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小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

二、グルリ一遍(いっぺん) 「二宮金次郎」

2012年10月20日 02時04分37秒 | 歴史
サイタニのブログから、二宮金次郎の二回目を転載します。

ここ最近、gooブログにアクセスしようとしても、接続がリセットする状態がずっと続いていましたが、やっと投稿できそうです。

二 宮金次郎の伝記は子供の頃読んだ記憶はありますが、こうして読むと、ほとんど忘れていて、改めて金次郎さんという人が、日本人の努力型の偉人の原型のよう な人だと言う気がします。奉仕精神と、不屈のポジティブ思考、楽天的な考え方と創意工夫の達人、こうした考え方を子供の頃から身に着けていたというところ が驚きです。


こ こまで読んだだけでも、金次郎さんは心の持ち方の天才のような人で、このようなやり方をすれば私たちも金次郎さんという人に近づけるような気がします。幸せという のは、サイタニさんの仰るように、自分の中に幸福感をいかに抱けるかという問題ですから、金次郎さんの生き方というのは、幸福になるにはどうすればいいかという 見本なのかも知れません。幸福とは、なにも楽をすることではなく、自分が物事や、自分自身にいかに満足できたかということですからね。







金次郎のわらじ 
 
つづき
 
利右門(りえもん)は酒のつぼを押しいただきました。ちびりちびりと、久しぶりの酒を大事に味わって飲みました。
ぽっと赤味がさして生気(せいき)がでてきた父をかこんで、母も金次郎も友吉(ともきち)もにこにこと嬉しくなりました。
でも、貧しい生活はそれからも続き、身も心もすりへらして働いた利右衛門は、病気がちになり寝てすごす日が多くなりました。
 
村では、酒匂川の大水を防ぐための堤防づくりが始まりました。一軒から一人ずつ男がでて、土をもりあげたり石を積んだりするのです。洪水の恐ろしさは骨身にしみているので皆真剣です。父が病気なので、二宮家では十二歳の金次郎がでることになりました。
 
もっこで砂利を運んだり、石を持ちあげたり、大人たちに混じって金次郎はせいいっぱい働きました。
「金坊、よくやるね」
「とうさんの具合はどうだい」
と、村の人たちはあたたかい声をかけてくれます。
 
しかし金次郎は、自分が大人たちのように仕事ができないのを、申しわけなく思いました。
『何かおれにできることで皆さんの役に立つことはないだろうか』
そう思いをめぐらせながら働いていると、村人たちのわらじの鼻緒がはげしい重労働のためよく切れることに気づきました。
「そうだ」
にっこりとした金次郎は、村の人たちが帰ったあと、あちこちに捨ててある鼻緒の切れたわらじを拾い集めました。
そしてそれを家にもって帰ると、夜おそくまでせっせと鼻緒をすげかえます。あたらしいわらじも何足かつくりました。
 
翌朝、村人たちは、仕事場にていねいに繕(つくろ)ってあるわらじと新しいわらじが木の枝にかけてあったり、そこここに置いてあるのに気づきました。
はげしい土運びに鼻緒が切れた村人たちは、「ほう、これは助かるな。使わせてもらおう」
「うん。繕ったわらじが落ちてるなんて不思議だなあ」
と言いながら、わらじをはきかえて働くのでした。
 
次の日も、その次の日も繕ったわらじや新品のわらじは置いていてありました。
誰いうともなく、それは金次郎少年のしたことと知れて、村の人たちは深く心を打たれたということです。
 
 
 
※ 「働く」とは、はたを、楽(らく)にすることです。
   幸福になる法則があります。「与えよさらば与えられん」
   洗面器の水を両手で押すと水は手前に戻ってきますが、水を手前に
   両手で戻すと、水は逃げていきます。これと同じで、多くの人に
   親切を与えると多くの人から親切がかえってきますが、奪うと
   奪われます。
 
 
 
二 金次郎のニックネーム
 
金次郎は幼いときから良いと思ったことは進んでやりましたし、百姓の子供ながら学問がすきで、学ぶための時問をうみだす工夫もこらしました。他の子供たちと違ってみえたことも多々あったでしょう。ユニークなニックネームがつけられました。
 
 
一、ドテ坊主
ド テとは土手のことです。堤、または堤防ともいいます。酒匂川(さかわがわ)は、たびたび洪水をおこしては堤防を破りました。父利右衛門が田畑を全部流され たのも、洪水で堤防が切れたためです。村の人たちはいつも、どうやって堤防を守るかという話をしていました。金次郎も実際にひどい目にあいましたし、堤防 に行っては、
「うーん、どうしたら洪水がふせげるだろ」と考えるのでした。幼いころから堤防を遊場のようにしていましたので、小さなくずれはなおしたりします。堤防にはいつも金次郎の姿がみられ、人々は彼のことを「土手坊主」と呼ぶようになりました。
 
堤防を調べに役人がきますと、金次郎はその役人にぴったりついてまわります。
「そこをそうしては水あたりがつよいよ」
「ここをもっとなおしたほうがいいよ」
と口だししてまわりの人々をはらはらさせました。
 
また、こんなこともありました。十三歳の頃のことです。
金次郎はとなり村の農家で十日間ほど子守をして働いて、袷(あわせ)一枚と銭二百文をもらってわが家に帰るところでした。前方の枯れ草の上に一人の老人がうずくまっています。
 
「誰かこの松の苗を買ってくれる人はおらんかのう。せがれが病気なんだが薬も買えないんだよ」
「いくらなの。おじいさん」
「二百文でいいよ。二百本あるよ」
困ったようなおじいさんと二百本の松の苗をみていて、金次郎はあることを思いつきました。
 
「酒匂川の土手にこの松の苗を植えたらどうだろう。きっと村を洪水から守るのに役にたつぞ」
「おじいさん、おれに売って下さい」
 
金次郎はもらったばかりの二百文で二百本の松の苗を買って、一番洪水に弱いと思われるあたりに一本一本ていねいに植えていきました。
 
この松の苗は大きく育って村を洪水から守ったということです。
 
 

 

二、グルリ一遍(いっぺん)  
 
 
今日は雨です。雨の日の仕事に米搗(こめつ)きがあります。臼(うす)に入った玄米を杵(きね)で搗(つ)いて糠(ぬか)をとりのぞいて白米にするのです。
 
金次郎は米搗きをしながら本を読むにはどうしたらよいか考えました。臼のそばに箱を高く積み重ねて置き、その上に『大学(だいがく)』や『論語(ろんご)』の本をのせます。
まず一節読みます。それを味わったり唱(とな)えたりしながら杵で米を搗き、臼の周囲をぐるりとまわります。そしてもとの場所へもどってきたとき次の一節を読む、というふうにして読書しました。それで金次郎のことを「グルリ一遍」と呼ぶようになりました。
 
 
三、キじるしの金さん
 
 
金次郎は、こうして日々を明るくいそしんでおりましたが、寛政十二年 (一八○○年)、父は病の床についたまま、ついに帰らぬ人となってしまったのです。母よしは、三人の子どもを育てながら家を支えていかねばなりませんでした。
 
「みんなで力を合わせてやっていこうよ」
母 を励ましながら金次郎は田畑へでて働きました。朝はうす暗いうちに起きて山に行きます。木をきって薪(まき)をつくり、それを町へ持っていって売るので す。夜は縄(なわ)を綯(な)い、わらじをこしらえます。それらを売ったお金で日用品を買うのです。わずかなお金ではありましたが、金次郎の家にとっては 有り難い、なくてはならないお金でした。
 
そして金次郎は、暇(ひま)をみつけては以前父に手ほどきしてもらった『大学』や『論語』などの本を読みました。本を読み、考えます。
 
生活しながら考え、自然を見つめては考え、また読みます。働いて一家を支えている金次郎に、学問は生きる道すじや物事の理(ことわり)を示してくれ、未来に明るい光を感じさせてくれるものでした。
 
ですから金次郎は風呂を焚(た)きながらも本を読みます。薪(たきぎ)を背負(せお)って町に売りに行くときも手放しません。
「おいみろよ。キじるしの金さんだよ」
「百姓に学問なんかいらないのになあ」
「本を読みすぎて頭がおかしくなったんじゃないのか」
と村人たちがうわさします。
 
突然、金次郎の声がします。それも大声です。
「大学の道は、明徳(めいとく)を明(あきら)かにするにあり。民(たみ)に親(した)しむにあり。至善(しぜん)にとどまるにあり」
 
声高らかに『大学』の中のことばを口ずさむのです。いつでも、どこででも、本を読み高らかに唱えるのですから、
「やっぱりキじるしの金さんだなあ」
と村人は語りあうのでした。
 
つづく
 

財団法人新教育者連盟 「二宮金次郎」より 





二宮金次郎

2012年10月07日 14時49分55秒 | 歴史

サイタニのブログからの転載です。

サイタニさんが、二宮金次郎の連載を始められました。昔の小学校には、必ずこの二宮金次郎さんの銅像がありましたが、今はない所も多いようです。戦後日教組によって、小学生に人間が人として行うべき道徳を教えることは、思想の押しつけになるといって、道徳的なことを教えることは悪いことだという考えで、人間の生きるべきあり方を教えることをしなくなりました。

金次郎さんは、昔の日本人には、代表的な偉人であり、模範となるべき人として、多くの小学校でその生き方を学びました。子供はそうした偉人の生き方をけっこう喜んで聞き、みな憧れてそのように生きたいと思う子も多くいました。偉人の言動は、人々を元気にし、勇気づけ、励ます力があります。彼らは歴史の中の生きたお手本であり、成功例であるから、同じ人間として、自分にも出来るという気持ちをもたらします。

道徳というのは、確かにともすれば、押しつけになることもありますが、こうしたある意味体験談とも言える偉人のお話は、生きて子どもの心に届くのではないでしょうか。また日本の歴史に現れてくるこのような偉人のお話を教えずにいて、本当に日本の国を受け継いでいけるのでしょうか。先人の心を知らずに国としての誇りをもつことができるのでしょうか。

 

 

 

二宮金次郎
 
はじめに
 
谷口雅春先生は『生命の實相』第十四巻教育篇において、「人は成ろうと思う者には必ずなれるのだ。知ろうと思って知れないことはありえないのだ」と 彼らを鞭撻(べんたつ)し、勇気づけ、世界の偉大な学者、発明家、英雄、豪傑、聖賢(せいけん)の立志伝などをやさしい言葉で説いて聞かすようにせよ、子 供は偉人の立志伝を喜んで聞くものだ。それらの偉人と同じくなんじの内にも磨けば磨くほど、どれだけでも生長する潜在能力の蔵(かく)されていることを彼 に知らしめよ。何事でもできると思って突き進めば必ず成し遂げうるだけの力を人間は授かっているものだという真理を、子供に理解力がつき始めた時、その初 期から教え込むようにするがよいのである。とご指導くださいました。
中略
かつて多くの小学校などには、二宮金次郎の銅像や石像がありました。先生や親から聞いた金次郎の話―伯父(おじ)の家に預けられ、農作業に励みながら、夜なべ仕事をしたり、学問をしたという話―に感動し、志を抱き、身を励まし、名を立てていった先輩たちが数多くいました。
 
また二宮金次郎は「人は天地のあらゆるものとご先祖の恩を受けてこの世に生きている。これに報いることこそが報徳であり、人の道である。報いるということは、いっさいのものの長所や美点を引き出し伸ばしていくことだ」と 言っています。まさに「生命の教育」と同根の精神です。学校や地域などの教育現場から、多くの偉人たちの立志伝が姿を消し、「倹約」や「勤勉」の美徳が語 られることの少なくなった現代の世にあって、本書が美しい「日本の心」を呼び覚ます一灯となればと念願してやみません。
 
 
金次郎少年のわらじ


 
二宮金次郎は、江戸時代も後期の天明七年(一七八七年)、相模(さがみ)の国栢山(くにかやま)村(今の小田原市栢山)に、二宮利右衛門・よし夫婦を父母として生まれました。
父の利右衛門は、「栢山の善人」とあだ名されるほどなさけぶかい人で、困った人がいるとすぐにお金を貸してあげるのでした。証文もとらず「返せ」と催促もしません。貧しくて困っている人はいくらでもいて、二宮家のたくわえはどんどんなくなっていきました。
すると、利右衛門は父の銀右衛門が汗水流して築いた田畑を手放してまで、村人にお金を用立ててあげるのでした。
 
利右衛門は、もともと田畑を耕すより本を読むほうが好きなおっとりとした人で、先祖伝来の土地を何がなんでも守りぬこうという気持ちは薄かったようです。
寛政三年(一七九一年)、関東地方を大暴風雨が襲いました。いつもはゆるやかに流れている酒匂川は水量が増え、ゴオーツと音をたてて今にも栢山村に流れてきそうです。村人たちは必死で土嚢(どのう)を積んで防ごうとしましたが、堤も切れ村は濁流に呑みこまれてしまいました。
 
利右衛門とよしは、畳を高く積みあげた上に五歳(以下数え年)の金次郎と二歳の友吉をのせて、なんとか一家四人の命は助かりましたが、実るばかりだった稲は、跡形もなく流されてしまったのです。
 
利 右衡門はがっかりしました。水田は砂や石でおおわれ河原のようです。親子四人、この冬をどう過ごしたらよいのでしょう。生活は苦しくなり、借金をしなくて はやっていけないようになりました。そんな生活が何年も続いて、利右衛門はもう身も心も疲れてしまいました。夜も好きな本を読むでもなくぼんやりしていま す。
 
金次郎は十二歳になっていました。利右衛門より祖父の銀右衛門に似たのでしょうか、身体も大きく筋骨たくましい少年でした。そして何ごとにもくじけない強い心と、思いやり深い心の持ち主でした。
『とうさんは、ひどく疲れている』
と金次郎は思いました。優しい大すきな父、人が良くて財産をなくしてしまった父、洪水で田畑を流されて、それでも一所懸命働いてくれる父、その父のさびしそうな横顔……
『とうさんの喜んでくださることはないだろうか。とうさんの好きなお酒を飲ませてあげたいなあ』
と金次郎は思いました。
 
もとより、そんなお金はありません。金次郎は母にわらじの編み方を習い、ていねいに一足一足、何日もかかって編みました。何足かたまると、それを売りに行き、少しのお金がもらえました。
金次郎ははじめて働いて得たお金で、わずかばかりでしたが酒を買って家に帰りました。
「とうさん、どうぞ飲んでください」
「おお、これは」
息子がはじめて働いて得たお金で買ってくれた酒です。
 
 
つづく
 
 
注:とうさんを喜ばせたい、ここが繁栄の鍵です。幸福になりたい人は親に感謝し、親を喜ばせない限り本当の幸せはきません。法則です。
 

日本のいちばん長い日

2012年08月18日 12時20分33秒 | 歴史

かつて日本は美しかったからの転載です。

戦後に占領軍によって洗脳されて、考え方が変わってしまった現代の思想で、当時を批判し、断罪し、あるいは軽蔑や冷笑で歴史を見る人々は、日本を愛しているとは決して言えません。小林秀雄氏は、本当にその国を愛しているなら、歴史に対しては、あたかも死んだ子の年を数える母親のような気持ちで、その歴史をいとおしむ気持ちになるのだという意味のことを言われていました。当時の人々の気持ちを理解することなく、他人ごととして、歴史を裁く人々は、けっして歴史を継承することはありません。

今回終戦を決断する日本政府の当時の人々の葛藤、苦悩、そして昭和天皇の身に変えても国民を守ると決意された意志の固さ、そうしたものを三連の記事で書かれています。これを読むと、天皇を始め、みな命をかけて決断していることがわかります。国民の中にも終戦が決まったときに、自決した人もいたのです。国民のためならと生命を投げ出す覚悟をされた天皇も、その天皇をお守り出来なかったと感じて自決した人も、当時の日本という国柄は、君民共治、君民同治の君民一体の意識の国でした。

アメリカは、だからこそ、この意識が日本の強さの根源だと知って、この日本人の意識を破壊することに全力を注いだのです。そうして日本人を完全に意識改造しようとしたのが、ウォーギルト・インフォーメーション・プログラムであり、一連の占領政策でした。

 

 

 

昭和天皇の聖断下る

昭和天皇の聖断で戦争は終わった。

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 昭和20年(1945年)8月9日深夜、御前会議が開かれます。御前会議 は本来儀礼的なもので、天皇陛下は一切発言しません。結論も決まっており、シャンシャンという会議です。ところがこの日の御前会議は前もって開かれた最高 戦争指導会議でも閣議でも結論がでないまま開かれた異例なものでした。実は鈴木首相は事前に昭和天皇に
「終戦の論議がどうしても結論の出ませぬ場合には、陛下のお助けをお願いいたします」と了解を得ていました。

 東郷外相

「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含しおらざることの了解のもとに・・・ポツダム宣言を受諾すべきである」

 阿南陸相

「信頼のおけない米ソに、保障もなく、皇室の運命を任せることは断じてできない。あくまで抗戦してこそ、有利な和平条件も得られる」

 梅津参謀長

「陸軍大臣と同意見である。本土決戦の準備は完了している」

■ポツダム宣言受け入れに対して国体護持の一条件のみ提示するとの主張

   東郷(外相)、米内(海軍大臣)、平沼(枢密院議長)※1

■国体護持に加え占領は最小限であること、武装解除は自主的に行う、戦争犯罪人の処分は日本側で行う四条件を提示すると主張

   阿南(陸相)、梅津(参謀長)、豊田(軍令部総長)

  憲法上条約締結については会議で決定した後で枢密院に諮る(はかる)必要があります。状況が切迫しているので、平沼議長を直接参加させていました。これも 鈴木首相の策略であったといわれます。これで三対三です。このまま結論がでずに膠着状態になります。すると鈴木首相がこう述べます。


「意見の対立がある以上、甚だ恐れ多いことながら、私が陛下の思召しをお伺いし、聖慮を持って本会議の決定といたしたいと思います」

 このとき阿南惟幾陸相は「総理」と小さな声を発したと、同席していた速水久常書記長が述懐しています。

  昭和天皇

「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の申しているところに同意である」
「本 土決戦というけれど、一番大事な九十九里浜の防備もできておらず、又決戦し弾の武装すら不充分にて、これが充実は9月中旬以降となると云う。飛行機の増産 も思うようには行って居らない。いつも計画と実行とは伴わない。之でどうして戦争に勝つことができるか。勿論、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰 等、其等の者は忠義を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御 心持を偲び奉り、自分は涙を飲んで原案に賛成する」


 徹底抗戦を主張した阿南惟幾は伝家の宝刀「辞職」を使わなかったばかりか、会議終了後に鈴木首相に
「総理、これでは約束が違うではありませんか!(陸軍省と最初にかわした約束は徹底抗戦)」と詰め寄った吉積軍務局長に「吉積っ、もうよいではないか!」と一喝しました。

  77歳になる老宰相は17時間にも及んだ会議を乗り越え、「国体護持」の一条件をつけてポツダム宣言を受諾すると決定。中立国スウエーデン、スイスを通じて連合国へ打診しました。その際にはソ連の中立条約違反に異議をつけることを忘れませんでした。

  阿南惟幾は陸軍省高級部員を全員集め、「聖断によるポツダム宣言受諾」を報告します。そしてこういいます。

「あえて反対の行動に出ようとする者はまず阿南を斬れ」




※1平沼枢密院議長は態度が不鮮明だったという説もある。


参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
  昭和天皇(昭和7年のもの PD)

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昭和天皇の二度目の聖断

聖断は二度あった。

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 昭和20年(1945年)8月10日、日本国政府は国体護持を条件としたポツダム宣言受け入れを中立国を通じて連合国に発信しました。

「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らさることの了解の下に受諾す」


 これに対して12日、連合国から回答が届きます。「バーンズ回答」と呼ばれるものです。

 これで問題となったのは第二項です。
「降伏の時より天皇および日本国政府の国家統治権限は降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下におかるるものとす」

  国体護持の条件回答が明確ではなく、「連合軍最高司令官の制限」の部分で、原文は「subject to」であり、外務省は意図的に「制限」と訳しましたが、これは「従属」「隷属」「服従」を意味しているもので、軍部はこれを正確に把握しており、反発す ることになります。

 陸軍強硬派は梅津参謀総長と阿南惟幾陸相クーデター決行を迫りましたが、梅津参謀総長が断固拒否し、阿南陸相も梅津参謀総長に反対しなかったためクーデターは未発に終わりました。

  8月13日、最高戦争指導会議で阿南惟幾陸相は国体護持について「再照会」を要求します。「subject to」の議論はエスカレートしていきました。そこで鈴木貫太郎首相は
「どうも軍部は、言語解釈を際限なく議論することで、せっかくの和平の機会をひっくり返そうとしているかのように、私には思われます。専門家である外務省の解釈になぜ任せられないのですか」と図星をいい、これで軍部側は怒気に水をかけられたようになりました。しかし、結論は出ませんでした。

 陸軍強硬派が暴発しかねず、御前会議も参謀総長と軍令部総長が判を押さねば開くことがでいません。鈴木首相は天皇直々の召集に打ってでます。昭和天皇は即座に同意しました。阿南陸相は総理室へ総理を訪ねていきました。

阿南
「総理、御前会議を開くまでもう二日待っていただけませんか。その間に陸軍のほうは何とかします」
鈴木
「時期はいまです。この機会をはずしてはなりません。どうか、あしからず」

 阿南陸相の顔に寂しげな影がよぎり、丁寧に敬礼をすると部屋を出ていきました。居合わせた小林軍医が「待てるものなら待ってあげては?」というと、総理は「今をはずしたら、ソ連が満州、朝鮮、樺太だけでなく、北海道にも攻め込んでくる」と答えました。軍医は「阿南さん死にますね」というと鈴木首相は「うむ、気の毒だが」と答えました。

 8月14日、御前会議は最高戦争指導会議のメンバーだけでなく、閣僚全員を出席させました。阿南陸相と梅津参謀長はポツダム宣言受諾に反対を唱えます。そして昭和天皇はこう述べられます。

「国体についていろいろと危惧あるということであるが、先方の回答文は悪意を持って書かれたものとは思えないし、要は国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答をそのまま受諾してよろしいと考える」
「国民が玉砕し君国殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争を続けては結局我が国がまったく焦土となり、国民にこれ以上の苦悩を嘗めさせることはわたしとしてはじつに忍び難い」


 阿南惟幾陸相は号泣します。その阿南陸相に昭和天皇はこう述べます。
「阿南、阿南、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」

 こうしてポツダム宣言受諾が正式決定し、中立国を通じて連合国へ正式に申し入れ「戦争終結の詔書」が発布されます。

 このときの大御歌

「国柄をただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり」


  この後、昭和天皇は今生の別れを意識して皇太后陛下にお会いになりました。



参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 まほらまと草子「かえるうぶすな」南出喜久治(著)
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
 中公新書「昭和天皇」古川隆久(著)
添付画像
 「白雪」号にまたがる昭和天皇(PD)

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日本のいちばん長い日

  子供の頃、「日本のいちばん長い日」という映画をテレビで見た記憶があります。白黒でした。

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 昭和20年(1945年)8月14日、御前会議で聖断が下り、ポ ツダム宣言受諾が決定し、終戦が決定します。終戦と言えば聞こえはいいですが、「敗戦」です。阿南惟幾陸相は青年将校を集め御前会議の報告を行います。徹 底抗戦を信じていた若者たちは愕然とし、「大臣の決心変更の理由をお伺いしたい!」との声に阿南陸相はこう答えます。

「陛下はこの阿南に対し、苦しかろうが我慢してくれ、と涙を流して仰せられた。自分としてもはやこれ以上反対を申し上げることはできない」
「聖断は下ったのである!今はそれに従うばかりである!不服のものは自分の屍を越えてゆけ!」

 阿南陸相は深夜近く、鈴木貫太郎首相を訪ねました。
阿南
「総理・・・」
鈴木
「はい。何ですかな」
阿南
「ここへ至るまでに、いろいろな事を申し上げ、総理を煩わせたことをお詫びします」
鈴木
「とんでもない。今日まで内閣を支えてくださって、こちらこそ感謝しています」

 阿南陸相が陸相を辞任して陸軍が後任を拒否すれば内閣総辞職でした。そして軍政となり本土決戦に向かうところでした。阿南陸相は辞任を拒み通したのです。

阿南「これは貰い物の葉巻です。総理はお好きですから、すってください」
鈴木
「ありがとう。何よりの物です。遠慮なく頂戴します」
阿南
「では、おやすみなさい」
鈴木
「おやすみなさい」

 連合国への正式回答の打電は陸軍の妨害によって午後10時過ぎにやっとおこなわれます。そして昭和天皇は皇居、表拝謁の間で終戦の詔勅をNHKラジオ放送用録音盤に録音しました。昭和天皇はご自身の御意志で2回録音されました。
  この録音盤を奪取しようと近衛師団の青年将校が師団長を殺害。ニセの師団命令を流し、宮城各門を占拠します。録音の仕事を終わって退下する情報局総裁や技 術員等を逮捕し、皇居警察に封じ込めました。この報を東部軍司令部が聞き、田中静壱大将は単身数名の憲兵を引き連れ、15日夜明けを待ってお濠を迂回し、 大手門、竹橋の街路を通って近衛師団(現在の科学技術館、武道館のあたり)に乗り込み、青年将校の一部を逮捕し、宮中に参入。叛徒を退散せしめました。 (宮城事件)

 阿南惟幾は15日4時40分に割腹し、7時10分絶命。

<遺書>
 一死以って大罪を謝し奉る

  昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣阿南惟幾

  神州不滅を確信しつつ

<辞世の句>
 大君の 深き恵に 浴みし身は 言いのこすへき 片言もなし

 この阿南惟幾陸相の自決は徹底抗戦派を抑える決定打となりましたが、水戸の陸軍で は近衛師団のクーデター失敗が伝わらず、東京上野公園に集結し美術学校を占拠します。しかし、クーデターが失敗したことを知り愕然とします。近衛師団で クーデターを起こし、身柄を拘束されていた石原少佐が説得を買ってでますが、一部の将校が発砲し、石原少佐は死亡。その将校も斬られて死亡。直属の上官は 自決。他の将校も数名、水戸に戻って自決しました。(上野事件)

  近衛師団の反乱に昭和天皇はこう仰られました。
「いったい、あの者たちはどういうつもりであろう。この私の切ない気持ちがどうして、あの者たちには、わからないのであろうか」「わたしが出て行こう」「兵を庭に集めるがよい。私がでていってじかに兵に諭(さと)そう」

 阿南陸相の自決についてはこう述べられています。
「阿南は阿南の考えがあったのだ。気の毒なことをした」

 15日正午、玉音放送が流されました。鈴木首相はその日の午後、辞表を提出しました。

参考文献
 幻冬舎「昭和天皇論」小林よしのり(著)
 中公文庫「われ巣鴨に出頭せず」工藤美代子(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 別冊正論「遥かなる昭和」『皇国護持ヲ念ジツツ本夜自決ス』岡村青
 講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
 PHP文庫「鈴木貫太郎」立石優(著)
添付写真
  終戦の日の皇居前(PD)

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終戦の詔勅 (玉音放送)


http://www.youtube.com/watch?v=LSD9sOMkfOo


日本民族国家の形成と天皇御存在の意義(対談)  8

2012年07月22日 16時14分00秒 | 歴史
サイタニのブログからの続きです。今回でこの対談は終わりです。

前回から、国家のエゴイズムは何で抑えるかという問題が話されています。戸田氏は天皇の御存在の中にそれを抑えるものがあると考えておられるように伺えますが、福田氏や村松氏は、それは天皇個人のことであって、国家はまた別であると考えられておられるようです。しかし、私には戸田氏の考えが実は日本の国の一番本質を表しているのではないかと考えられます。

福田氏や村松氏は天皇の個人(この場合は昭和天皇)の性質が、吉田茂首相の言うように天皇陛下だけは三十億の人間のことを考えておられ る。特別の方だという御存在だとしても、それは長い歴史の中で培われた帝王学が天皇という存在をそのようにしていても、それはそれ以外の多数の日本人とはまったく別もので、それは国家を規定することにはならないといわれます。

しかしそれは他の君主国、あるいはちょうど天皇機関説のように天皇を捉えるということではないでしょうか。もし、幕末やそれ以前の日本人、特に古代や上代の日本人が天皇を恋い慕うような思いで日本の国は天皇国家だというふうに自覚すれば、元首である天皇の無私の精神、常に民安かれ国安かれと祈られ、また天皇陛下だけは三十億の人間のことを考えておられ るという天皇の思いを国民が自己の中に受け止めようとするのが、本来の日本人のあり方だったのではないかと思います。

日本人は国家を家庭のようにみなし、天皇を親や家長という感じに近い敬意を抱いてきました。そんな国民と天皇の絆が、国内での個人のエゴイズムを抑え、同時に国家自体のエゴイズムをも抑えて、天皇の名を辱めない国家としてのあり方を求めてきたのだと思います。神州、神国という言葉が、単なるお国自慢になってしまうのではなく、道義国家としてのあり方を求める自律心にもつながる言葉ではなかったかと思います。それは決して他国を貶める言葉ではなく、自己へ向かう言葉であったと思います。

北畠親房の書いた『神皇正統記』は、「大日本は神国なり」という巻頭の言葉から始まります。しかし北畠親房は、この言葉に日本人としての誇りは感じていますが、同時に釈迦を生んだインドを敬い、孔子孟子を生んだ支那を尊ぶ人間なのです。親房において神国という言葉が、けっして外国を貶めるものでなかったことは確かで、それは日本人としての自己を規制する言葉であり、日本人としての生き方を表す言葉であったと思えます。

このような過去の日本人の持つ感覚を呼び覚ませば、けっして国家のエゴイズムを助長するような愛国心はありえないと感じます。日本人の道徳上の潔癖さは神道から来ている場合が多いと私は思っています。スポーツにおいても、日本人はルール違反をしてまで勝つことを潔しとしない国民性だと思いますが、そうした文化的基盤、日本人的思考法、そうしたものをよみがえらせることで、戦後の自虐史観と権利主義からはびこった道徳の堕落、国家や団体のエゴイズム、さらには卑屈さというものを払拭する鍵があるのではと思っています。









 
 ―戦中の一億玉砕が戦後の非武装中立で、まるっきり裏返しとなってし
まった。国際関係と無関係に「平和」に生きようとする安穏の国―
 
 
福田 いや、国家、今までの杜会という概念に対して国家という概念を日本に植えつけること、そのことは必要ですけれど、日本が世界に冠たる国だと、そんな事をいいだしたら、みんながお国自慢を姶めて、イギリスは"冗談じゃない、オレの方がお前達より優れた国である"とか、フランスは〃そうじゃない。とか、お国自慢してたら、これはもうまとまりがつかない。さっきのキリシタンの話じゃないけど、人間の普遍性と結びつかない国家主義というのは危険だというのです。いま、へたをするとそっちへ行く心配がある……。
 
戸田 その問題について、私は今上天皇の御歌を拝してますと、そういう危険はむしろないと思われるんです。むしろその点で陛下の御歌を鏡として仰がなきゃならない点が大いにあると思う位なんですが……。
 
村松  それは天皇御個人のことではそうかもしれないけれど……。亡くなった吉田茂さんがいっておられたそうですね。しょっちゅう国家のことを考えているのが政治 家である。日本では派閥や地盤にみんな気をとられて国家のことしか考えない政治家はまれなんだけれど、天皇陛下だけは三十億の人間のことを考えておられ る。特別の方だ、ということをいっていたそうです。
 
戸田 そうでしたか。

村松  ええ。だから陛下のことは別で、まあ、帝王学という背景があるわけでじょう。それと、日本国民全体とはまた自ら別でして、日本国民がみんな帝王学を習って いるわけじゃない。むしろ日本人は今でも鎖国的心情の中で生きていて、そのへんは変らないと思うのです。敗戦直後にアメリカ軍が日本人のことを称して、 「日本人は主観的に戦争をしてきた」といったそうですが、そのとおりだと思います。いま日本人は、主観的に戦争ではなく平和を、世界情勢と関係のない状態 で生きている。戦争中の一億玉砕が戦後の非武装中立で、まるきり裏返しで同じものでしょう。長沼判決なんていうのは、いざとなったら竹槍ということですか らね。全く日本人はその意味では戦前も戦後も変らないものを持っている、あらわれ方が違うだけですよ。世界的な脈絡の中で生きたことが、残念ながらないです。ということがおっしゃるように最大の弱点かもしれないですね。
 
戸田 僕は人間というのはやはり、絶望というか、悲観というか、それに耐えられないものがあって、日本人はこの悲観、絶望に徹底すればその底からはい上るように、それからの脱却を意志するんじゃないかと思いますがね。
 
福田 普遍性の問題。当面では、さっきの村松さんがおっしゃったイデオロギー戦争と結びつくんですが、共産主義、或いは全体主義杜会と自由主義杜会とは、デタント(緊張緩和)とか何とかいっても、二つが対立していることは事実で……。
 
村松 私はデタントというのはどこにあるんだか、さっぱりわからない。()

福田  あれは次の闘争までの時間稼ぎですもの。その中で、いきなり世界連邦なんて考えられない、自由主義社会と全体主義社会とは、どっちが人間の普遍性というの を生かすものかということを考える必要があると思うんです。話すと長くなるけれど、私は自由主義杜会の方が、いまいろんな弱点が出てます。ヘタすると確か に、自由主義杜会の危機かもしれない。ソルジェニーツインのいっているように、〃自由主義杜会はすでに負けたんだ"と いうことは当っているかもしれない。しかし長い目でみれば、こっちの方が普遍的なものを持っていると思う。私は少なくとも自由主義社会の一員であるとい う、その自覚というものを、はっきりさせなきやいけないと思う。手近な問題で、それを考えるんですよ。そのぐらいのことしか考えられない。


                                                      昭和50年
 
 
戸田  僕は、多神教の世界というものが、世界史の上で果した貢献は余り評価されていないのをかねてから残念に思ってました。多神教は、寛容の宗教として寛容の世 界を生んできたものです。ところがある意味で一神教を中心とする西欧の世界の歴史は非寛容の、それこそ血で血を洗う血なまぐさい歴史じゃなかったですか。
 
村松 マルクス主義というのは一神教で、一神教の排他性をじつにつよくうけづいでいますね。
 
福田 しかし、寛容の精神でいくと、等距離外交が一番いいということになる。三木さんが寛容の精神で、あれでは困る。或る意味では峻厳の精神を入れなきゃいけない。その寛容と峻厳とは二元論で両立させなかったら、人間の普遍性に達しない。ど ちらか片一方、例えば男性的と女性的と、「ますらおぶり」と「たおやめぶり」とを向立させなかったらダメです。「たおやめぶり」が日本の民族性だというこ とに決めちゃうと、これはもう誰とでも寝た方がいい、強姦されるのが一番いい、抵抗しちゃいけないということになっちゃうんですね。()
 
戸田 それは日本の「憲法」を解釈して、防衛軍のないのがよいのだというのに通じますね。他国の平和意志に信頼して貞操帯はなくてもすむんだという、強姦のない世界を夢想するみたい・…。
 
福田 ええ。私は寛容というのは日本の美徳とは限らない。それは、日本人は寛容だけだとは限らないと思いますね。激しいものも持っていると思います。両立しないといけない。
 
戸田 僕は、例えば聖徳太子のおことばに、自已を絶対化しないという意味での本当の寛容の精神を拝しますが。それは、今お話の峻厳の精神を含むことと矛盾しないと思うんです。そういう宗教精神は問題になりませんか。
 
福田 日本国、というと絶対化しやすいのです。自已は絶対化しないくせに。日本国というと絶対化しやすい。それは一体どこから出てきたか、もう少し究明する必要があると思います。
 
村松 いまは平和憲法が絶対化されてますからね。
 
福田 それと同じですね、右翼も、左翼も共産主義というと、絶対化しちゃう。そういうものが危険だと思う。ナショナリズムとインタナショナリズムとが同時に存在しうるという点で、私は自由社会というものにまだ、一るの望みを托しているわけです。せめてそれにコミツト(関与)する姿勢をはっきりさせるべきだと。その中でいろいろ利害のとりひきはありますよ、もちろん。

戸田 まだまだ話は尽きませんが、今日のところは肝腎のところを大体お出しいただいたと思いますので、この辺で終りにさせていただきます。大変有難う存じました。
 
 
                                           「昭和史の天皇・日本」より (完)



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日本民族国家の形成と天皇御存在の意義(対談)  7

2012年07月22日 00時34分03秒 | 歴史

サイタニのブログからの続きの転載です。

この対談は昭和50年のものなので、今とはいく分社会的な状況は違いますが、共産主義の戦略は、今も生きている考えます。現代では共産主義はすでに崩壊して、共産主義への恐れはなくなったと思っている人が結構いますが、私は、共産主義という名前はすでに古くなって化石化したとはいえ、それは形を変えて、やはり残っていると思っています。現に中国は資本主義化したとはいえ、全体主義の国として残っています。そして着々と支配権を広げようと努力しています。その中国の日本への工作は、ここに書いてあるのとほぼ同じ戦略が進められていると思います。

今の民主政権がいかに中国寄りで、中国の言動に気を使い、領海侵犯の船長を釈放し、習近平を無理やり天皇陛下に会わせ、尖閣諸島を都が買うといえば、それを応援する日本人はおかしいと、駐中国大使の丹羽氏に言わせ、すでに離党した小沢氏がかつて幹事長だった時には、「私は中国人民解放軍の日本における野戦司令官です」と胡錦濤に向かっていったほどだったのですから、もはや民主政権が中国の傀儡政権と呼ばれても何らおかしくない状態になっているのです。

この昭和50年の対談は、そう思うと予言のようでもあり、またここまでは思い描いてはいなかったであろうという気もして、当時の国民の平和ボケがいらだたしくも感じられます。

 

 


 
―日本に迫る危機はその何れもが妥当することだー     昭和50
 
 
戸田 当初、福田さんの巨視的に見たやや悲観的なお話で鼎談(ていだん)は出発したんですけれども、日本の歴史の流れを見直しての唯今のお話で、ある程度結論が出てきていると思います。結局、世界史の動向から考えても、特筆すべき常識である天皇様が存在されることの意義は、天皇様をお守りするということにつきると思われます。
 
そのことのゆるぎない限り、日本は減びないという自信がわいてきます。それは、国家と民族とを分けるんじゃなくて、国家と民族とを一体的にした日本というものであれば、それは減びないというふうに、信じてよいと思うんですが、それは短絡な思い方でしょうか。
 
村松 「ゆるぎなければ」と今おっしゃいましたが、それは仮定法で、その仮定が成立するかどうかですね。昭和の次の元号ができるかどうかだって問題でしょう。
そ れから、近頃、アメリカが、自虐症に陥ってまして、自分の国のスパイを自分で摘発することまでしはじめていますね。世界史はじまって以来、自分の国のスパ イを、自分達で一所懸命摘発している国というのを知らないんですよ。サイデンスティッカーさんに、「あの自虐、いつまで続くんですか」って聞いたら「当分 なおらないでしょう。アメリカ人というのはいつでも自分が世界で一番いい子になっていないと満足しない国民なんですよ」といっていました。今はいい子にな ろうという感情が、内攻化しているということらしい。そういうアメリカの変化が、国際関係にもいろいろ影響を及ぼしていますね。
 
一九六〇年前後のアメリカの戦略思想の本をひっぱり出して読んでいましたら、キントナーという人が、-キントナーはアメリカの元軍人で、最近はタイの大使になっていた人ですがー一九五九年に書いた本で共産主義の戦略を七ヵ条にわたって説明しているのにぶつかりました。共産主義の戦略は、
 
第一に共産主義はおそろしくないんだという認識を徹底させて、反共精神を崩襲させる。二番目に軍事力を無力にし、三、四番目に社会的・経済的組織を弱体化させる。五番目には、国内に不安を醸成させ、六番目に、さまざまな誤った情報を与えて、指導者層にまちがった決定をさせる。最後には共産主義的解決もやむを得ないと国民に考えさせる、
 
これを日本の場合にあてはめますと、よくあたっているのですね。少なくもある部分までは着々と進行しているわけでして、それを考えに入れて将来を思いますと、さっきおっしゃった、「とすれば」という仮定法が成り立つかどうか、ということになると思います。
 
戸田 その点について福田さんはどうお考えですか。
 
 
 
―危きかな日本。日本は世界の世論から見て立派に君主国だと見られていることを知るべきだ―                    昭和50
 
 
福田 私は、絶望的です。()問題は、絶望感を徹底させることが必要だと思うんです。このままで、何とかなるだろう。いつも神風が吹くだろうというのでなく…:。敗戦というのも、考えようによっては一種の神風だったんですから。あの当時、こんなにいい占領軍はないと思って、レイシヨン(米軍の携帯用食糧)ももらったし、ラッキー・ストライク(煙草)ももらったし、占領軍というのはサンタクロースだと思った時代、それから直ってないですよ。
 
村松 はじめての戦さに敗けて、はじめてきた占領軍がサンタクロースだったでしょう。だからこの次、また戦さが始まって、またあやまっちゃうと、またサンタクロースがくると思ってるんじゃないですか。()

戸田 そこまでくればもう話にならないですよね。
 
福田 だからもう絶望なんです。これから立直るにはどうしたらいいかということで、いま村松さんがおっしゃったように、天臭を元首として、はっきりさせなきやいけないという、 考え方はそうですがね。しかし、清水幾太郎さんまで、そういうことをいい始めてますが、彼が、効果があるのは、左に近かった人が言ったんで効果があるん で、我々が前からそういうことをいっててもダメなんですね。ですからあのブームがいつまで続くか。私ははなはだ危いと思うし、それから、まじめに天皇制と いう問題を考えているのかどうか。これは清水さん自身じゃないですよ、彼をもち上げるジャーナリズムが、そういうふうに考えてるかどうかは疑問だと思うん です。新聞は世論調査が好きですから、外国に向って日本は君主国なのか共和国なのかという世論調査をすればいいと思うのです。
 
戸田 海外でね。
福田 ええ、海外で。
村松 世論調査なんかしなくても、辞引には、全部「モナーキイ」(君主国)と書いてある。()
 
福田 とにかく材料を出してね。もちろん、陛下が外国へいらっしゃれば、「エンペラー」(皇帝)ですね。絶対にシンボルとは書きません。ヱンペラーと書く。エンペラーである以上、目本は君主国です。世界中が日本を君主国とみていると。日本人はどうみるのかということをハッキリさせる必要があると思う。
 
第二の問題は、日本は君主国で、天皇中心の国家にする、という自覚をみんなが持つことが大事で あると同時に、私には一つの危倶があるんです。どういうことかというと、最近日本人論ブームというか、これが非常に強いんですよ。あるいは、日本語ブーム とか。それは戦後二十年、進歩的文化人にさんざんムチ打たれて、日本という国はダメな国だ、アメリカにならえ、西洋の民主主義にならえといわれてきたこと に対する反動だということは理解できるのです。私は当時はその反対のことをいっていたんですが、これはあまのじゃくじゃなくて、今問題なのは、国民一人一 人が自分をおさえる、エゴイズムをおさえるワクとして国家とか、あるいはその象徴としての天皇というものが必要なことは議論の余地がないと思いますが、し かし、それでは国家のエゴイズムは何でおさえるのか、この概念がないとダメだと思う。
 
自 分というものはこんな長所がある、すてたもんじゃないんだ、ということは自分の押売りですから日本の民族性からいえばきたないことだと思う。それが国家と なると、日本というのは誇るべき国である、あるいは神州である、ということになる。それが素直に通っちゃうというところに、私はまだ日本人が近代国家の国 民としてちょっとまだ足りないところがありゃしないか、と考えるんです。日本国が優れている優れている、というのはおかしいんじゃないか、自慢話なんです から。
 
戸田 今上陛下の御歌を拝読しますと、やはりその、日本国を代表される御自分のいたらなさを省みられ、知られざる国民のかげの声を求められる御歌がありますがね、他の天皇さまもそうです
 
福田 いや、陛下のことじゃなくて…。
 
戸田 その点を我々は中心に考えていくことによって国全体として、国のエゴイズムを抑えることは出来ないのでしょうか。私はできると思うのですけれども。