の真の構築を放棄して来た日本人自身の問題」に帰結しているのだと、最近まで自虐史観に染まってのうのうと生きて来た我が身も含めて反省させられた書物でありました。
 

    
 


日本がなぜ鉄砲を捨てたのか・・(下)

2012年05月28日 15時15分01秒 | 歴史

美しい国からの転載です。前回からのつづきです。

江戸のエコ社会はほんとに徹底したシステムでした。ここに書いてあるもの以外にも、女性が髪を梳かす時に抜ける髪を集める業者もいたそうです。おちゃない、と呼ばれ、「落ちはないかー」と言って集めたからこの名がついたそうです。カツラや入れ髪につかわれたそうです。そろばん屋という、そろばん修理の専門家もいたそうです。商家には欠かせないものだし、そろばんの調子が悪いと計算の速度も落ちますからね。新品のそろばんもよく見えるようにくくりつけて、行商に回っていたようです。その他朱肉の詰め替え屋などもあって、古くなった朱肉は固くなって付きが悪くなるので、新品の物に詰め替えてくれました。残った古い朱肉は、新しいものと混ぜて再利用されます。朱肉は新しいものだけより、使用済みのものを一定量混ぜて練り直したほうが使い勝手がよくなるのだそうです。とにかく様々なものが回収され、再利用されます。路に落ちた紙屑屋木くずも、銭湯の従業員が町内や川筋を回って拾い集めました。だから道にも塵ひとつ落ちてないような写真が残っているのですね。

夏になると江戸では、朝夕、庭先や玄関先、道などに打ち水をしました。この打ち水は礼儀的な意味もありますが、誇りや暑さを和らげる効果もありました。舗装していない道はこのうち水で、かなり土ぼこりが抑えられました。まく水は、食べ物を洗ったり、行水に使った水や、各家庭に設けられていた用水桶や防火用桶に溜まった雨水が使われました。庶民は内風呂のない人が多かったので、銭湯代も馬鹿にならず、夏は行水をして汗を流しました。涼のとり方も、エコとつながっていたのです。

 

 

エコ社会を担った江戸時代





今日エコが叫ばれて久しいですが、かって我国は世界に先がけてエコを実践して国だったのです。
17世紀末の約3年間(1690-1692)に滞日したドイツ人ケンペルは、我国を次のように記しています。

「こ の民は、習俗、道徳、技芸、立居振舞いの点で世界のどの国民にも立ちまさり、国内交易は繁盛し、肥沃な田畠に恵まれ、頑健強壮な肉体と豪胆な気象を持ち、 生活必需品はありあまるほどに豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくて世界でも稀に見るほどの幸福な国民である」(「日本誌」)

また、幕末に来日し、我国に開国を求めた、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスも、安政4年(1858)に、次のように述べています。
「人々はみな清潔で、食料も十分にあり、幸福そうであった。これまでにみたどの国にもまさる簡素さと正直さの黄金時代をみる思いであった。」と。
ハリスの驚きの目は、江戸の町にも向けられました。江戸は、19世紀の欧米のどの都市よりも人口の多い巨大都市でした。想像できないほど美しく衛生的な町でした。江戸日本文明には、欧米人が驚くほど、幸福な社会が実現されていたのです。

 

も ともとほとんど人がほとんど住んでいなかった武蔵野の外れに、徳川家康がお国替えで江戸に移り、今日の都市計画によって作られたのが、江戸です。急激に大 勢の人が入り込んで来たので、当初はゴミや不用品の処理に困りました。1600年代の前半には、深刻な問題となりました。しかし、この解決に取り組んで、 高度のリサイクル社会を実現したのです。

  人が多く住むと、排泄物の処理が問題となります。18世紀以後、江戸の人口は百万人から120万人が住む大都市でした。糞尿の量は、年間に60万から70 万キロリットル。蒸発する分を差し引いても、50万キロリットルはあります。これは1日当たり1400キロリットル、10トン積みのトラック140台分に なります。江戸の日本人は、これを捨てずに肥料にしたのです。

  江戸庶民の多くはテレビ時代劇でお馴染みですが、長屋住まいで、トイレは共同でした。糞尿の所有権は、大家にありました。大家は糞尿を農家に売りました。 その収入は、家賃より多かったといいます。一般の町家や武家では糞尿を汲み取らせる代わりに、農家から野菜や漬物などをもらいました。大人一人の糞尿代 は、1年に大根50本、ナス50個くらいが相場でした。

  こうして糞尿を大切な資源として利用したので、江戸の町では、下水に流す生活廃水が少なかったのです。隅田川は、河口の佃島(つくだじま)付近でも、白魚 が豊富に取れるほど水がきれいでした。パリの空の下を流れるセーヌ川は、こうはいきませんでした。19世紀の文豪ビクトル・ユーゴーは、「レ・ミゼラブル (ああ無情)」の中で、パリの下水道を批判しているのです。当時のフランスの国家予算は20億フランでしたが、肥料の値段にして5億フラン分にもなる糞尿 を、川に流していました。その結果、土はやせ、川が病気を運ぶため、「下水道は誤った考えである」とユーゴーは主張しています。西欧の市民に比べ、江戸の 町民は、ずっと文化的な生活を送っていたのです。

下水の処理システムなしに、汚水を川から海にたれ流していた近代欧米都市よりもずっと、江戸は環境にやさしい都市だったのです。 

昔の人は現代人と違い、ほんのわずかしかゴミを出しませんでした。

物 を大切にし、何でも最後まで使い切ることが、江戸時代の生活原則でした。いわば「もったいない」の徹底です。その例として、蝋燭(ろうそく)が挙げられま す。「蝋燭の流れ買い」という業者がいて町を巡回し、各家で燭台の上に垂れたしずくが固まったものを、秤で計って買っていきました。買い集めた蝋は、安い 蝋燭の原料として再利用されました。物を燃やして出る灰さえも、業者が回収して堆肥などに使用されました。かまどで燃やしてできた灰でさえ、灰買いが買い集め、アルカリ性物質として肥料や製紙などにも使われていました。

さらに、江戸時代には、様々なリサイクル業者がいました。その業者は3種類に分けられます。
 
最上部の画像にもありますが、

(1)職商人(しょくあきんど): 修理が本業で、新品の販売や古物の下取りもした。提灯の張り替え、錠前直し、コタツのやぐら直し、めがね屋のレンズ取替など。
(2)修理・再生専門業者: 古い鍋・釜の鋳掛け、瀬戸物の焼き接ぎ、下駄の歯入れ、研ぎ屋など。
(3)回収専門業者: 紙くず買い、紙くず拾い、古着屋、傘の古骨買いなど。

 

こ れらの業者は、ボランティアではなく、リサイクル・システムの一端を担う職業人として、活躍していました。使えるものは、すべてリサイクルした上で、最終 的に処理のしようのないゴミだけが、船で江戸湾の埋立地に運ばれました。江戸の下町の多くは、そうして造成された土地に暮らしていたのです。

このように江戸日本は、徹底的なリサイクル社会でした。

江戸の成人男性の識字率は幕末には70%を 超え、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かに凌ぎ、世界的に見れば極めて高い水準であると言うことができる。実際ロシア人革命家メーチ ニコフや、ドイツ人の考古学者シュリーマンらが、驚きを以って識字状況について書いている。また武士だけではなく農民も和歌を嗜んだと言われており、その 背景には寺子屋の普及があったと考えられ、高札等で所謂『御触書』を公表したり、『瓦版』や『貸本屋』等が大いに繁盛した事実からも、大半の町人は文字を 読む事が出来たと考えられている。
環境先進国、教養先進国でもあったのです。
 

  21世紀の人類を脅かす最大の危機――それは、核戦争と地球環境の破壊でしょう。核兵器も地球環境危機も、科学技術をもって異民族や自然を支配しようとし た西洋近代文明が生み出したものです。世界規模で核戦争が起これば、人類はほとんど滅亡するでしょう。また、これ以上、資源・エネルギーの濫用を続ける と、近い将来、地球環境は回復不能なほど破壊されてしまうでしょう。

 人類は、このかけがえのない 地球において、限られた資源を有効に使って共生する道を学ばなければなりません。この時、軍事先進国から離脱して、平和で自然と調和した社会を実現した江 戸日本文明は、これからの地球文明のモデルを提示しているといえます。私たち日本人は、先祖の優れた知恵を、世界の人々に伝える使命を持っており、誇りで もあるのです。


日本がなぜ鉄砲を捨てたのか・・(中)

2012年05月25日 22時46分03秒 | 歴史

美しい国からの転載です。先日の記事の続きです。

江戸時代の平和と文化的水準の高さは世界史上の驚異ではないかと思います。これほどのマンモス都市が清潔で平和で道徳の行き渡った社会だったのです。ほんとに理想的な国が実現していました。

このエコシステムは、いかにも日本人的な勿体無いという精神が発揮されています。この江戸の町を見ていると、私は三内丸山遺跡を思い出します。あの縄文時代の大遺跡も非常に環境に配慮した、というか自然への畏敬の精神を感じさせるもので、そして武器がなく平和的文化的な多くの道具が沢山出土しています。人々は森を非常に大事にし、なるべく動物を狩らず、冬の食糧の乏しい時のみに限定し、しかも幼獣は絶対に狩らないという規則を守っていたそうです。栗の木を栽培して、クリを主食のようにしていたといいます。しかも貝塚は、どうやら食料となった物への鎮魂のような感謝を込めた供養のあとだったという話です。きちんと並べてあり、雑多なゴミ捨て場ではなかったようです。貝などの食糧の廃棄部分や、使用不能になった道具なども、おそらく、感謝と祈りを込めて、再生を願って祭祀した跡ではないかということです。

こうした精神が日本人の原点にあるのでしょう。これは日本人のDNAに組み込まれて、江戸のエコ社会として花開いたのかも知れません。だったら、現代の私たちにも、できるはずです。

勿体無いという、物への畏敬、自然への畏敬のこもった言葉こそ、まさにマータイさんがエコの合言葉と言われたように、地球という生命を救う”鍵”になるかも知れません。

 

 

 

江戸(新宿)



日本がなぜ鉄砲を捨てたのか・・(上)では日本が安土桃山時代当時に世界一の軍事大国であったことを述べました。
しかし、我国は、17世紀から西欧文明とは対極な道を歩みます。

16世紀には世界最大の鉄砲の生産国・使用国であった我国は、江戸時代に入ると、軍縮の道を選びました。当時、世界最高の技術水準にあった鉄砲を捨てたのです。この過程で決定的に大きかったのは、徳川家康のリーダーシップでした。
信長・秀吉に続き、戦国時代に終止符を打った家康は、「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)を馬印に用いいていました。
厭離穢土欣求浄土とは、戦乱の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成すとの意味です。
天下太平の世を作ることを理想としていたのです。江戸に幕府を開くと、家康は鉄砲・火薬製造の統制を行います。鉄砲や火薬の産地を集中させ、鉄砲代官を置き、製造は幕府の許可制としました。寛永14年に島原の乱が起こりますが、これを治めると、幕藩体制は安定し、鉄砲はもはや戦闘の重要な要素ではなくなりました。鉄砲の製造数が大きく減少する一方、世界最先端の技術も次第に衰退していったのです。
 
こうして我國は鉄砲を捨て、刀(かたな)の世界に帰ったのです。元米国軍人のノエル・ペリンは、著書『鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮』で、日本人が鉄砲を捨てた理由を述べています。
第一は、日本は海に囲まれ、鉄砲以外の兵器で侵略から自国を守ることができたこと。
第二は、キリスト教に対する反発と同時に、同じヨーロッパに起源を持つ鉄砲も軽視した。
第三に、日本人は刀に武器として以上の価値を見いだしたのです。刀は武士(もののふ)の魂でありました、また美術品でもあるという独特の意味を持っていたことです。ペリンは、これらを理由に挙げています。
 
銃の統制だけではありません。皆さんご存知のように、徳川幕府は、様々な戦争防止の仕組みを作り上げました。参勤交代や新たな築城の禁止、転封(国替え)など、精緻な統制が行われました。その結果、人類史上稀(まれ)なほど長い、平和の時代を実現しました。
最 も注視したいのは、長期平和を実現した思想です。我国には、西欧とは異なる世界観がありました。キリスト教は「愛と平和の宗教」のようですが、その基底に はユダヤ教の怨恨的・闘争的な性格があり、それに基づく世界観は、近代において主権国家間の対立・抗争を原理とする国際秩序を生み出しましたのです。これ に比し、我国には、神を敬い祖先を崇める神道・仏教・儒教に基づく修己治人の政治哲学が往古の昔よりあったのです。
儒 教の経典『大学』に「修身斉家治国平天下」という言葉がありますが、政(まつりごと)をおこなう為政者は身を修めて徳を積むことに努力してきました。そし て、統治の正当性の源泉は、力ではなく徳であると考えられ、武力や策謀による支配は、覇道としてさげすまれ、仁徳による王道が我国では理想とされてきたの です。
 
徳治主義に基づくならば、軍縮はその必然的な帰結です。まさにこの思想によって、日本は、かつて世界最大の鉄砲の生産使用国であったにもかかわらず、徳川時代に入ると、鉄砲を捨て、徳を以って天下を治めるということを理想としたのです。
 前述したペリンは、17世紀の日本で、鉄砲が姿を消しつつあったまさにその時に、水道工事が開始されたことに注目しています。
寛永7年に神田上水、承応3年に玉川上水が建設され、当時すでに100万人の人口をかかえていた江戸に水を供給していました。
水は地中に埋めた木製の配水管を流れ,水道桝(井戸)から汲み上げられていました。
水道総延長は150 ㎞,桝は神田上水系だけでも3千6百以上であり,当時としては世界最大の給水システムでした。
江 戸ばかりでなく、日本中のいたるところに大規模な灌漑用水路が造られました。多くの個所では固い岩盤を貫通するトンネルを掘削する必要があったので、軍事 技術が応用されたのです。軍縮が我が国のインフラの向上を推進したのです。また火薬の用途は弾薬から花火に転じ、夜空を彩る花火が夏の風物詩になりまし た。今日夏を彩る花火もこの頃からの平和の産物なのです。
鉄砲数の削減に象徴される我国の軍縮は、江戸時代の日本文明の熟成をもたらした要因の一つとなったのです。
島原の乱(1637-38)から大政奉還(1867)までの約230年間、我が国には国内においても、対外的にも戦争がなく、国内は安寧と平和に包まれていました。
一世代を二十年として12世代が平和を享受したのです
赤い思想に侵された学校教育では、この平和な時代を余りいいようにはおしえません。
 我国が200年以上、一度も戦争のない社会を作ったのに対し、西洋文明は、15世紀からの500年間、約1年8ヶ月に1回の割合で戦争を繰り返していま す。
大 航海時代などと学校教育は教えていますが、まさに侵略と殺戮の時代だったのです。そこに両文明の根本的な違いを見ることができます。現代世界は、依然とし て対立・抗争の渦の中にあります。そこにおいて、我国が生み出した「江戸時代のシステム」は、「技術の進歩は決して止められない」という現代人の思い込み への反証となっています。
15世紀から20世紀まで、世界を支配したのは、西洋近代文明の原理でした。すなわち、暴力と収奪に基づく対立と抗争の原理です。しかし、この21世紀には、江戸日本的な原理、すなわち共存と調和の原理、すなわち「和の精神」が世界に広まることが期待されています。

投稿文字数に制限がありますので続きは次回に述べたいとおもいます。
次回は「世界に魁た江戸のエコ社会」です。