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日本の歴史を決定づけた神話と伝承

2012年11月15日 16時24分02秒 | 歴史

新田均のコラムブログからの転載です。

先日、ヒラリー・クリントン氏が中国批判の演説をしたという記事を載せましたが、中国の政治家は愛国心を国民に求めながら、自分は祖国を捨てて蓄財に励んで家族を移民させるというなんとも不思議な生き方をする人がほとんどらしいです。また韓国でも、一族の繁栄の前には、国を喰い物にして利益を貪る政治家も多く、そのため政権末期には親族が逮捕されたり、政権を離れたら自分も逮捕されるという事態が多く起こっています。

もちろん日本でも個人の利益を貪る人がいないわけでありませんが、それでもこれらの国ほどではありません。さらにもっと昔の時代は、日本人には国のために自分の命を投げ出しても、国を護ろうとした人が多くいました。

日本と中国韓国の愛国心はどこが違うのか、この違いは日本においては忠孝一致にあるということを皇學館大学教授の新田均先生は述べておられます。

国家が統一を保ち、崩壊しないという一番の要素は、「歴史的継続」の意識にあるといえるのではないでしょうか。個人や一族という存在と国家とを比べて、国家をより高位に位置づけるもの、それは自分を祖先からの歴史的継続の流れにおいて見るとき、日本では祖先の築き愛した国家として、その中心に天皇の万世一系を見、祖先が忠義を尽くした天皇を同じくその子孫として同じように忠を尽くすことで、祖先への孝も全うできることになっていました。

これが日本人の歴史を2600年以上の長きに亘って継続させてきたのです。若し忠孝が一致していなかったならば、中国や他の諸国と同じように、必ず革命が起こり、分裂が起こり、日本という国家が今まで長らえることは出来なかったでしょう。

今政府で皇室典範改正のための民意を問うという話がありましたが、日本における天皇の万世一系を保つというのは、国家にとって歴史的継続を保つということであり、それが日本の国家の継続を保つということにつながると思います。決してこの原則を壊すことなく、男系を維持することに、全力をつくすべきです。

 

 

 

 

日本の歴史を決定づけた神話と伝承(『祖国と青年』平成12年11月号)
 

 『日本書紀』正文の記事にしたがって、日本の国土の誕生から神武天皇の即位にいたる神話伝承の粗筋を述べれば以下のようである。

一、まず天と地が分かれ、クニノトコタチノ尊からイザナギノ尊・イザナミノ尊まで、神代七世と言われる神々が誕生する。次ぎに、イザナギノ尊・イザナミノ尊が日本列島の島々と木の神や草の神をお生みになる。

二、イザナギ・イザナミの二神は日本の国を治める者を生もうとされるが失敗する。最初に生まれたアマテラス大神と、次ぎに生まれたツクヨミノ尊は素晴らし すぎて「天上」の支配者となり、次ぎに生まれた蛭児は脚が立たなかったために放棄され、次ぎに生まれたスサノオノ尊は乱暴すぎて「根国」へ追われる。

三、スサノオノ尊が高天原にやってきて、アマテラス大神と誓約(うけい)をされたことによって、オシホミミノ尊が生まれ皇統が開かれた。ところが、その後 のスサノオノ尊の乱暴によって、高天原は混乱に陥り、アマテラス大神は天石窟に隠れてしまう。しかし、様々な神々の活躍によって、アマテラス大神は再び天 石窟から出現し、天上の秩序が回復される。

四、高天原の秩序が整って後、オシホミミノ尊とタクハタチヂ姫(タカミムスビノ尊の娘)との間にニニギノ尊が誕生し、統治者として地上に降されることにな る。しかし、地上のには邪神が横行していたために、まず臣下の神々が平定のために使わされ、何回かの失敗の後に、ようやくオオナムチノ神(大国主神)の国 譲りによって、ニニギノ尊の天孫降臨が実現する。

 五、ニニギノ尊が日向の高千穂峰に降臨して後、その子のヒコホホデミノ尊、またその子 のウガヤフキアヘズノ尊と、三代にわたって日向の地を治められる。そして、またその子のカンヤマトイワレビコノ尊(神武天皇)の代になって、日本の統治を 命ぜられたタカミムスビノ尊とアマテラス大神のご命令に応えるために、日本の中心地へ進出することを決意し、様々な困難を克服して大和を平定し、都を築 き、第一代の天皇として即位される。

 シナの歴史書と違い、日本の『古事記』『日本書紀』は、以上のような神話伝承を冒頭においている。このことの意義は何だろう。
  『日韓併合への道』(文春新書)の中で呉善花さんは、朝鮮近代化の遅れを決定的なものにした要因として、自分の一族(宗族)の繁栄だけを願う「外戚勢道政 治」の横行を挙げ、「自分の属す宗族の繁栄に尽くすことこそが最大の徳目、祖先への孝だったからである」と書いている。つまり、朝鮮においては、祖先への 孝は国家(あるいは王室)への忠とはつながっておらず、極論すれば、一族の繁栄のために国家(あるいは王室)を犠牲にしたとしても、それは祖先に対する不 孝にはならない、ということであったようだ。この文を読んで私は、神話伝承を歴史記述の冒頭においた古代日本人の英知とその恩恵の深さとに思いを致さない わけにはいかなかった。

日本の神話伝承の基本構造を一言で言えば、それは「忠孝一致」ということになる。神話には様々な神々が、伝承には様々な豪族が登場するが、色々な出来事を 経て、結局、天上には天照大神を中心とする秩序が整い、地上にはその反映として、天皇を中心とした秩序が整うという物語になっている。その際、神々や豪族 は天皇の臣下、協力者、帰順者として描かれている。このような先祖物語を尊重し、継承してきたことの意義は大きい。すでに先祖が天皇を中心とした物語の秩 序に組み込まれてしまっている以上、どの豪族にとっても、自分の一族の利益さえ追求すればそれだけで先祖に孝を尽くしたことなる、とは言えない構造が出来 上がってしまったていたからである。

 たとえば、藤原氏の先祖である天児屋命は、天照大神が天石窟に隠れられた時には、天石窟の前でその 御出現を祈り、天孫降臨の際には、高皇産霊尊からは皇孫のための祭祀を、天照大神からは神鏡の防護を、それぞれ命じられている。したがって、藤原氏にとっ て、一族の繁栄のみを追求して、国家皇室の繁栄を無視するなどということは、決して先祖に対する「孝」とはなり得なかった。古代においては一族というのは 最も強力な私的関係であったと思われるが、それをも超える価値として、天皇を中心とした公的秩序を描き出すことにより日本神話は歴史に重大な影響を与える ことになったのだと、私は考えている。

 

 

 

 


奴隷制度を憎んだ日本人

2012年11月01日 02時17分48秒 | 歴史

 かつて日本は美しかったからの転載です。

日本の歴史上、奴隷制度というものがあったことは一度もありません。昔歴史の教科書で、班田収授法というのを習いましたが、その中にというのがあり、奴隷と習ったような気がしますが、しかしこれは奴隷ではありません。実際、このも班田収授法では、にも良民の3分の1の農地が貸し与えられているのですから、これは身分の下級の人々であり、奴隷のように拘束されて働かされているような人々とはちがいます。

また魏志倭人伝には、日本から生口を献上したと書いてあり、これが奴隷だという説もありますが、何しろ魏志倭人伝は日本に関する地名や人名なども蔑んだ呼び名で邪馬台国だの卑弥呼だとのわざわざ貶めるような漢字を当てているくらいですから、もしかしたら日本からの留学生やあるいは技術者などさえも、貶める記述をしたことはありうることです。JJ太郎さんのおっしゃるとおりだと思います。

実際に古事記日本書紀という正式な日本の史書には、そういう奴隷制度などの記述はないのです。古事記日本書紀は、天皇皇室などのことも公平に隠さず悪いことも恥ずかしいようなことも書いてあるのですから、もし制度として奴隷制度があったならば、現代から見て悪と思っても、歴史のその時点で後世の視点があるわけはないので、隠さずに書いたはずだと思います。

また、日本人の宇宙観、自然観は、万物に神が宿ると考えていたのです。そしてまた、日本人は神の子孫という意識があり、人間もやはり神として祀っていたくらいですから、その人間を奴隷として扱うような事は、神を冒涜するようなもので、日本人の宇宙観、自然観、人生観に反することだと思えます。

近代になって、欧米のアジア人種への差別、搾取は、そんな日本人からみれば、許せないものとしてなんとかやめさせたいという悲願のように思えたことでしょう。


 

 

日本人は昔から非人道的な奴隷制度を憎んだ。

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 カール・ツンベルク、日本語表記ではツンベリーといわれています。スウェーデンの植物学者で医学者でもあります。1771年オランダ東イ ンド会社に入社し、ケープタウン、セイロン、ジャワを経て、1775年(安永4年)8月にオランダ商館付医師として出島に赴任。翌1776年4月、商館長 に従って江戸参府を果たし徳川家治に謁見しました。ツンベリーは、わずかな江戸滞在期間中に、吉雄耕牛、桂川甫周、中川淳庵らの蘭学者を指導しました。 1776年、在日1年で出島を去り帰国し、1781年、ウプサラ大学の学長に就任しました。

 ツンベリーの逸話に日本人から冷たい視線を受けたというのがあります。ツンベリーはオランダ人として来日しているので、日本人にはオランダ人だと 思われていました。オランダは奴隷貿易をしており、日本人はそれを蔑んでいたのです。有色人種が白人を蔑視するなど想像もしていなかった彼は随分戸惑った ようです。ツンベリーの著書にも次のような記載があります。

「日本人は、オランダ人の非人間的な奴隷売買や不当な奴隷の扱いをきらい、憎悪を抱いている」

 日本は明治維新以降、人種平等を掲げていましたが、江戸時代からも人種差別を嫌っていたことがわかります。幕末の頃はポルトガル人も日本に来ると 見下されるのでわけがわからなかったといいます。幕末の書には「奴隷制度を廃止しない連中は犬畜生だ、人の道に反している」と書かれているそうで、攘夷論 とあいまって白人の行いを憎んでいたのでしょう。

 明治5年(1872年)、上海からシナ人を船に乗せてアメリカ大陸で奴隷として売り飛ばすペルー船籍のマリア・ルス号が修理のために横須賀港に入 港したとき、脱走したシナ人がイギリス軍艦に助けを求めました。イギリス在日公使からの要請をうけ、副島種臣外務卿(外務大臣)はシナ人救助を命じていま す。ペルー側は怒りましたが、ロシア皇帝が仲裁裁判を行い、日本側が勝訴しています。(マリア・ルス号事件)

 日本の歴史の中で国家的に奴隷制度を敷いたというようなことは見当たらず、シナの魏志倭人伝に日本人が奴隷を連れてきたと書かれていますが、シナ の史書はそもそも政治のために「造る」ものですから怪しい。日本の人種平等的、人道的な考え方は2000年の歴史によって醸造されたものでしょう。

 大正8年(1919年)のベルサイユ条約で日本は「人種平等案」を提出しました。この提案は17票中11票の賛成を得ましたが、アメリカ大統領のウィルソンとオーストラリアが組んで潰されました。ウィルソンは議長であり、全会一致を主張して不採択としたのです。

 豪ヒューズ首相
「日本の提案の真意は、移民に関する諸問題を国際連盟の支配下に置かんとするものにして、斯くの如きは国家の威厳を害し、主権を毀損せしむるものなり」

 日本は伝統的な考えに基づき人種平等を提唱したわけですが、日本の台頭は奴隷制度によって国家を成り立たせている白人にとって危険な存在となっていました。大東亜戦争はこのとき既に始まっていたと言えるかもしれません。



参考文献
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 PHP「アメリカはどれほどひどい国か」日下公人・高山正之(共著)
 徳間書店「GHQ焚書図書開封」西尾幹二(著)
 平凡社「江戸参府随行記」C.P.ツュンベリー(著) / 高橋文(訳)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)

参考サイト
 WikiPedia「カール・ツンベルク」

添付画像
 奴隷船 1869年のもの(PD)

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プライバシーが必要なかった江戸日本

2012年11月01日 01時36分06秒 | 歴史

かつて日本は美しかったからの転載です。

江戸時代の日本というのは、ほんとに住みよい国だったのですね。歴史教科書では、まるで暗黒の時代のような書き方をしていて、西洋に比べると非民主的な嫌な時代であるかのように習いましたが、少しづつその間違いだったことが、広まりつつあります。江戸時代は、庶民に至るまで、学問がかなり普及し、また道徳も確立していたので、犯罪は驚くほど少なく、人々は、安心してあけっぴろげで生活していたようです。

 

 

プライバシーがなかったのではなく、必要なかった江戸日本。

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 江戸時代、庶民の家は開けっ放しだったので、幕末に来日した外国人は驚いてそれを記しています。

 フランス海軍士官スエンソン (慶応2年 1866年来日)

「日本人の家庭生活はほとんどいつでも戸を広げたままで展開される。寒さのために家中締め切らざるを得ないときは除いて、戸も窓も、風通しを良くするために全開される」

「鏡台の前に座って肌を脱ぎ胸をはだけて細部に至るまで念入りに化粧をしている女たちにもいえる。全神経を集中させてしている化粧から一瞬目をそらせ、たまたま視線が通りすがりの西洋人の探るような目に出会ったとしても、頬を染めたりすることはない」

こんなわけですから、外国人はいとも簡単に日本人の生活を知ることができ、その内容を記しているのです。商店も同じように奥まで開けっぴろげでした。

 イギリス公使オールコック (安政6年 1859年来日)

「すべての店の表は開けっ放しになっていて、なかが見え、うしろにはかならず小さな庭があり、 それに、家人たちはすわったまま働いたり、遊んだり、手でどんな仕事をしているかということ - 朝食・昼寝・そのあとの行水・女の家事・はだかの子供た ちの遊戯・男の商取引や手細工 - などがなんでも見える」

 お店(みせ)の場合は"見せ"ということで、作っているところも見せて買い手を安心させるというのがありますが、生活まで全部見えていたわけです。

 旅行家イザベラ・バード(明治11年 1878年来日)は日本に来てプライバシーがないことに驚いています。粕壁(春日部)で宿をとると襖や障子で仕切られた部屋に驚きます。

「わたしは障子という格子に薄紙を張った窓の戸を閉め、ベッドに入りました。が、プライバシーの欠如たるや恐ろしいものでした。わたしはまだ鍵や壁やドアのないところで落ち着き払っていられるほど他人を信用していません!」

いきなり襖をあけて少女が入ってきたり、按摩がきて何やらいったり、お経を唱える声、三味線の音などがして「たまったものではありません」、なのです。

 栃木でもバードは障子で仕切られた部屋をとるしかなくプライバシーは思い出すことすら御法度の贅沢品でした」と述べています。そしてやっぱりいろんな人が障子を開けてくるのです。

「宿の使用人はとても騒々しくて粗野で、なんの口実もなくしきりに部屋の中を見に来ます。宿の主人は快活で愛想の良さそうな男でしたが、同じように部屋をのぞきにきます。大道芸人や楽士や盲目のマッサージ師や歌うたいの少女がこぞって障子をあけます」

そしてここでも夜がふけるとドンチャン騒ぎが始まり、琴、三味線、太鼓、銅鑼がなりはじめてしまいました。この晩はバードは諦めたようです。特に文句をいう記述はありません。バードもこの後はだいぶ慣れてきた(耐えた?)ようですが、秋田の神宮寺では40人ほどが障子をはずして押し入ってくるようなことがありました。しかし、バードはこの後、なんの危険もなく旅行を続け、北海道の函館からは通訳も伴も連れずにたった一人で旅をしました。

 プライバシーがないというのは、安全の裏返しで、周囲から区切らなくても安全を確保できるということです。危害を加えられることもないし、何か盗られることもない。何かを見られてもそれが害に発展することもないということです。江戸時代プライバシーが必要のない安心安全社会だったのです。



参考文献

 講談社学術文庫「江戸幕末滞在記」E・スエンソン(著) / 長島要一(著)

 岩波文庫「大君の都」オールコック(著)/ 山口光朔(訳)

 講談社学術文庫「イザベラ・バードの日本紀行」イザベラ・バード(著) / 時岡敬子(訳)

 平凡社「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」宮本常一(著)

添付画像

 江戸東京たてもの園 Auth:Nesnad(CC)

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東條英機の慟哭

2012年10月28日 10時55分56秒 | 歴史

ある方から、岩間弘氏の著書『東條英機の慟哭』というのをメールで教えてもらいました。その著書の一節が書いてあって、読むと、日本が大東亜戦争の開戦を決意した時の東条英機首相の様子やその心の苦しみなどが伝わってきて、この戦争が決っして侵略戦争ではなく、防衛戦争だったことをはっきりと示していました。そのときの、東条首相のお気持ちなどを考えると、切ないようなしかし感動するような、そんな感慨を持たずにはおれませんでした。その一節をここに転載させて頂きます。




東條英機の慟哭


今、東條英機の供述書を終って思うことは米軍の逮捕の使者が自宅に来た時、東條英 機はピストル自殺を図ったが、どうしたことか手元が狂い自殺を為損ったのであった。首相で陸軍大臣という最高責任者だった者がと世間から冷笑を受けたが、 あれは神様が日本の為に死なせない様に、手許を狂わせたものであったと私には思えてきた。

東條英機程の人が普通だったら手元が狂う筈はな いからである。多くの人達はそんな馬鹿な、とお思いになるかも知れないが神様は全知全能であるから、神様なら不可能を可能にすることが出来ると思う。之は 信じるか信じないかの問題だから、判ってくれる人は判ってくれると私は思う。


さて余談になったが神様は東條英機にこの供述書を書 く意思と時間を与えて下さったのだと私は思う。大東亜戦争について述べるのに、どんな人が書こうがこの東條英機の供述書に勝るものはないと私は思った。 “神様は日本を護って下さっている”これを読むとその感が深い。多くの人がこの供述書を読むことによって、日本が戦った大東亜戦争の実相を知ることが出来 て、日本は侵略国ではなかったのだという事を正しく知ることが出来るのではないかと思うのであります。


その言葉に、行間に、天皇への忠誠と、憂国と愛国の裂帛(れっぱく)の気合が感じられる。そこには死を覚悟した、いや、生死を超越した勇者のことばがあるのみである。


さ て、東條英機のお孫さんに岩浪由布子(いわなみゆうこ)さん(本名岩浪淑枝=英機の長男英隆氏の長女)が居られるが、その方が書かれた『祖父東條英機「一 切語るなかれ」』があるが、その中に「祖父が巣鴨拘置所にあった時に三浦先生は東條の主任弁護人、清瀬一郎先生と弁護の仕方で激論を交わしたことがある。

清 瀬さんは東條の罪を軽くすることに奔走されていた。しかし、三浦先生の考え方は違っていた。たとえ死刑になったとしても、法廷では東條は堂々と自分の考え を述べるべきだと。そうでなければ、何故戦争を始めたかの一番大切なところが曖昧になるという立場をとられた。祖父もまったく三浦先生と同じ考えだったか らこそ、あれほど堂々と法廷で自論を述べることが出来たのであろう。」と書かれている。供述書の終りの摘要に堂々と述べている。再び述べると


「私は茲に重ねて申上げます。日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。

一歩は一歩より進み又、適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い之を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。

当年国家の運命を商量較計(注・左右する)するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起ったという事が唯一つ残された途でありました。

我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。

戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。

第一の問題は外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。

私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。

私は未だ嘗て我国が本戦争を為したことを以て、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が、個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。

第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私は、之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。」と結んでおります。


大 東亜戦争は自衛戦であったというのは、その日本と戦った米国の連合国最高司令官マッカーサーは昭和二十五年五月二十五日、北朝鮮が突如三十八度戦を突破し て韓国に攻め入った朝鮮戦争によって、共産主義国の脅威にはじめて目覚めて、朝鮮戦争に原爆を使うかどうかについて、トルーマン大統領と意見が合わず解任 された後、アメリカ上院で証言し、「日本が太平洋戦争を戦ったのはSecurity(セキュリティー・防衛安全保障)の為即ち自衛の為だったと証言したの である。


日本とフィリッピンで死闘を戦った最高司令官が証言した意義は重大である。東京裁判を指揮して七名を絞首刑、残り十八名は全員有罪としたその人が、防衛・安全保障のためだった即ち侵略戦争ではなかったと証言したことは、東京裁判は間違っていたと証言した事と同じである。


これを念頭に置いて、再び岩浪由布子さんの書物から次の文を読むと東條英機の心情に心が打たれるのである。


即 ち「・・・開戦を避けるために日夜必死に続けられていた日米交渉は遂に決裂し、昭和十六年十二月八日、日本は米・英に対して宣戦を布告した。十二月六日深 夜から七日にかけて、祖母たちは祖父の寝室から忍び泣きの声が洩れてくるのに気がついた。その声は次第に慟哭(どうこく)に変わっていった。祖母がそっと 寝室を覗くと、祖父は蒲団に正座して泣いていた。和平を希求される陛下の御心に心ならずも反する結果になり、宣戦布告をするに至った申しわけなさで身も心 も、ちぎれる思いだったに違いない。慟哭の涙はとめどなく流れた。祖母は寒い廊下にしばし茫然と立ち尽くしていた。」とあります。


これを読むと、東條英機はこの戦争に、日本が勝利することは、きわめて難しいと覚悟をしていた様に思われる。それが判って居ても日本は戦わざるを得なかったのである。そして死中に活をもとめたのだろう。

日本は戦争はしたくはなかったのだ。しかし戦争をしないでハルノートを受諾したらどうだったか。

日 本は一戦も交えずに敗けたと同じに、支那、満州、仏印から、陸、海、空軍及警察の撤退、満州政府の否認、汪兆銘政府の否認ということになれば日本の面子は 丸つぶれとなり、日本国内に反対の声が湧き起こり、三国干渉で旅順、大連を返還した時と比べものにならない騒乱の発生が予想されるのである。

そうなれば戦はず敗戦国となり、収拾がつかなくなる恐れがあったのである。

イ ンドのパール判事はハルノートについて次の様に語っている。「現在の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえ ば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本に送ったものと同じ通牒を受けとった場合、モナコ王国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに たいして武器をとって起ちあがったであろう」(田中正明「パール博士の日本無罪論」)と言っているのである。


再び云う。日本は自ら好き好んで戦ったのではなく、自存自衛の為の戦いで侵略戦争ではなかったのである。





江戸時代の歴史の嘘 武士が搾取したという嘘

2012年10月28日 10時44分36秒 | 歴史

かつて日本は美しかったから2件の記事の転載です。

 

江 戸時代について、わたしたちが学校で習ったことは、かなり違っていることが多いようです。戦後マルクスの階級闘争史観によって、歴史が解釈されるようにな り、支配者に苦しめられる被支配層である農民みたいな構図が日本の歴史にも当てはめて考えられるようになりました。小林秀雄氏は、こういうイデオロギー史 観で歴史を見る時、真実の歴史はけっして見えないということをおっしゃっていました。


我々 日本人が日本の歴史を振り返る時、そこには同じ日本人としての生命の流れ、自分の中に流れている祖先からの生命の流れを見るように、歴史を見るのが本来の 見方だと思うのです。自分の父親の生涯をたどって、そこに自分の親の生き方をみて、自分の中にも流れているものを感じ取るのと同じように、日本人として日 本の歴史を見るときに、そこに祖国といういとおしさの感情が湧くのが自然ではないでしょうか。

 

現 代という過去の結末を知っている立場で、歴史の中に生きた人々を断罪していても、その人々の苦悩も熱情も理解する事は出来ないでしょう。今の学校で習う教 科書は、まさに歴史が断罪されている教科書といえるかもしれません。そこからは、日本を愛する気持ちなど湧いてくるはずはありません。

 

 

武士が搾取したというウソ

武士が農民から搾取した?マルクス階級闘争史観。

S


 教育学博士の若狭和朋氏は高校時代、日本史の教師が江戸時代に武士が農民や町民から搾取したと教えられたそうです。

先生 
「搾取により百姓は米は満足に食べれなかった・・・」
若狭氏
「誰が食べたのですか?」
先生 
「支配階級の武士や大名だ」
若狭氏
「何パーセントぐらいいたのですか・・・武士たちは」
先生 
「6%くらいかな・・・」
若狭氏
「? 武士や大名の胃袋は大丈夫でしたか」
先生 
「なにを?」
若狭氏
「米は食べ物だから、酒や酢になる分を引いても、結局は食べるしかないでしょう」
先生 
「理屈を言うな・・・」

 私も子供のころ武士や大名などの支配階級によって農民は苦しめられたというようなことを教えられました。「武士は農民を生かさず殺さず」という話も聞いたことがあります。年貢など五公五民、六公四民というように重税だったとも教わりました。
  しかし、実際は江戸時代の初期に検地が終了しており、ここで村高が確定しています。この頃の幕府領400万石のうち年貢米は150万石前後ですので、年貢 率は30~40%となります。そして江戸時代にも農業は発展しているわけで、生産性の向上、収益性の高い商品作物の導入、農産加工業の進展、農民の賃金収 入などがあり、村高は固定されているわけですので、実質年貢率は十数パーセントから二十パーセントぐらいになっています。現代の一般サラリーマンの税金と ほとんど変わりません。

 結局、われわれは西洋の貴族が農民を搾取したというような西洋型封建制度をマルクス主義史観を通して、武士も同じだと教えられたということなのでしょう。この「ウソ」は戦後に作られたものだと思います。

 以前「武士の家計簿」という映画がありましたが、その原作を見ますと、歴史学者の磯田道史氏が加賀百万石の会計係という大藩のエリートの猪山家の36年間の家計簿を分析しています。猪山家当主の直之の一年間のお小遣いがわずか19匁。現在の価値に換算すると7万2千円で す。草履取りの家来は衣食住保障され、年に給銀83匁プラスお使い代などもろもろもらっており、ご主人より懐具合がいい。武士の家の使用人である下男下女 のほうがかえって豊かな商業や農家だったりしています。正月には武家の女性たちが下男下女を逆にもてなしたりしています。
 この武士の姿は外国人も指摘して、財力も権力もひけらかすことのない日本の武士が農民や町人に敬意を払われていることに驚きを覚えています。

  ちなみに江戸時代は「士農工商」という身分制度があったといわれていますが、これは支那の古い書物の呼び方で「武士」「町人」「百姓」の3つが正解のよう です。職業による身分の区別であっても血統ではなく、きびしいものではありませんでした。武士から百姓になるものもいれば、百姓から武士になるものもいま した。また、漁業や林業も百姓であり、百姓=農民ではない。町の鍛冶屋は町人ですが、村の鍛冶屋は百姓です。百姓とはそもそもはたくさんの姓という意味で あり天皇から姓を与えられた公民の総称です。

 なんだか随分ウソ教えられてきました。江戸時代に農民一揆などありましたが、体制破壊が 目 的ではありません。江戸時代は権力分散型社会であり、武士は特権階級でしたが財力はなく、町人に財力があり、百姓は天皇の権威の下に多数派として存在して いたのです。そのため日本では西洋のような「革命」は起こりませんでした。



参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 海竜社「国家への目覚め」櫻井よし子・田久保忠衛(共著)
 小学館新書「明治人の姿」櫻井よし子(著)
 自由社「日本人の歴史教科書」
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 新潮新書「武士の家計簿」磯田道史(著)
 講談社現代新書「貧農史観を見直す」佐藤常雄・大石慎三郎(共著)

添付画像
 日下部金兵衛の「稲刈り」(PD)

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武士の時代と聞いて

武士が搾取したなどというのはウソ。

S

 江戸時代の武士の時代と聞きますと、子供の頃から士農工商として差別があった、武士は切捨て御免の特権があり威張っていた、とか教えられたと記憶しています。なにやら武士は裕福で特権階級で庶民から搾取していたような印象を持ちます。
 ところが実際の武士は質素な生活をしており、権力をひけらかすようなことはせず、家来や下僕下女を大切にし、町人を大切にし、非常に尊敬されていたのです。

  最近、「武士の家計簿」という映画があったでしょう。原作は磯田道史著の「武士の家計簿」です。これは加賀百万石の会計係の猪山家の36年にわたる家計簿 が発見され、その分析を行った本です。これによると猪山家の年収は銀換算で4356匁(もんめ)あまりで一匁4000円換算だと1742万円ですから高給 取りといえます。しかし、武士は武士身分として格式を保つための支出が多く、召使を雇う費用、親類や同僚と交際する費用、武家らしい儀礼行事を行う費用が 多くあり、これをや支出しないと武家社会から確実にはじきだされ、生きていけなくなります。そしてなんと借金が年収の2倍ありました。これは当時では珍し くないものだそうです。

 当主の直之の一年間の小遣いがわずか19匁=72,000円です。彼よりも草履取りのほうが懐具合が良いこと が わかっています。草履取りは衣食住が保障されていますから、年に給銀83匁(約332,000円)もらえ、月々に小遣いが50文(約2,300円)プラ ス、年3回のご祝儀、お使いに出るたびに15文(約750円)をもらっていたのです。

 この武士の時代は「圧倒的な勝ち組」を作らないような構造となり、武士は身分は高いけれども貧乏。商人は金持ちだけれども卑しい身分とうい感じです。西洋の価値観では貴族たちがうなるような財力や権力で平民を従えさせたのとは全くことなります。

 「切捨て御免」というのは俗説であり、幕府の農民統制令では「百姓をむさと殺候事ご停止たり」と農民を理由も無く斬り殺すことを禁じています。「農民は生かさぬよう、殺さぬよう」についても同様です。
  また、士農工商といわれていますが、実際には商と工の間には身分さは無く「町人」というくくりでした。血統による身分ではなく、職業による身分でしたの で、町人は金を積んで武士になったり、武士が農民になることも可能でした。教科書の中にはこのことを指摘し始めた教科書もあります。

 山川高校教科書 日本史
「このような身分さを設けたのは、農工商の人々に、武士の支配への不満をまぎらわせようとしたものと考えられる。身分差別が動かせないものであるように人々に思い込ませていった」

「・・・統制の厳しい農民の生活はまずしく、衣服は麻や木綿にかぎられ、食事も麦・粟などの雑穀が多く、家屋はかや葺きやわら葺きが普通で、居間にむしろをしくぐらいであった。人々はそのような生活のなかで、古くからの風習に根強く支配されていた」


 まるで教科書は金持ちの特権階級の支配者が被支配者を搾取しているかのようにイメージさせて書いているでしょう。これはマルクス階級闘争史観とうフィルターを通して語っているのです。我々はこうしてマルクス思想を刷り込まされていたのです。



参考文献
 新潮新書「武士の家計簿」磯田道史(著)
 講談社現代新書「貧農史観を見直す」佐藤常雄・大石慎三郎(共著)
 自由者「日本人の歴史教科書」
 山川出版社「もういちど読む 山川日本史」五味文彦・鳥海靖(編)

添付画像
 江戸図屏風(PD)
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動画『武士の家計簿』 予告
http://www.youtube.com/watch?v=2W_K0z-IHAI