さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
フィリピンは親米反日であるというイメージは、私も持っていました。しかしそんな単純な話ではないようです。アメリカという強国の支配を受け、それに従わざるをえない状況が、戦前も戦後もあるのでしょう。小国が生き残るための仕方のない方法かも知れません。
フィリピンについては「かつて日本は美しかった」でも書かれているので、次の記事で転載します。
日本軍-もうひとつの真実
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
フィリピンは親米反日であるというイメージは、私も持っていました。しかしそんな単純な話ではないようです。アメリカという強国の支配を受け、それに従わざるをえない状況が、戦前も戦後もあるのでしょう。小国が生き残るための仕方のない方法かも知れません。
フィリピンについては「かつて日本は美しかった」でも書かれているので、次の記事で転載します。
国際派日本人養成講座からの転載です。
現地のために、あるいは純粋に世界の科学や研究のために敵味方を問わず、誠意を尽くす日本人は、敗者となってもなお尊厳を失わずに、形の勝ち負けを超えた、その行為の立派さをもって勝者だという印象を与えたのでした。
私の心を激しく打ったのは敗けてもなお、
後世に 受け継がれてゆく業績を残した彼等の偉大さだった。
■1.シンガポール国立博物館にて■
数年ぶりに立ち寄ったシンガポール国立博物館では、太平洋戦争回顧展が開催されていた。"The Singapore Story"という3D映画は、いきなり画面から飛び出した零戦が観客席の上でイギリス空軍戦闘機スピットファイヤーを追い回し、ついには撃墜する画面から始まっていて驚かされた。
日本軍の占領は過酷だった、という描写はあるものの、当時の植民地支配者の英国と挑戦者・日本の戦いを公平に見ており、日本軍による虐殺しか記述しない日本の歴史教科書などより、はるかに客観的である。
シンガポールは、華僑を中心に、マレー人、インド人から成り立つ。日本軍が弾圧したのは華僑のゲリラ勢力であり、彼らが戦後は共産党ゲリラとして治安を脅かした事、そして英国支配下で搾取されていたマレー人は日本軍に優遇され、また英国からのインド解放を目指したインド国民軍が日本軍の支援を受けて、シンガポールで創設された事もあって、一方的に日本軍を悪者視する史観は、この多民族国家では通用しないのだろう。
大戦中の展示物の中に、この博物館の建物の前で日本人とイギリス人数人が、並んで立っているパネル写真があった。戦時プロパガンダのポスターや、悲惨な戦災光景写真の中で、日英両国人が一つのチームのように仲良く写っている情景は、他から浮き上がって、どこかほっとさせる雰囲気を醸し出していた。実は、この博物館自体が、これら日英の科学者たちの心を合わせた協力によって戦火から護られたのである。
■2.そうだっ、やらなきゃならん!■
E・J・H・コーナー博士が、日本軍の占拠するシンガポール市庁舎を訪れたのは、昭和17(1942)年2月18日、イギリス軍無条件降伏の3日後であった。
博士はケンブリッジ大学で生物学を学び、卒業以来シンガポールに移り住んで13年間、ラッフルズ植物園で熱帯植物の研究をしてきた。博士は植物園と博物館に保存されている標本や論文が日本軍や現地人の略奪によって破壊されることのないように、イギリス総督の使者として日本軍に依頼していたのである。
この日、シンガポールの文化財を護るために日本から一人の学者が来ることになっていたので、その人に会うためにコーナー博士は再び市庁舎を訪れたのだった。
紹介された人物は、長い鼻、不釣り合いに大きな眼鏡、乱れた髪、くしゃくしゃの洋服と、いかにも貧相な五十男だった。東北帝国大学に奉職し、日本における火山学、湖沼学の先駆者・田中舘秀三(たなかだてひでぞう)博士である。
田中舘博士は、植物学者であられる天皇陛下がシンガポールの文化財、研究・教育機関の安否を気遣っておられ、陛下の名代として実態調査に来た、と述べた。コーナーはこの言葉に「これでシンガポールの文化は助かった」と感動でしびれるような思いをした。
コーナーが博物館と植物園、図書館などの文化施設が危険な状態になっていることを説明し、その保護を願うと、身を乗り出して聞いていた田中舘は、突如立ち上がり、腕を振り上げて大声で叫んだ。「そうだっ、やらなきゃならん!」
■3.これが戦争というものか・・・■
田中舘はコーナーに案内されて、すぐに博物館と植物園を見て回った。南洋植物の収集・研究で世界的に有名な植物園では、日本兵がオーストラリア部隊の残していったおびただしい武器弾薬、ドラム缶などを片づけていた。イギリス人の園長と数人の部下がかろうじて研究室や標本室を守っていたが、広い園内は現地人が自由に出入りして、勝手に木を切ったり、物を持ち出したりしていた。
田中舘は、ナプキンに赤インクで即席の日の丸を作り、立ち入り禁止との札とともに、建物に貼った。ちょうどそこに、官舎が現地人によって荒らされている、との知らせが入った。コーナーが研究室として使っていた場所であった。
「よし、行こう」と田中舘はすぐに走り出した。コーナーは暴徒が武器をもって向かってきたら、と不安を抱いたが、田中舘はそんな事は思ってもいないようだった。二人が官舎についた時、数人の現地人がコーナーの部屋から、標本や私物を持ち出している所だった。田中舘が日本語で叫んだ。「そこに置けっ。さもないと殺すぞ」
日本語が通じるはずもなかったが、田中舘の気迫に侵入者は縮み上がった。彼らは、最初の略奪者はオーストラリア兵で、自分たちも物を持ち出してもよいのかと思った、と弁解した。
コーナーは私物には目もくれずに、四つん這いになって踏みにじられた自分の論文を、宝石でも集めるように一枚一枚泥を落としながら拾い上げた。その有様に、田中舘は「これが戦争というものか・・・」とつぶやきながら、論文を気遣うコーナーを、本物の学者だ、と見て取った。
■4.これから山下に会いに行く■
田中舘は、この上は一刻も早く強力な手を打たなければならない、と思い、「コーナー君、これから山下に会いに行く。そして文化財の保護を頼む。君も一緒に来るんだ」と言った。 「ヤマシタ? その人は誰ですか?」と聞くコーナーに、田中舘は「シンガポールの支配者・山下奉文軍司令官だ」と、こともなげに答えた。「オー、ノー」コーナーは怯えるように首をふった。
山下司令官は開戦と同時にマレー半島に上陸し、約3万5千の兵力で、8万の英豪軍を蹴散らしつつ、わずか2ヶ月余りで1千キロ以上を南下し、遂にシンガポール占領を成功させた武功輝く将軍である。 「心配ない、山下と僕とは大学の同窓だ。学生時代からの親友さ」と田中舘は笑った。これはコーナーを安心させるための方便であったようだ。
田中舘は、総督官邸にいる山下に会い、二人だけで2時間も話し込んだ。会見が終わって出てきた田中舘は、コーナーに 「大成功だった。山下将軍は、できるだけの援助をしようと言ってくれた」と語った。コーナーは後にこう書いている。
その後、教授は私に東条首相より発令された命令のことを伝えてくれた。それは占領下にある東南アジアの国々の博物館、図書館、総ての科学標本のたぐいは、その国の国民のために保存さるべきことを軍上層部に命じたものである。その後ろに山下将軍の進言があったことは言うまでもない。
■5.いかに英人学者や現地人雇用者を食わせていくか■
田中舘は、山下将軍から口頭で博物館と植物園の責任者に任命されたが、書面の辞令がなかなか届かず、その間の財政的援助は一切得られなかった。田中舘は無給の館長であったが、現地人の園丁や雇い人はそういう訳にもいかない。悪い事に、主事ヘンダーソンがシンガポール陥落の2、3日前にからすべての金を持ち逃げしていたので、植物園の金庫はからっぽだった。
やむなく田中舘は、私財をはたいて当面の支出をまかなった。不足分はその特異な政治的手腕を使って、食糧や金をどこからか掻き集めていた。この時期の田中舘の主要な任務は、いかにコーナーら英人学者や現地人雇用者を食わせていくか、ということだった。
田中舘はシンガポールに来た時の服を何ヶ月も着たままなので、ぼろぼろになってしまった。博士は平気な顔をしていたが、コーナーは気の毒に思って、空き家で見つけた上着やズボンをプレゼントしたが、大きすぎて、いかにもおかしかった。
そこまでしてシンガポールの文化財を守ろうとする田中舘やコーナーらの努力に感謝して、こっそり資金援助をしてくれる華僑も出てきた。 ■6.学問への深い敬意■ 山下将軍の軍政顧問としてシンガポールにやってきた徳川義親侯爵は、自身が生物学者であり、田中舘らの活動に深い理解を寄せた。侯爵はチャンギー刑務所に収容されていたイギリス人学者たちを引き取って、博物館と植物園に配属させ、各自の研究を続けさせた。
それを聞いて、日本軍の憲兵が飛んできて、「スパイされたら、どうします?」と問うと、「少しくらいスパイされて、負けるような日本軍なのか?」と叱って、追い返した。侯爵は後に、博物館と植物園を兼ねた総長に就任し、田中舘を全面的にバックアップした。
マレーのジャングルの研究では第一人者と呼ばれるC・F・シミントンは、コーナーの友人であり、マレーの林務官と植物学者のための手引き書を数年がかりで書き上げていたが、出版前に戦争となり、原稿はクアラルンプールの出版社に置かれたまま、彼は行方不明となっていた。
この件をコーナーから聞いた田中舘は、「それは大変な事だ」と驚き、すぐに山賊やゲリラの徘徊するマレー半島を無防備の車でクアラルンプールまで北上し、ゲラ刷りの原稿を発見した。原稿は、徳川侯爵と田中舘が費用を負担して、500部印刷された。コーナーは後にこう記している。
著者のシミントンは、自分のライフワークが戦火の中を生き残り、敵国日本人によって救出され、出版され、そして敵国人からも同胞からも高く評価されたことを知ることもなく、失意のうちに亡くなった。(中略)
侯爵と教授が自腹を切り、大金をはたいて英国人の一業績を出版したのは、学問への深い敬意があったからにほかならない。戦争の真っ最中、敵国人の仕事を英語で出版していかなる利益があるというのか。
■7.何か高貴な力に守られている■ その年の12月も押し迫った頃、田中舘は一時帰国することとなり、コーナーの著書「マレーの路傍の木」をトランクに入れながら、「これは献上するつもりだ」と語った。「献上」とは何を意味するのか、コーナーには分からなかった。
翌年1月、田中舘は博物館に帰任すると、コーナーを館長室に呼んだ。彼は突然立ち上がり、直立不動の姿勢をとり、「起立! 気をつけっ」と大声で号令をかけた。びっくりして立ち上がったコーナーに、田中舘は続けた。
賢くも大日本帝国天皇陛下には、マレーの写真と貴殿の著書「マレーの路傍の木」をご受納あらせられ、ことのほか感謝しておられる。これは余が献上申し上げた故であるが、漏れ承ったところによれば、貴殿の本は陛下がお床の中で読まれた唯一の本である。終わり。着席。
コーナーは唖然とした。教授の話が本当かどうか疑いつつも、忘れがたい印象を受けた。
その話は博物館中に知れ渡った。その時から私とバート(同僚)は自分たちが比較的自由に博物館の仕事をしていられるのは何か高貴な力に守られているからだという気がしてならなかった。
■8.敗者の贈り物■
徳川侯爵が総長となり、また日本から二人の学者が、植物園長、博物館長として赴任してきた。田中舘教授の仕事はほとんどなくなり、日本の学術研究会議から教授に帰還命令が出された。田中舘は昭和18年7月に寂しく祖国に帰っていった。
田中舘秀三教授がいなかったらシンガポールの博物館と植物園と図書館は跡形もなく滅び去っていたであろう。若き世代に残すべきものを失い、自分達の時代を子供たちに誇り高く語って聞かせることもできなかったであろう。たとえ一粒の種は小さくとも、一粒の塩は無に等しくとも、それは人類を救う大きな力になりうる。教授は傷つき、寂しく島を後にした。だが私たちは彼の遺志を受け継ぎ、希望の灯を高々と掲げ続けたのである。
昭和20年8月、日本軍が降伏し、9月には英軍が上陸した。英人捕虜が釈放されるのと同時に、博物館と植物園に残っていた日本人学者達が抑留された。コーナーは英軍司令部に占領中の彼らの功績を説明して釈放を願い出たが、日本人学者達は同胞と共に収容所に留まる道を選んだ。
コーナーはその夜、ただ一人、植物園の庭を歩きまわりながら、占領中の思い出に浸った。
私の心を激しく打ったのは勝った日本人科学者の思い遣りや寛大さというより、敗けてもなお、これだけ立派で、永久に後世に受け継がれてゆく業績を残した彼等の偉大さであった。
敗残者は今や勝利者である敵性人の心に大いなる勝利の印を刻みつけた。敗けてなお勝つということはこういうことを言うのだ。私はその大きさに圧倒され、夜空の下でいつまでも立ちすくんでいた。国家も、政府も、そして民族も、繁栄しては衰退し、そして破局を迎える。だが、学問は消して滅びない。私はこのことをシンガポールで、日本人科学者との交流を通じて学んだのである。
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
戦後、GHQが行った、日本軍の残虐行為の暴露話をラジオの真相箱という番組でやっていたそうですが、ずいぶんと捏造が多いけれど、嘘と真実を巧みに混ぜたことで、日本人はそれを信じ、どんどの自虐的になり、アメリカの意図した、ウォーギルトインフォメーションプログラムは大成功の結果となりました。
しかし、今回の東日本大震災、あるいは阪神大震災にしても、極限状態においても日本人は節度をを保ちお互い譲り合い助けあう精神を失いませんでした。これは世界的に稀有なことで、多くの国ではこのような混乱状態で、暴動が起こり、われさきにものを奪い、他を顧みない行動が普通であり、その為に、世界は驚きを隠せませんでした。
このような日本人は昔から変わらず、江戸時代に来日した外国人も、当時の震災後の日本人を見てやはり驚きの記録を残しています。
こうした日本人が戦地で、残虐の限りを尽くしたと占領軍に吹きこまれ、支那韓国の人々の叫びで、本当にあった事実であろうと思いこまされています。しかし南京大虐殺も支那の博物館では映画のシーンを本当の写真と偽り、日本人の被害者の写真を中国人だと偽り、多くの捏造でいっぱいです。またあったという証明は未だ死体も発見されていないそうです。水間政憲氏のグループによる、「南京の実相」という本はそうした嘘を一つ一つ検証して否定した本であるそうですが、それによると、南京大虐殺は完全にプロパガンダであり、全くの捏造です。従軍慰安婦も捏造です。
それにたいして、戦後隠されてきた日本人の被害者は、事実であり、多くの証言者もありますが、日本が加害者とする史観にとって都合が悪いということで、GHQにより、検閲で削除され、隠され、占領後も、その政策を受けつぎ、日本弱体化を進めるべく国の中枢に配備された左翼知識人により、ずっと隠され続けてきました。
やっと最近、こうした事実がネットなどで語られるようになり、このような本も出版されるようになったようです。身の毛がよだつような内容のようです。
前回に続きさくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
さて、前回の最初に紹介した ですが、中国共産党 「日本解放第二期工作要綱」ですが、
第2.マスコミ工作というところには、こんなことも書いてあります。
人間の尊重、自由、民主、平和、独立の強調
ここに言う「人間の尊重」とは、個の尊重、全の否定を言う。
「自由」とは、旧道徳からの解放、本能の開放を言う。
「民主」とは、国家権力の排除を言う。
「平和」とは、反戦、不戦、思想の定着促進を言う。
「独立」とは、米帝との提携の排除、社帝ソ連への接近阻止をいう。
さらには、
2-2.テレビとラジオ
実に微に入り細に入り工作の仕方が書かれています。これは占領政策においてもよく似たやり方がされました。こうした占領政策における日本人改造計画の意図を、全く知らずに無防備に受け入れた日本人は、あっという間に洗脳されてしまいました。そして、その無防備なままの日本人が今度は、中国共産党の工作員の周到な情報工作にどんどん乗せられつつあるのではないでしょうか。ただ、今やインターネットの発達が、その工作をなんとか防ぐ役目をしているといえるでしょう。
この方たちが、皇族ならではの任務を命がけで行われたことは、この一連の記事で初めて知りました。国を護るために命がけの戦いをする兵士に停戦命令を伝えることは、また同じように命がけの伝達であり、天皇の真実の命令であることの証明ができなくては、兵士たちは受け入れがたかったでしょう。その為には皇族の身分が必要であり、それによって、兵士たちは停戦を納得して受け入れたのです。
竹田 恒泰著 「皇族たちの真実」より
注:4人のパイロットの御冥福を祈ります。