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日本民族国家の形成と天皇御存在の意義(対談)  6

2012年07月16日 11時33分29秒 | 歴史

サイタニのブログから、続きの転載です。

民主主義を行う上で、 一番有効なものは王制であるという話が出てきます。これは議会制民主主義の国で、それが安定して運営されているくにを世界で調べてみるとイギリスなどの王制のくにが多く、共和制の国は、今ひとつ不安定であるという事実が示しています。

最後の方で、村松氏が重大な指摘をしています。これは大切なことです。

すなわち、

「西洋の王様は、封建領主のなりあがりでしょう。日本の天皇は、封建領主と関係ないわけですからね。二千年の歴史をもち、しかもそのうち、直接統治された時代は少ない。実際は調停者的な、あるいは美学的中心みたいな存在、大げさにいえばローマ法王的な役割を千数百年続けてこられた。 こういう貴重な存在は、一度なくしたら二度ともどらない。」 と。

 

 

 

 
 
 
戸田 そういう精神と、それから「新憲法」前文の「他国の平和意志に信頼していく」というおよそ世界のどの国の近代憲法にないような、一種の誓いのことばみたいなものをおいた精神と、つながるものがありますね。
 
福田  そうですね。あれが一番いけない、私、最近書いたのですが、第九条なんかはどうでもいい、前文なんてのは体裁だというけれども、第九条なんかは変えようと 思えば、変えられるが、前文というの全体の精神ですからね。それが、「他国は全部好意を持つている」という「事実」認識で書かれた。そこから出た第九条だ から気にくわないというんです。憲法全体を問題にしなきゃ、あの第九条は直せない。
 
戸田  先ほど村松さんのお話にありましたことですが、日本の近代国家の国家理念を考たた場合に、キリシタンのもつ信仰という精神の核に対して守るべきものは何か という思索があり、その中で、日本国の国という考え方が出てきたということでした。そうした他と対比して自国の認識を新にした例は古くから日本にありま す。例えば仏教が日本に入ってきたときに、やっぱり異国の宗教である仏教に対して、「神道」というわが国固有のものがはじめて出てきて、「神道」という名 称を用意したのです。
 
それから、『古事記』なんかをみますと、例えば、高天原から降臨した揚所の高千穂の峰を 叙述するのに、単に、日向(ひゅうが)の笠沙(かささ)の岬に通ずる大変いい所だというふうに書くだけじゃなくて、唐の国を「まぎ通す」と書いてあるので す。それは、意識的に唐の国に向い、唐の国を志向しているという意味の叙述と解することができます。そういうことを考えると、内政と外政というか、外交と いうか、何に対して日本を守り、何に対して日本は向うのかという識別が非常にはっきりあったわけですね。そういう大切な国政―内治と外治にかかわるーの意 識。そういうものを全体としてとっぱらっちゃった。そこに残ったものは、先ほどのお話の、個々ばらばらの、それでいて全部が主権者だという訳のわからぬ「人民」というものです。人民がそのまま全体の国家になっちゃって、実質の国家がなくなってしまった……。
 
村松 確か.にそうですね。聖徳太子の仏教、あれは明らかに隋を意識して、仏教中心の国家統一を構想していたわけでしょう。奈良朝の仏教にしたって、大仏を建てたのはもちろん信仰が前提ですけれど、唐に対する対抗意識が強くあったですね。
 
先 ほどの話を補いますと、日本を近代化できた要因がいくつかありますね。つまり日本は有色人種でありながら、世界でたったひとつ工業化をなしとげた。キリス ト教文化圏に属していないで、ヨオロツパ系の言語をしゃべらない国民で先進工業国となった。それはなぜか、ということがよく海外でも話題になります。
 

 
 
村松 その一つの原因は、民族国家の形成が非常にはやかったということですね。民族国家の形成は、ある意味からいえば島国ですから、ずっと古くからあったともいえますが、外国をはっきり意識した上で、民族統一の運動が起るのは、松平定信の時代、あの頃からですね。
 
十八世紀末から十九世紀のはじめです。民族国家を形成しようと思うと、どうしたって中心になるものが必要になる。あの頃、平等の思想も出ていますからね。「天下は一人のための天下にあらず、天下のための天下なり」、ということばが、当時流行語になっている。民族国家の形成ということになると、どうしたって中核は天皇しかない。天皇を中心とした民族国家の形成ということになる。尊王論ですね。尊王が攘夷と結びつき、それが水戸学的な国体論として体系化されてゆく。
 
現 在に話をもどしますと、この座談会が本になるころにはどうなっているかわかりませんが、陛下の御訪米反対で左翼がさわいでいますね。皇太子訪沖反対もそう でして、皇室を直接攻撃目標として大きく打出したという点で、これは始めてのことだと思います。それから、「日教組」が「国体」、国民体育大会に天皇杯を 出すことに反対しているようですね。「国体」なんていうのは運動会だから、それ自体どうでもいいんですけど、目指しているところは同じですね。
 
福田 もったいないから、というなら、いいですが……()
 
村松 .たかが運動会にね。()そうならいいんですけれど。これは元号の問題とも関連していますね。今の天皇が御在世の間は、日本共産党は手出しをしないだろうといわれていますが、これから先どうなるか…:
 
 
 
 
―天皇を戴く国家の意義を考え、教えることは教育の世界からは排除
されている。これは重大な過誤だ―

 
村松  そこで、ちょっと天皇の問題について、いつておきますと、今の日本には二つの立場しかないように思うんです。一つは、天皇陛下というのは有難いんだ、なぜ 有難いかというと、有難いから有難いんだという集団ですね。これは比較的数の上では少ないです。お年寄が多い。もう一つは、天皇は要らないという派。大体 あんな広いとこに住んでいる必要はない、何のために税金を払つているんだ、といっている集団ですね。はっきりしているのはこの二つの集団で、そのあいだに 漠然と天皇制を支持している大衆がいる。
 
天皇の存在を、極くあたりまえのかつこうで議論するということが行なわれないし、いわんや教育の世界で行なわれていない。これは私は、一握りのゲバ学生が騒いだり、日教組が騒いだりすることより重大な問題だと思います。
 
一 例をあげますと、世界で議会制民主主義を運営している国がどれだけあるかー民主主義がいいか悪いかは別間題としてー。ともかく、議会制民主主義をなんとか 運営している国は、イギリスとフランスと、それにイタリーは入れますかね、まあ入れた方がいいでしょうね。それからスイス、西ドイツと北欧三国、ベル ギー、オランダ、アメリカ、カナダ、ニユージーランド、オーストラリア、日本、それから小さいところでイスラエル、それを全部合わせて人口六億になりまし ようか、六億にならないんじゃないですか。その六億になるかならないかの人口の国々で、共和制をとっている例は大きい国ではフランスとイタリーとアメリカ だけでしょう。
 
福田 インドは入りませんか。

松村  インドはちょっとどうでしょうか。あれは。

福田 韓国は?

村松  まあ、甘くして、韓国、中華民国を入れても、たかがしれていますね。その中で共和制の国は、数えるほどしかないのです。しかもその共和制の国の中でフラン スは、大革命をやってから百八十年の間に、政体が十回変っているのです。共和制だけで五つ、帝政が二回、王制が復古王制を含めて三度ありますね。それか ら、ペタンの政権みたいなのがある。平均して十七、八年に一ぺんずつ政体が変っている計算です。その意味では非常に不安定な国ですね。イタリーについては 申し上げるまでもない。
 
北欧三国、ベルギー、オランダ、イギリス及びその連邦諾国は、全部王制でしょう。そう
い う国の方が民主主義がうまくいっている。国王が諸民族の統合の象徴、連続性の象徴として、ただし君臨すれど支配せずで、国の大ワクだけを握っている形です ね。元首として。行政は多数派政党が担当して、もし国景の信用を失ったらば、与党は次々に変っていけばよい。どんなに行政が失敗しても、国家の大ワクだけは元首のもとに安定しています。 アメリカは例外ですが、アメリカ、というのはあれは実験的国家ですからね。共和制そのものが一種の国体ですから、これはむしろ特別な例といっていい。その アメリカでさえ大統領と総理大臣がいっしょですから、ウォーターゲート事件みたいなものが起ると、蜂の巣をつついたような大騒ぎになります。あれはニクソ ンがただの総理大臣だったら、やめりゃあいいだけの話です。元首兼任ですからたいへんだったのですね。そう考えていきます
と、王制が、一般に、いかに民主主義の運営の上で有効であるかということでして、統計的にほとんど自明であると思うんです。
 
戸田 実に重大な御指摘ですね。

村松 しかも、西洋の王様は、封建領主のなりあがりでしょう。日本の天皇は、封建領主と関係ないわけですからね。二千年の歴史をもち、しかもそのうち、直接統治された時代は少ない。実際は調停者的な、あるいは美学的中心みたいな存在、大げさにいえばローマ法王的な役割を千数百年続けてこられた。 こういう貴重な存在は、一度なくしたら二度ともどらない。いま申し上げたことは、一片の常識だと思うのです。ところがその常識さえ、国民に徹底していない ということの方が、一握りのゲバ学生が何かやっているとか、極左勢力が皇室を攻撃対象にし姶めたということよりも重大だという気がします。学校でも教えな い。日本人自らが、国家理念を、国民に認識させまいとしているようなかっこうですね。

「昭和史の天皇・日本」より
 
 
関連記事
 
 
 
 
 
 
 

朝日新聞が伝えた「従軍慰安婦」の真実

2012年07月14日 22時13分53秒 | 歴史

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座からの転載です。

戦前の朝鮮総督府が、いかに朝鮮の婦女子を守るために力を尽くしたかが、この記事を読むとわかります。同じ朝鮮人の 悪徳業者が朝鮮人の女性を拉致誘拐して、あくどい儲けをしようとしていたか、それを必死で取り締まった朝鮮総督府、そしてそれに共鳴して記事を書いていた戦前の朝日新聞、現代従軍慰安婦と呼ばれているものの真実が見えてきます。

この真実を覆い隠して、捏造によって日本を貶めようとしたものが、戦前はまっすぐに正義感で報道していた朝日新聞の後輩に当たる記者たちであるというのは皮肉なものです。同じ記者でありながら、現代の朝日新聞は捏造もじさない程、日本を貶めることに熱情を持っているとは、ほんとに先輩記者たちは草葉の陰で泣いていることでしょう。

米国下院 慰安婦決議 撤廃ホワイトハウス請願の署名をお願いします。

請願署名はこちら
http://wh.gov/lBwa


【転載開始

Media Watch: 朝日新聞が伝えた「従軍慰安婦」の真実

 朝鮮総督府の警官たちは、婦女子を誘拐する悪徳業者と戦っていた。 

 
 
■1.政権末期になると「反日」に走る韓国政界の宿痾

政権末期になると、かならず反日運動が盛り上がってくるのは、韓国政界の宿痾(治らない病気)である。
「従軍慰安婦」問題だけでも、最近こんな動きが見られた。

・昨年12月、ソウル中心部の日本大使館前に元慰安婦支援団体が慰安婦像を設立。[1]

・本年3月1日、李明博大統領は日本統治下の朝鮮半島で起きた反日抗議運動「3・1独立運動」を記念する式典で元慰安婦への賠償請求権問題について「すぐに解決しなければならない人道的問題だ」と演説。[2]

・本年5月、ソウル市内に慰安婦に関する資料などを集めた「戦争と女性の人権博物館」を開設。韓国政府が約3500万円の資金提供。[3]

・同月、「米ニューヨーク韓国人会」はニュージャージー州の公立図書館内に「従軍慰安婦」の追悼碑を設置。今後も全米各地で次々と追悼碑を建てていくと表明。[4]

 選挙が近づくと、左派が反日活動を盛り上げ、保守派もやむなく反日のポーズを強める、という構図である。朝日新聞など国内の左傾マスコミがこれを増長させている。

 日本国民としては、「従軍慰安婦」問題など、韓国・北朝鮮側の主張が史実かどうか理解した上で、政府・外務省に対してきちんとした対応をとるよう要求するとともに、国内の一部マスコミの偏向報道を批判していかねばならない。


■2.朝日新聞の偏向報道が火をつけた

 従軍慰安婦問題の経緯については、弊誌106号「『従軍慰安婦』問題(上)日韓友好に打ち込まれた楔」、107号「『従軍慰安婦』問題(下)仕掛けられた情報戦争」で紹介した。[a,b]

 発端は、昭和58(1983)年に、吉田清治なる人物が、著書『私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録』の中で、昭和18年に軍の命令で、韓国斉州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたという「体験」を発表したことである。

 しかし、この「体験」は、その後の現地調査で創作であったことが明らかにされ、本人もそれを認めている。

 この問題に火をつけたのは、平成4年1月11日、朝日新聞が、宮沢首相の訪韓直前に、一面トップで「慰安所、軍関与示す資料」、「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」と報道した事である。


 ソウル市内では抗議・糾弾のデモ、集会が相次ぎ、不意打ちされた宮沢首相は首脳会談で謝罪を繰り返し、真相究明を約束した。

 軍が慰安所を設けること自体は、戦後の米軍が日本や韓国に命じて慰安所を作らせたことにもあるように、違法なことではない。韓国軍がベトナムに進駐した際は、それをせず、ベトナム女性を強姦したり、現地婚の後で置き去りにされた孤児が数千から数万人の規模で発生していることに比べれば、はるかに良心的な措置である。

 問題は、軍が慰安婦を強制連行したかどうか、という所にあるのだが、[a]で述べたように、この「関与」とは、慰安婦を募集する民間業者の中には「募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くるものある等注意を要す」「警察当局との連携を密にし・・・社会問題上遺漏なき様配慮」せよ、という良心的な「関与」であった。
 
 これを朝日新聞は、さも軍が強制連行に「関与」したかのように報道したのである。意図的な偏向報道そのものである。
■3.悪徳朝鮮人業者の毒牙

 現代日本に住む我々には想像もつかないことだが、戦前の朝鮮では婦女子を誘拐して、娼妓として売り飛ばす悪徳業者が少なくなかったようだ。それらの悪徳業者を朝鮮総督府がいかに苦心して取り締まったのか、当時の朝日新聞自体が報道している。

 たとえば、次のような記事がある。斐長彦という朝鮮人率いるグループが女性を誘拐していたのを、捕らえて送検したという内容である。

__________
 田舎娘など14名も誘拐 一味送局(JOG注: 送検)さる

 京城府蓬莱町4丁目無職斐長彦(57年)ほか11名は共謀して田舎の生活苦に喘(あえ)ぐ家庭の娘、あるいは出戻り女など14名を誘拐して酌婦あるいは娼妓などに売り飛ばして約1万余円をせしめていた事件は西大門署で取り調べていたが、25日一件書類とともに送局した。
(『大阪朝日・西鮮版』昭和15(1940)年6月28日)[5,p43]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 同様な記事が続々と見つかっている。[5,p45]

「貴婦人装ふ誘拐魔 男女4名を手下に使ひ 全鮮から小娘28名を誘拐」(『大阪朝日・南鮮版』昭和13(1938)年3月1日)

「農村の娘に毒牙 巧みに誘拐しては売飛ばす 恐るべき全貌判明」(『大阪朝日・南鮮版』昭和14(1939)年3月30日)

「資産家の主婦を連出し行方晦(くら)ます 偽刑事が大胆な犯行」(『大阪朝日・南鮮版』昭和15(1940)年5月21日)


■4.朝鮮名の悪徳業者たち

 また、日本統治時代に創刊され、現在では韓国の三大紙の一つとなっている『東亜日報』も同様の報道を行っていた。[5,p57-61]
ついでに犯人の名前も書いておこう。みな朝鮮名で、これだけでも、「創氏改名」で日本名を強制されていたという説が、史実でないことが分かる。

「戸籍を偽造 醜業を強制 悪魔のような遊郭業者の所行 犯人は警察に逮捕」、犯人:呉正渙(『東亜日報』、昭和8(1933)年5月5日)

「路上で少女を拉致 醜業、中国人に売り渡す 売り飛ばした男女検挙」、犯人:朴命同、李姓女(『東亜日報』、昭和8(1933)年6月30日)

「良家の子女を誘拐して、満洲に売り飛ばし金儲け 釜山署犯人を逮捕」、犯人:田斗漢(『東亜日報』、昭和13(1938)年12月4日)

「悪徳紹介業者が跋扈(ばっこ) 農村の婦女子を誘拐 被害女性100名を超える」、犯人名不明(『東亜日報』、昭和13(1938)年12月4日)

 この最後の記事では、関係者として浮かび上がった満洲・奉天の紹介業者を逮捕するため、「ユ警部補以下刑事6名が奉天に急行した」とある。「ユ刑事」とは、この『東亜日報』が全面、漢字とハングルで書かれているので、漢字が分からないためだ。

 日本統治時代に創刊された新聞が、ハングルを使っていたのだから、「ハングルを奪って、日本語を強制された」などという説が嘘っぱちであることは、これだけでも明らかである。

 また、このユ警部補は名前からして朝鮮人で、朝鮮総督府の警察は日本人と朝鮮人により構成・運営されていた。両者が力を合わせて、婦女子を誘拐して売り飛ばす悪徳朝鮮人業者を取り締まっていたのだ。
 
          ~~中略~~
 
■7.法改正・制度改正して朝鮮の女性を護る

 警察のみならず、総督府全体としても、伝統的に女性蔑視の傾向の強かった朝鮮において、女性を守るための法改正、制度改正を推し進めた。その一つは女性の再婚を認める、というものだ。

__________
 再婚を許さぬ風習 若い寡婦の悩み 頻々たる「嬰児殺し」の犯行 朝鮮に多い特殊犯罪

 【京城】警務局の犯罪係に最近各道から嬰児殺しの報告が毎日2、3件づゝ到着して係員を驚かせているがこれらは何れも申し合わせた如く朝鮮人寡婦が不義の児を生んで世間態を恥ぢ圧殺するもので寡婦の再婚は絶対に認めない朝鮮古来の風習を物語っている。
(『大阪朝日・北鮮版』昭和8年(1933)年2月14日)[5,p162]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 また旧来の朝鮮社会では女性の戸主相続権は認められていなかった。男子の相続人がいない場合は、女子がいても嫁に出し、他家から養子を迎えていた。総督府の法改正により、女子が家を継ぎ、さらに婿養子を迎える、ということができるようになったのである。

__________
 女子相続権の実現こそは婿養子制とともに半島女権史上一大飛躍であるはもちろん家族制度に明確な大変革をもたらすものとして極めて注目される。
(『大阪朝日・南鮮版』昭和16年(1941)年6月14日)[5,p164]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 力の籠もった文勢に、朝鮮における女性の権利確立に向けた総督府の政策に期待する朝日記者の思い入れがよく窺われる。


■8.朝日記者たちの「一視同仁」

 日本の朝鮮統治は「一視同仁」(すべての人を平等に愛すること)を理想としていた。朝鮮は植民地ではなく、日本と新たに吸収合併した国であって、その民は内地と同じく天皇の御仁愛に護られるべき民であった。政治家や官僚は、その大御心を体して、民の安寧を図ることが使命であった。

 もちろん、この遠大な理想がすぐに朝鮮半島のすみずみまで実現できるはずもないから、あちこちで差別もあったろうが、本稿で紹介した朝鮮の女性を守ろう とする警察の動きを見れば、日本人と朝鮮人の警官たちが一致協力して、「一視同仁」の理想に向かって努力していた様が窺われる。

 そして、そうした警察の活動を報道する朝日記者たちの「誘拐魔」「毒牙」といった筆致にも、被害者女性を憐れみ、悪徳業者の所行を憎む、まさに「一視同仁」の心情が窺われるのである。

 

こうした戦前の朝日記者たちの後輩たる現代の朝日記者たちは、戦前の先輩たちの報道も思いも顧みることなく、「日本軍が女性を強制連行して慰安婦にした」などと、史実を曲げたプロパガンダに走っている。
そんな有様を、戦前の朝日記者たちは、草場の陰から、どんな思いで見ていることだろうか。

(文責:伊勢雅臣)
 
a. JOG(106) 「従軍慰安婦」問題(上)
 日韓友好に打ち込まれた楔。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h11_2/jog106.html

b. JOG(107) 「従軍慰安婦」問題(下)
 仕掛けられた情報戦争。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h11_2/jog107.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. Blogos、「日本大使館前に慰安婦像」
http://blogos.com/news/bronze_girl/

2. MSN産経ニュース、H24.3.1、「元慰安婦問題 日本に李明博大統領 早期解決と謝罪要求」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120301/kor12030119480009-n1.htm

3. MSN産経ニュース、H24.5.18、「慰安婦博物館に3500万円拠出 韓国政府に抗議 在韓大使館」
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120518/kor12051808100000-n1.htm

4. サーチナ、H24.05.11「ニューヨーク韓国人会『従軍慰安婦追悼碑を続々と建設予定』=韓国」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?d=0511&f=national_0511_021.shtml&y=2012

5. 水間政憲『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』★★★、徳間書店、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4198629900/japanontheg01-22/

 


 

米国下院 慰安婦決議 撤廃ホワイトハウス請願が7月22日までにまだ約6400名ばかり足りません。まだの方はぜひ署名をお願いします。

請願署名はこちら
http://wh.gov/lBwa

署名の仕方がわからないかたは、なでしこアクション  Japanese Women for Justice and Peaceのサイトをご参照ください。




世界が称賛したこんなに勇敢で誇り高い日本人が居たという事実をもっと学んで欲しい。

2012年07月14日 17時11分47秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

マルタ島の日本軍戦没者の墓碑の話は聞いたことがあり、昭和天皇が皇太子時代に欧州を訪問された時に真っ先に行かれたという話も聞きました。その話を聞いて、国民が忘れている時でも、天皇陛下(その時は皇太子ではありましたが)というお方は、決してこうした国のためになくなられたものを、お忘れになることはないのだなという感動でした。それはまさに親が子供のどんな小さい出来事でも忘れることなく覚えているような、そんな愛情のように思いました。

 

 

 

 
 
                 我らの先人たちが眠るマルタ島。なぜここに?
 
地中海にあるマルタ島。そのカルカーラの丘の英海軍墓地の一隅に、
「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」が建っています。
なぜこんな遠くの地に、しかも墓碑までもが建てられたのでしょうか。
 
3人の共産主義者のセルビア青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺したサラエボ事件に端を発した第一次欧州戦争。オーストリアの同盟国はドイツなど。 これに対しセルビア側にはロシア、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、日本などの連合国が対峙しました。
この第一次欧州戦争でドイツはヨーロッパ戦線が膠着していたため、ドイツは地中海で潜水艦Uボートによる無差別攻撃を決行しました。そのため兵員などを輸送する連合国の船舶被害は激増しました。これに音をあげたイギリスは同盟国でもある日本に派遣を要請します。
 
我が国には大戦当初、支那の青島やマリアナ諸島方面に展開するドイツ海軍に対する作戦もあり、艦艇を地中海に派遣する余裕はありませんでしたが、連合国の輸送船を護衛するために、巡洋艦「明石」と駆逐艦8隻からなる第二特務艦隊を地中海に派遣することにしました。
 
日本の艦隊が現地到着した頃には連合国の艦船被害は甚大であったため、我が帝国海軍は長期行動であるにもかかわらず休養もないまま直ちに護衛任務を要請されました。
船舶の護衛とともに被害を受けた艦船の救助活動も重要な任務でした。
 
戦闘中の救助作業は自らを危険にさらすことでもあり容易なことではありませんでした。
また救助活動で多数の救助者が艦内に収容され食料や水はたちまち底をついたにもかかわらず、日本兵たちは自分たちの食糧はおろか、衣類や寝場所まで彼らに与え、自分たちは空腹と不眠のまま任務を遂行しました。
 
大正6年5月、我が帝国海軍の「榊」、「松」の駆逐艦2隻は、魚雷攻撃を受け沈没していく兵員輸送船「トランシルバニア号」の救援に駆けつけて、敵の潜水艦の目前で、しかも敵と戦闘しながら、なんと乗員約1,800名を救助しました。これは奇跡ともいわれるくらい常識破りの行為であり、帰港したイタリア・サボナでは帝国海軍の日本兵たちを英雄として大歓迎しました。
 
また、大正7年、駆逐艦「桃」「樫」は、魚雷を受け自力で航行出来なくなった英船「パングラス号」を不眠不休3日3晩、戦闘しながら、しかも潜水艦に襲撃される危険も恐れずに同船を曳航してマルタに無事届けました。
この快挙にマルタの町は感極まって日の丸で迎えてくれたのです。
 
同じ年、英船「カメロニアン号」にドイツ潜水艦が魚雷を発射します。帝国海軍は発見が一瞬遅れますが、日本の駆逐艦はそこに果敢に全力で突入して、自らが魚雷の犠牲となって輸送船を守ったのです。
これらのことにより帝国海軍は大きな信頼を得て、輸送船の船長の多くは帝国海軍の護衛を望み、日本艦隊の護衛でなければ出発しないという船長が出るほどでした。
この帝国海軍の奮戦振りにイギリスは「地中海の守護神」と称え、世界中からも称賛されました。
これら帝国海軍の活躍に対し、イギリス国王は日本の将兵に勲章を授与し、何と英国議会では議会始まって以来、日本語で「バンザイ三唱」までもが行われました。
 
これらの任務の中で尊い犠牲もありました。任務中の「榊」が潜水艦Uボートの雷撃を受け大破し、59名が帰らぬ人となりました。他の戦闘と併せて78名が命を落とされました。
しかし、この帝国海軍・第二次特務艦隊の栄誉と勇敢さが称えられ、大正7年にカルカーラの英海軍墓地内に大理石の墓碑が建立されました。これが「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」です。
 
その後、第二次大戦で、このマルタ島はドイツ空軍の猛烈な攻撃にさらされ、この時の爆撃でこの墓碑の「大日」の文字が吹き飛ばされ破損してしまいました。
終戦後、マルタ島に訪れる日本人も少なく、この墓碑は30年間壊れたままでしたが、
昭和46年2月、当時の自衛隊・海上幕僚長が訪欧でマルタに立ち寄った時、あまりに破損がひどいので、外務省と協議して再建することにしました。
昭和48年11月18日に復元され、イタリア大使館主催で除幕式が盛大に行われました。
 
大正10年4月、皇太子であった昭和天皇が欧州ご訪問をなされましたが、まず真っ先に訪れたのがこのマルタの地でした。そしてこの墓碑にご参拝なされ、花輪を供えて英霊を慰められました。
この御心にきっと英霊たちも喜んだことでしょう。
この時、マルタの地では日章旗と皇室の菊の御紋であふれかえったといいます。
その墓碑が再建されたことをお聞きになられた昭和天皇は大変お喜びになられたそうです。 
 
 『日本海軍地中海遠征記-若き主計中尉の見た第一次世界大戦-』の解説をしたC・W・ニコルさんはこう書いています。
「80余年の時を経て今、海上自衛隊がインド洋に派遣されているが、派遣の是非を論じる前に世界が称賛したこんなに勇敢で誇り高い日本人が居たという事実をもっと学んで欲しい」
彼はこの本の印税を全額マルタの碑の維持費に寄付しました。
 
この英国生まれのC・Wニコルさんは平成7年に日本国籍を取得しました。その理由をこう語っています。
「日本が私の家であり、もっとも愛する国だからだ。どの国にもまして私は日本でいちばん多くの時間を過ごしている。家族も友人も世界中にいるけど、私のいちばん親しい人たちはほとんどが日本人だ。
日本は私に衣食住を与え、移動を許し、私を守ってくれる。
こう言うと、よく『日本のどこがそんなにいいんですか』と尋ねられる。
そう聞くのはいつも決まって日本人だ。・・・
私はこれからも誇り高き日本人として、精いっぱい生きていきたい」と語っています。
 
マルタの土となった英霊はいまも祖国日本には帰っていません。
英霊たちは、もはや今の日本人は自分たちのことをすっかり忘れ去られているのかもしれないと、
そういう思いだろうか・・。
遠い地の英霊たちは遥かなる祖国日本を、今の日本人をどんな気持ちで眺めているのだろう。
 
・・・・・・・
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日本民族国家の形成と天皇御存在の意義(対談)  5

2012年07月08日 14時36分10秒 | 歴史

サイタニのブログのつづきの転載です。

何とある六法全書の日本国憲法のページの扉には、アメリカ独立宣言が書いてあるそうです。日本国憲法がアメリカ独立宣言の劣化した模造品ということを象徴しているようなはなしです。日本国家の成り立ちや伝統などはまったく顧みられずに、まるでアメリカ人の着ていた服をそのまま日本人に着せて、寸法も体型も合わないまま着ているような、そんなイメージを思い描いてしまいますね。

明治は西洋というキリスト教国へ対抗するために神聖国家という観念を持たざるを得ず、それが大東亜戦争以後崩壊し、新しい国家観が打ち立てられないまま今に至っているということなのですが、このアメリカに押付けられ言うがままになっている現状の奥には、すでに戦争中や前から始まっている問題があると福田氏は仰っています。

 

 

 

 
―“快適さ”はエゴイズムであって、それを否定する要素をもたぬと
いうのは道徳がないことと同じになる―
 
 
村松 生活理想がコンフォタブル(快適)な 生活環境を獲得することにあるという考え方が出てきたのは、これも十八世紀位かららしいですね。コンフォタブルという英語のもとはコンフォールというフラ ンス語ですが、コンフォールということばが快適という意味に使われるようになるのは、十八世紀の初め位かららしいです。それ以前の生活は、そもそもそんな もんじゃなかった。ヴェルサイユの宮殿はちっともコンフォタブルにできていないのです。あんな所へおしこめられたら、暮しにくくて仕方がないですよ、トィ レットはないし。()
 
戸田 改造前の東京四谷にある迎賓館と同じですな。
 
 
村松  江戸時代の武家の屋敷だって寒くって、美的には完成されていても、コンフォタブルではない。御所だってそうでしょう。生活の快適を求めれば、あの時代だっ ていろいろ工夫はあり得たはずです。ヨオロッパ人だってできたろうし、日本人も器用だからできたでしょう。しかし生活目標が別の所にあったのですね。美と か、宗教的な理想とか武士的な生き方とか。それが変質して、快適な生き方を求めることこそが人生最上のことだという考えが産業革命以後だんだん拡まって、 これを世堺で最初に実践したのが、アメリカかもしれないですね。アメリカのピユーリタニズムの伝統とちよっと矛盾するようにみえるかもしれないけれど、 ピューリタニズムは、ある意味では非常に現世的な宗教だから、表向き矛盾するように見えながら、一致しているということでしようか。そういうコンフ
ォ タブルな生活、物がすべてだという考え方が道徳面からいうと戦後日本に拡まった。それを否定するなどということは民衆の生活を知らないたわごとであり、反 動であり、革命を阻害するものであり……ここでもイデオロギー戦争が入ってくるわけですね。実は人間が人間であるレゾン・デートル(存在理由)は、そこにあるはずなんですが。大衆杜会は、それをみとめようとしません。昔、オルテガ・イ・ガゼットが予言した状態とよく似ています。
 
戸田 人間が人間たるゆえんのものは、今問題にせられたように、「快適さ」とか、「ここちよさ」とかとは別のものだということは重大な省察ですよ。
 
村松 場合によっては、それを否定することによってしか道徳は成立しないでしょう。
 
戸田 そうですね。道徳は、ただ時の流れにしたがって快適さを求めることとは、本質的に違う面がある。それは誰も否定できない筈のものなのに!
 
村松 否定できません。動物的欲望ですから。
 
福田 エゴィズムというのは一種のバィタリテイでもありますから、それがなくなっちゃったら、人間というのは困ったものになる。デモクラシーというのは、或る意味ではそういうバイタリティを失った社会に適合した形体かもしれませんが、それにしても小さなエゴイズムの乱反射を否定整理する機能を失ってしまったら大変ですね。
 
 
 
福田  戦前は、さきほどのお話のように、まだ、国家の名において、或いは天皇の名においてそういう抑制の力があった。村松さんが国家意識とおっしゃったが、戦後 においては国家ということばが、社会に置き換えられたわけです。杜会というと非常にあいまいで、どういうふうにみんながとらえているか、定義をしろといっ てもなかなかできません。国際杜会というふうにも使いますしね。だから国家というものの中に入っているかどうかわからない。
社会科という教科ができて、日本の歴史も、杜会科の中で教えるわけでしょう。だから、そういう意味でいえば、。国家という概念を否定して出てきたのが、杜会 という概念なんで、これはエゴイズムと野合できるんです。もちろん本当をいえば、杜会のために自分を捨てるということが当然ですけれど。しかし、今の杜会 という概念が悪用というか自分に都合のいいように使われているのは、自分を支えるエゴイズムを生かすためのものとしか受けとられていないからです。エゴイ ズムをしめつけるワクとしてあるのではない。いわゆる社会という概念にワクがないわけですそれが、決定的なことじゃないでしょうかね。
 
戸田  そこで近代国家としての形成後の事情を省みたときに、何をおいてもいとしいこのわが身の自分を捨てても決して悔いないような国家というものは、「いのち」 と考えてよい訳ですが…そういう「国家はいのち」だという考え方の流れは、近代国家の出発点にあたって、明治にもあったんだと思います。ところがそういう 考え方はけしからんことだというふうに、逆に問題とするように戦後なってきている。つまり先程のイデオロギー戦争がこれをめぐってあります。それは、いの ちの問題をエゴイズムのレベルにひきもどして、国家をとっぱらっちゃうようにしてきている。そこで人民主権主義で、みんなが統治者になっちやって、非統治 者がいないという形の考え方は明治にまで遡ってはあり得ないで、純粋に戦後のことだと考えてよいのでしょうか。
 
村松  イデオロギー勢力がですか。イデオロギー的立場に立てば、レーニンが『国家と革命』の冒頭ではっきりいっているように、国家というのは、階級が階級を弾圧 する手段ですから、彼らが天下をとれば、もちろん、強大な弾圧機関を持つでしよう。そして革命のために命をすてよ、と教えだすにきまっています。中共やソ 連や、その他の共産国が全部やっているように。しかし革命をやるまでの手段としては、今の国家を守られちゃ、イデオロギー勢力は困るわけですから、それを 何とか破壊しようとする。そのためには、大衆のもっているエゴイズムをおだてるのが、一番いい順序でしょう。
 
福田 利用するということですね。今のは。
 
戸田 おぞましいイデ才ロギーの立場で、階級史観で明治の国家形成というのを見るのは別にしまして、本当には明治期において国家はどういうものに観られていたんですか。その点はどうなんでしょうか。
 
村松  これは御異論があるかとも思いますが、明治といっても明治二十二年以降にできた明治ですね。これは「神聖国家」だったと私は思っています。どうしてそうい うものができたかというと、これは御承知の通り教育勅語(きょういくちょくご)の枠になっているのが、水戸学ですね。その水戸学にまでさかのぼること.が できる、と思うのです。それをもっとさかのぼると、さっきのキリシタンの話にまで行ってしまいます。十六世紀に日本に来たポルトガルやスペインの宜教師た ちは、当然日本を占領しようと思って来たわけですよ。これは、当時としては別に不思議でもなんでもないことで、コロンブスはアメリカ
に 行くときに、新しく発見した土地全体の副王に任ずるという約束をもらっています。未開拓の土地を発見したら、それは俺のもの、というのがヨオロツパの常識 だったし、そこに神の教えを説くということもまた、彼等にとつては当然の使命だつたわけですね。そこでフイリピンは、まだ石器時代の島だつたから、簡単に スペィン領になつちやつたでしよう。日本に来てみたら、強すぎたわけですよ、というのは鉄砲がすでにありましたからね。だからやめたんです。
 
戸田 秀吉がいち早くキリシタンの領土的野心を見破ってますね。
 
 
 
 
 
村松 ですから、大東亜戦争の戦死者、特攻隊なんかをみても、ただ国家のために死んだというだけでなくて、一種殉教者的な美しさを持っ ていますね。神聖国家は日露戦争ごろまでは、外敵の脅威にさらされていましたから、国民をまとめてゆく上にうまく機能していました。それが日露戦争後にな りますと、外敵の危険が一応遠ざかる、国をつくった人たちも死んで制度ばかりが残り、国家が重く感じられはじめます。あの時点から、神聖国家に対する不満 がインテリの中に出てきている。
 
ところが、世界的に政治が宗教化するのは二十世紀になつてからでして、スターリンがでたり、ヒトラーがでたりして宗教的国家が次々と誕生する。 日本側もそれに対抗して、神聖国家はその度合をむしろ強めてゆく。その神聖国家を破壊したのが敗戦で、要するにペルリがつくった神聖国家が、アメリカの手 によってまたこわされたということでしよう。今まで持っていた神聖国家の理念がこわされたにしても、それなら新しい国際的にも通用するような国家の理念を つくればいいのですが、それは、アメリカはつくらせようとしなかったですね。当初は。日本人も、どうしていいのかわからない。それから、イデオロギー勢力 はもちろん反対する、というかっこうで、神聖国家の崩壌後に、当り前の意味での国家理念が、まだ再建されていないというのが現状だろうと、思うのです。
 
福田  異論はないけども、つけ加えれば、明治の神聖国家の、キリシタンのもつている普遍性、超絶者という概念を導入しなければという結論には国内的背景もあつた ようですね。薩長の政府が、一それまでの公方さんを倒したわけですからね。それに対して国内に自分達を権威づけるためには、天皇家より外にないですよ。だ からその必要性はあった。それで薩長、あるいは土佐を含めてもいいけれど、藩閥という概念が弱くなってくるにしたがって、天皇の概念は強くならざるを得な い。ところが戦後になってくると…-天 皇の概念が必要なくなってくるということがあったと思います。戦後アメリカの減茶な要求をそのままのんでしまうという弱さもあったと思います。だからアメ リカがけしからんということと同時に、それをそのままのんだ日本人のだらしなさにも及んでくるわけです。だから敗戦後にだらしなくなったというけど、あれ をあんなに素直に受け入れたということは、戦争中から、あるいはその少し前から始まっている問題、というものを考えなきゃならないと思いますがね。あまり 素直すぎますよ。
 
 
 
日本版『憲法」の扉にアメリカ独立宣言をのせる程の不見識がまかり通る
 
 
福田 ひどい話が、これはどこの出版杜でもじゃないかもしれませんが、或る有名な出版社の六法全書ですよ、それをひらきますと、憲法の扉にアメリカの独立宣言が出てきます。英文が書いてあって、下にそのへたな翻訳があります。一体何のためにと思って、前後をみても、何もない。しかもその翻訳において、「ガバメント」を「政府」と訳してあって、そのあとにカッコして(国家)としてああ政府はただ単に政府じゃない、国家だと強弁しているんですよ。
 
村松 それは誤訳ですね。
 
福田 誤訳ですね。そもそも日本憲法のところに、何でアメリカの独立宣言が出てくるのかわからない。現在でている本ですよ、それは。
 
村松 それは皮肉なんでしようか。()
 
福田 皮肉なら大したもんだけど。()




 

日本民族国家の形成と天皇御存在の意義  4

2012年07月06日 06時48分13秒 | 歴史

サイタニのブログからのつづきの転載です。

戦後、あらゆるものが大衆化して、低俗化の傾向が強くなったなのは、戦前までと戦後ではデモクラシーの質が違うのではないかという話です。戦後は完全な国民主権となったことは、それはアナーキズムであり、主権者が一億人いるということであり、元首が一億人いるということであると言っています。

これはなるほどという気がします。国に中心が無数にあるというのは、中心がないというのと同じです。中心を持たない無秩序状態が出て来たということでしょう。戦後天皇は象徴となり、元首ではなくなりました。国民が元首となったということです。

戦後の日本では貴族といえば、すぐに不平等という言葉と結びつけてしまいますが、イギリスでは、貴族というのは、その地位が尊敬を集めるのは、もし戦争などのいざという時に、一番先に国の盾となって、死ぬ覚悟を持ったエリート意識を持った人々だということであり、またそのように幼少から教育されるのだと聞いたことがあります。

もちろんそれは建前の部分もあるでしょうが、そういう建前の意識だけでも持っている存在、それが支持されるのであって、そういう物質だけではない、人間には崇高さもあるのだということをみとめる文化的基盤がなくなった世界は、どんどん低俗化にはまっていくということなのかも知れません。



 
ー自分を守ってくれる強力な為政者を求めたイギリス人、また戦前の
目本国民の歴史を思いみねばならない。完全な民主主義は無政府主
義に通ずるー
 
 
戸田  それに関連して申し上げたいことがあります。先程の福田さんのことばでいえば、日本の実用主義というようなものは、近世になって、種子ガ島で鉄砲を受取る ことから始まったところの、近代化の流れの中ではじめて始まったというようなもんじゃなくて、はるかに歴史を遠くにまでさかのぼることができる位であると いうことでしたね。しかし、それについて村松さんの補足的なコメントがあった訳です。そこで僕は思うんですが、問題は世俗化ということなんです宗教でいえ ば在俗主義なんですけれど。それのもつ本当の性格なんです。この在俗主義は、必ずしも新しさを求めて、いわば物のみで満足して行く生きがい観という面も何 程かないわけじゃないんですが、しかし同時にその中での精神性ですね。むしろ積極的に、例えば、天台宗は平安朝時代に真的世界の真諦と・世俗的世界の真理 である俗諦とを一致せしめる、真俗相似ということを早くから主張して、積極的に一般大衆の庶民の中に、事実、眼に一文字もないような大衆の中に本当の真理 は生かされるべきだ、精神や魂は生かされるべきなんだということを積極的に狙った。そういう魂を現世に生かす宗教文化だったと思うんです。
 
と ころが、今は、御批判のような面も一面出てきているとすれば、それは一体大衆そのものが原因なのか、それとも時代時代において文化をリードする一種の文化 指導者、支配する者の側に原因があるのか、その何れの側の問題なのか、ということを考えなくちゃならんという気がするんですがね。
 
そ れで、先ほどお話に出た戦後特にひどくなったといわれる、大衆化の中の絶望的状況。それは、大衆というのは本来そういう至らないものなのかどうか、どうし ようもないがんじがらめになっている人間集団であって、それがひとつのトータルな動きをなしているというふうにおさえてかからなければいけないのか、或い はそうではなくて、その指導層の担った問題であるのかという問題があるかと思います。そのへんを分けて考えないと本当のところは分析できないような気がす るのですがどうでしょう。
 
福田  僕の考えは、あまりに巨視的で、微視的にみれば、やはり江戸まではなんとかなっていたといえると同時に、もう少し微視的に考えれば、まだ戦前までは何とか なっていたということもいえるわけですよ。戦後もっとひどくなってきた、救い難い状況になってきたともいえるのです。私のは巨視的にいったまででして、も う少し微視的に考えれば、明治以降は認めてもいいと思います。或いはそれと、戦後とを比べることを考えてもいいでしょう。戦後どうしてこうなってきたの か。明治からあと、軍部が独走してからは別ですけれどー。これも独走と解釈するかどうかは別間題として、一応独走と解釈してー。それと戦後とですね。まだ 戦前は、大衆は同じだったとしても、リーダーがまだしっかりしていた。或いはリーダーシツプがあったといえます。
 
デモクラシーということは、人民の政治ですね、主権在民かもしれない。それでも、それは元来、文字通りに外国で通用していたかというと元来そうではなくて、ポール・ジヨンソンという、『オフショアー.アイランダーズ」というのを書いた人がいるんですが。これは、"沖の島の住民"で すかね。何と訳したらいいか、沖の島というのはイングランドを指しているのですが、彼がいっているのはこうです。御承知のようにイングランドというのは、 一番始めにデモクラシーを発達させたのがヨオロッパではイギリス人であり、一番始めに中央集権国家を発達させたのもイギリスです。その強大な中央集権と民 主主義とが矛盾するものではない、ということなんです。要するにイギリスの人間はあの当時から今に到る
ま で、望んでいるのは何かというと、自分を守ってくれる強力なる中央政府であるということをいっている。それはデモクラシーと矛盾しないんで、デモクラシー はむしろ誰が一番強力に自分を守ってくれるかというのを選ぶ制度だ、という考え方ですね。十三世紀末のエドワード一世のような、強力な為政者を有史以来今 日まで求めてきたということをいっているわけです。
 
 
福田  日本でも明治以後はデモクラシーですが、その時でも、まだ人民の中には政府に対する期待というものがあったと思うのです。明治に入ってすぐですが、外圧が あると、外国或いは先進国から誰が自分達を守ってくれるか、積極的にいえば侵略戦争でもいいですよ、とにかく日本を強くして外国と戦ってくれるには誰がい いだろうかと考え、或いはそれを政府に任せるという考え方があつたと思うんです。戦後はむしろ政府というのは公僕であるとか、大臣は公僕である、主権は自 分達にあるんだ、元首はいないんだと、むしろ元首は人民だという変てこなデモクラシーの考え方を持ち始めてしまつた。
 
同じデモクラシーでも、デモクラシー自体に弱点があると村松さんはおっしやつてますが、戦前のデモクラシーと戦後のデモクラシーの違いを考えると、戦後のデモクラシーは一種のパーフェクト・デモクラシー(完全な人民支配主義とでも訳すべきか。編者)ですね。それを求めていった。
 
村松 アナーキズム(無政府主義)ですね。

福田 アナーキズムです、だって主権者といったつて一人じやないんだから。人民の数は一億人いるんですから、一億人が主権者だ、統治者、元首が一億人いるんですよ。そして元首じやない人間はどこにいるかというと、どこにもいないわけで、統 治者がいて被統治者が一人もいない。そういう状態をつくろう、としている。政府というのは、一億人みんなのいうことをきけという、それがデモクラシーだと いうことになっちゃったから、もうどうにもならない。私は戦後のデモクラシーをせめて戦前にまで戻すべきだと思います。戦前の中央集権、或いは絶対天皇制 というのにも弱点はあったかもしれませんが、それは是正すれば直ることであって、そこへ一応戻す必要がある、せめてそこまで戻すということはまだ可能では ないかと思う。江戸時代まで戻すというのは不可能でしょうが。
 
村松 江戸の末期だって、けっこうあれは一種の責任内閣制で、田沼がだめだと、松平定信が出てきて、定信がやりすぎると、また代って、というふうになっていますからね。
いま福田さんがおっしゃったことは、要するにデモクラシーの社会にも、いわばアリストクラティック(貴族的)な権威が必要であると いう、政治的な側面からのお話だったと思います。もっと別ないい方をしますと、例えば石油で大騒ぎしますね、私はあの当時、どうせ誰もきいてくれないと 思ったけれど、世の中には油よりも大事なことがあるということを書きました。そんなことは、戦前では当り前だったと思うんです。世の中には油より大事なも のがあるということが、当り前でなくなってしまったのが戦後でしょう。現世の物質生活よりも、もっと大事なものが人間にはあり、それがあるからこそ人間なんだという論理は、戦前にはまだたしかに生きていましたね。江戸時代はもちろんです。それがなくなっちゃったのが戦後でして、どこの国でもその傾向は強いですけれど特に日本はひどいように思います。