ある古雑誌からの転載です。日露戦争の頃は、日本軍、さらには一般国民にも武士道の心が浸透していた時代です。明治天皇の大御心に国民全体が、一つに沿い奉っていた時代でもあります。この軍人、志士たちの礼節、道義の立派さは、世界最高ではないかと思います。そこには、尊皇の心が強ければ強いほど、道義が正しくおこなわれるという日本人の道徳のあり方が現れています。
大東亜戦争になると、武士道が少し劣化した部分もあると言われますが、一部の人はたしかにそうした部分があったにしても、それでも立派な話が多く残っていますから、GHQのプロパガンダに言われているような残虐行為がそんなにあったわけがないと思います。日本軍の規律の正しさは、先の戦争でも連合国や支那の軍に比べると、非常に立派だったという話も聞いたことがあります。
占領政策のウォーギルトインフォメーションプログラムによる自虐史観から、今こそ脱して私たちの先人を正しく敬い先人を誇りを持って、慰霊すべき時です。先人を貶めることはもうやめにしなくてはいけません。
皇化の行わるるところ節義あり
国民の間に、皇化の慈徳(いつくしび)をはっきりと自覚している時期は、たとい戦時にあっても、尊皇の道においては、かえって節義、道義がよく保たれる。これを近世の実例をして、物語らしめようと思う。
日清戦争では、自決した清国北洋艦隊の司令長官を、我がほうは礼を尽くして葬っている。日露戦争でも、乃木大将はロシア軍の旅順要塞の守将ステッセルとの会見で、露軍敗将らに帯剣を許した。乃木の惻隠の情が伺われる一コマであるが、のみならず、乃木はステッセル助命の手紙をロシア皇帝に送ってやっている。それあってのことか、乃木大将葬儀の日、モスクワの”一僧侶より”一通の香典が届けられたという。惟(おも)うに、現地の日本婦人を虎に食わせる底(てい)の露軍の蛮行非道と、日本将士の皇道は、けざやかに明暗を分けた。
乃木大将は、もう日露戦争もすんだ明治四十四年、久留米大演習の折、宿舎にあてられた真木家の居間で、座布団を使わず、正座していた。人々がしきりに勧めると大将が言うには、「ここは真木先生のお家でありますぞ。乃木などが座布団をしかれるところでありません」と。大功におごらず栄誉におぼれず、謹厳にして節倹、古武士のような人であった。ちなみに真木和泉守は、吉田松陰、平野国臣、橋本景岳と共に、維新を導いた英傑の一人で、明治維新の大方針を述べた『王制復古の大号令』の一節 「諸事、神武創業の始めに原(もと)づき」は、景岳の所論と和泉守の建白が採られた形になっている。
陸の乃木がこうなら、海の東郷の節義もうるわしかった。佐世保病院に、日本海海戦の敗将ロゼストゥエンスキーを丁重に見舞い、慰労し、全快のときに部下将兵こぞって特別船で帰国できる約束をして、安堵させた。日本政府も、ロシア兵の捕虜九万名あまりを、戦後は一兵のこらず送り返している。(それにひき較べ、ソ連は、大東亜戦争後に日本兵多数を”シベリア抑留”させたのである!)。両雄の忠節、すべて明治天皇の大御心を体してのことであることは言うまでもない。
更に義烈となり忠烈と燃え
国のため あだなす仇は くだくとも いつくしむべき ことな忘れそ
と、明治天皇は詠まれたが、慈徳は、一旦緩急あるときは義烈と燃え、己が死しても周囲を活かすこと、次のとおりである。
義和団事件を口実に条約を無視して満州に兵を入れ、露骨に朝鮮までを伺う形勢のロシアと戦ったのが日露戦争であったが、その開戦(明治三十七年二月)の日、北京から、日本の民間志士による特別任務班五組が、満蒙めざして出発した。シベリアからウラジオストクに伸びるロシアの兵站線、東清鉄道の鉄橋を爆破し、ロシア軍の後方を撹乱するのがその任務だった。その一班の中に、横川省三(写真左)、沖禎介(写真右、胸像)がいた。
吹雪舞う、満目蕭条(しょうじょう)たる満蒙の曠原(こうげん)をラバと馬と徒歩とで継ぎ進むこと四十余日、四百里(千五百キロ)、ようやく嫩江(のんこう)の近くまでたどりついた時、ロシア兵に捕まり、ハルピンの軍司令部に送られた。押収された機材物品から、橋梁爆破の計画はもはや蔽うべくもなかった。急ごしらえの軍事裁判での尋問・答弁である。
裁: 被告の軍における階級、位階、勲等は?
横川: 軍人ではなく、無位無冠の一日本男子である。
裁: 軍人でない者が、この様な行為をなすとは思わぬが。
横川: 日本国民の一人として国を思わぬ者はない。軍籍ではないが、日本人すべて天皇陛下の赤子である。忠義をつくすのが、日本人の道である。
沖にも訊問がおこなわれた。
裁: 指揮者の姓名は?
沖: 生命にかえても、申しあげられません。
裁: それを告白するなら、刑を減じてやるが、どうか。
沖: われらは日本人である。武運つたなく捕らえられたからには、もとより死は覚悟。死を賭しても国を守る覚悟でいる者が、どうして刑死を恐れましょうや。
もちろん両人は、日本に不利となる証言は何一つしなかった。それのみか、自分たちのような決死隊が何百組と潜入しているやにほのめかしたから、ロシア側の動揺はかくせなかった。絞首刑をひるがえして銃殺刑に決定されたのは、両士の態度に畏敬の念さえおぼえた司令部側が”軍人”としての名誉をおもんぱかったからである。
刑死に臨んで横川は、郷里盛岡に残した二人の遺児に手紙を書いた。
「此の手紙と共に北京の支那銀行手形にて五百両(テール)を送る。井上敬次郎、・・・・・・等の諸君と相談の上、金に換ゆるの工夫をなすべし」
妻なきあと、二人の遺児を預けている某家の貧困を思い、金を送ってやろうと思い立ったのである。が、待てよ、と横川は考えた。五百両(テール)は特別任務用の公金である。そこで、こう書き換えた。
「・・・・・・五百両を送らんと欲したれども、総て露国の赤十字社に寄付したり」
寄付の申し出を受けたハルピン衛戍司令官ドウタン大佐は、「二人のお嬢さんに送ってさしあげなさい」と親切に慰留したが、横川は、はっきりと言い切った。
「ご厚志は忝いが、日本国においては、祖国のために一命を捨てたものの遺族に対して、天皇陛下も軍もわが同胞も、決してお見捨てになることなく、特別の礼をもって待遇してくれます。よってそのご心配はいりません」
沖も同じように所持金の五百両(テール)をロシア赤十字社へ寄付し、
「ロシア傷病兵の役に立ててください」と申し出た。
「言いのこすことは、ないか」と尋ねられたとき、沖は紙と鉛筆を求めて両親へ訣別の遺書をしたためた。その端正な書体は一字の乱れもなく、その沈着さにドウタン大佐は思わずうなった。沖は、肥前・平戸の生まれ、鎌倉の禅刹でいささか心胆を練った人である。
刑場はハルピンの東北にある小高い丘の上。諸外国の新聞記者と観戦武官が、かたずをのんで見守った。二十四人の射撃兵に”うてー”の命令を下す執行官シモーノフ大尉は、情を込めた声で、こう言ったものだ、
「愛をもって撃つのだ!」
「天皇陛下万歳!!」「大日本帝国万歳!!」 二人は力限りに叫んだ。銃口一閃・・・・・・
ときに明治三十七年四月二十一日、満州の赤い夕陽が残雪に映える午後の五時三十分。
横川省三 四十歳、沖禎介はわずかに二十九歳の生涯であった。明治天皇は、両士刑死の日付を以て勲五等と金子を授け賜わった。東京・音羽の護国寺に建つ、他の同士四人合せての【六烈士の碑】の文字「烈々の武士(もののふ)邦家の英(はなぶさ)なり」は、シベリア単騎横断で有名な福島安正将軍の撰文という。(田中正明『アジアの曙』)より要約