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小さな自然、その他いろいろ

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ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

日本人の尊皇と道義

2012年01月29日 21時02分40秒 | 歴史

ある古雑誌からの転載です。日露戦争の頃は、日本軍、さらには一般国民にも武士道の心が浸透していた時代です。明治天皇の大御心に国民全体が、一つに沿い奉っていた時代でもあります。この軍人、志士たちの礼節、道義の立派さは、世界最高ではないかと思います。そこには、尊皇の心が強ければ強いほど、道義が正しくおこなわれるという日本人の道徳のあり方が現れています。

大東亜戦争になると、武士道が少し劣化した部分もあると言われますが、一部の人はたしかにそうした部分があったにしても、それでも立派な話が多く残っていますから、GHQのプロパガンダに言われているような残虐行為がそんなにあったわけがないと思います。日本軍の規律の正しさは、先の戦争でも連合国や支那の軍に比べると、非常に立派だったという話も聞いたことがあります。

占領政策のウォーギルトインフォメーションプログラムによる自虐史観から、今こそ脱して私たちの先人を正しく敬い先人を誇りを持って、慰霊すべき時です。先人を貶めることはもうやめにしなくてはいけません。

 

皇化の行わるるところ節義あり

国民の間に、皇化の慈徳(いつくしび)をはっきりと自覚している時期は、たとい戦時にあっても、尊皇の道においては、かえって節義、道義がよく保たれる。これを近世の実例をして、物語らしめようと思う。

日清戦争では、自決した清国北洋艦隊の司令長官を、我がほうは礼を尽くして葬っている。日露戦争でも、乃木大将はロシア軍の旅順要塞の守将ステッセルとの会見で、露軍敗将らに帯剣を許した。乃木の惻隠の情が伺われる一コマであるが、のみならず、乃木はステッセル助命の手紙をロシア皇帝に送ってやっている。それあってのことか、乃木大将葬儀の日、モスクワの”一僧侶より”一通の香典が届けられたという。惟(おも)うに、現地の日本婦人を虎に食わせる底(てい)の露軍の蛮行非道と、日本将士の皇道は、けざやかに明暗を分けた。

乃木大将は、もう日露戦争もすんだ明治四十四年、久留米大演習の折、宿舎にあてられた真木家の居間で、座布団を使わず、正座していた。人々がしきりに勧めると大将が言うには、「ここは真木先生のお家でありますぞ。乃木などが座布団をしかれるところでありません」と。大功におごらず栄誉におぼれず、謹厳にして節倹、古武士のような人であった。ちなみに真木和泉守は、吉田松陰、平野国臣、橋本景岳と共に、維新を導いた英傑の一人で、明治維新の大方針を述べた『王制復古の大号令』の一節 「諸事、神武創業の始めに原(もと)づき」は、景岳の所論と和泉守の建白が採られた形になっている。

陸の乃木がこうなら、海の東郷の節義もうるわしかった。佐世保病院に、日本海海戦の敗将ロゼストゥエンスキーを丁重に見舞い、慰労し、全快のときに部下将兵こぞって特別船で帰国できる約束をして、安堵させた。日本政府も、ロシア兵の捕虜九万名あまりを、戦後は一兵のこらず送り返している。(それにひき較べ、ソ連は、大東亜戦争後に日本兵多数を”シベリア抑留”させたのである!)。両雄の忠節、すべて明治天皇の大御心を体してのことであることは言うまでもない。

 

 

  


更に義烈となり忠烈と燃え

国のため あだなす仇は くだくとも  いつくしむべき ことな忘れそ

と、明治天皇は詠まれたが、慈徳は、一旦緩急あるときは義烈と燃え、己が死しても周囲を活かすこと、次のとおりである。

義和団事件を口実に条約を無視して満州に兵を入れ、露骨に朝鮮までを伺う形勢のロシアと戦ったのが日露戦争であったが、その開戦(明治三十七年二月)の日、北京から、日本の民間志士による特別任務班五組が、満蒙めざして出発した。シベリアからウラジオストクに伸びるロシアの兵站線、東清鉄道の鉄橋を爆破し、ロシア軍の後方を撹乱するのがその任務だった。その一班の中に、横川省三(写真左)、沖禎介(写真右、胸像)がいた。

吹雪舞う、満目蕭条(しょうじょう)たる満蒙の曠原(こうげん)をラバと馬と徒歩とで継ぎ進むこと四十余日、四百里(千五百キロ)、ようやく嫩江(のんこう)の近くまでたどりついた時、ロシア兵に捕まり、ハルピンの軍司令部に送られた。押収された機材物品から、橋梁爆破の計画はもはや蔽うべくもなかった。急ごしらえの軍事裁判での尋問・答弁である。

  

裁: 被告の軍における階級、位階、勲等は?

横川: 軍人ではなく、無位無冠の一日本男子である。

裁: 軍人でない者が、この様な行為をなすとは思わぬが。

横川: 日本国民の一人として国を思わぬ者はない。軍籍ではないが、日本人すべて天皇陛下の赤子である。忠義をつくすのが、日本人の道である。

沖にも訊問がおこなわれた。

裁: 指揮者の姓名は?

沖: 生命にかえても、申しあげられません。

裁: それを告白するなら、刑を減じてやるが、どうか。

沖: われらは日本人である。武運つたなく捕らえられたからには、もとより死は覚悟。死を賭しても国を守る覚悟でいる者が、どうして刑死を恐れましょうや。

もちろん両人は、日本に不利となる証言は何一つしなかった。それのみか、自分たちのような決死隊が何百組と潜入しているやにほのめかしたから、ロシア側の動揺はかくせなかった。絞首刑をひるがえして銃殺刑に決定されたのは、両士の態度に畏敬の念さえおぼえた司令部側が”軍人”としての名誉をおもんぱかったからである。

刑死に臨んで横川は、郷里盛岡に残した二人の遺児に手紙を書いた。

「此の手紙と共に北京の支那銀行手形にて五百両(テール)を送る。井上敬次郎、・・・・・・等の諸君と相談の上、金に換ゆるの工夫をなすべし」

妻なきあと、二人の遺児を預けている某家の貧困を思い、金を送ってやろうと思い立ったのである。が、待てよ、と横川は考えた。五百両(テール)は特別任務用の公金である。そこで、こう書き換えた。

「・・・・・・五百両を送らんと欲したれども、総て露国の赤十字社に寄付したり」

寄付の申し出を受けたハルピン衛戍司令官ドウタン大佐は、「二人のお嬢さんに送ってさしあげなさい」と親切に慰留したが、横川は、はっきりと言い切った。

「ご厚志は忝いが、日本国においては、祖国のために一命を捨てたものの遺族に対して、天皇陛下も軍もわが同胞も、決してお見捨てになることなく、特別の礼をもって待遇してくれます。よってそのご心配はいりません」

沖も同じように所持金の五百両(テール)をロシア赤十字社へ寄付し、

「ロシア傷病兵の役に立ててください」と申し出た。

「言いのこすことは、ないか」と尋ねられたとき、沖は紙と鉛筆を求めて両親へ訣別の遺書をしたためた。その端正な書体は一字の乱れもなく、その沈着さにドウタン大佐は思わずうなった。沖は、肥前・平戸の生まれ、鎌倉の禅刹でいささか心胆を練った人である。

刑場はハルピンの東北にある小高い丘の上。諸外国の新聞記者と観戦武官が、かたずをのんで見守った。二十四人の射撃兵に”うてー”の命令を下す執行官シモーノフ大尉は、情を込めた声で、こう言ったものだ、

「愛をもって撃つのだ!」

「天皇陛下万歳!!」「大日本帝国万歳!!」 二人は力限りに叫んだ。銃口一閃・・・・・・

ときに明治三十七年四月二十一日、満州の赤い夕陽が残雪に映える午後の五時三十分。

横川省三 四十歳、沖禎介はわずかに二十九歳の生涯であった。明治天皇は、両士刑死の日付を以て勲五等と金子を授け賜わった。東京・音羽の護国寺に建つ、他の同士四人合せての【六烈士の碑】の文字「烈々の武士(もののふ)邦家の英(はなぶさ)なり」は、シベリア単騎横断で有名な福島安正将軍の撰文という。(田中正明『アジアの曙』)より要約




戦後日本の誤りはこの歴史観であった

2012年01月28日 12時38分58秒 | 歴史

  さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

この記事を読んで、マッカーサー以下の連合国占領軍が、当時の白人支配の優越思想を持って、日本に来たのだということがよくわかります。アジアの国々を植民地とし、劣等民族としてのアジア人を植民地支配するのは、神から与えられた白人たちの権利、あるいは使命であると本気で思っていた彼らの考え方が露骨に出ています。


文明の最高峰にいる白人たちが、すべての生物を支配するように神から定められたとするキリスト教史観と、それとは別に、ダーウィンの進化論も白人優生思想を作り上げました。かれらは科学的にも、進化の最前線にいるのが白人だと考えました。白人こそ最も優秀な種であり、有色人種は劣った種族であると、さらに世の中は必然的に進化しており、過去より現在が必ずより優秀であるとする思想であり、やはり歴史の進化の最先端を言っているのが白人であり、有色人種はそれに比べて、白人たちが過去に通りすぎてきたずっと後ろの段階に低迷しているとする思想です。これらの思想が重なりあって、白人の優越思想となっていました。


こうした思想で、日本に乗り込んできた占領軍が、日本の文化を破壊し、自分たちの文明を押し付けることが正義であると思い、劣等民族を管理するように、日本の文化のもとに生み出された制度をすべて破棄して、憲法を始め新しい制度を押し付けたのです。更にはその新しい制度から、次第に革命が段階的に発生するようにという、占領軍に隠れたマルキストたちは画策しました。

 

 

 

 
 
 
 
歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。
 
 
マッカーサーの日本史認識
             高知大学名誉教授 福地                                               
 
勝ち誇って乗り込んで来た占領軍の最高司令官マッカーサー元帥の人となりの一端から述べたい。
彼の日本歴史や文化を見る眼差しは、欧米人の誤解に満ちた通俗的な理解の中でもかなりレベルの低い部類に属すると言わざるを得ない。
マッカーサーは最高司令官を罷免された後に回想記を世に問うたが、それは日本版と米国版とでは内容に相当の懸隔があるいわく付きのものである。戦後間もなく『マッカーサー回想記』(津島一夫訳)と題して朝日新聞社が刊行したが、中公ビブリオ文庫として復刻された。
余談だが、チャーチルの定評高い『第二次大戦回顧録』のひそみに倣ったのであろうか、大仰に『マッカーサー大戦回顧録』(上下二巻)と表題が改められていた。原題名は“Reminiscences”だから、直訳すれば「回想記」である。
 
マッカーサーはこう書きとめている。
「私たちは九十二年前の同胞ペリー提督に似た姿で東京に立っている。ペリー提督の目的は、日本に英知と進歩の時代をもたらし、世界の友情と貿易と通商に向かって孤立のベールを引き上げることであった。しかし、恐ろしいことに、それによって西欧の科学から得た知識は、弾圧と人間奴隷化の道具に利用され、迷信と武力に訴えることによって言論の自由、行動の自由、さらには思想の自由までが否定された」。現今の事態になぞらえれば、マッカーサーは明治政府の指導者を、まるでサダム・フセインの如く見ていたようである。
(日 本の)実態は西欧諸国がすでに四世紀も前に脱ぎ捨てた封建社会に近いものであった。(中略)神人融合の政治形態は西欧社会では三千年の進歩の間にすっかり 信用されなくなったものだが、日本ではそれが存在していた。(中略)神人一体の天皇は絶対君主であって、(中略)アメリカ人の目から見れば、日本は近代国 家というよりは古代スパルタに近い存在であった
国民の中のほんの一部にしか過ぎない封建的な指導者たちが支配の座に座り、他の何千万という国民は進んだ意識を持つ者のわずかな例外を除いて伝統と伝説と神話と統制の完全な奴隷となった
 
あ えて注釈を加える必要もないと私には思えるが、恐らくマッカーサーにとっては、日本の歴史に対する正確な知識はどうでもよいことだったのだろう。何となれ ば、米国の日本占領目的は、日本が発展性豊かな独立主権国家として再起することを極力抑えつけることにあったからだ。もちろん、最高司令官の占領統治目的 もそこにあり、目的追求に役立つ道具(宗教・歴史観・政治観でも南京大虐殺や真珠湾奇襲攻撃や捕虜虐待でも経済政策でも何でも)ならば、それをトコトン活 用するまでのことだったと言えよう。
 
歴 史の事実は全くといってよいほど軽視し、日本の支配者は本来的に侵略主義の天皇制軍国主義者であったとか、大東亜戦争は世界の平和を撹乱する邪悪な侵略戦 争だったとか、日本を悪者に仕上げて貶める説明であればそれでよかったのである。それゆえというべきか、マッカーサーの日本の歴史に対する認識は、日本共 産主義者集団=講座派(戦前、『日本資本主義発達史講座』を岩波書店から刊行してこの名が付いた)の日本歴史説明とそっくりなのである。
戦後、日本人の精神を「敗北主義イデオロギー」に染め上げるためにマッカーサーが駆使した主力部隊(講座派)は、192030年代に国際共産主義運動の司令塔(コミンテルン)が指令してきた革命運動方針(二七テーゼや三二テーゼなど)を鵜呑みしてきたコミンテルン日本支部要員(日本共産党)である。
 
コ ミンテルン・テーゼを要約すれば、天皇制は半封建的絶対主義で人民を奴隷的に搾取・抑圧するブルジョア革命以前の時代遅れの支配体制であるから、人民大衆 は起ちあがって時代遅れの天皇制を打倒せよ、自らを解放せよ、というものだった。まさに日本共産党の檄文である。それを金科玉条と崇め奉った日本のマルク ス主義者たちは、祖国の麗しき歴史伝統を侮蔑し、否定して天皇制打倒を鼓吹した。
大 敗北を喫して精神的にも物質的にも打ちのめされ、厭戦気分に浸りきった日本国民の愛国心をここぞとばかりに壊滅させる作戦として、祖国を呪う共産主義者を 格好の工作要員として、“活用”したマッカーサーは、軍人であると同時に、まさに“詭道の達人”であったと言わねばなるまい。
 
占 領政治は陰で共産主義者を利したと私は見ている。占領軍の支援(資金援助等も含め)なしに、講座派があれほどの勢力を保って学界、言論界に跳梁跋扈し得た かどうか興味は尽きない。アメリカ自由主義の旗手を自認するマッカーサーは、日本の共産主義者を占領政治に駆使することで、<思想改造戦争>に目覚ましい 戦果を挙げたのである。我々はこれを、重大な負の遺産として受け止めねばならない。 
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福地先生のこの論文のご指摘は戦後日本の立て直しのために知っておくべき事実であります。
特に太字で示したマッカーサーの歴史観は、戦後の日本に大きな影響を与えるものだと思えます。

マッカーサーの日本の歴史認識、つまり階級闘争史観はGHQの唯一の歴史家であったハーバート・ノーマン(左写真・上)の影響があるでしょう。
階級闘争史観とは簡単に言えば、日本の戦争は“支配階級”であった「天皇制軍国主義者」が起こしたものであり、“被支配階級”である大多数の「日本国民」には責任がない、という善悪二元論です。
 
ノーマンは昭和15年、駐日公使館の書記官の時に羽仁五郎(左写真・中央)に再会し、羽仁から歴史の講義を受けました。この頃、羽仁五郎は32年テーゼ主張から左派歴史家となっていました。
この時教わったのは、徳川封建制度の圧政であり、日本の大陸侵略と国内暗黒反動組織を最初につくり上げた西郷隆盛と山県有朋という悪人に対する憎しみを教わり、大正・昭和の日本の封建主義の圧政であったのです。

日本の歴史を全く知らないGHQの面々に対しノーマンは「日本には封建制度が重くのしかかっており日本帝国主義の暗黒であった」という階級闘争の歴史観を教え、その上に立って日本国憲法草案者のユダヤ人ケーディスらは「日本の封建主義を除去し、天皇制を利用して共産主義革命を目指していく」というものであったのです。
 
 
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

 

 


日本人よ、覚醒せよ! 「民主主義」という言葉は毒なり

2012年01月25日 20時13分21秒 | 歴史
 
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日本に民主主義は必要か?  
と訪ねると、多くの日本人は「当然、必要!」と答えるはずです。 
しかし、戦後日本の“虚構”を悟った目覚めた日本人は「必要ない」と言うでしょう。 
なぜか? この意味は覚醒していない人には理解できない。 
この民主主義という毒がある限り、戦後日本を今も立ち直らせることが出来ないものなのかもしれれません。 その覚醒への一助として、ユダヤ人であるモルデカイ・モーゼ著『日本人に謝りたい』より一部掲載させていただきます。これは、昨年暮れに亡くなられた大兄・敬天愛人(ブログ名)も以前、連載で取り上げていたものですが、私も大兄のご遺志を継ぎ、数回に分けて取り上げてみたいと思います。 
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真の日本の世界に冠たる長所は、残念ながら戦後の日本にはもはやないのである。
ということは戦前までの日本には存在したということである。・・
かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きを言っている。
「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分はやむを得ず民主主義を選ぶのである」
 
ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことである。
ところがここで驚いたのは、日本人にこの話をするとみな不思議そうな顔でキョトンとする。
私は最初その意味がわからなかった。しかし、だんだんその意味がわかってきた。
日本の天皇陛下と国民にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、ということを私が知らされたからである。今度は私の方が驚かされた。
 
日本人のためにちょっと説明しておくと、欧州でも、またイラン王室でも、君主はみな国民大衆に対して搾取者の地位にあるものである。したがって亡命する時は財産を持って高飛びする。
これが常識である。だが、日本人の知っている限り、このようなことは君主制というものの概念の中には全く存在しないのである。
しかるに、ユダヤ人ルソーの思想は搾取、被搾取の関係にない君主制を求めているわけである。これは確かに理想である。しかし残念ながら、ルソーはそのようなものが実在できるはずもないからやむを得ず、民主主義を選ぶというものである。
私がルソーの時代に生きていたならば、ルソーにこう言ったであろう。
「直ちに書きかけの社会契約論など破り捨てて、速やかに東洋の偉大な国 日本へ馳せ参ぜよ」と。
ここで非常に重要なことをルソーは言っているのである。民主主義というものは、ルソーによれば君民共治の代替物に過ぎないということである。
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イメージ 2民主主義という言葉は理想の君民共治が出来ないからつくられたのだという。 西洋では、君主というものはそれこそマルクスの言う支配者、搾取者であり、一般大衆は被支配者、被搾取者に甘んじる運命にあります。
し かし、日本の天皇陛下は西洋などの君主と違い、決して搾取することはないのでマルクス主義などが日本で振りかざしても全くの空論でしかないのです。それを 馬鹿な左翼らは「天皇は搾取していい暮らしをしている」と言った時期がありましたが、マルクス主義を日本に当てはめるために根拠なき無理を言っていたので あります。
  
そ ういう意味でも日本には万世一系の天皇陛下がおられ、「民のかまど」が示すように常に国民とともにあり、常に国民の幸せを祈っておられるのであります。  陛下は国民を大御宝とし、その祈りは大御心として国民の心に宿り、国民は億兆心を一にして天皇陛下に仕え奉るのであります。そして、このことが全く自然に 出づるのであります。
我が日本のこの形こそ君民共治であり、ここには「民主主義」という言葉は必要ないのであります。 天皇陛下という我が国体がルソーの理想をも超越しているのです。
 
イメージ 3西洋の君主は大衆から搾取した莫大な財産を持って保身に努めています。だからこそ、いざ革命、戦争、政変となると直ちに自己の生命の保証と財産の保全を求めて亡命をはかるのであります。
しかし、我が国は敗戦という大混乱の中で、昭和天皇はマッカーサーとの会見で開口一番、「自分のことはどうなってもいいから、国民を救ってほしい」と切り出したのです。
欧米の常識では亡命と財産の保全が当然と思っていたので、マッカーサーはこの天皇陛下のお言葉には大変仰天したのでありました。 西洋の常識と日本の常識はこれほどかけ離れているのであります。
  
 
イメージ 4ヨーロッパの王朝はみな混血王朝で外国から国王や王女を入れてきました。我が国は万世一系の天皇陛下をいただく世界にも例のない国なのです。世界のあらゆる国の支配者と被支配者の関係をみると、万世一系の天皇をいただく日本人は如何に幸せであるか、しかし、肝心の日本人がわかっていないことが一番の不幸なのであります。
 
だからこそ現在、無教養な政治家や愚かな専門家から「女性宮家」などという発想が出てきて、その民間の夫も皇族にする、という訳のわからない馬鹿な発想が出てくるのであります。
また、我が国には搾取も支配者もないのです。せいぜい搾取というならば現民主党政権の景気浮上も社会保障の中身もない単なる増税のための“増税”こそ国民を苦しめるだけの搾取といえるでしょう。
 
我が国では万世一系の天皇陛下の存在こそ民主主義という言葉をはるかに超越していることを知るべきではないでしょうか。
 
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転載元 転載元:さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

この記事のとおりだと思います。日本人は、神話から天皇の国柄が始まり、続いているのです。民族の神話は自然発生的なものであり、それが人為的に作られるならば、必ず新しい神話がそれに取って代わり、国柄もそれにしたがって、変わっていくでしょう。それが変わらないで続いていくのは、民族の考え方感じ方から自然発生したものであるからです。日本語が自然発生したものであるように、日本語とともに、古事記神話は、その言葉の中に日本人の言霊を通した思想が込められています。

天照大御神の皇御孫命(すめみま)が降臨されて、この日本の国を知ろしめすというのは、高天原という、いわば天の理想の国からの理念の降下を意味し、日嗣皇子と言われる、”日”は火(ひ)、陽(ひ)、霊(ひ)といずれも”ひ”と言う言霊の表す意味をもっています。だから日本(ひのもと)は陽の国柄であり、清く明き心を尊び、また物質よりも霊性を重んじる国であります。その日本の中心としてましますのが天津日嗣である天皇陛下であります。

日本の国柄、古事記神話からつづく天皇を中心とした国柄は、民族のものの観方(みかた)考え方が自然に具象化して形をなした国柄と言えます。だから長い歴史の上で、天皇と国民が対立したことが一度もなく、天皇は民をいつくしまれ、民は天皇を心から尊崇してきました。それはまた、国民みずからが、自己の尊厳を天皇という神格に投影したものということもでき、天皇を中心とする国柄を国民は誇りに思い、また人間の尊厳、自然万物の尊厳を、天皇の国柄を通して感じていたとも言えるのではないでしょうか。


 


「大東亜戦争」こそが本来の呼称、なのに「太平洋戦争」は、敗北主義の蔓延の結果

2012年01月25日 14時26分22秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

アメリカ占領軍により、「大東亜戦争」という言葉が禁止され、「太平洋戦争」という呼称で呼ぶように命じられて、そのアメリカの歴史観のみを正しいとして、戦後は日本人はその歴史観で生きてきました。それがどんなに異常であるかさえ気づかないほど、しっかり教育されてきたということです。

アメリカはアメリカ大陸に移住した時から、西進の歴史が始まります。セオドア・ルーズベルト、フランクリン・ルーズベルト、両大統領の信奉する戦略家のマハンは、次のように言っています。以下、国際派日本人養成講座より引用です。

  「大海軍の建造がまずアメリカにとって重要だ、二番目には世界各地に植民地を獲得する必要がある。三番 目には、そのために海軍が世界各地に軍事基地を設けなければならない。それを踏まえてアメリカは世界貿易に雄飛すべきであり、その対象はとりわけて中国市 場に目を向けなければならない。」 


またベバレッヂ上院議員は、1900年に国会で次のような演説をしている。

  「我々は東洋におけるわれわれの機会を放棄しない。我々は神によって世界の文明を託されたわが民族の使命を遂行するにあたってわれわれの役目を放棄し ない。・・・今後我が国最大の貿易はアジアと行われるにちがいない。太平洋は我々の大洋である。・・・中国はわが国本来の消費者である。」

 1897年、日清戦争のわずか二年後に、アメリカは日本を仮想敵として、対日戦略プログラム「オレンジ計画」を策定した。この計画は、以後、定期的に改訂を重ね、50年後に実行に移された。1911年には、次のように書かれている。


   もっとも可能性の高い状況は、日本がアメリカの封じ込め政策を終わらせ、同時に自国の通商航路を防衛しなが ら側面海域を現在および将来の攻撃から守っていこうとするものだ。そうすることは必然的にフィリピン、グアム、そして多分ハワイまで占領して合衆国を西太 平洋から駆逐することになるであろう。
    
   より困難な状況の下で、米国は独力で日本を満洲から撤退させるべく、大陸への介入ではなく、海上の作戦によって戦うことになるだろう。それによって制海権を握り、失地を回復し、日本の通商路を抑え息の根をとめることになるだろう。

1911年は大正元年、この時にすでに満洲に関する日米の確執を予言し、中国市場を独占するために、日本を封じ込めて暴発させ、「息の根をとめる」までのシナリオが正確に描かれている。真珠湾攻撃のちょうど30年前である。

日本が降伏した日に、ニューヨーク・タイムスは「太平洋の覇権を我が手に」と題して、次のような記事を載せた。 
  「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔者はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ」

これがアメリカの戦争の本来の動機です。これを日本の侵略を制止するための正義の戦いという風に捏造して、この捏造史観を東京裁判を始めとするウォーギルトインフォメーションプログラムによって、日本人に植えつけたのです。


 

 

 
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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。 
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なぜ「大東亜戦争」と呼称すべきなのか 
 
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高知大学名誉教授 福地惇 
 
連合国軍総司令部は昭和201215日、日本政府に対し、国家神道の禁止と政教分離の徹底を支持する覚書を出すが(神道指令)、その中で「大東亜戦争」という言葉の使用を禁じた。 
「大東亜戦争」の呼称は昭和161212日の閣議で、「今次対英米戦を支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と決定したことによる。いわば日本にとって戦争の大義を示した言葉である。
米国がそれを否定し、「太平洋戦争」と呼称することを命じたのは、あの戦争が文明と人道に対し野蛮な挑戦をした日本を懲らしめ、平和と民主主義を願う文明・正義の戦争だったというアメリカにとって都合のよい認識を日本国民に刷りこもうと意図したからである。
  
そ もそも戦争とは当時国双方が互いに妥協不能の政治的、軍事的、経済的な対立に立ち至った時に発生する。だから当然、双方に言い分も理屈も正義もある。 ど ちらも根本には国威、国益を擁護・拡大したいという国家の本能が盤踞するが、一方が邪悪で不義、他方は善で正義だということはあり得ない。
大東亜戦争の真実は、我が国側からすれば、国家の大義と国益を死守するための「防衛戦争」であった。「開戦の詔書」はそれを表明している。だからこそ私は「大東亜戦争」と呼ぶ。
  
日本は連合国を向こうに回して勇猛果敢に戦った。 ルーズベルトは日本の「無条件降伏」を望んだが、日本圧服を目前にした19454月 に病没。後任大統領トルーマンは、本土決戦で予想される双方の甚大な人的・物的被害や大戦後の国際政治を勘考する現実主義の国務長官代理グルーや陸軍長官 スチムソン、英国首相チャーチルら堅実な政治家との合意の上で、日本に国家存続の最低条件を突き付けて降伏させる形での終戦をめざした。「ポツダム宣言」 がそれである。
  
我 が国政府はツダム宣言が「國體」が護持されると確認した上で降伏し、同宣言の条件による連合国軍の軍事占領管理に国家の命運を委ねた。占領支配に直面し た我が国にとって必要だったのは、ポツダム宣言の誓約を超えた占領政策には巧妙に抵抗し、面従腹背しながら政策の内実を空洞化するなど「講和後を見据えた 我慢強い被占領側の政治」であったろう。それが出来なかったことは、それまで対外戦争の大敗北を経験したことのなかった我が国の弱点だった。
この弱点ゆえに、占領政治推進のためにねつ造された太平洋戦争史観を鵜呑みしてしまい、「無条件降伏」したのだからという諦念のもとに専制権力たる占領軍政府に迎合した日本政府は、国家体制変造に抵抗できなかったばかりか、「敗北主義」の蔓延を阻止しなかった。
 
小泉首相の解放感謝(2003年 に訪米した小泉首相はブッシュ大統領との会談で、日本の占領統治について日本を解放してくれて有難うと感謝した)の談話は何を意味しているか。 民族の弱 点に付け込んで醸成された「敗戦国体制」と、それを支える「敗北主義」的な意識、この占領政治の呪縛が半世紀以上経ってもなお日本を重く拘束し続ける魔物 であることに、我々は改めて思い起こさねばなるまい。
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戦前、日本では「太平洋戦争」「日中戦争」などという言葉はなく、「大東亜戦争」「支那事変」でありました。 確かに一時占領中はそういう呼び方を強制されていたのでやむを得ませんが、それを戦後六十数余年、今でも正しいと思い込んで使い続けているところに日本人の魂が抜かれた姿があるのです。
東京裁判、そして日本国憲法の「自由」「平等」という矛盾を「民主主義」という虚構ですっかり騙されている日本人は、その狡猾な意図さえも考えることを拒絶してしまって、現在の安楽に浸ってしまっているのです。
 
戦後から現在も売られている歴史の本の多くは「太平洋戦争」という言葉で書かれています。
これはアメリカ側の立場に立って書かれた本だということを知らない日本人が多いのです。連合国が”正義”で日本は”悪”、これこそ日本にとっては自虐史観であります。
そして学校でも、新聞も、テレビも、当然のように「太平洋戦争」という言葉を使っています。
これらすべてがアメリカの立場からの植え付けられた歴史観なのです。アメリカの立場の歴史観が正しいと思いこんでいる日本人の姿は世界的にみても異常でありましょう。
そのことを教えない教育の在り方も占領中のまま何も変わっていないということであります。
 
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

 


「敗戦国体制」護持という迷夢 占領統治のためにねつ造された歴史

2012年01月23日 21時53分51秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。


 


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歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。 
 
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「敗戦国体制」護持という迷夢 占領統治のためにねつ造された歴史
    

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   高知大学名誉教授 福地惇 
 
言うまでもなく、現代日本の国家基本法は日本国憲法と教育基本法である。 
この基本法の出自には重大な疑惑が塗り込められており、これを護持する政治姿勢に大問題が存在している。 
結論を先に述べれば、現行の国家基本法は今次大戦の勝利者である米国軍人の最高司令官が本国政府の意向さえ軽視して、ポツダム宣言という国際的協約を踏み躙り、奸策を弄して被占領国日本に理不尽に下賜したものである。 
これは敗戦国日本を半永久的に「属国的な半国家」に抑え込む施策であり、日本の国家・国民のためのものではない。それ故に私は、現在の国家体制を「敗戦国体制」と呼び、この体制を善美で正しいとする観念を「敗北主義イデオロギー」と称する。
「敗戦国体制」の特徴は、第一に歴史の正当性を担う「国体」を最低限容認したかの如く装いながら、実際はそれを形骸化して、我が国の歴史の中心に連綿として存在する国家統合の基軸である天皇を、あたかも“選挙王”のごとくに貶めた点である(憲法第一章第一、四条)。
第二に、主権国家の国防権を実質的に剥奪され、国の安全保障を独自に担保できない奇形な状態に固定した点である(憲法第九条)。
講和条約締結後の我が国の政治は、不覚にも「敗戦国体制」の根幹=「日本国憲法・教育基本法」を自ら不磨の大典として押し戴き、護持してきた。
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小泉純一郎首相は20039月の自民党総裁選挙で「小泉構造改革で日本を蘇らせる」と熱心に主張した。「蘇らせる」とは仮死状態に陥った者を蘇生させることである。
では一体我が国はいつ、何を原因として、いかなる「仮死状態」に陥ったのか。
小 泉首相はそれについては何も説明しない。対立候補の亀井静香氏は、「小泉首相が訪米してブッシュ大統領と会談した際に、米国の日本占領統治に触れて、日本 を解放してくれて有難うと感謝したと伝えられるが、それは間違った歴史認識であり国政の最高責任者としての見識を疑う」と批判した。
亀井氏の小泉批判は正しい。しかるにその正しい批判は、世間からはさほど注目も評価もされなかった。なぜか。
ポ レミック(挑発的)な表現を用いれば、我々日本人の多くが意識の奥底で自らを“負け犬”だと納得しているのではないか。侵略戦争を行った軍国主義の時代に 比べれば、平和と民主主義の戦後が正常なのだと思い込んでいるのではないか。だが私に言わせれば、先の大戦を侵略戦争と決めつける“戦後の常識”の方が異 常なのである。
 
日 露戦争以降の我が国は、シナ大陸に条約や協定に基づく多くの権益・利権を有し、貿易も活発で大陸各地に活動する在留邦人も多かった。日支関係は密接だった が、第一次大戦後になって、シナ大陸において急速に頭角を現してきた蒋介石政権との複雑な利害と感情の対立が絶えなくなった。
ここで私は、当時の日支関係の背後の存在した事態悪化要因を指摘しておきたい。
第一は、蒋介石の背後にシナ共産党が、さらにその背後にコミンテルンが潜伏してアジア共産化の野望をたくましくしていたことである。彼らは“漁夫の利”を狙ってシナ全土撹乱戦略=抗日救国運動を煽りに煽り、抜き差しならぬ困難な情勢へ日支両国を追い込んだ。

第二は、米国の支那政策と我が国の大陸権益との摩擦・衝突である。1899(明治32) 年、米国はフィリピンを獲得して東アジアへの関心を高め、出遅れたシナ大陸分割競争に参入しようと「門戸開放・機会均等」(国務長官ジョン・ヘイの声明) なるシナ政策の推進を開始した。それ以降、日本やロシアの既得権益との摩擦が始まる。

次いで大統領ウィルソンの「自由主義」による世界新秩序が以降から、 第一次大戦後のワシントン会議におけるシナに関する九カ国条約に至り、「門戸開放主義」は列強の承認事項となって我が国の大陸政策を強く制約するに至っ た。
同時に米国の圧力で日英同盟は日英米仏の四カ国条約にすり替えられ、解消させられた。第一次大戦を契機に国力・勢威の順位は英米から米英に転じた。米 国は大戦で甚だしく疲弊した英国を自陣営に引きずり込んだのである。
米国の世界新秩序外交がシナの「門戸開放・機会均等」の原則を以って、我が国のシナ外 交を撹乱・制約し、ついには松岡洋右外相の勢力均衡論による米国の行動掣肘(せいちゅう)という読み違いの日独伊三国同盟へと走らせた。
これが米国の日本 完全敵視への直接的な契機となったことは言うまでもない。こうした事態の推移は、国際情勢の趨勢の読み違えによる近衛文麿=松岡外交の重大な失敗であり、 大きな国際政治の流れから言えば米国の独善的理想主義外交の勝利だったといえる。

第 三は、第二の延長線上の事態だが、混迷するシナ大陸情勢に苦闘する日本の弱点に乗じた米国が、英国を引きこんで蒋介石政権を軍事的・外交的に支援、軍需物 資を大量援助して日支事変正常化を妨害したことである(この間の経緯に関しては中村粲氏の『大東亜戦争への道』に詳しい)。
 
と もあれ、当時の我が国にシナ大陸全土制圧の野望はなく、日露戦争の勝利や第一次大戦で獲得した権益保全に精一杯で、したがって必死に蒋介石政権や米国政府 との和解工作に腐心していたにもかかわらず、一方で日独伊三国同盟の締結という米国の日本敵視を決定づける最悪の外交カードを選択したことで、さらなる苦 境に追い込まれた。こちらの苦境を見透かしたルーズベルトは米国の東アジア政策への我が国の屈従を求め、最後には経済封鎖を断行した。

このように多くの要素が重なり合ったことで、日本は最終的に国家としての自衛・独立のため、南方に石油資源を求めて進出し、対米英への宣戦布告に踏み切ったのである。見落とせないのは昭和41929)年9月に始まった世界大恐慌の後、欧米列強がブロック経済圏の強化に邁進したことである。国土狭小で資源小国の我が国にとっては、こうした世界情勢に対応する“やむを得ない運動”だったのである。
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転載元 転載元:  さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

まったく、福地惇先生の仰る通りです。

日本は、未だに過去の戦争を謝罪しつづけ、侵略国として肩身の狭い卑屈な思いで、ひたすら非武装の平和主義であるべきだとするのを、なぜおかしいと感じないのか、そこに、戦後の占領政策による洗脳と、それを受け継ぐ左翼陣営の洗脳継続の施策が繰り返されているからだと思います。

当時のアメリカは、奴隷として連れてきた黒人を、解放後も、やはり徹底的に差別して、人間扱いしていませんでした。またイギリスの仕掛けたアヘン戦争を見ただけでも、当時の白人がどれほど卑劣な金儲けをしていたかがわかるというものです。大英博物館は侵略の戦利品でできているようなものです。こうした白人の連合国が、どこが正義なのでしょうか。

そして、アジアを解放し、現にアジアの国が日本に感謝しているというのに、なぜ日本だけが侵略国の汚名を着なければならないのでしょうか。日本が全て正しいと言っているわけではありませんが、だからといって、諸国民の公正と正義に信頼して、日本だけが武器を持たないことで、世界の平和に貢献できると考えるほど、卑屈になる必要があるのでしょうか。

この憲法を護ることが当然と考え、自虐史観に満ちた教科書を続けないと中国韓国から抗議が来ることの異常さをなぜ感じないのでしょうか。