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前線を志願する皇族たち  「皇族の三人や五人死ね」と仰るでしょう

2012年01月22日 22時06分06秒 | 歴史

サイタニのブログの続きです。

皇族男子が、皆軍人となることが義務付けられていて、それゆえに、職務に忠実な皇族は前線に出ることを望み、死を恐れなかったというのは、初めて聞きました。こういうことは、国民に知られることもなく、一般の国民は、皇族であるが故に危険に関わることもなかったであろうと思い込んでいる人も多かったのではないでしょうか。こうした真実は、知られるべきであり、間違った思い込みで、皇族の名誉が傷つけられる事のないようにしたいものです。

今は皇族ではなく、占領軍により旧皇室典範は廃止され、一般国民になられましたが、終戦前後にこれほど命をかけて動かれた方々、今はその子孫の方々を、やはり皇族として、もう一度お迎えすべきだと思います。

いざというときに、天皇をお助けする皇族が一定人数以上やはり必要ではないかと思います。そしてそれは女性宮家ではなく、男性皇族でなくてはならないと思います。天皇をお助けすると同時に、万世一系の皇位の安定を図るための皇族が絶対に必要であり、占領下で、日本衰退を意図して変えられた皇室典範をもとに戻すことこそ、一番の近道であり、正道だと思います。

 

 


 竹田 恒泰著  「皇族たちの真実」より


戦死した皇族たち
  

 

これまで終戦を完成させるために皇族たちが重要な役割を担ったことを紹介してきた。だが、太平洋戦争中に命を落とした皇族もあったことを忘れてはいけない。戦争という国の大事において皇族は命を落として当然であるというのは明治天皇の思召であり、男子皇族は全員軍人となることが義務づけられていた。


 

これが「ノーブレス・オブリージュ」、つまり王族や貴族などの特権階級は普段好遇されているからこそ、いざ国の大事となれば最も危険な任務に就くべきだというヨーロッパの発想にほかならない。だが太平洋戦争中皇族は特別扱いされ、極力危険な任務に就かせないように力が働いていたことも事実である。しかし、その中にあって自ら危険な任務に就くことを求めて軍部と対立した皇族、そして実際に戦場に命を散らした皇族もいた。
 
 
〔殲滅戦を指揮して玉砕した音羽(おとわ)正彦侯爵〕
 

音羽正彦侯爵は朝香宮鳩彦王の第二王子で、明治天皇の第八皇女である允子(のぶこ)内親王を母とする。次男であったため昭和11年(1936)に臣籍降下して、音羽侯爵家を創設していた。音羽侯爵は既に皇族の身分を離れていたため、正確には皇族ではなく「元皇族」であるが、皇族として生まれ育ったことには変わりない。また音羽侯爵は、朝香家の現当主、朝香誠彦の叔父に当たる。

音羽侯爵は戦前より軍艦「陸奥」に乗り組み、副砲長兼分隊長として活躍し、海軍砲術学校高等科学生としてもっぱら砲術の研究に当たり、同校を卒業した後は第一線に配属されることを希望し、昭和18年(1943)11月にはウェーキ島に、次いで同年12月にはマーシャル諸島方面部隊参謀に補せられた。そして翌昭和19年2月6日のクエゼリン島の激戦において自ら陣頭に立ち最後の突撃を敢行し、ついに壮絶なる戦死を遂げた。戦死後に海軍少佐に昇進。
 
 
〔米軍機と交戦して戦傷死を遂げた伏見博英(ふしみひろひで)伯爵〕
 

伏見博英伯爵は伏見宮博恭(ひろやす)王の第四王子として生まれた。母は最後の将軍徳川慶喜の第九女経子(つねこ)である。昭和11年に海軍少尉に任官すると同時に臣籍降下して、由緒ある「伏見」の名と伯爵の位を賜わった。伏見伯爵は、昭和18年8月下旬に、南太平洋方面で飛行機に搭乗して作戦要務遂行中に、敵機と交戦して重傷を負い、その後8月26日に戦傷死した。
 
 

太平洋戦争中に海軍大尉として第三連合通信隊司令部付として蘭印スラバヤに赴任したが、搭乗機がインドネシアのセレベス島(スラウェシ島の別称)南部ボネ湾の上空で米軍機に遭遇、追尾され撃墜された。戦死後に海軍少佐に昇進。伏見伯爵は、伏見家の現在の当主である伏見博明の叔父に当たる。
 
〔飛行機事故で戦死した北白川宮永久王(きたしらかわのみやながひさおう)〕
 
北白川宮永久王は、北白川宮能久(よしひさ)親王の第三王子である成久王を父、明治天皇の第七皇女の房子(ふさこ)内親王を母として、明治43年(1910)2月29日に誕生した。そのとき父の成久王は既に亡く、その第一王子である永久王は、若くして北白川宮の当主になった。永久王は学習院初等科から陸軍幼年学校、そして陸軍士官学校へ進学し、父の成久王と同じ近衛野砲連隊に入って、野砲兵学校、そして陸軍大学へ進学した。昭和15年(1940)3月9日に中国に派遣されて、駐蒙(ちゅうもう)軍参謀となるが、約半年後に

内蒙古戦線での演習中に飛行機事故に遭った。陸軍大尉だった永久王は戦死後に陸軍少佐に昇進した。
 

永久王は軍神とされ、その死を讃える歌が作られた。永久王の第一王子である道久(みちひさ)王は昭和12年(1937)の生まれなので、3歳で北白川宮家を継ぐ。現在は伊勢神宮の大宮司を務めている。

北白川宮が「悲劇の宮様」といわれるのは、親子三代続けて海外で戦死または事故死しているからである。永久王の祖父に当たる第二代当主の能久親王(筆者の高祖父に当たる)は、明治28年(1895)、陸軍中将、近衛師団長として日清戦争後の台湾平定において戦病死した。また、永久王の父で第三代当主の成久王は大正12年(1923)4月1日にフランスのパリ郊外で自動車事故によって薨去となっている。

永久王と竹田宮恒徳王は従兄弟に当たり、父同士が兄弟、母同士が姉妹、しかも家が隣り合わせであることから、子供のときから仲がよかった。二人は歳も近く、恒徳王が一歳年長であった。また二人とも兄弟はなく、本当の兄弟のように育った。永久王が戦死した後、恒徳王は「永久王が生きていたら(皇族としての役割を)二人で果たせるのに」と述懐している。この時期の日本人は、多くが肉親を失った。皇族とてその例外ではなかったのだ。


特別扱いされた皇族軍人


男子皇族は全員軍人となることが原則とされ、実際に戦場で命を
散らした皇族があったことをこれまで述べてきた。だが実際には皇族を危険な任務から遠ざける傾向があったことも確である。皇族を弾丸が飛び交う前線に配置することには抵抗があったのだ。
 
 
大正天皇の第三皇子で昭和天皇の弟宮に当たる高松宮宣仁親王は、学習院を経て海軍兵学校、海軍大学校に進み、砲術学校普通科学生課程を終了後、戦艦「比叡」に乗り組んでいた。しかし高松宮は周囲から常に特別扱いされ、自ら望むことは何もやらせてもらえず、その悔しい思いを、22歳の昭和2年(1927)8月28日の日記に次のように記した。

「行くと云つて『では願ひます』とすら云はれたことがない。まして『殿下に』と呼んでたのまれたことはない。そんなに私は何にをするにも能力がないのかしら。「する」と云つてさしてもらへたことはこの一月何んにもない。『比叡』の中にすんでる油虫と大差なし。もう『さしてもらひ度ひ』とは云ふまい。そう云ふのは自惚れなんだらう。』

また別紙には次のような戯れ歌が書かれている。
「私は比叡の油虫/立派なお部屋に/納って/たらふく食ったら/
ちょろ々と/ふざけ散らして/毎日を/遊んで暮す有様は/他人が見れば羨めど/我身となれば徒食の/辛さに苦労の益す許り/早く私も人並みに/比叡のために働いて/大きな顔して開歩して/愉快な日々を送りたし。」

何もやらせてもらえない自分を「比叡の油虫」と表現するところに、ユーモアセンスのある高松宮らしさが湊み出ている。ここから若き高松宮の青春の一ぺージを垣間見ることができる。
昭和12年(1937)夏、高松宮は少佐として軍令部第四部(通信)に勤務
していた。この頃、上海周辺で日本軍と中国軍が本格的な戦闘に突入し、両軍に多大なる犠牲者を生むに至ったのだが、そのとき高松宮は自らが中央の安全な場所で勤務をしていることを嫌い、前線に赴くことを希望した。高松宮は戦闘の実態を見聞しておくことが絶対必要であること、そして国民の危険をただ座視するのは皇族として好ましくないことなどを、中国行きを希望する理由として自らの日記に記している。

ところが宮内省はこれに反対、木戸幸一宗秩寮(そうちつりょう)総裁〔当時。宗秩寮は旧宮内省の一部局で、皇族・華族などに関する事務を司った〕と海軍次官山本五十六中将〔当時〕、そして昭和天皇も同じくこれに反対し、高松宮は中国行きを断念することになる。

反対の理由は、そのとき兄宮の秩父宮は外遊中で日本を留守にしており、また弟宮の三笠宮はまだ若いため、もし昭和天皇に万一のことがあった場合、高松宮に摂政になってもらわなければ困るということだった。

高松宮は昭和12年9月11日の日記に、「海軍にゐてコノ機会を逃した事だけで、私は今までの私の、何の
ために海軍にイヤイヤながら在籍してゐるのかと云ふ、唯一の手がかりを失つた様な悲しさを覚える。益々私の海軍にゐることの有名無実さを感じられる」と極度の落胆ぶりを記した。

高松宮の憤りはまだ続く。昭和17年(1942)夏、宮はアリューシャン列島のキスカ島の視察を希望するが、やはり嶋田繁太郎海相と軍令部次長伊藤整一少将らに反対され、またしても望みは実現しない。高松宮はこのときも日記に「全く統率上生ける屍なり」(昭和17年8月30日付)と書き残した。当時多数の男子皇族がいたが、秩父宮、高松宮、三笠宮の三方については 昭和天皇の弟宮であるということで、ほかの皇族軍人に比べてより特別に扱われていたと見える。

また昭和12年9月に伏見宮博義(ひろよし)王(海軍大佐一が第三駆逐艦隊司令として駆逐艦「島風(しまかぜ)」に乗艦していたところ、上海方面で負傷したとの報せを受け、高松宮は「結構な出来事なり。〈中略〉これで皇族も戦死傷者の中に算へられる帖面ヅラとなり、よろし」(『高松宮日記』昭和12年9月26日付)と記した。

                   
「宮田参謀」という偽名
 
一方、竹田宮恒徳王も皇族として特別扱いされることに抵抗した一人である。父恒久王が日露戦争に従軍したとき、馬ですぐ隣をすんでいた南部利祥(としなが)少尉〔旧盛岡藩主南部伯爵家当主〕が敵弾を受けて戦死した。恒徳王は弾雨の中から生還したこの話を父から聞かされて育ったのだった。恒久王は日本に凱旋した後、家に南部少尉の写真を飾って祀っていたという。

恒徳王は昭和13年(1938)5月30日に陸軍大学校を卒業して、日中戦線の第一線の中隊長を志願したが実現せず、満州ハイラルの騎兵十四連隊第三中隊長に任命された。竹田宮は光子妃を伴い、モンゴルに繋がるホロンバイルの大草原へと赴任し、間もなく黄河北岸にある帰徳付近に進んだが、このとき前線への出勤を前にして、竹田宮だけ内地〔日本国内のこと〕に戻す動きがあった。納得できなかった宮は東京にいる陸軍省の人事局長と電話で激しく口論した末に、希望が受け入れられ、中隊長として戦地に赴くことになった。

かくして竹田宮は第一線に立つことになったのだが、戦闘に加わるならば皇族の身分を隠した方がよいということになり、「竹田宮」をひっくり返し、「竹」を「武」に替えて「宮田武」という名前を使うことにした。以降、竹田宮の隊は「宮田中隊」と呼ばれ、また参謀になってからは「宮田参謀」で通した。

日本軍の中でもごく一部の特定の者以外は宮田参謀が皇族の竹田宮であることは知らなかったという。ここで竹田宮は初めて敵弾をくぐる経験をする。そして後に「初めて自分に向けて弾が飛んできたときの気持ちは全くいいものではなかった」と語った。

昭和17年、フィリピンの米軍はバターン半島へ撤退し、マッカーサー司令部はコレヒドール要塞に立てこもっていた。そのとき宮田参謀は数人の参謀とともにプロペラ機でバターン半島からコレヒドール上空を飛んで戦況を視察したのだが、終戦後、恒徳が連合国最高司令官総司令部(通称GHQ、以下「総司令部」という)情報部長のウィロビー少将に会って「はじめまして」と挨拶をすると、ウィロビー少将は「はじめてではない」と一言い、恒徳が納得のいかない顔をすると、少将は「1942年(昭和17年)の初めに、あなたは飛行機でコレヒドールの上空を飛んだでしょう。その飛行機には赤い吹き流しがついていた。そのときあなたに会いましたよ」と言って笑った。

確かに宮田参謀が乗った飛行機には味方から撃たれないように赤い吹き流しがつけられていた。当時竹田宮は一貫して「宮田参謀」で通していたのだが、竹田宮=宮田参謀ということはかなり早い段階で米軍には知られていたということだ。竹田宮は終戦になってから、当時の米軍の諜報活動の凄さを思い知らされたのだった。

ウィロビー少将は続けた。「マッカーサー元帥は、エンペラーのお使いがここまで飛んできたということは、日本軍がもうはっきりと自信を持ってきた証拠だとみて、フィリピンを捨てて、豪州に退く決心をしたのだ」と言う。マッカーサー元帥は、ただの一参謀として視察に来た竹田宮を、皇族としてお使いに来たと理解したのだった。竹田宮がコレヒドール上空を飛んだ数日後にマッカーサー元帥は潜水艦でコレヒドールを脱出している。

「皇族の三人や五人死ね」
 
 
竹田宮恒徳王は大本営に勤務していたとき、第一線の実情を知るために前線に行くことをしばしば願い出るも、毎回聞き入れられることはなかった。しかし、ニューギニア、ソロモン方面の戦線をどうするかの決定をするために、参謀次長と軍令部次長がラバウルの前線司令に出向くとき、竹田宮は強い態度で随行を願い出た。
 
 
そのときの様子を辻政信中佐「当時」が次のように記している。「第一部長綾部中将が、幕僚数名と共にラボール(ラバウル〉に出張されるとき、真先に志願されたのも殿下(竹田宮恒徳王)であつた。
 
 
併し、杉山総長と、東條大臣は頑として肯かれない、<中略>此の日の殿下は血相さへ変つてゐた。眼に涙を浮べながらラボール行きの選に漏らされた事を慨いてゐられる。「班長さん<辻正信のこと>、御願ひです。私を、ラボールにやるよう、総長・大臣に班長から是非もう一度、申上げて下さい。
 
私が皇族なるがため、当然なすべき仕事をさせて貰へないなら、今すぐ大本営参謀をやめさせていただきます。
 
この大戦争に、もし、明治天皇様がお出になりましたら、きっと、皇族の三人や五人死ね!と仰言るでせう」(辻政信『ガダルカナル』)

竹田宮の迫力に押された辻中佐は杉山元参謀総長を説得にかかった。話を聞き終えると杉山はしばらくうつむいて考え込み、万一のことがあったら切腹する覚悟を決め、涙をぬぐいながら「さうか、それほどの御決心か!」と言い、今度は杉山が東条陸軍大臣を説得に出掛けたという。戻った杉山は辻に「大臣も、泣いてゐたよ……」と伝えた。そしてついに竹田宮は海軍の水上機でラバウルに向かった。
 
 
「皇族の三人や五人は死ね」というのは明治天皇の皇女である竹田宮妃昌子が息子の恒徳王にしたためた手紙の中の一節であった。昌子内親王はそのほかにも、「皇族だからといって甘えるようなことをしてはなりませぬ」「けっして死を恐れてはなりませぬ」などと手紙に書いて外地の戦場にいるわが子を励ました。
 
 
また、竹田宮の祖父に当たる北白川能久親王も台湾への出発に際して「今回の如き国難に際しては皇族の一、二人は戦死する位ゐの覚悟なかる可らず」と述べたことが伝えられている。


竹田宮は学習院から陸軍幼年学校に上がり、寮生活で「床を上げることから、靴の掃除まで全部やる。自立の精神が生まれ、甘えがなくなった」ことで、皇族として特別な扱いをされることに「反抗的な気分を抱いた」と語っている。

昌子内親王は 明治天皇の皇女として育てられただけあり、気骨ある母親で、子育てに関して献身的だったという。恒徳は昌子内親王について後年次のように語った。

「なかなかピチッとしていました。やさしくもしてくれたけどね、非常に怖いこともあったです(笑)。父のほうが、むしろあまり怖くなかった。それに、父は早く亡くなったもんですからね。母に叱られることが多かったわけです(笑)。しかし可愛がってもくれ、毎日おやつはいただきましたし、食事はいつも一緒でした」
(『日本の肖像』第一巻)

明治時代以降、日本は近代国家を建設するために「富国強兵」を掲げていた。皇族男子は明治天皇の思召により原則として軍人となることが義務づけられていた。軍の学校に進学して、軍人としての能力や功績などにはかかわりなく当然のように規定の範囲内で最も早く進級していた。軍人になった皇族男子たちは、天皇に忠誠を誓って国家のために命を捧げた。

元帥になった皇族には、陸軍では小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王、伏見宮貞愛(ふしのみやさだなる)親王、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王、久邇宮邦彦(くによし)王・梨本宮守正(なしもとのみやみやもりまさ)王らが挙げられる。

特に閑院宮載仁親王は昭和6年(1931)から15年まで参謀総長を務めていた。また海軍では昭和7年(1932)から16年(1941)まで軍令部総長(軍令部長)を務めた伏見宮博恭(ふしのみやひろやす)王が挙げられる。この頃、男子皇族は大日本帝国憲法下で衆議院と並んで帝国議会を構成した立法機関、貴族院の議員となることを原則としていた。しかし、軍人であるがゆえに議会には出席しないのが慣例となっていた。

また親王は天皇の最高諮問機関である枢密院会議に出席することができることになっていたのだが、同じ理由から会議への出席を控えていた。「男子皇族は軍人となって政治に関与すべきではない」という 明治天皇の思召によるものである。男子皇族は間もなく敗戦によって予備役編入となって軍籍を離れ、また貴族院議員も辞職することになる。

男子皇族は 天皇の親族であることから、天皇に準じて敬われていた。皇族を危険に晒すことは畏れ多いと考えられる一方、多くの皇族は軍人としての職務に忠実であり、中には前線に配置されることを強く望む皇族もあった。また、弾雨をかいくぐり生還した皇族もあれば、殲滅戦を指揮して壮絶なる戦死を遂げた皇族もあったのだ。

そして皇族は終戦時に最もその力を発揮した。終戦による混乱が極力抑えられたのは皇族の決死の行動によるものが大きい。





戦後の皇族たち、昭和天皇の分身の如く、歴代天皇陵代拝と各機関各界要人と会談

2012年01月22日 16時18分20秒 | 歴史

サイタニのブログからの転載です。

終戦直 前に、皇族が戦地に飛んで、昭和天皇の停戦の御心を伝えられましたが、終戦後も自由に動けない昭和天皇かわりに、歴代天皇陵をすべて回って敗 戦の御報告と日本復興の御加護をお祈りするようにと、昭和天皇から命ぜられます。

これもやはり皇族でしかできないお役目です。日本は祭祀の国なのです。日 本は、国でも個人の家でも、古来より、先祖の祀りを大切にしてきた文化の国柄なのです。だから敗戦という未曽有の出来事においては、なおさら、これは大事 なこ とであったと思います。


 

 


 竹田 恒泰著  「皇族たちの真実」より

歴代天皇陵御代拝
 
終戦の混乱もやや落ち着きかけた10月10日、昭和天皇は御自ら伊勢神宮に御参りになった。終戦を御報告されたことと思われる。その後11月29日には皇族男子に三度目の御召があり、昭和天皇は七名の皇族に、ある御使い御命ぜられた。

「百二十三に及ぶ歴代天皇の御陵に親しく自分がお参りしたいのだが、それはとても今の状態では出来ない。神武(じんむ)天皇の畝傍(うねび)陵と明治天皇の桃山陵と大正天皇の多摩陵とこの三ツの御陵には自分でご報告をし請願をするが、あとの百二十の歴代天皇の御陵には、ご苦労だが君達が手分けをして代参してくれ」(竹田恒徳『終戦秘話』)

そのお使いとは、山陵(さんりょう)御差遣、つまり歴代天皇陵への御代拝だった。昭和天皇からは、戦争のこのような終戦は自分の不徳の致すところであり、それを謝り、日本の今後の復興に対して御加護を祈るように、そして今回の皇族の御代拝で国民と皇室との結びつきをより深めることを希望する、との御話があった。

御陵が集中している京都へ出かけたのは高松宮だった。宮は12月2日から4日間をかけて、京都中の御陵をくまなく訪れ、御代拝した。分刻みで多くの御陵を御代拝する様子は『高松宮日記』に記されている。そして高松宮は関西地区、三笠宮は九州地区、朝香宮は大阪地方、東久邇宮若宮(盛厚(もりひろ)王)は京都地方、竹田宮は四国と淡路島、閑院宮は奈良地方を、また賀陽若宮(邦壽王)も特使として
山稜〔天皇の御稜〕を回った。

昭和天皇は御自ら、また親族から勅使を御立てになり、終戦という国の大事を、先祖である歴代天皇の御陵に御報告なさり、これからの日本の行く末を護っていただくように御請願なさった。

歴代天皇は天皇の先祖であると同時に、皇族にとっても先祖であり、このときに皇族が御代拝をしたことは意味深い。そして、皇族が手分けをして全国の御陵を訪れたことは、終戦の早い段階で 天皇の行幸があったのと近い効果があったはずだ。
 
 
例えば高松宮はこの御差遣に際して京都と大阪で数多くの病院や行政機関などを訪問し、また各界の要人と会談した。

このとき昭和天皇は「皇族は朕(ちん)と民衆との間に在りて、此の点に充分尽力ありたき」と仰せられた。終戦の混乱期において天皇の分身として身軽に動き回ることができたのは皇族しかいなかった。この時期に皇族はさまざまな役割を担ったが、その中でも取り分け、外地及び内地への聖旨伝達と山陵御差遣は、皇族であってはじめて遂行できる極めて重要な任務である。

そして、敗戦国の武装解除が無血で完了したことは、人類史上極めて異例なことであり、その上で皇族たちは絶大なる役割を担ったことになる。






注:これを見ると、今言われている女性宮家創設はやはり無理ではないか、女性が代拝出来る日は限られるからである。皇族を復帰させるのが皇室を安定させることであり、しいては日本が繁栄するのである。(皇室の事は皇室が決めるのが一番良いと思う)


  (皇室が安定することが日本繁栄に何故繋がるかは、このブログを最初から読んで頂いた方にはお解かりでしょうが、途中からの方にはいずれ再び書きたいと思う。皇室が無くなったら日本は滅びると思って頂きたい。それほど重要な事である。)
サイタニ


日本が輝いていた訳  日露戦争と日本の正義

2012年01月21日 21時22分19秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

この記事を読むと、ラジャー・ダト・ノンチック氏の日本はかつて清らかで美しかったという詩が決してお世辞でも誇張でもなく、本当だったのだと思います。

「かつて日本人は親切でこころ豊かだった、アジアの国の誰にでも自分のことのように一生懸命つくしてくれた」ということがここには、書いてあります。

世界一の陸軍国であり、ナポレオンすらもかなわなかったというロシアを相手に、国運を賭けて日本は戦います。それはまた、戦わざるをえない状況であり、おそらく戦わなければ、ロシアはどんどん南下して、やがては満州と朝鮮半島を支配下に置き、さらに日本にも侵攻してきたはずです。自分のためでもあり、またアジアのためにも戦わざるをえなかったのです。

この日露戦争の勝利は、その頃やはり大陸の西側で、南下を目論んでいたロシアに悩まされていたトルコに、大きな勇気を与えました。トルコは、日本の勝利に西洋人以外の国がロシアを破ったことで、自分たちの国も日本のように頑張れるという自信を持ち、日本のような近代化に取り組むようになりました。明治天皇と東郷元帥はトルコではヒーローです。

白人に虐げられていた国々の希望の星となった日本、この日露戦争の勝利は、白人の植民地とされた多くの国々の独立の気運を芽生えさせます。白人には絶対にかなわないと思っていたあきらめが、日本の勝利によって打ち破られたのです。

それでも、日本にとって、ほんとに大きな国力以上の戦いでした。明治大帝はもし負ければ、皇祖皇宗の神々にどのようにお詫びすればよいかという思いに日夜心をすり減らされたことでしょう。天皇にとって、皇位を継ぐとは大きな責任を背負い、国の始めより受け継がれた日本の国をしっかりと無事に次の時代へと受け渡すことです。それは、欧米植民地主義の時代を生き抜かねばならぬ日本を背負われた天皇としての孤独な責務でもありました。

ひとりつむ言の葉草のなかりせば なににこころをなぐさめてまし

 
これは明治天皇の御製ですが、ここには、天皇のそんなお立場のもたらす孤独感がひしひしと伝わってきます。 


 

 

日本が輝いていた訳

イメージ 1
日露戦争直前の『戯画 公園の各国児童』

(解説文)
朝日太郎(日本のこと) 「おい露助、清吉の油断に付込んで饅頭(満州のこと)を盗もうとは何事だ、さあ早く返してしまえ!」
露助 「つべこべ言うな、生意気な野郎だ。俺の身体の大きいのが見えんか」
仏次 「露助君、そっと僕にも分けてくれたまへ」
独一 「仏次君、君が貰ったら僕にも分けるんだよ」
米蔵 「これは面白い。露助のやつ強そうなことを言っているが、朝日にヤラレルんじゃないかな」
英子 「露助の顔の憎らしいこと、有夫サン、その艦を太郎さんに上げなさいよ」
有夫 「そうだ、早くやろう」(アルゼンチンより巡洋艦日進、春日を購入)
韓坊 「太郎兄ちゃん恐いよ」
清吉 「グウ・・」
・・・・・・・・・  
  
日本人がいちばん輝いていたのはいつごろであっただろうか。 
高度成長期か、否。 それとも大東亜戦争を戦った時か、否。 
それは日露戦争がはじまる前から終わる頃までだと思うのです。 
日露戦争後は日本人にゆるみが感じられますが、その前までは全く違いました。
 
この日露戦争はロシアはもちろんチャイナも学校で教えない、というよりも歴史に“ない”のです。
そして肝心の日本でも大事な部分をほとんど教えていません。
先達が祖国の危機に瀕して勝つ望みの薄い戦にひとつになり勝ち抜いた栄光に満ちた時代を知ることなしに、どうして日本人として生きてゆく喜びを味わえるのだろうか。・・
 
東ヨーロッパのことわざにこういう言葉があります。
「ロシアの隣国になるほど不運なことはない」。
現在の日本に当てはめればロシアの他にチャイナ、韓国、北朝鮮というところでありましょう。
日本はいい国だが近隣国に恵まれない、まこと不運であります。・・
 
明治33年、ロシアの大軍が満州支配を目指して黒竜江を超えて南下します。
その時、ロシアは黒竜江の東岸であるブラゴウェシチェンスクにおいて、三千人の支那人を一人残らず駆り立てて、全員を黒竜江に突き落とすという大虐殺を行ったのです。
この時、ブラゴウェシチェンスクにいた帝国陸軍の石光真清の日記にはその状況がよく書かれています。
これを知った日本人は怒り、同じ東洋の民族がこんなにむごたらしく扱われている、それを黙って見ていられようかと国民感情は沸騰し、我が国危うしとして正義の戦としてロシアとの戦いを決意していくのです。
同じように現在までに、チャイナが内モンゴル、チベット、ウィグルにおいて大虐殺しておりますが、これを知った日本人は所詮他国の事よと国民感情は冷めており、それがやがて我が国に対して降りかかってくる危機感だとは全く感じていないのです。
 
当時、明治大帝ご自身による陸軍大演習の御統監、昭憲皇太后までもが軍艦に乗り込まれて海軍将兵の士気を鼓舞されたことをみても、日本の軍隊の強さが皇室のお心遣いの賜物であるといえます。
現在の日本では天皇陛下が自衛隊を直接鼓舞することは一切ありませんが、一旦緩急あれば命を惜しむことない自衛官にとってこのことがどれほど励みになるか、目に浮かぶほどであります。
 
明治天皇は戦争だけはお避けになりたかったのですが、
あえて決断を下さねばならなかった明治大帝の御気持ちが偲ばれるお言葉があります。
 
事乃一蹉跌を生ぜば 朕何を以てか祖宗に謝し、臣民に対するを得んと、すなわち涙さんさんとして下る
失敗することがあれば、我が高祖皇宗(御始祖と歴代天皇)の神霊に何とお詫びを申し上げ、我が子のごとく慈しむ国民に対してどうして顔向けが出来ようかと苦しみ、涙が流れるばかりである。
 
この戦より御食事がおすすみにならず、八年後に明治大帝は御隠れなるのですが、
明治大帝の御心労のほどが如何ばかりだったかが偲ばれます。
 
・・・・・・ 
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」


 


 岡田資中将の「法戦」   米軍の日本空襲は戦争犯罪であることを認めさせた。

2012年01月21日 05時11分28秒 | 歴史

 

国際派日本人養成講座からの転載です。

終戦後、連合国の軍事法廷で裁かれた日本軍人には、多くの不当な判決がくだされ、従容として潔く処刑されていった人は多かったものの、このように相手の米軍の犯罪を立証して認めさせた人は岡田中将の他にはいなかったでしょう。これは岡田中将の裁判の内容が米軍捕虜を戦争犯罪として処刑したことによるものだったことで、それが可能になったものですが、岡田中将の渾身の気迫で、正義が我が方にあることを立証し、米軍の犯罪性を暴いたものでした。

このとき弁護人を請け負った米人のフェザーストーン博士の職務に公正公平な態度は、非常に立派でした。東京裁判においても、多くのアメリカ人弁護士が非常に誠意を尽くして、日本人の弁護を公正に行ったという話です。これは、連合軍の不当な復讐裁判の中で、一般アメリカ人の公正な正義感を示すもので、日本人として、心に留めるべきことでしょう。


岡田資中将

 

米軍の日本空襲は戦争犯罪であることを、
    岡田中将は自らの戦犯裁判で認めさせた。



■1.「私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ」■ 


 戦争末期に米軍はB29によって本土各地を爆撃したが、その中には日本軍によって撃墜され、パラシュート降下した搭乗員が少なからずいた。岡田資(たすく)元陸軍中将は、東海軍管区司令官として降下搭乗員38名を「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」として処刑した。

 連合軍側はこれを「捕虜の不法処刑」とし、昭和23(1948)年1月、岡田中将以下の責任を問う裁判が、横浜の連合軍軍事裁判所において始まった。

 岡田中将は、「米軍の不法を研究するに従い、之は積極的に雌雄を決すべき問題であり、わが覚悟において強烈ならば、勝ち抜き得るものである」と判断した。そしてこの裁判を「法戦」と称した。武力では負けても、正義を賭けた法の上での戦いを続ける、という覚悟である。

「法 戦は身の防衛に非ず、部下の為也、軍の最後を飾らんことを」。岡田中将は処刑の判断責任はすべて自分にあるとして、一緒に起訴された19名の部下たちを救 おうとした。さらに、搭乗員の処刑は「無差別爆撃を行った戦争犯罪人」への処置として正当であったことを立証して「軍の最後を飾らん」ことを願ったのであ る。岡田中将は、次のように家族への手紙に認めている。

 私は必ず法戦には勝ってみせる。判決は御勝手にだ、之は米軍にても都合のある事ゆゑ。


■2.フェザーストン博士■

  法戦に立ち向かう岡田中将に、力強い味方が現れた。主任弁護人を務めるフェザーストン法学博士であった。博士は50歳近い、恰幅の良い巨躯をダブルの背広 に包み、穏やかな笑顔で話す紳士だった。博士は弁護人として、敵味方とは無関係に、被告を弁護することに全力を傾けた。その公正な姿勢は日本人に深い感銘 を与えた。

 フェザーストン博士は、まず米軍の爆撃が民間人に対する無差別攻撃として戦争犯罪にあたることを立証しようとした。

 検察側は、名古屋の軍需産業の70パーセントは市内に散在する下請け工場であり、名古屋市の爆撃はそれらに対する正当な攻撃で、民間人への無差別攻撃には当たらない、と主張した。

 フェザーストン博士は「証拠無しにものを言うのはやめて貰いたい」として、当時の軍需管理局の管理者二人を呼んで、証言をさせた。二人は、下請け工場は住宅地区とは別の工場地帯にあったこと、市内の家内工業では軍需生産は一切行われていなかったことを明らかにした。

■3.逃げまどう女子どもたちを狙った米機■

 次いでフェザーストン博士は、空襲の被害者を何人も法廷に呼んで、それが無差別攻撃だった事を明らかにした。そのうちの一人に神戸市で孤児院の院長をしていたの水谷愛子さんがいた。水谷さんは、昭和20(1945)年3月17日夜の神戸空襲の模様を次のように語った。


 夜11時頃に警戒警報が鳴り、照明弾が落ちて、あたりは真昼のように明るくなった。他の機が焼夷弾を落とし、孤児院の建物にも火がついた。子どもたちを連れて、水谷さんは近くの親和女学院に避難した。

 しかし山から降りて来た人が、「ここ、危ないで」と言います。そこで子どもたちを下の宇治川の宇治橋に連れて行きました。みなを橋の下に入れましたが、人で一杯です。・・・焼夷弾がまたあたりに落ち始め、火を消すのに大わらわでした。幾組かの母子が焼死しました。

 照明弾で真昼のように明るくなれば、逃げまどう子どもたちの姿もはっきり見えたはずである。米機が女子どもと知りつつ、焼夷弾を落としたのは明らかだった。

 日本人弁護人の記録によれば、この時、法廷は「しーん」と静まりかえったらしい。

■4.大量殺戮を狙う爆撃の残虐性■


 フェザーストン博士は、無差別爆撃について、岡田中将の意見を聞いた。中将は、軍人らしく爆撃の具体的な方法を詳しく論じた。

 まず爆撃予定地を包囲的に爆撃して炎上させ、それからさらに幾つかの爆撃地区に分割し、住民がそこの地区から逃げ出さないように、焼夷弾、小型爆弾、機銃掃射をまぜて全員殺戮の方法をとった。その残虐性を、岡田中将は指摘した。

  この方法は、昭和20(1945)年3月10日、東京の江東地区で行われ、一晩で10万人近い死者を出した。名古屋市でも同じ方法がとられ、5月14日の 最大規模の爆撃では、市の北部80パーセントが焼失し、死傷者948名、全焼2万3千余軒、罹災者は6万5千人近くに及んでいる。

映画「明日への遺言」で岡田中将を演じる藤田まことさん

 

 フェザーストン博士は、岡田中将への尋問で、こう聞いた。

問: すると搭乗員は戦犯容疑者になりますが、無差別爆撃の違法性について、どうお考えですか。

答: 彼等がどんな命令を受けていたか、私にわかるわけがありません。しかし彼等は事実上無差別爆撃を行ったのであるから、その行為において、非合法である。

問: 彼等を戦犯容疑者として扱ったことについて、何か言うことはありませんか。

答: 降下搭乗員を捕虜として扱わず、戦犯容疑者として扱うのは、上司の示達です。そして私自身爆撃の実情を見て、正しいと信じました。

■5.脅迫の宣伝ビラ■


 岡田中将は、米空軍がその非人道性を自覚しながら爆撃を行っていた証拠として、米軍が投下した宣伝ビラを挙げた。検事との間で次のような尋問が展開された。

問: 証人(岡田中将)は・・・航空機がばらまいた宣伝ビラのことを言った。これは日本国民を脅かすためだと言うが、これから始まる爆撃のきびしさの警告ではないのか。

答: ・・・ビラのあるものには、焔を吹く家や、子供が右往左往して親を捜し求める絵がかいてあった。「こわければ戦争をやめろ」と文句がついていた。ほかのものには、もっと口汚い諷刺が書いてあった。これは避難警告ではなく脅迫である。

問: このビラを運んだ搭乗員が事実上、戦争犯罪を犯したと言ったが、戦意喪失をくわだてたのが戦争犯罪か。

答: そうではない。このビラを運んだ搭乗員、もしくはサイパンの基地で、それを読んだ者も、当時の日本への爆撃方法が、非人道的であることを自覚していただろう、という意味だ。

 問: 搭乗員はアメリカ空軍の命令によって、それを日本で撒いたとは思わないか。搭乗員が自分でビラを作って撒いたとでも思ったのか。


■6.「人道に反するのを自覚していたかどうか」■

  検事は、爆撃が非人道・非合法であった事については、もはや争うことを諦めてしまったようだ。しかし、その責任は無差別爆撃を命令したアメリカ空軍にあ り、実行した搭乗員にはない、その搭乗員を戦争犯罪者として処刑したのは不法であるとする論法をとった。この論法を岡田中将は、次のように一蹴した。

答: ビラ撒きは、最初のB29爆撃と同時にはじまっていた。誰がビラを刷ったか、問題ではない。その絵に描かれていることが、人道に反するのを自覚していたかどうかということである。そして事実、その行為を犯した。問題は爆撃を実行したということだ。

 搭乗員も無差別爆撃の残虐性、非人道性を自覚しながら、実行したのなら、「単に命令に従っただけだから無罪」とは言えなくなる。

 無差別爆撃が戦争犯罪であると追求する岡田中将と、命令を実行しただけの搭乗員は無罪だと弁護する検事の論戦は、あたかも原告と被告の立場が逆転したような趣となった。

 こうした尋問を通じて、米空軍が無差別爆撃という戦争犯罪を犯したのだ、という事実は法廷の前で明らかにされていった。 岡田中将の法戦は勝ちつつあった。

■7.すべての責任をとる■


 岡田中将の法戦には、もう一つの目的があった。部下たちを救うことである。処刑の命令を誰が出したか、が問題になった時、フェザーストン博士は岡田中将にこう尋問した。

問: 6月28日頃、11人の搭乗員が略式手続きで処刑された時、あなたが命令を出した憶えがありますか。

答: 覚えています。

  フェザーストン博士は「命令書か、口頭か」と問い、中将が「口頭です」と答えると、さらに「その時、使った言葉を覚えていますか」と聞いた。ここではっき り「処刑を命じた」と答えられては、中将の責任は逃れられなくなる。弁護人としては、曖昧な答えを期待していた。ところが、岡田中将はこう断言した。

 私は大西(大佐)に言った。(略式手続きを取るという 大西大佐の)説明はよくわかった。処刑するよりしようがないようだ。処刑しろ。いま思い出しました。「なるべく早く」という言葉を使った、と思う。

 また処刑は、軍刀による斬首で行われた。それを立案した伊藤少佐と、その実行を命じた米丸副官を救うべく、岡田中将はこう弁護した。

  私は職務上、結論だけを命ずる。実行の具体的手段は、部下が考案する慣習です。従って、伊藤ケースにおける軍刀使用も伊藤法務少佐が立案し、米丸副官が命 じ、ということになる。・・・従って、軍刀使用の命令が米丸から出たにしても、その実質において司令官が言いつけたのと同じである。

 こうした態度から、岡田中将がすべての責任を取ろうとしていることが、誰の目にも明らかになってきた。

■8.法廷への感謝■

 部下をかばうために、すべての責任を負ってしまう岡田中将の態度は、検察側の心も動かしていた。中将の尋問の終わりに、次のような質問をして、刑を軽減する最後のチャンスを与えた。

問: さて6月26日に伊藤少佐が(調書を持って)あなたの部屋に来たときに、搭乗員が有罪で、死刑に処すべきだ、とのヒントを出したのはどっちですか。伊藤があなたからヒントを得たか、あなたが伊藤からヒントを得たか。

答: ヒントは誰から与えられたものではない。私が自分で考えて、自分にヒントを与えたのです。

 岡田中将は検察から与えられたチャンスも返上した。そして最後に自ら発言の許可を求めた。

  市ヶ谷のA級戦犯法廷においても、当横浜法廷における他のB・C級ケースにおいても、われわれはこれほど自分の感情を述べる機会を与えられなかった。米空 軍の内地爆撃問題に就いては、被告から十分に言う機会が与えられなかった。この点において極めて寛大な処置を執ってくれたのは、此の法廷が初めてであると 思う。・・・

 日本人同胞も此の寛大なる法廷の状況を、間もなく聞くでしょう。そして感謝の気持ちを持つであろう。その感謝の気持ちは、両民族、米国を兄とし日本を弟としての心からの結合に非常なる役割をするものであると思う。



■9.静かな微笑■


 昭和23(1948)年5月19日、判決が下された。岡田中将は死刑の判決を、頷きながら聞いた。「判決は御勝手にだ、之は米軍にても都合のある事ゆゑ」と言ったように、本国の手前、有罪判決を行い、後はケース毎に減刑処置を行う、というのが、「米軍の都合」だった。

  果たして岡田中将の助命嘆願が殺到した。かつて宮付武官として仕えた秩父宮や、その他の身内や関係者ばかりでなく、フェザーストン博士や、検事、そして判 決を下した5人の裁判委員のうちの2人までから嘆願書が寄せられた。岡田中将は、人々の厚意に感謝しつつも、「日本軍人らしく日本軍隊らしく終始せる」事 を祈っており、情けをかけられる事を好まなかった。

 一方、部下たち19名は大西大佐の終身刑から、最も軽い者でも10年の刑が宣告され た。岡田中将はスガモ・プリズンで処刑を待つ間にも、「部下には罪はない、刑を軽減してほしい」との請願を続けた。結局、10年の刑を受けた13名は、翌 年3月に釈放され、他の人々も大西大佐の昭和33年釈放を最後に、すべて社会復帰が許された。「部下を救う」という岡田中将の第2の目的も果たされたので ある。

 スガモ・プリズンでは、岡田中将は30人ほどの青年死刑囚を相手に「必ず減刑になるから」と励まし、将来の日本を背負って立つよう、自らの信仰する日蓮宗をもって教育した。

 昭和24(1949)年9月15日夜10時、死刑執行のための呼び出し人が岡田中将の独房にやってきた。すべてを自分の責任と証言した中将には、減刑の余地がなかったようだ

 青年死刑囚たちは連れ出される岡田中将の姿を見て、「アッ」と声をあげた。中将は一言「君達は来なさんなよ」と言った。「閣下、後は御心配なく」の声に「うむ」。中将の静かな微笑に無限の慈悲を感じたという。
(文責:伊勢雅臣) 


バターン半島のフィリピン兵 白人国家の軍隊や支那の軍隊には督戦隊があった

2012年01月20日 21時53分08秒 | 歴史

前記事のさくらの花びらさんの転載記事で、フィリピン人が日本の神風特攻隊を非常に尊敬していることが書かれていましたが、戦争当時フィリピンが日本軍と戦ったその実情が「かつて日本は美しかった」で、書かれています。

フィリピンは米軍とともに戦いましたが、その戦い方は、アメリカ軍の督戦という戦い方だったのですね。これはひどいやり方です。支那の軍隊では聞いたことがありましたが、アメリカ軍もやっていたのですね。結局アメリカを始め、当時の白人たちは、有色人種を人間扱いしていなかったということでしょう。

 

03.大東亜戦争・フィリピン

バターン半島のフィリピン兵

白人国家の軍隊や支那の軍隊には督戦隊というのがありました。

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 昭和16年(1941年)本間雅晴中将の指揮 する第14軍主力は12月22日にフィリピンのルソン島に上陸し、昭和17年1月2日にマニラを占領します。米軍の司令官マッカーサーはオレンジプラン通 りにコレヒドール島へ移動します。

オレンジプランというのは米国の対日戦争プログラムです。このアメリカ軍の中にはフィリピン人兵士が多く含まれていま す。アメリカ軍のフィリピン人兵士を見る上で色々興味深い記録があります。

火野葦平さんの著です。火野さんは芥川賞受賞者です。「麦と兵隊」「土と兵隊」 などの著書で有名でしょう。バターン半島攻撃の陸軍の報道部隊に従軍しています。

 陸軍報道班員手記 昭和17年7月(GHQ焚書図書開封より)


「や がて奇妙な捕虜の一団に眼をとめられた。十人ほどの比島兵(フィリピン人兵)が一人の米将校を縛し、こづきまわしながら、近づいてくるのであった。大兵の その米将校は大尉の肩章をつけていたが、不愉快そうに渋面をつくっていた。ちょび髭生やした戦闘の比島兵は、これは米兵の督戦隊長ですといった。こいつが われわれを前線に出して、うしろから督戦するので、われわれは仕方なく戦わねばならなかった」

 アメリカには督戦隊というのがあり、フィリピン人兵を前線に出してうしろから
「それ行け、やれ行け」と激を飛ばすのです。そして逃げて後退するのは敵前逃亡として撃ち殺すのも役目です。現地のアメリカ軍はこういう構造だったんですね。アメリカ軍が寛大だったなんてことはないのです。そこは戦場であり米軍は支配者です。

 「比島作戦」(昭和17年11月読売新聞社)にフィリピン兵士の話が記載されています。(GHQ焚書図書開封より)


「食 事は日に一回、時には二回くれるが、それもミルクの空き缶に半分ぐらいのかゆと缶詰のかつお肉を混ぜたものだけで、特にご馳走だといえば僅かに一片のパン だけである。しかも比島人将校や米兵たちはたら腹食っている。米兵は何時もははるか後方でわれわれを督戦し、一歩でも後退すれば容赦なく機銃で掃射し、陣 地の要所要所では機関銃射手を木にしばりつけたりしている」

  アメリカ軍はフィリピン人兵士を木に縛って後退したり逃げたりしないようにしています。これは支那軍がトーチカの中に兵士を鎖でしばって戦わせたのと同じ です。

フィリピン兵士の場合も使命感も戦う意義を持っておらず士気が低い。兵を集めた態勢にすると督戦はしやすいですが、砲撃の的になるため、散兵した攻 撃態勢をとります。すると督戦の眼が届かなくなるので、フィリピン兵が逃げてしまうのです。だから縛るのです。

これは当時でも卑劣な行為であったと思いま す。私は子供の頃、日本軍は人命を軽視した戦い方だった、米軍は人命を尊重した、と教えられましたが、米軍は「白人の命を尊重」し、有色人種の命などは尊 重しない戦い方だったのです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二著
参考サイト
 WikiPedia「フィリピンの戦い (1941-1942年)」

添付画像
 米比戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。(PD)


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