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東京裁判で捏造された南京虐殺

2013年01月31日 16時10分32秒 | 歴史

 

かつて日本は美しかったからの転載です。

南京での虐殺があったと言い出したのは、蒋介石の国民党であり、これは全くのプロパガンダでした。当時国際連盟は、日本よりも蒋介石政府よりでしたが、それでもあまりに嘘だとわかりきったプロパガンダだったので、国際連盟は無視して取り上げませんでした。

南京事件として日本と国民党の戦いがあったのは、1937年のことですが、この時虐殺があったと言っているのですが、その後大東亜戦争時に南京に駐留していた日本軍は、敗戦まで何事も無く支那人と平和に付き合っていたようです。多くの南京市民も平和に暮らしており、日本軍に商売でものを売りに来たりしていました。本当に虐殺事件があったのならば、そんなことはないのではないでしょうか。もちろん、敗戦後は敗者に対しての態度はかなり前とは違いますが、それでも一応駐留日本軍は無事に南京から帰還できました。

南京虐殺で死刑になった松井石根大将は軍規に厳格であることで有名な人で、また人格者であり、その軍隊は非常に規律正しかったのです。その松井大将のもとで、よりによって南京大虐殺が起こったという捏造で、死刑にされ、未だに日本人からも靖国参拝にA級戦犯が合祀されているから、首相が参拝するのはダメだとか言われて汚名を着せられ続けているのです。これはあまりにも、国家のために働いた人に対する大きな不敬であり、国を上げての裏切りともいえるのではないでしょうか。

今の教科書は、南京大虐殺のことをきちんと検証もしないで、あったと決めつけて勝者が敗者を裁くという茶番の報復裁判である東京裁判の主張をそのままに載せて、子どもたちに教えているのです。このような勝者の歴史がどれほど正確だというのでしょうか。

最近では、『南京の実相』という詳しく科学的に検証してその捏造を暴いた本も出ていますが、それなのに、旧態依然として、教育委員会は東京書籍などの、捏造をそのまま載せた教科書を採用しています。

これは子どもたちに対する大きな罪だと思います。自分の国を愛せないような教育をすることは、子どもたちに心理的に大きな傷を負わせてしまいます。国家民族の先人の罪が自分の血の中にあるということは、無意識のうちに、自分を愛せない人格をつくり上げる可能性が強くなります。

青少年の自殺の遠因になっている可能性すらあるのです。自分の尊厳を持てない人間に、いくら生命尊重を教えても、それは言葉だけの空回りに過ぎません。人間は汚い、残虐なものだと、そんな思いしかない人間、人間の崇高さを感じられない人間、そんな人は、自分に対しても、他人に対しても、冷酷な気持ちしか湧かないのです。自分を愛せない人間は他人も愛せないと、よく言うのは本当であり、自分を尊く思わない人間は、他人をも尊く思わないのです。

自分の尊さを感じる一番近道は、自分の命のつながりをたどって祖先、先人のすばらしさを感じることです。人間を貶める教育、自虐史観、唯物論教育による日教組による性教育など、人間の精神の気高さを教えないで、ただ科学的事実だけ教えて人間が育つと思うのは、青少年の心理のデリケートさを全く無視していると思います。

 

 

 

東京裁判で捏造された南京虐殺

南京虐殺をデッチ上げ、松井石根は死刑にされた。

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 作家の早坂隆氏は中共の南京へ行き、南京大学のキャンパスに近い料理店の一席で学生に「松井石根は日本陸軍きっての『日中友好論者』だった」と言うと、学生は「それは信じられない。日本人はもっと歴史を学ぶべきだ」と返してきたといいます。松井石根(まつい いわね)・・・昭和12年(1937年)の第二次上海事変から南京戦にかけて方面軍司令官だった人です。戦後、東京裁判で「南京大虐殺」の罪で死刑となりました。

 東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて 行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。こ の東京裁判はOSS(アメリカ戦略情報局)が深く関わってい ました。OSSは戦時中から日本の敗北を前提に日本の軍事的壊滅と社会の攪乱を目指した「日本計画」を作っていました。戦後、連合国はナチス・ドイツのユ ダヤ人迫害を「人道に対する罪」という事後法で裁くことが出来ると考えていましたが、日本にはそのようなものはない。そこでその方策を「日本計画」の一環 としてOSSが任されることになります。

 その基本案を作ったのがチャールズ・ケーディス大佐で、彼はOSSの欧州担当でマルクス主義者です。彼は日本をドイツと同じように犯罪国家にしたてようと画策しました。戦後、GHQの民政局の課長となり、局長コートニー・ホイットニーの下で日本を内部から破壊する工作を行います。憲法もケーディス大佐が中心に推し進めたもので、日本を破壊し、共産革命をおこすためのものです。

 GHQは神道指令で「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と名称をあらため、昭和20年(1945年)12月18日から日本の新聞各紙で「太平洋戦争 史」という日本軍断罪の連載をはじめ、ここではじめて「南京虐殺」が登場します。この「太平洋戦争史」は以前にOSSによって「平和と戦争」というプロパ ガンダ記事として前もって作られていたものでした。
 この南京虐殺のもととなったのは支那の国民中央党宣機構の顧問だったティンパリーがつくったプロパガンダで、これにOSSが飛びついたわけです。

 東京裁判では南京虐殺を陳述しても証人が出廷せず、反対尋問が行えないような証拠が多量に採用されました。しかし、さすがにナチスのような共同謀 議、共同計画によって部下に残虐行為を命令した、許可したという事実は何一つ出てきませんでした。逆に、松井石根は軍紀を厳しくするよう命令を出していま す。検察側もこれには参り、司令官だった松井石根の訴因第1から第54までは無罪とし、第55(俘虜および一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法 規違反)のみ有罪として死刑としたのです。

 松井被告に対して多数判決は「・・・ これらのできごとに対して責任を有する軍隊を 彼は指揮していた。これらのできごとを彼は知っていた。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務も持っていた。同時に、その権限ももって いた。この義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任がある」というものです。

 南京虐殺そのものが捏造であるのに加えて「不作為」の責任というものが過度に拡大解釈され、松井大将は死刑となりました。
  東京裁判の南 京事件の判決文の中には殺害した人数が3通りもあり、一方では20万以上、一方では10万人以上となっています。なんというデタラメでしょうか。判決文は 判事が書いたものではなく、別途判決の起草委員会が作成したもので、公判中に指摘された誤りは訂正されずそのまま使われています。判事たちは判決文を論議 するために召集されたこともありませんでした。結論ありきの世紀のインチキ裁判であり、そこで南京虐殺はでっち上げられ、松井石根は死刑になったのです。




参考文献
 「歴史通」WiLL2010.1 『戦争犯罪人という烙印』田中英道
 小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
 小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
 中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
 文藝春秋「松井石根と南京事件の真実」早坂隆(著)
 日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
参考サイト
 WikiPedia「チャールズ・L・ケーディス」
添付画像
 松井石根(PD)

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なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?
http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0


日本の真の盟友は歴史が知っている。ASEANと中島慎三郎

2013年01月19日 23時18分59秒 | 歴史

 さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

「日 本の戦争目的は白人の植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、まだ植民地主義国が残っている。ソ連であり、そして中国もチベットやウィグ ルを併呑した植民地主義の国だ。これから我々が取り組まなければならない植民地一掃の大事業は中ソが相手となる。そんな時に行った海部演説は、日本の植民 地主義打倒の悲願を放棄したことになる。本来、海部さんは日本の歴史を踏まえアジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残っている植民地主義国を攻撃すべき だった。たった一度の敗戦で大切な先輩たちの目的を忘れてしまったのか」(インドネシアの復員軍人省元長官のサンバス将軍)

これは素晴らしい記事です。これを読むと、日本が戦った戦争がどのような意義を持っていたか、それをアジア諸国がどう捉えたか、アジア地域が戦後の日本にどのように期待したかがわかります。

また戦後の日本がアジア諸国の期待を裏切っている部分が大きいこともわかります。そんな中でそれでも個人として中島慎三郎という人が、インドネシアを支え、日本を背負ってインドネシアを共産化から防いだことで、日本とインドネシアの絆が保たれたという、今の日本人の知らない歴史が書かれています。

近年の日本は、侵略国としての自虐史観から、中国韓国という被害者意識をむき出しにして日本へ謝罪と賠償を求める国々へのへつらいばかりで、親日的なアジアの国にはあまり関心を払わないところが多く、また言論マスコミ界は左翼的勢力なので、親日ということに却って拒否反応をしているようにさえ思えます。中国の首脳が来日すると、大々的に報道しますが、インドの首相が来日して、国会で、心温まる親日的な演説をしても、メディアは取り上げなかったほどです。

今回安倍首相が、アジア各国を回られてアジア民主主義セキュリティダイアモンド構想の第一歩を踏み出されたことは、実に素晴らしいことだと思います。サンバス将軍の言っていた、最後の植民地主義者中国の横暴から、アジア諸国と一緒になって、これを牽制するというその中心的担い手としての日本をうちだして来られました。数年前には、世界の多くの預言者が、日本は将来中国に飲み込まれるだろうという予言をしていました。

しかし、其の予言を跳ね返す力は本来日本にはあるのです。地球市民ばかりの国ではそんな力はありませんが、日本人が日本人という意識を取り戻せば、その力はあるのです。「日本を取り戻す」という安倍総理の言葉が、まさに日本に力を取り戻させることになるでしょう。

 

 

 

 

 

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安倍政権は発足直後にASEANの主要な国を訪問しましいた。
このASEANに最大の貢献をしてきた日本人がいます。中島慎三郎さんです。
ASEANには日本と信頼しあえる絆の歴史があるのです。
 
平成3年、海部首相がASEAN諸国を歴訪し、先の大戦について謝罪しました。
この時、「インドネシア・センター」代表の中島慎三郎さんはこう言いました。
「日本人は中国や韓国だけがアジアだと思っているが、日本のことが好きで好きで仕方がない親日アジア諸国が並んでいる」。
海部首相がアジアで謝罪外交して廻ったことに対してインドネシアの復員軍人省元長官のサンバス将軍は激怒しました。
「日 本の戦争目的は白人の植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、まだ植民地主義国が残っている。ソ連であり、そして中国もチベットやウィグ ルを併呑した植民地主義の国だ。これから我々が取り組まなければならない植民地一掃の大事業は中ソが相手となる。そんな時に行った海部演説は、日本の植民 地主義打倒の悲願を放棄したことになる。本来、海部さんは日本の歴史を踏まえアジア・アフリカの悲願を代表して、まだ残っている植民地主義国を攻撃すべき だった。たった一度の敗戦で大切な先輩たちの目的を忘れてしまったのか」
これに対して中島さんはこう言いました。
「戦争に負けたからと言って、その戦争で自ら掲げていた理想まで否定するのは無責任ではないか、とサンバス将軍は言っている。その無責任さが、現在の日本の東南アジア政策のお粗末さになって現れているのではないか」
 
中島慎三郎さんは大正8年生まれで、平成23年11月23日に逝去。92歳でした。
東京府立実科工業学校を卒業し、陸軍航空本部に勤務、昭和14年に陸軍野砲兵第一連隊に入隊し、昭和15年に南支那、仏印、中支那を転戦し、昭和16年にマレー・シンガポール作戦に従軍し、昭和18年から昭和20年まではインドネシアのスラバヤ、アンボンで防疫給水部の衛生兵として伝染病の消毒や薬の配布の活動をしていました。
 
戦時中、インドネシアでは日本軍を大歓迎しました。その一方で、オランダの植民地であったインドネシアのひどい実情に接した中島さんは胸を痛めました。
インドネシアの村々には高利貸しの華僑がいて米や石鹸などの商品の値段を普通の値段より高く貸し、インドネシアの人が物を売りに来ると安く買ったのです。インドネシア人はこの華僑の高利貸しで搾り上げられ、オランダ人にも搾取されたため、栄養状態も悪く、当時の平均寿命は35歳だったというのです。
この実情に心を痛めた中島さんは詳しく内情を知るために現地でインドネシア語を懸命に覚え、マスターしました。
 
中島さんは終戦後、1年の捕虜生活の後、帰国し、東京で花屋を始めました。ここにインドネシア時代の戦友たちが訪ねて来て、「戦争中に日本の陸軍士官学校や早稲田大学に留学していたインドネシアの青年たちが帰国できずに日本で独立運動をしている」と知らされました。
インドネシアは昭和20年8月17日 に独立宣言しましたが、再度植民地にしようとオランダが侵攻し、血みどろの独立戦争となったのです。在日インドネシアの青年たちは「インドネシアの発展に は日本の協力が必要だ」と考え、日本と特別な関係を築こうとしました。焦土の東京で誰もが食べることで精一杯でしたが、中島さんはインドネシア・センター を設立し、インドネシア情報を発行しました。ここには後にインドネシアのCIA長官になったヨガ・スガモ将軍はじめ、インドネシア政財界で活躍した青年達がたくさん集まりました。この人脈で、中島さんはアジアの命運を左右する仕事に携わることになります。
 
インドネシアはオランダ軍と3年半に亘る独立戦争を戦い抜いて、独立国家として承認されました。初代大統領はかつて日本軍に協力し、独立運動を進めた知日家のスカルノが就任しました。
このオランダとの独立戦争の主力は、日本軍がかつてインドネシア青年を独立のために育てた「ペタ」という義勇軍でした。しかも日本兵は終戦後、オランダに渡すべき武器や弾薬をペタ側に横流ししたばかりか、「アジア解放の理想を貫くべきだ」という日本兵2千人がインドネシア独立軍に身を投じてオランダ軍と戦いました。こうした日本の先人達の経緯からスカルノはじめ当時の指導者たちは日本に好意的であったのです。
 
しかし、国家としてインドネシアを支援したのはシナ共産党やソ連といった社会主義国でした。このためスカルノはソ連やシナ共産党との関係を重視し、インドネシア共産党を擁護する容共となっていきました。昭和31年には北京で毛沢東と会談し「新植民地主義と帝国主義をアジア・アフリカから一掃し、民族の独立を達成し、共通の目標に向かい歩み続けよう」と演説し、共産圏寄りを明確にしました。
 
この頃、スカルノの容共を憂慮するインドネシアの政治家や軍人たちが相次いで来日しました。秘密裏に自民党の石井光次郎や福田赳夫、久原房之助らと会談します。この時の通訳が中島さんでした。
反 スカルノ派の要人たちは「左へ傾斜するスカルノにシナとソ連が応援し、スカルノの野心は益々膨張し、国の予算が軍事費や大統領のためにしか使われず、国民 はモノ不足と食糧不足で栄養失調になり、赤痢やマラリアが流行し暴動も起きている」とスカルノに対する怒りが爆発していました。
 
さらにこの時、ソ連のフルシチョフ書記長が10億 ドルの武器援助をしました。中島さんらはスカルノ政権の共産化がどんどんアジアに広がる危険性を日本国内で訴えましたが、逆に命が狙われるようになりまし た。これは当時日本は内ゲバ全盛で、新左翼たちがお互い殺し合いをしていた時で、インドネシア共産党を支援する新左翼らが中島さんを殺そうとしたのです。
しかも右翼からも「反スカルノをやめろ」と脅迫されました。これは日本政府が親日的なスカルノということで共産化していくことをを軽くみており、さらには日本の一部政治家や政商は石油や天然ガス、ODAなどインドネシア利権の確保に躍起で、こうした人々からスカルノを危険視していた中島さん達は「日本政府の敵だ」とみなされて狙われたのです。
 
スカルノ大統領は連日、「革命」、「革命」、と叫ぶために欧米諸国は援助を控えると、その隙にシナ共産党が援助を増やして共産党勢力を拡大しました。ついにスカルノはシナ共産党と手を結び、容共内閣を樹立し、国連を脱退しました。
そして、インドネシア共産党がインドネシアで共産クーデターを起こそうとします。
このクーデターを食い止めようとインドネシアの反スカルノ派は中島さんらに相談をしに来日しました。この時、アリ・ムルポトが反スカルノの司令塔となると紹介されました。中島さんはこの時、何としてもインドネシアの共産化を防ごうと奮闘します。
そしてついにインドネシアでは「九・三〇事件」と言われる共産クーデターが起きました。各地で民衆が左右に分かれて激突し、半年間で100万人も死者を出しました。
この結果、スカルノ大統領は実権を失い、シナ主導のアジア共産化構想を防ぐことができたのです。
 
その後、共産化を防いだアリ・ムルポトは来日し、中島さんが福田赳夫邸に連れて行き、中島さんが通訳しました。
「インドネシア共産党を打倒しました。今度、反共のASEANを結成します。もうこれ以上、シナやソ連、アメリカにアジアの土地を荒らされるわけにはいかない。他の東南アジアのリーダーたちも一致した考えです」
これを聞いた福田は佐藤栄作首相に電話し、アリ・ムルポトにすぐ会ってほしいと伝えました。佐藤首相は理解し、ASEAN結成まで1年半の間、中島さんが日本政府とインドネシアの間を100回以上も往復してASEAN結成に尽力しました。
そして、スカルノからスハルト大統領体制になると、直ちに日本政府は大規模なODAを供与し、反共インドネシアを支援しました。
 
その後、福田赳夫政権になると、福田首相は東南アジア諸国を歴訪し、ASEANの全面支援を約束すると演説しました。この時、アメリカはASEANに否定的であるのにアメリカの意向に逆らって日本独自の判断でASEANを支持する演説をしたため、ASEAN諸国からはこのことが今も高く評価されています。この背景には中島さんの活躍があったことは言うまでもありません。
 
小泉首相が靖国神社参拝をめぐってシナ政府から猛烈に反発された時、ちょうどインドネシアのバンバン・ユドヨノ大統領が来日しました。
この時、中島さんはインドネシア経団連の幹部に「今こそ日本を助けてほしい。首相の靖国参拝を支持すると大統領に言わせてほしい」と頼みました。
「父とも仰ぐ中島さんからのお願いならば何とかします」と回答し、その2日後の6月3日、バンバン・ユドヨノ大統領は帝国ホテルで自民党の安倍晋三幹事長代理と会見し、「国のために戦った兵士のお参りをするのは当然のことだ」と述べて、首相の靖国参拝を支持しました。
 
我々日本には大東亜戦争の理想を信じ、その理想に殉じてアジア諸国との絆と信頼関係を築いてきた先人達がいました。そして、戦後も中島さんのような民間人が懸命に奮闘したおかげで東南アジア諸国との強い絆と信頼を生むことになりました。
これは先人達が残した我々への財産でもあります。
このことは我々日本人が日本人として肝に銘じなければならないことです。
先人の偉業に恥じないような日本であるためにも、安倍政権が真っ先にASEAN訪問と支援を打ち出したことは、歴史を知れば的確な行動であったと評価できるでしょう。
 
・・・・・・・
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 目立たなくても日本には偉大な先人が多い、
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転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」





日本なかりせば

2013年01月08日 14時35分27秒 | 歴史

かつて日本は美しかったからの転載です。

二十世紀最大の悪は白人国家による人種差別です。多くのアフリカ人を奴隷にし、アジアを植民地にした白人たちは、自分たちを神に造られた人間だとして、神が地上の凡てを支配して従わせよと旧約聖書に書かれてあるように自分たちが地上の万物の支配者だと思っていました。有色人種は人間のうちには入っていませんでした。

そんな白人国家に人種差別撤廃を掲げて戦いを挑んだのが日本です。しかし日本も何も戦争をしたかったわけではありません。

当時の米大統領のルーズベルトが戦争をしないという公約で選挙戦を勝って大統領になったけれど、第二次大戦に参戦したくて、そのために日本を戦争に引きずり込んで、日本から仕掛けさせることで、参戦する口実を得るために、これでもかというほど日本を挑発しました。支那の蒋介石に支援して、日本と支那の紛争を泥沼化させたりもしました。

ルーズベルトの側近にはソ連のスパイが入り込んでいて、邪魔な日本とドイツをやっつけるために、アメリカを日本とドイツに敵対させるためにルーズベルトにいろいろな悪知恵を吹き込んで、何が何でも日本から仕掛けさせるように、日本を挑発し、最後はどんな小さな国さえも宣戦布告するだろうというような、ハル・ノートによって、我慢の限界を超えさせました。これは今ではベノナ文書というソ連のスパイとソ連本国との暗号のやり取りの解読されたものが公開されており、すべて明るみに出ています。

日本はどんなに戦争をしないようにと思っても、ルーズベルトはどこまでも戦争をしようとして画策しているのですから、日本が参戦しないでいることはできなかったでしょう。また参戦しなければ、結局敗戦以上の悲惨な結果が起きて、そのまま白人支配の世界システムに組み込まれて消滅していた恐れもあります。

日本は敗戦という結果となりましたが、その戦いで日本の掲げた大東亜の解放という目的は達せられ、日本の戦争初期における勝利やその間のアジアから白人国家を駆逐して、アジアを日本の支配下において教育と訓練を施したことがきっかけとなり、大戦後にアジアの国は白人国家の支配に再び従うことなく独立運動が起きて、次々と独立して行きました。戦争中、これらの国々は日本と一緒に白人国家と戦いもしたのです。そうしたことがなければ、ズッと長い間植民地支配を受け、教育も受けられず、虐げられていた国が独立するということは、至難のことです。

チャンネル桜の動画にこの事が少し話題に出ていたので、内容を書いてみました。

西村氏: 

 フーバー大統領の回顧録がスタンフォードから出て、 それには、ルーズベルトという男は日本を戦争に引きずる狂人である、と書いてあるわけですね。

その前にブッシュ大統領はヤルタ・ポツダムの密約こそアメリカの犯した最大の失敗であったとヨーロッパで言っているわけですよ。

これをアジアで言う時に大東亜共同宣言を引き合いに出して、人種差別撤廃を掲げて戦ったのは日本だけだったじゃないかと、大西洋憲章はナチスドイツに席巻されたヨーロッパだけに当てはまるものであって、インドを独立さすとか、インドネシアを独立さすとか、そんなことは一切あの白人連中は考えてなかったじゃないかと、今こそ反転攻勢のチャンスやと僕は思うんですけど。

オバマという黒人が大統領になったのは、日本が戦ったお陰じゃないかと、はっきり言ったらいいんですよ。

加瀬氏

そのとおりです。オバマ大統領が日本にお見え下さった時に、陛下に拝謁して、こんなにおじぎしてる。アメリカでもあれは卑屈だとかなんとか批判があったんですよね。オバマさんの補佐官の一人が私に、あれは日本が先の大戦を戦ってくれたために人種解放が実現して、世界的にね、自分が大統領になれたもので、ほんとうに感動してあそこまで頭を下げたと言ってましたからね。

 

2/3【新春SP討論】日本新時代は来るか!?[桜H25/1/5]

この動画の5,50くらいの頃から西村氏の話からです。

オバマ大統領の天皇陛下に対する丁寧なお辞儀は、日本でも話題になっていましたが、この時オバマ大統領の胸に、かつては奴隷であった黒人がそのアメリカの大統領にまでなれたことの感慨とその人種差別撤廃のきっかけを作った日本という国のその中心者に、深く敬意を示さずにはおれなかった心が、ほんとによく理解できました。

JJ太郎さんの、もし日本なかりせばというタイトルは、まさに日本が世界を変えたという事実を、我々日本の先人たちがその命と引き替えに世界を変えたのだという事実をもっと認識すべきだという主張であると思います。

私達の父祖先人が、今如何に貶められているか、日本人自身がどれだけ先人たちの生命を貶めているか、この事を戦後レジームという自虐史観から目覚めて、正当に見直し、父祖先人の名誉を回復し誇りを取り戻していかねば、日本は自己の歴史の尊厳を否定したまま、歴史なき国家はやがて消滅することは世界史の法則とも言えます。

 

 

日本なかりせば

日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。

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 昭和30年(1955年)、アジア・アフリカ二十九カ国が集まり、バンドン会議が開催されました。日本は招待されました。敗戦後間もない 日本でしたから慎重論が多かったのですが、高崎達之助経済審議庁長官や外務省参与の加瀬俊一氏らが出席しました。加瀬氏は日本はいいこともしたけど、わる いことをしなかったわけじゃないので、あまり気が進まなかったと回想しています。ところが、日本は大歓迎を受けました。

「よくきてくれた!」
「日本のおかげだ!」
「日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった!」
「大東亜共同宣言がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた」
「アジア民族のために日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く」

 平成17年(2005年)、バンドン会議50周年を記念して開かれたアジア・アフリカ会議・小泉首相(当時)は次のように演説しました。
「わが国はかつて植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」・・・まったく的外れな演説をしたものです。

 平成4年(1992年)10/14 香港にて マレーシア マハティール首相のスピーチの一部
「東 アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚くような成功を遂げ た。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることはなくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際にそれを証明してみせた。
 もし、日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。富める国はますます富み、貧しい南側はますます貧しくなっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を支配したことだろう。マレーシアのような国は、ゴムを育て、スズを掘り、それを富める工業国の言い値で売り続けていたであろう」

 このマハティール首相の演説は暗に大東亜戦争のことも含まれています。この演説を聞いた白人は怒って席を立ち会場を出て行った人もいたといいます。
 マハティール首相は「ルック・イースト」政策(日本を見習え)を実施し、東アジア経済会議(EAEC)を提唱しており、この「日本なかりせば」演説はアメリカをを警戒させました。クリントンの圧力によって河野洋平が走り回り、「白人も華僑も入れよ」などとほざきました。

 平成6年(1994年)にマレーシアに訪問した村山富市首相(当時)、土井たか子衆院議長(当時)は型どおり謝罪するとマハティール首相はこう述べました。

「日本が五十年前に起きたことを謝り続けるのは理解できない。過去のことは教訓とすべきだが、将来に向かって進むべきだ」
「日本に対して今さら戦後賠償を求めるようなことは、わがマレーシア国民にはさせない」

 このマハティール首相の言葉に村山総理は何の言葉も返せませんでした。しかも村山総理はシンガポールで華僑ゲリラの慰霊碑に謝罪を述べています。 死者に対して慰霊するのは構いませんが、違法であるゲリラに謝罪するなどキチガイ行為です。東南アジアは華僑を追い出すのに多大な苦労してきており、ゴキ ブリのように侵入してくる華僑をブロックしたい思いがあります。

 マハティール氏
「日本は、いつまでアメリカの言いなりになり続けるのか。 なぜ欧米の価値観に振り回され、古きよき心と習慣を捨ててしまうのか。一体、いつまで謝罪外交を続けるのか。そして、若者は何を目指せばいいのか。日本人 には、先人の勤勉な血が流れている。自信を取り戻し、アジアのため世界のためにリーダーシップを発揮してほしい」

 麻生元総理は日本がリーダーシップをとる「自由と繁栄の弧」を主張しました。ところが、3年前半の政権交代で鳩山総理(当時)はシナ様を盟主とする東アジア共同体構想を出してきました。小沢幹事長(当時)が人民解放軍野戦司令官になるというのですって???

 「ルック・イースト」政策から30年。もはやマレーシアでは日本から学ぶものは「先端技術」のみであるという声さえ聞かれます。昨年末、新政権が誕生し、日本は新たな門出を迎えました。再び立ち上げれ、ニッポン!



参考文献
 桜の花出版「アジアが今あるのは 日本のお陰です」桜の花出版編集部(編)
 WAC「自らの身は顧みず」田母神俊雄(著)
 小学館「アジア人と日本人」大前研一(著)
 オークラ出版「反日マスコミの真実2010」『誰のための東アジア共同体か』高山正之
 WAC「渡部昇一の昭和史」渡部昇一(著)
 読売新聞10月31日朝刊「マレーシア『日本流』岐路」
参考サイト
 「日本なかりせば」演説
   http://homepage2.nifty.com/tanimurasakaei/maha.htm
 WikiPedia「マハティール・ビン・モハマド」

添付写真
 マハティール・ビン・モハマド(PD)

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サイパンの玉砕戦

2013年01月03日 19時41分35秒 | 歴史

ねずさんの ひとりごとからの転載です。

前記事でバンザイクリフのことを中日新聞が書いていることを記事にしましたが、このバンザイクリフと呼ばれるマッピ岬のあるサイパンで、どのような戦いが行われ、アメリカ軍がどれほど戦時国際法に違反した戦いをしたかをねずさんが書いておられます。

これを読めば、如何に日本人が追い詰められ、玉砕せずにはおれなかったかがわかります。生きて捕虜になれば助かったのにとは決して言えなくなります。

ここに出てくる手記などは、戦後占領軍の言論統制で世にでることはできなかったものです。

 

 

 

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バンザイクリフの両陛下
バンザイクリフの両陛下



昨日(サイパン島玉砕戦 1 )に引き続き、サイパン島の玉砕戦について書いて行きます。

昨日の記事の最後のところで晴気少佐の遺書をご紹介しました。
晴気少佐は、参謀です。

軍に参謀というのは、国家における国会に等しいものです。
国会は立法者です。参謀は軍の作戦の立案者です。

そして日本の晴気参謀は、自身が立案した作戦の失敗に対し、立派に割腹して責任をとった。

まさに参謀にとって作戦は、戦地における兵士たちと同様「命をかけた」作戦です。
いまの国会に、命をかけて国政を担うものはいるのか。
普天間の右往左往で日米を振り回した総理は、その責任をとって割腹することはないのか。その覚悟があるのか。

口先だけの金儲け主義政治屋に本当に政治が務まるのか。
そんなことをあらためて考えさせられます。

さて、話を昭和19年6月18日に戻します。

なんとかしてサイパン島で戦う兵士達、および被災している民間人たちを助けようと、東条英機首相は、米艦隊の重包囲をおして、救援を差し向けようと「あ号作戦」を発動させます。

しかし、作戦のために出撃した日本側の機動部隊は、マリアナ沖で敵の物量の前に大敗を喫し、18日から19日にかけてのたった2日間で、艦載機400機を失ってしまいます。

これにより、帝国海軍航空部隊は無力化され、完全に制空権を失ってしまう。

マリアナ諸島の日本軍は孤立し、サイパンにいた3万の日本軍は、24日の時点では、重傷者ばかり、わずか6000名が残るのみとなってしまう。

島の守備隊の斉藤中将は、海岸防備から籠城戦に作戦を切り替え、島の中部の山岳地帯にあるタポチョ山に防御線を敷いて、洞窟を利用した抵抗戦を開始します。

この間、山岳地帯に籠城して戦う日本軍の前に、米軍のサイパン島攻略戦は、20日以降、まるで進撃が進まず、死傷者ばかりが続発するという事態になります。

この米軍の戦闘の模様は、ジャーナリスト達によって、逐一米国本土で報道されていた結果、米国本土では、世論が沸きたち、大部隊によって「楽勝」だと宣伝していた米軍に対し、世論の非難が集中します。

このため、米軍は、攻撃手であった第27師団長のラルフ・スミス少将を更迭している。

普通なら、瀕死の重傷として病院のICUで絶対安静を言い渡されるくらいの重傷を負い、食べるものもなく、火力もない6000の日本兵対、うなるほどの火力を備え、日本の11倍の大兵力を持ち、空と海からも援軍を得ていた米軍が、島中央部で互角に戦ったのです。

島の守備隊の敢闘精神や、讃えるべしです。

しかし空爆によって防衛ラインを破壊され、火炎放射機によって洞窟を焼かれた日本は、6月27日には、ついにタッポーチョ山を米軍に占領され、島の北側にあるサイパン最大の街、ガラパン市街に逃れる他なくなるという事態になります。

市街は、民間人が多数いるところです。
民間の施設もあれば、中立的医療施設もある。

こうした市街戦を行う際は、本来なら、ここでも民間人の避難のための警告と避難のための時間を、本来は攻守軍、ともに充分与えなければなりません。

しかし、米軍は、容赦なくガラパン市街を空襲し、艦砲を撃ち込み、陸戦隊によって銃撃を加えた。

このため、2万人の民間人がいるガラパン市街で、必死で民間人を守ろうとする日本軍と、民間人、軍人の区別なく容赦ない攻撃を加える米軍との間で、6月28日からなんと5日間にわたる激戦が繰り広げられることになります。

そしてついにガラパンも墜ち、日本軍と民間人たちがついにサイパン島最北部にあるマッピ岬まで逃れる。

しかしそれでも、ガラパンの街の中の倒壊した家屋の中には、多数の日本兵が隠れ、陸続と侵攻してくる米軍を撃ち、手榴弾を投げ、銃剣で刺し、米兵をその場に釘付けにします。

ここで、サイパンにいた民間人について触れておきます。

米軍迫る、との情報に基づき、サイパンでは、軍が民間人の疎開を勧奨します。
米軍が来る前に、なんとかして民間人を先に避難させようとしたのです。

このため、サイパン戦がはじまる前の3月3日に、「あめりか丸」と「さんとす丸」、5月31日には「千代丸」という船に島民を満載して、疎開をさせている。

ところが、この船は、疎開用の非武装船の旗を掲げていたにも関わらず、米軍の潜水艦によって撃沈され、沈没。乗員はほぼ全員が行方不明(死亡)となっています。

その状況では、それなら兵隊さんと一緒に島に残って、なんでもいいからお手伝いしよう。そう思うのが人情というものです。

実際、島に残留した民間人2万人は、最後まで日本軍を信じ、ガラパンを失ったあとも、日本兵について島北部にあるマッピ岬まで逃れてきた。

一方で、米軍に拿捕された民間人も多数います。

その人たちについて、サイパンの戦いに従軍した田中徳祐陸軍大尉(独立混成第四七旅団)が、次の目撃談を残しています。

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米軍は、拡声器をいくつもすえつけ、一日中、「米軍は虐待しません。米軍によってよい待遇が受けられます。みなさん投降してください」と呼びかけた。

しかし、その呼びかけを信じて洞窟から出てきた婦女子は、全員が素っ裸にされ、数台のトラックに積み込まれた。

「殺して!」「殺して!」の絶叫を残してトラックは走り去った。

滑走路に集った老人と子供の周りにはガソリンがまかれ、火がつけられた。
たちまち阿鼻叫喚のちまたと化した滑走路。

我慢ならず我兵が小銃射撃をしたが、米軍は全く無頓着に蛮行を続けた。

火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れた。

二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。

「ギャッ!」といふ悲鳴を残して蛙のように股裂きにされた日本の赤ん坊とそれを見て笑う米兵士。

こんなに優勢な戦闘にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。

マッピ岬では、岩の間に一本の青竹を渡し、それに裸にされて股から串さしにされた婦人を見た。

自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が、五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た。

~~~~~~~~~~~~~~~

結局、日本軍はマッピ岬のある島の北端に押しこめられます。
約2万人の日本民間人も、日本軍とともにマッピ岬周辺まで逃れてきます。
日本の民間人たちにとって、この情況下で頼れるのは、日本軍だけです。

洞窟の外では、米軍の砲弾が炸裂し、走り回る戦車のキャタピラ音、機銃の掃射音、火炎放射機の焦げた油の臭い等で、この世のものとは思えぬ惨状がくりひろげられています。

逃げのびる日本兵と民間人たちには、女子供老人の区別なく、水も食べ物もない飢えとの戦いが何日も続いています。

7月6日、日本軍最期のときを迎えて、南雲中将、斉藤中将以下陸海軍の最高首脳は地獄谷と呼ばれる司令部壕内で、敗戦の責任をとって、自決します。

陸海二人の将官を失った守備隊本部から、この日、次の2つの命令書が出されます。
命令書は謄写版で印刷され、壕の外を通る将兵に手渡された。

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【命令書1】

今や止まるも死。進むも死。
人の死生はすべからく、その時を得て、帝国男児として本懐なり。

今ここに米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。

戦陣訓に曰く「生きて虜囚の辱めを受けず」。

勇躍全力を尽くして従容として悠久の大儀に生きるを悦びとすべし。

ここに将兵とともに聖寿の無窮、皇国の弥栄を祈念しつつ敵を索め進発す。続け。

【命令書2】

サイパン守備隊は先に訓示せるところに随い、
明日7日、米鬼をもとめて攻勢に前進し、

一人よく十人をたおし、以て全員玉砕せんとす。

~~~~~~~~~~~~~

この命令書は、南雲中将、斉藤中将の起草のように言われますが、ちがうと思う。

おそらく、ふたりの尊敬すべき最高首脳の自害に立ち会った副官が、壮絶な覚悟のもとに玉砕戦を呼び掛けたというのが実際のところなのではないだろうか。

命令書は謄写版で印刷され、壕の外を通る将兵に手渡されていきます。
玉砕命令は口伝えに生き残りの将兵に伝えられます。

7月7日、マッピ岬から約5キロ南方のマタンシャに集結したのは、静岡・名古屋・岐阜で編成された第四三師団を中心とした3000名です。

一説によれば、この時点で生きていた日本の将兵は1万人程度だったともいいますが、片手片足がなくなっていても、とりあえずこの時点で歩行が可能だった、もしくは「動ける」者が、約3000名だったといういうことであろうと思われます。

サイパン戦に終始従事した加賀学氏は、当時の様子を次のように振り返っています。

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大半は何のための集合かも知らず、

「ガラパンに友軍が上陸するから、北方からも進撃する」とか
「玉砕突撃だ」
「ガラパン奪回だ」とかささやかれていた。

そうして集まった“最後の兵”たちも、小銃を持つ者は少なく、特科兵(大砲や戦車などの兵)や軍属は竹竿や木の枝に鉄棒や帯剣を付けた槍を持ち、素手の者は手榴弾を吊っているのみというありさまだった。

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3000名は、三つのグループに分かれ、それぞれ生き残りの佐官クラス(少佐、中佐、大佐)が指揮し、ガラパンのアメリカ軍陣地へ向けて突撃します。

指揮官の一人だった平櫛孝氏(第四三師団参謀、中佐)は次のように書いています。

~~~~~~~~~~~~~~

7月7日午前3時30分を期し、ワーッと喚声をあげて米軍に向かって突進した。

私とともに山際を進む者は約千名。
小銃を持たぬ兵もいる。

この突撃は、はじめからその効果を期待しない突撃だ。

世によく「万歳突撃」というが、そんな浅薄なものではない。
アメリカ側は“狂気”というが、むしろそれに近い。

しかし、病的な狂気ではない。
十分に己れをコントロールして、誰からも強いられたものではない「狂気のごとくみえる本心」からの行動である。

したがって突撃前進の姿勢も大きい。

敵との距離が150メートルにせまっても誰も伏せもしない。

アメリカ側でも、この戦闘の基本動作以前の突撃に面食らったのか、たちまち今までの静寂を破って、赤、白、緑、黄の曳光弾とともに機関銃をアメあられと撃ちこんできた。

(「第四十三師団サイパン玉砕戦」所収)

~~~~~~~~~~~~

この突撃を目の当たりにした米国人ジャーナリストのロバート・シャーロッドは、このときの模様を次のように書いています。

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この日本軍の大逆襲がおわったとき、山と重なった日本兵の死体は、タラワ島の玉砕戦の場合よりもさらに密度が高かった。

すなわち、幅300メートル、長さ約2000メートル足らずの場所に、およそ2000名の日本兵の死体が横たわっていたのだ。

そしてある場所では、これらの死体は四段に高くかさなりあっていた。

私の推測では、四人のうち一人の割合で自殺をとげていた。

そしてここでも、自殺の証拠は右手と胸部が吹飛ばされて、死体からなくなっていることであった。

鉄道の土手の反対側には、少なくとも40名の日本兵の死体が、これまた地上に横たわっていた。

しかし、その付近に小さな家があり、その床下にはさらに何人かの日本兵の死体があった。

私は死体の数を6個まで数えたが、たぶんそこには1ダースぐらいあったであろう。

私の見たこれらの死体は全部、自決したものであって、いずれも自分の手投げ弾によって、その右手はもぎ取られ、胸部または首は吹きとんでしまっていた。

~~~~~~~~~~~~~

一方、マッピ岬に取り残された民間人は、岬からつぎつぎに身を投げて自決しました。

あるいは断崖を降りて円陣を組み、手榴弾で集団自決しました。

ある者は幼子を抱えて入水して命を絶ちました。

日本民間人の玉砕のもようは、米軍の目前でくりひろげらます。

マッピ岬は、後にバンザイ・クリフと呼ばれるようになりますが、このとき、岬から身を投げた民間人は、最低でも8000人だったといいます。


サイパンの戦いで玉砕した日本軍は41,244名です。

そして重症のため、米軍に捕獲され、捕虜となったのが、2438名。

米軍の死傷者は、公称で、戦死3441人、負傷11,465人です。

ただし、初日の死傷者はこの数に含まれず、戦傷して病院に担ぎ込まれたあとに死亡した者は戦傷者、治療のあと隊に復帰した者は戦傷者に含まれていないことからすると、米軍の死亡者は、約15000人であろうかと思われます。


戦争は悲惨なものです。
絶対にふたたび起こしてはならないものだと強く思います。

しかし、だからといって、軍備そのものまでなくていいということにはなりません。

先日、日本に核が落とされたのは、その時点で「絶対に日本から報復される惧れがなかったからだ」と書かせていただきました。

そういうものなのです。

サイパンで、民間人の婦女子や老人、子供が、ひどい目に遭わされました。

それは、最早その時点の日本側守備隊、あるいは日本本国から、報復の惧れがまったくなかったからなのです。

もし、サイパン戦の時点で、日本に強大な軍事力があり、米国本国への巨大は報復力があったなら、米軍は民間人の家屋への爆撃や艦砲射撃はできなかった。

なぜなら報復の恐怖があるからです。

こういうことを書くと、歴史にIFは禁物だよ、という声が聞こえてきそうです。
しかし、誤解を恐れずにいうならば、歴史はIFをもって学ばなければ、現在や未来に役立たない。

「ボクはケンカはしません」ということは、立派な心がけです。

しかし、だからといって体を鍛え、何ものにも負けない強い体と心を鍛えることを怠ったら、万一のときにあなどられるだけです。

国家でもおなじことです。

スイスは永世中立を宣言しているから攻められないのではありません。

万一の場合、スイス人全員が最後のひとりまで武器を持って戦うとしているから、そんなヤバイところを誰も攻めようとは思わないのです。

サイパン戦は、悲惨な戦いです。

しかし、悲惨だからといって、そこから目をそむけるのでなく、二度とそのような悲惨が起こらないよう、平素から120%の準備を怠らないというのが、本来の国家のあるべき姿だと、ボクは思います。

ちなみに「右翼」というと、戦後世代の我々は、なんとなく戦争礼賛者たちという印象を持っている人が多いようです。
ネトウヨとか、ミギというだけで、戦争主義者みたいな印象にされている。

けれども、それは違います。断じて違う。

チョーセンウヨクの連中はどうかしらないが、ホンモノの右翼というのは、戦争の悲惨さをよく知っている。

だから戦争が嫌いです。
だから二度と悲惨な戦争が起こらないよう、備えを十分にしようとする。
過去を踏まえて、未来に備えようとする。

軍備を持つからイケナイのではないのです。
武器を用いて威嚇して他人に言うことを聞かせようとする無法者が現にいるから、日ごろから備えを充分にして、武器を持っている無法者達にすきなようにさせない、強い心を持った人たちが、ホンモノの右翼です。

ですから右翼というのは、誇るべき言葉です。
ボクはそう思っています。

平和は大切なことです。
しかし、平和を守るためには、口先だけで一国だけにしか通用しない平和主義のお経をいくら唱えても、ダメです。

ちゃんと自国の民は自国で守るという強い心と具体的備えがなければ、日本は潰れてしまう。

そう思います。

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歴史のつめあと

2012年12月24日 19時18分17秒 | 歴史

 

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

昨日は天皇誕生日であり、今上陛下は79歳となられました。国民の中には単なる休日あるいは連休として喜んでいる人もいるでしょうが、この日は今上陛下にとって、国民の祝賀を受けるめでたい日であると同時に、占領軍による巣鴨プリズンのA級戦犯処刑の日でもあり、心を痛められる日となっています。占領軍は、日本国民に如何にして罪の意識を植え付けるかということ、そして、自分たちの圧倒的な権力と武力で二度と日本人が逆らえないことを思い知らせるという方針に徹しました。

そのために極東軍事裁判という勝者が敗者をさばくという茶番のような裁判を行い、A級戦犯の7人を処刑しました。その死刑宣告は昭和天皇の誕生日に行い、執行は当時皇太子だった今上陛下の誕生日に行いました。これによって、日本人に永久に思い知らせるという意図が露骨にあったのです。

死刑執行の日、当時の昭和天皇は朝侍従がお顔を拝見した時に、目を真っ赤に泣きはらしておられたと聞きます。当時はまだ少年であられた今上陛下が自分の誕生日に起こったことで、心にどのような苦痛を抱かれ、傷を受けられたか、想像するのは畏れ多いですが、きっと生涯にわたって、お誕生日のたびにその事件は御心に蘇って来られるのではと思います。

 

 

 

 

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                    右側が破壊された「七士之碑」
 
 
12月23日は天皇誕生日であり、かつては天長節と呼ばれておりました。
それとともに日本国民としては忘れてはいけないことがあります。
東京裁判で「A級戦犯」と呼ばれて7名が処刑された日でもあるのです。
これは明らかに意図的にやられたのです。
この東京裁判が起訴された日は4月29日です。この日は昭和天皇の誕生日です。
 
皆さんはこの7名の名前を言えるでしょうか?
今や殉国の士の名前すらも忘れ去られようとしています。
 
処刑された7名の執行責任者は日本駐留軍司令官ヘンリー・ウォーカー中将で、処刑した後、7名の遺体をトラック2台に積んで久保山火葬場で火葬し、その後、遺骨を捨てたのです。1950年、朝鮮戦争が起こるとヘンリー・ウォーカー中将は韓国に赴き、12月、ウォーカー中将が戦場視察のため車で走っている時に事故死しました。
その日は戦犯7名の祥月命日である12月23日午前零時過ぎ、奇しくも死刑執行の同じ日の同じ時刻であったのです。
 
それを聞いたマッカーサーはじめ米軍首脳は恐れ、ウオーカーの副官は怨霊を供養するために翌年5月に興亜観音を訪れ、住職から「興亜観音に恩讐のへだてはない。恩親平等だ。それが松井閣下の心でもある」と言われ、ウオーカーと7人の霊を供養する墓標を霊仏観音の傍らに建てて法要を営んだのです。
 
昭和46年12月、過激派の東アジア反日武装戦線が七士之碑を爆破して破壊される事件がありましたが、今は修復されています。
 
我々 はこの事実とともに、東京裁判とはどういうものであったかを知っておくべきであります。東京裁判の判決後、日本の弁護人側は連合国最高司令官に再審を申立 しましたが却下されました。直ちにアメリカ連邦最高裁判所に訴願しましたが、これも却下されました。この時、却下理由として最高裁のダグラス判事がこのよ うに述べました。
「インドのパール判事が言うように東京裁判は司法裁判ではなく、政治権力の道具に過ぎないから最高裁の審議対象に馴染まない」。
 
7名はじめ「戦犯」という名のもとに多くの無実の日本人たちが処刑されましたが、それは「司法裁判」ではなく「政治権力の道具」のために亡くなったのです。
 
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日本が侵略したという嘘よりも何をされてきたかしっかり教えるべきである、
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