サイタニのブログの続きです。
皇族男子が、皆軍人となることが義務付けられていて、それゆえに、職務に忠実な皇族は前線に出ることを望み、死を恐れなかったというのは、初めて聞きました。こういうことは、国民に知られることもなく、一般の国民は、皇族であるが故に危険に関わることもなかったであろうと思い込んでいる人も多かったのではないでしょうか。こうした真実は、知られるべきであり、間違った思い込みで、皇族の名誉が傷つけられる事のないようにしたいものです。
今は皇族ではなく、占領軍により旧皇室典範は廃止され、一般国民になられましたが、終戦前後にこれほど命をかけて動かれた方々、今はその子孫の方々を、やはり皇族として、もう一度お迎えすべきだと思います。
いざというときに、天皇をお助けする皇族が一定人数以上やはり必要ではないかと思います。そしてそれは女性宮家ではなく、男性皇族でなくてはならないと思います。天皇をお助けすると同時に、万世一系の皇位の安定を図るための皇族が絶対に必要であり、占領下で、日本衰退を意図して変えられた皇室典範をもとに戻すことこそ、一番の近道であり、正道だと思います。
竹田 恒泰著 「皇族たちの真実」より
戦死した皇族たち
これまで終戦を完成させるために皇族たちが重要な役割を担ったことを紹介してきた。だが、太平洋戦争中に命を落とした皇族もあったことを忘れてはいけない。戦争という国の大事において皇族は命を落として当然であるというのは明治天皇の思召であり、男子皇族は全員軍人となることが義務づけられていた。
これが「ノーブレス・オブリージュ」、つまり王族や貴族などの特権階級は普段好遇されているからこそ、いざ国の大事となれば最も危険な任務に就くべきだというヨーロッパの発想にほかならない。だが太平洋戦争中皇族は特別扱いされ、極力危険な任務に就かせないように力が働いていたことも事実である。しかし、その中にあって自ら危険な任務に就くことを求めて軍部と対立した皇族、そして実際に戦場に命を散らした皇族もいた。
〔殲滅戦を指揮して玉砕した音羽(おとわ)正彦侯爵〕
音羽正彦侯爵は朝香宮鳩彦王の第二王子で、明治天皇の第八皇女である允子(のぶこ)内親王を母とする。次男であったため昭和11年(1936)に臣籍降下して、音羽侯爵家を創設していた。音羽侯爵は既に皇族の身分を離れていたため、正確には皇族ではなく「元皇族」であるが、皇族として生まれ育ったことには変わりない。また音羽侯爵は、朝香家の現当主、朝香誠彦の叔父に当たる。
音羽侯爵は戦前より軍艦「陸奥」に乗り組み、副砲長兼分隊長として活躍し、海軍砲術学校高等科学生としてもっぱら砲術の研究に当たり、同校を卒業した後は第一線に配属されることを希望し、昭和18年(1943)11月にはウェーキ島に、次いで同年12月にはマーシャル諸島方面部隊参謀に補せられた。そして翌昭和19年2月6日のクエゼリン島の激戦において自ら陣頭に立ち最後の突撃を敢行し、ついに壮絶なる戦死を遂げた。戦死後に海軍少佐に昇進。
〔米軍機と交戦して戦傷死を遂げた伏見博英(ふしみひろひで)伯爵〕
伏見博英伯爵は伏見宮博恭(ひろやす)王の第四王子として生まれた。母は最後の将軍徳川慶喜の第九女経子(つねこ)である。昭和11年に海軍少尉に任官すると同時に臣籍降下して、由緒ある「伏見」の名と伯爵の位を賜わった。伏見伯爵は、昭和18年8月下旬に、南太平洋方面で飛行機に搭乗して作戦要務遂行中に、敵機と交戦して重傷を負い、その後8月26日に戦傷死した。
太平洋戦争中に海軍大尉として第三連合通信隊司令部付として蘭印スラバヤに赴任したが、搭乗機がインドネシアのセレベス島(スラウェシ島の別称)南部ボネ湾の上空で米軍機に遭遇、追尾され撃墜された。戦死後に海軍少佐に昇進。伏見伯爵は、伏見家の現在の当主である伏見博明の叔父に当たる。
〔飛行機事故で戦死した北白川宮永久王(きたしらかわのみやながひさおう)〕
北白川宮永久王は、北白川宮能久(よしひさ)親王の第三王子である成久王を父、明治天皇の第七皇女の房子(ふさこ)内親王を母として、明治43年(1910)2月29日に誕生した。そのとき父の成久王は既に亡く、その第一王子である永久王は、若くして北白川宮の当主になった。永久王は学習院初等科から陸軍幼年学校、そして陸軍士官学校へ進学し、父の成久王と同じ近衛野砲連隊に入って、野砲兵学校、そして陸軍大学へ進学した。昭和15年(1940)3月9日に中国に派遣されて、駐蒙(ちゅうもう)軍参謀となるが、約半年後に
内蒙古戦線での演習中に飛行機事故に遭った。陸軍大尉だった永久王は戦死後に陸軍少佐に昇進した。
永久王は軍神とされ、その死を讃える歌が作られた。永久王の第一王子である道久(みちひさ)王は昭和12年(1937)の生まれなので、3歳で北白川宮家を継ぐ。現在は伊勢神宮の大宮司を務めている。
北白川宮が「悲劇の宮様」といわれるのは、親子三代続けて海外で戦死または事故死しているからである。永久王の祖父に当たる第二代当主の能久親王(筆者の高祖父に当たる)は、明治28年(1895)、陸軍中将、近衛師団長として日清戦争後の台湾平定において戦病死した。また、永久王の父で第三代当主の成久王は大正12年(1923)4月1日にフランスのパリ郊外で自動車事故によって薨去となっている。
永久王と竹田宮恒徳王は従兄弟に当たり、父同士が兄弟、母同士が姉妹、しかも家が隣り合わせであることから、子供のときから仲がよかった。二人は歳も近く、恒徳王が一歳年長であった。また二人とも兄弟はなく、本当の兄弟のように育った。永久王が戦死した後、恒徳王は「永久王が生きていたら(皇族としての役割を)二人で果たせるのに」と述懐している。この時期の日本人は、多くが肉親を失った。皇族とてその例外ではなかったのだ。
特別扱いされた皇族軍人
男子皇族は全員軍人となることが原則とされ、実際に戦場で命を散らした皇族があったことをこれまで述べてきた。だが実際には皇族を危険な任務から遠ざける傾向があったことも確である。皇族を弾丸が飛び交う前線に配置することには抵抗があったのだ。
大正天皇の第三皇子で昭和天皇の弟宮に当たる高松宮宣仁親王は、学習院を経て海軍兵学校、海軍大学校に進み、砲術学校普通科学生課程を終了後、戦艦「比叡」に乗り組んでいた。しかし高松宮は周囲から常に特別扱いされ、自ら望むことは何もやらせてもらえず、その悔しい思いを、22歳の昭和2年(1927)8月28日の日記に次のように記した。
「行くと云つて『では願ひます』とすら云はれたことがない。まして『殿下に』と呼んでたのまれたことはない。そんなに私は何にをするにも能力がないのかしら。「する」と云つてさしてもらへたことはこの一月何んにもない。『比叡』の中にすんでる油虫と大差なし。もう『さしてもらひ度ひ』とは云ふまい。そう云ふのは自惚れなんだらう。』
また別紙には次のような戯れ歌が書かれている。
「私は比叡の油虫/立派なお部屋に/納って/たらふく食ったら/ちょろ々と/ふざけ散らして/毎日を/遊んで暮す有様は/他人が見れば羨めど/我身となれば徒食の/辛さに苦労の益す許り/早く私も人並みに/比叡のために働いて/大きな顔して開歩して/愉快な日々を送りたし。」
何もやらせてもらえない自分を「比叡の油虫」と表現するところに、ユーモアセンスのある高松宮らしさが湊み出ている。ここから若き高松宮の青春の一ぺージを垣間見ることができる。
昭和12年(1937)夏、高松宮は少佐として軍令部第四部(通信)に勤務
していた。この頃、上海周辺で日本軍と中国軍が本格的な戦闘に突入し、両軍に多大なる犠牲者を生むに至ったのだが、そのとき高松宮は自らが中央の安全な場所で勤務をしていることを嫌い、前線に赴くことを希望した。高松宮は戦闘の実態を見聞しておくことが絶対必要であること、そして国民の危険をただ座視するのは皇族として好ましくないことなどを、中国行きを希望する理由として自らの日記に記している。
ところが宮内省はこれに反対、木戸幸一宗秩寮(そうちつりょう)総裁〔当時。宗秩寮は旧宮内省の一部局で、皇族・華族などに関する事務を司った〕と海軍次官山本五十六中将〔当時〕、そして昭和天皇も同じくこれに反対し、高松宮は中国行きを断念することになる。
反対の理由は、そのとき兄宮の秩父宮は外遊中で日本を留守にしており、また弟宮の三笠宮はまだ若いため、もし昭和天皇に万一のことがあった場合、高松宮に摂政になってもらわなければ困るということだった。
高松宮は昭和12年9月11日の日記に、「海軍にゐてコノ機会を逃した事だけで、私は今までの私の、何のために海軍にイヤイヤながら在籍してゐるのかと云ふ、唯一の手がかりを失つた様な悲しさを覚える。益々私の海軍にゐることの有名無実さを感じられる」と極度の落胆ぶりを記した。
高松宮の憤りはまだ続く。昭和17年(1942)夏、宮はアリューシャン列島のキスカ島の視察を希望するが、やはり嶋田繁太郎海相と軍令部次長伊藤整一少将らに反対され、またしても望みは実現しない。高松宮はこのときも日記に「全く統率上生ける屍なり」(昭和17年8月30日付)と書き残した。当時多数の男子皇族がいたが、秩父宮、高松宮、三笠宮の三方については 昭和天皇の弟宮であるということで、ほかの皇族軍人に比べてより特別に扱われていたと見える。
また昭和12年9月に伏見宮博義(ひろよし)王(海軍大佐一が第三駆逐艦隊司令として駆逐艦「島風(しまかぜ)」に乗艦していたところ、上海方面で負傷したとの報せを受け、高松宮は「結構な出来事なり。〈中略〉これで皇族も戦死傷者の中に算へられる帖面ヅラとなり、よろし」(『高松宮日記』昭和12年9月26日付)と記した。
「宮田参謀」という偽名
一方、竹田宮恒徳王も皇族として特別扱いされることに抵抗した一人である。父恒久王が日露戦争に従軍したとき、馬ですぐ隣をすんでいた南部利祥(としなが)少尉〔旧盛岡藩主南部伯爵家当主〕が敵弾を受けて戦死した。恒徳王は弾雨の中から生還したこの話を父から聞かされて育ったのだった。恒久王は日本に凱旋した後、家に南部少尉の写真を飾って祀っていたという。
恒徳王は昭和13年(1938)5月30日に陸軍大学校を卒業して、日中戦線の第一線の中隊長を志願したが実現せず、満州ハイラルの騎兵十四連隊第三中隊長に任命された。竹田宮は光子妃を伴い、モンゴルに繋がるホロンバイルの大草原へと赴任し、間もなく黄河北岸にある帰徳付近に進んだが、このとき前線への出勤を前にして、竹田宮だけ内地〔日本国内のこと〕に戻す動きがあった。納得できなかった宮は東京にいる陸軍省の人事局長と電話で激しく口論した末に、希望が受け入れられ、中隊長として戦地に赴くことになった。
かくして竹田宮は第一線に立つことになったのだが、戦闘に加わるならば皇族の身分を隠した方がよいということになり、「竹田宮」をひっくり返し、「竹」を「武」に替えて「宮田武」という名前を使うことにした。以降、竹田宮の隊は「宮田中隊」と呼ばれ、また参謀になってからは「宮田参謀」で通した。
日本軍の中でもごく一部の特定の者以外は宮田参謀が皇族の竹田宮であることは知らなかったという。ここで竹田宮は初めて敵弾をくぐる経験をする。そして後に「初めて自分に向けて弾が飛んできたときの気持ちは全くいいものではなかった」と語った。
昭和17年、フィリピンの米軍はバターン半島へ撤退し、マッカーサー司令部はコレヒドール要塞に立てこもっていた。そのとき宮田参謀は数人の参謀とともにプロペラ機でバターン半島からコレヒドール上空を飛んで戦況を視察したのだが、終戦後、恒徳が連合国最高司令官総司令部(通称GHQ、以下「総司令部」という)情報部長のウィロビー少将に会って「はじめまして」と挨拶をすると、ウィロビー少将は「はじめてではない」と一言い、恒徳が納得のいかない顔をすると、少将は「1942年(昭和17年)の初めに、あなたは飛行機でコレヒドールの上空を飛んだでしょう。その飛行機には赤い吹き流しがついていた。そのときあなたに会いましたよ」と言って笑った。
確かに宮田参謀が乗った飛行機には味方から撃たれないように赤い吹き流しがつけられていた。当時竹田宮は一貫して「宮田参謀」で通していたのだが、竹田宮=宮田参謀ということはかなり早い段階で米軍には知られていたということだ。竹田宮は終戦になってから、当時の米軍の諜報活動の凄さを思い知らされたのだった。
ウィロビー少将は続けた。「マッカーサー元帥は、エンペラーのお使いがここまで飛んできたということは、日本軍がもうはっきりと自信を持ってきた証拠だとみて、フィリピンを捨てて、豪州に退く決心をしたのだ」と言う。マッカーサー元帥は、ただの一参謀として視察に来た竹田宮を、皇族としてお使いに来たと理解したのだった。竹田宮がコレヒドール上空を飛んだ数日後にマッカーサー元帥は潜水艦でコレヒドールを脱出している。
「皇族の三人や五人死ね」
竹田宮恒徳王は大本営に勤務していたとき、第一線の実情を知るために前線に行くことをしばしば願い出るも、毎回聞き入れられることはなかった。しかし、ニューギニア、ソロモン方面の戦線をどうするかの決定をするために、参謀次長と軍令部次長がラバウルの前線司令に出向くとき、竹田宮は強い態度で随行を願い出た。
そのときの様子を辻政信中佐「当時」が次のように記している。「第一部長綾部中将が、幕僚数名と共にラボール(ラバウル〉に出張されるとき、真先に志願されたのも殿下(竹田宮恒徳王)であつた。
併し、杉山総長と、東條大臣は頑として肯かれない、<中略>此の日の殿下は血相さへ変つてゐた。眼に涙を浮べながらラボール行きの選に漏らされた事を慨いてゐられる。「班長さん<辻正信のこと>、御願ひです。私を、ラボールにやるよう、総長・大臣に班長から是非もう一度、申上げて下さい。
私が皇族なるがため、当然なすべき仕事をさせて貰へないなら、今すぐ大本営参謀をやめさせていただきます。
この大戦争に、もし、明治天皇様がお出になりましたら、きっと、皇族の三人や五人死ね!と仰言るでせう」(辻政信『ガダルカナル』)
竹田宮の迫力に押された辻中佐は杉山元参謀総長を説得にかかった。話を聞き終えると杉山はしばらくうつむいて考え込み、万一のことがあったら切腹する覚悟を決め、涙をぬぐいながら「さうか、それほどの御決心か!」と言い、今度は杉山が東条陸軍大臣を説得に出掛けたという。戻った杉山は辻に「大臣も、泣いてゐたよ……」と伝えた。そしてついに竹田宮は海軍の水上機でラバウルに向かった。
「皇族の三人や五人は死ね」というのは明治天皇の皇女である竹田宮妃昌子が息子の恒徳王にしたためた手紙の中の一節であった。昌子内親王はそのほかにも、「皇族だからといって甘えるようなことをしてはなりませぬ」「けっして死を恐れてはなりませぬ」などと手紙に書いて外地の戦場にいるわが子を励ました。
また、竹田宮の祖父に当たる北白川能久親王も台湾への出発に際して「今回の如き国難に際しては皇族の一、二人は戦死する位ゐの覚悟なかる可らず」と述べたことが伝えられている。
竹田宮は学習院から陸軍幼年学校に上がり、寮生活で「床を上げることから、靴の掃除まで全部やる。自立の精神が生まれ、甘えがなくなった」ことで、皇族として特別な扱いをされることに「反抗的な気分を抱いた」と語っている。
昌子内親王は 明治天皇の皇女として育てられただけあり、気骨ある母親で、子育てに関して献身的だったという。恒徳は昌子内親王について後年次のように語った。
「なかなかピチッとしていました。やさしくもしてくれたけどね、非常に怖いこともあったです(笑)。父のほうが、むしろあまり怖くなかった。それに、父は早く亡くなったもんですからね。母に叱られることが多かったわけです(笑)。しかし可愛がってもくれ、毎日おやつはいただきましたし、食事はいつも一緒でした」
(『日本の肖像』第一巻)
明治時代以降、日本は近代国家を建設するために「富国強兵」を掲げていた。皇族男子は明治天皇の思召により原則として軍人となることが義務づけられていた。軍の学校に進学して、軍人としての能力や功績などにはかかわりなく当然のように規定の範囲内で最も早く進級していた。軍人になった皇族男子たちは、天皇に忠誠を誓って国家のために命を捧げた。
元帥になった皇族には、陸軍では小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王、伏見宮貞愛(ふしのみやさだなる)親王、閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王、久邇宮邦彦(くによし)王・梨本宮守正(なしもとのみやみやもりまさ)王らが挙げられる。
特に閑院宮載仁親王は昭和6年(1931)から15年まで参謀総長を務めていた。また海軍では昭和7年(1932)から16年(1941)まで軍令部総長(軍令部長)を務めた伏見宮博恭(ふしのみやひろやす)王が挙げられる。この頃、男子皇族は大日本帝国憲法下で衆議院と並んで帝国議会を構成した立法機関、貴族院の議員となることを原則としていた。しかし、軍人であるがゆえに議会には出席しないのが慣例となっていた。
また親王は天皇の最高諮問機関である枢密院会議に出席することができることになっていたのだが、同じ理由から会議への出席を控えていた。「男子皇族は軍人となって政治に関与すべきではない」という 明治天皇の思召によるものである。男子皇族は間もなく敗戦によって予備役編入となって軍籍を離れ、また貴族院議員も辞職することになる。
男子皇族は 天皇の親族であることから、天皇に準じて敬われていた。皇族を危険に晒すことは畏れ多いと考えられる一方、多くの皇族は軍人としての職務に忠実であり、中には前線に配置されることを強く望む皇族もあった。また、弾雨をかいくぐり生還した皇族もあれば、殲滅戦を指揮して壮絶なる戦死を遂げた皇族もあったのだ。
そして皇族は終戦時に最もその力を発揮した。終戦による混乱が極力抑えられたのは皇族の決死の行動によるものが大きい。