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日本軍-もうひとつの真実

2012年01月20日 21時26分30秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

フィリピンは親米反日であるというイメージは、私も持っていました。しかしそんな単純な話ではないようです。アメリカという強国の支配を受け、それに従わざるをえない状況が、戦前も戦後もあるのでしょう。小国が生き残るための仕方のない方法かも知れません。

フィリピンについては「かつて日本は美しかった」でも書かれているので、次の記事で転載します。

 

日本軍-もうひとつの真実

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   (日章旗を振るフィリピン・バンバン村の子供たち)
  
  
SAPIO(小学館) 20001220日号「日本軍-もうひとつの真実 ジャーナリスト井上和彦氏」より掲載いたします。 
・・・・・・・ 
 
平成121025日、 
フィリピンではパンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの3か所で「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭が挙行された。 
私はその3か所すべてを1日で回って歩いたのだが、フィリビンの子供達が会場を去る我々日本人訪問団に日章旗を振ってくれたのは、そのうちのバンバン村でのことだった。
東南アジアの国々から、常に戦争の責任を追及されていると思い込んでいる我々日本人にしてみれぱ、かなり意外で嬉しいハブニングであった・・・。
 
昭和191025日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、フィリピン・ルソン島西部のマバラカット飛行場から出撃しレイテ湾のアメリカ艦隊に突入していったのである。
この特攻攻撃を皮切りに、終戦までに陸海軍合わせて3375機の特攻機が出撃し、4279名の命が散った。もっとも、特攻攻撃を受けて沈没・損傷した連合軍艦艇は350余隻を数え、連合軍将兵を震えあがらせた。
 
こうした神風特攻隊も戦後の日本では”戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていない。
ところが、”カミカゼ”を生んだフィリピンではその捉え方がまったく違っていた・・・。
式典に参列したダニエル・H・ディゾン画伯は静かに語る。
「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを”誇り”に思っています」
 
ディゾン画伯は、「関行男大尉」を見つめて再び語りはじめた。
「私は、ヨーロッパ・アメリカ・中国・フィリピンの歴史観を様々な角度から検証してみました。その結果、なぜ日本が立ちあがり、戦争に打って出たのかがよくわかったのです。そして日本が、欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジア諸国を叱責した理申も理解できたのです。
当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の”抵抗”だったといえましょう。 神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです・・・」
 
東南アジア諸国の中でも「反日的」と思われがちなフィリピンで、こんな考えを持つ人物に出会うとは思わなかった。さらに、私にはディゾン画伯の、「私達フィリピン人は白人支配の犠牲者ですょ」という言葉が耳について離れない。
 
この”疑問符”を取り払ってくれたのは、地元通訳のマリオ・ピネダ氏の証言だった。
「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。
こ れは日本が統治下で施した”教育”の成果です。・・・・ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちでモノを作ることを学ばせてもらえなかっ た。人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」
 
これまでフィリピンが親米反日的と思われてきたのは、大東亜戦争でこの地が日米両軍の決戦場となったからにほかならない。日本軍はこの地で約50万人(全戦没者の約4分の1)の将兵を失ったが、戦場となったフィリピンの人々は一般市民を含む180万人が犠牲となった。
ところが、こうしたフィリピン人犠牲者の多くはアメリカ軍の無差別爆撃や艦砲射撃によるものだったのである。むろん、この事実を地元の人々が知らないわけがない。
 
日本人にとってのこうした初耳は数え上げれば枚挙にいとまがない。
たとえば米比軍捕虜を約60kmにわたり歩かせたという「バターン死の行進」。これは一般に日本の蛮行といわれている。 だが、ある地元民は私にこう語った。
「実は日本軍は米比軍捕虜をサンフェルナンドからカパスまで汽車で護送しています。捕虜達を虐待するために歩かせたように言われるがそんなことはない」
 
同じ1025日、タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれた。
この村でも地元住民は村を挙げて日本の慰霊囲を歓迎した。
そして、帰路につこうとする我々を子供達は「日の丸」の小旗をちぎれんばかりに打ち振って見送ってくれたのである。日本人参列者はこの光景に胸を詰まらせていた。頬を濡らす者もいた。
子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。
式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。Brave!」(勇敢)
その中の一人が続けた。
「フィリビンにも”英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の”英雄”をたいへん尊敬しています」
引率の男性教師は、
「こうした歴史教育を通して、子供達に国を守ることの大切さを知ってほしいのです」と話る。
私は学生達にもう一度訊いた。
「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」
屈託のない笑顔で皆は答えた。「もちろんです。 だってあの人達はヒーローですもの」 ・・・ 
 
 

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  ディゾン画伯の描いた敷島隊五名の肖像画(カミカゼ博物館)
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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

 

 


敗者の贈り物 ~シンガポールの博物館を護った田中舘秀三博士

2012年01月20日 21時00分07秒 | 歴史

国際派日本人養成講座からの転載です。

現地のために、あるいは純粋に世界の科学や研究のために敵味方を問わず、誠意を尽くす日本人は、敗者となってもなお尊厳を失わずに、形の勝ち負けを超えた、その行為の立派さをもって勝者だという印象を与えたのでした。

 


の心を激しく打ったのは敗けてもなお、

後世に 受け継がれてゆく業績を残した彼等の偉大さだった

 

■1.シンガポール国立博物館にて■

 数年ぶりに立ち寄ったシンガポール国立博物館では、太平洋戦争回顧展が開催されていた。"The Singapore Story"という3D映画は、いきなり画面から飛び出した零戦が観客席の上でイギリス空軍戦闘機スピットファイヤーを追い回し、ついには撃墜する画面から始まっていて驚かされた。

 日本軍の占領は過酷だった、という描写はあるものの、当時の植民地支配者の英国と挑戦者・日本の戦いを公平に見ており、日本軍による虐殺しか記述しない日本の歴史教科書などより、はるかに客観的である。

 シンガポールは、華僑を中心に、マレー人、インド人から成り立つ。日本軍が弾圧したのは華僑のゲリラ勢力であり、彼らが戦後は共産党ゲリラとして治安を脅かした事、そして英国支配下で搾取されていたマレー人は日本軍に優遇され、また英国からのインド解放を目指したインド国民軍が日本軍の支援を受けて、シンガポールで創設された事もあって、一方的に日本軍を悪者視する史観は、この多民族国家では通用しないのだろう。

 大戦中の展示物の中に、この博物館の建物の前で日本人とイギリス人数人が、並んで立っているパネル写真があった。戦時プロパガンダのポスターや、悲惨な戦災光景写真の中で、日英両国人が一つのチームのように仲良く写っている情景は、他から浮き上がって、どこかほっとさせる雰囲気を醸し出していた。実は、この博物館自体が、これら日英の科学者たちの心を合わせた協力によって戦火から護られたのである。

■2.そうだっ、やらなきゃならん!■

 E・J・H・コーナー博士が、日本軍の占拠するシンガポール市庁舎を訪れたのは、昭和17(1942)年2月18日、イギリス軍無条件降伏の3日後であった。

 博士はケンブリッジ大学で生物学を学び、卒業以来シンガポールに移り住んで13年間、ラッフルズ植物園で熱帯植物の研究をしてきた。博士は植物園と博物館に保存されている標本や論文が日本軍や現地人の略奪によって破壊されることのないように、イギリス総督の使者として日本軍に依頼していたのである。

 この日、シンガポールの文化財を護るために日本から一人の学者が来ることになっていたので、その人に会うためにコーナー博士は再び市庁舎を訪れたのだった。

 紹介された人物は、長い鼻、不釣り合いに大きな眼鏡、乱れた髪、くしゃくしゃの洋服と、いかにも貧相な五十男だった。東北帝国大学に奉職し、日本における火山学、湖沼学の先駆者・田中舘秀三(たなかだてひでぞう)博士である。

 田中舘博士は、植物学者であられる天皇陛下がシンガポールの文化財、研究・教育機関の安否を気遣っておられ、陛下の名代として実態調査に来た、と述べた。コーナーはこの言葉に「これでシンガポールの文化は助かった」と感動でしびれるような思いをした。

 コーナーが博物館と植物園、図書館などの文化施設が危険な状態になっていることを説明し、その保護を願うと、身を乗り出して聞いていた田中舘は、突如立ち上がり、腕を振り上げて大声で叫んだ。「そうだっ、やらなきゃならん!」

■3.これが戦争というものか・・・■

 田中舘はコーナーに案内されて、すぐに博物館と植物園を見て回った。南洋植物の収集・研究で世界的に有名な植物園では、日本兵がオーストラリア部隊の残していったおびただしい武器弾薬、ドラム缶などを片づけていた。イギリス人の園長と数人の部下がかろうじて研究室や標本室を守っていたが、広い園内は現地人が自由に出入りして、勝手に木を切ったり、物を持ち出したりしていた。

 田中舘は、ナプキンに赤インクで即席の日の丸を作り、立ち入り禁止との札とともに、建物に貼った。ちょうどそこに、官舎が現地人によって荒らされている、との知らせが入った。コーナーが研究室として使っていた場所であった。

 「よし、行こう」と田中舘はすぐに走り出した。コーナーは暴徒が武器をもって向かってきたら、と不安を抱いたが、田中舘はそんな事は思ってもいないようだった。二人が官舎についた時、数人の現地人がコーナーの部屋から、標本や私物を持ち出している所だった。田中舘が日本語で叫んだ。「そこに置けっ。さもないと殺すぞ」

 日本語が通じるはずもなかったが、田中舘の気迫に侵入者は縮み上がった。彼らは、最初の略奪者はオーストラリア兵で、自分たちも物を持ち出してもよいのかと思った、と弁解した。

 コーナーは私物には目もくれずに、四つん這いになって踏みにじられた自分の論文を、宝石でも集めるように一枚一枚泥を落としながら拾い上げた。その有様に、田中舘は「これが戦争というものか・・・」とつぶやきながら、論文を気遣うコーナーを、本物の学者だ、と見て取った。

■4.これから山下に会いに行く■

 田中舘は、この上は一刻も早く強力な手を打たなければならない、と思い、「コーナー君、これから山下に会いに行く。そして文化財の保護を頼む。君も一緒に来るんだ」と言った。 「ヤマシタ? その人は誰ですか?」と聞くコーナーに、田中舘は「シンガポールの支配者・山下奉文軍司令官だ」と、こともなげに答えた。「オー、ノー」コーナーは怯えるように首をふった。

 山下司令官は開戦と同時にマレー半島に上陸し、約3万5千の兵力で、8万の英豪軍を蹴散らしつつ、わずか2ヶ月余りで1千キロ以上を南下し、遂にシンガポール占領を成功させた武功輝く将軍である。 「心配ない、山下と僕とは大学の同窓だ。学生時代からの親友さ」と田中舘は笑った。これはコーナーを安心させるための方便であったようだ。

 田中舘は、総督官邸にいる山下に会い、二人だけで2時間も話し込んだ。会見が終わって出てきた田中舘は、コーナーに 「大成功だった。山下将軍は、できるだけの援助をしようと言ってくれた」と語った。コーナーは後にこう書いている。

 その後、教授は私に東条首相より発令された命令のことを伝えてくれた。それは占領下にある東南アジアの国々の博物館、図書館、総ての科学標本のたぐいは、その国の国民のために保存さるべきことを軍上層部に命じたものである。その後ろに山下将軍の進言があったことは言うまでもない。

■5.いかに英人学者や現地人雇用者を食わせていくか■

 田中舘は、山下将軍から口頭で博物館と植物園の責任者に任命されたが、書面の辞令がなかなか届かず、その間の財政的援助は一切得られなかった。田中舘は無給の館長であったが、現地人の園丁や雇い人はそういう訳にもいかない。悪い事に、主事ヘンダーソンがシンガポール陥落の2、3日前にからすべての金を持ち逃げしていたので、植物園の金庫はからっぽだった。

 やむなく田中舘は、私財をはたいて当面の支出をまかなった。不足分はその特異な政治的手腕を使って、食糧や金をどこからか掻き集めていた。この時期の田中舘の主要な任務は、いかにコーナーら英人学者や現地人雇用者を食わせていくか、ということだった。

 田中舘はシンガポールに来た時の服を何ヶ月も着たままなので、ぼろぼろになってしまった。博士は平気な顔をしていたが、コーナーは気の毒に思って、空き家で見つけた上着やズボンをプレゼントしたが、大きすぎて、いかにもおかしかった。

 そこまでしてシンガポールの文化財を守ろうとする田中舘やコーナーらの努力に感謝して、こっそり資金援助をしてくれる華僑も出てきた。 ■6.学問への深い敬意■  山下将軍の軍政顧問としてシンガポールにやってきた徳川義親侯爵は、自身が生物学者であり、田中舘らの活動に深い理解を寄せた。侯爵はチャンギー刑務所に収容されていたイギリス人学者たちを引き取って、博物館と植物園に配属させ、各自の研究を続けさせた。

 それを聞いて、日本軍の憲兵が飛んできて、「スパイされたら、どうします?」と問うと、「少しくらいスパイされて、負けるような日本軍なのか?」と叱って、追い返した。侯爵は後に、博物館と植物園を兼ねた総長に就任し、田中舘を全面的にバックアップした。

 マレーのジャングルの研究では第一人者と呼ばれるC・F・シミントンは、コーナーの友人であり、マレーの林務官と植物学者のための手引き書を数年がかりで書き上げていたが、出版前に戦争となり、原稿はクアラルンプールの出版社に置かれたまま、彼は行方不明となっていた。

 この件をコーナーから聞いた田中舘は、「それは大変な事だ」と驚き、すぐに山賊やゲリラの徘徊するマレー半島を無防備の車でクアラルンプールまで北上し、ゲラ刷りの原稿を発見した。原稿は、徳川侯爵と田中舘が費用を負担して、500部印刷された。コーナーは後にこう記している。

 著者のシミントンは、自分のライフワークが戦火の中を生き残り、敵国日本人によって救出され、出版され、そして敵国人からも同胞からも高く評価されたことを知ることもなく、失意のうちに亡くなった。(中略)

 侯爵と教授が自腹を切り、大金をはたいて英国人の一業績を出版したのは、学問への深い敬意があったからにほかならない。戦争の真っ最中、敵国人の仕事を英語で出版していかなる利益があるというのか。

■7.何か高貴な力に守られている■  その年の12月も押し迫った頃、田中舘は一時帰国することとなり、コーナーの著書「マレーの路傍の木」をトランクに入れながら、「これは献上するつもりだ」と語った。「献上」とは何を意味するのか、コーナーには分からなかった。

 翌年1月、田中舘は博物館に帰任すると、コーナーを館長室に呼んだ。彼は突然立ち上がり、直立不動の姿勢をとり、「起立! 気をつけっ」と大声で号令をかけた。びっくりして立ち上がったコーナーに、田中舘は続けた。

 賢くも大日本帝国天皇陛下には、マレーの写真と貴殿の著書「マレーの路傍の木」をご受納あらせられ、ことのほか感謝しておられる。これは余が献上申し上げた故であるが、漏れ承ったところによれば、貴殿の本は陛下がお床の中で読まれた唯一の本である。終わり。着席。

 コーナーは唖然とした。教授の話が本当かどうか疑いつつも、忘れがたい印象を受けた。

 その話は博物館中に知れ渡った。その時から私とバート(同僚)は自分たちが比較的自由に博物館の仕事をしていられるのは何か高貴な力に守られているからだという気がしてならなかった。

■8.敗者の贈り物■

 徳川侯爵が総長となり、また日本から二人の学者が、植物園長、博物館長として赴任してきた。田中舘教授の仕事はほとんどなくなり、日本の学術研究会議から教授に帰還命令が出された。田中舘は昭和18年7月に寂しく祖国に帰っていった。

 田中舘秀三教授がいなかったらシンガポールの博物館と植物園と図書館は跡形もなく滅び去っていたであろう。若き世代に残すべきものを失い、自分達の時代を子供たちに誇り高く語って聞かせることもできなかったであろう。たとえ一粒の種は小さくとも、一粒の塩は無に等しくとも、それは人類を救う大きな力になりうる。教授は傷つき、寂しく島を後にした。だが私たちは彼の遺志を受け継ぎ、希望の灯を高々と掲げ続けたのである。

 昭和20年8月、日本軍が降伏し、9月には英軍が上陸した。英人捕虜が釈放されるのと同時に、博物館と植物園に残っていた日本人学者達が抑留された。コーナーは英軍司令部に占領中の彼らの功績を説明して釈放を願い出たが、日本人学者達は同胞と共に収容所に留まる道を選んだ。

 コーナーはその夜、ただ一人、植物園の庭を歩きまわりながら、占領中の思い出に浸った。

 私の心を激しく打ったのは勝った日本人科学者の思い遣りや寛大さというより、敗けてもなお、これだけ立派で、永久に後世に受け継がれてゆく業績を残した彼等の偉大さであった。

 敗残者は今や勝利者である敵性人の心に大いなる勝利の印を刻みつけた。敗けてなお勝つということはこういうことを言うのだ。私はその大きさに圧倒され、夜空の下でいつまでも立ちすくんでいた。国家も、政府も、そして民族も、繁栄しては衰退し、そして破局を迎える。だが、学問は消して滅びない。私はこのことをシンガポールで、日本人科学者との交流を通じて学んだのである。


 


日本人が知るべき事実  日本人が受けた残虐行為

2012年01月19日 13時39分41秒 | 歴史

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

戦後、GHQが行った、日本軍の残虐行為の暴露話をラジオの真相箱という番組でやっていたそうですが、ずいぶんと捏造が多いけれど、嘘と真実を巧みに混ぜたことで、日本人はそれを信じ、どんどの自虐的になり、アメリカの意図した、ウォーギルトインフォメーションプログラムは大成功の結果となりました。

しかし、今回の東日本大震災、あるいは阪神大震災にしても、極限状態においても日本人は節度をを保ちお互い譲り合い助けあう精神を失いませんでした。これは世界的に稀有なことで、多くの国ではこのような混乱状態で、暴動が起こり、われさきにものを奪い、他を顧みない行動が普通であり、その為に、世界は驚きを隠せませんでした。

このような日本人は昔から変わらず、江戸時代に来日した外国人も、当時の震災後の日本人を見てやはり驚きの記録を残しています。

こうした日本人が戦地で、残虐の限りを尽くしたと占領軍に吹きこまれ、支那韓国の人々の叫びで、本当にあった事実であろうと思いこまされています。しかし南京大虐殺も支那の博物館では映画のシーンを本当の写真と偽り、日本人の被害者の写真を中国人だと偽り、多くの捏造でいっぱいです。またあったという証明は未だ死体も発見されていないそうです。水間政憲氏のグループによる、「南京の実相」という本はそうした嘘を一つ一つ検証して否定した本であるそうですが、それによると、南京大虐殺は完全にプロパガンダであり、全くの捏造です。従軍慰安婦も捏造です。

それにたいして、戦後隠されてきた日本人の被害者は、事実であり、多くの証言者もありますが、日本が加害者とする史観にとって都合が悪いということで、GHQにより、検閲で削除され、隠され、占領後も、その政策を受けつぎ、日本弱体化を進めるべく国の中枢に配備された左翼知識人により、ずっと隠され続けてきました。

やっと最近、こうした事実がネットなどで語られるようになり、このような本も出版されるようになったようです。身の毛がよだつような内容のようです。

 

 

 
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                      (「戦後引き揚げ者の記録」より)
  
  
戦後60有余年、今も日本に対して、「日本兵は侵略戦争をして、略奪、強姦、虐殺で多くのアジアの人たちを苦しめた」と言われています。
しかし、かつて植民地で多くの奴隷を持ち、その民族を愚民化し、掠奪と強姦を喜びとしてきたのは、今、日本を悪く言っている国々であります。 
また、チャイナのように所謂「南京大虐殺」というでっち上げを声高に叫んで、当時、支那にいた多くの日本人女性が強姦、虐殺された済南事件や通州事件などは隠し、さらにはロシアの日本人女性400名余りが自決するに追いやった極めて悲惨な麻山事件も日本人には知られていません。 
この「日本は侵略国家」というまやかしの言葉こそ、日本の被害を覆い隠す役割を果たしているのです。
 
第二次世界大戦でソ連軍はドイツ領に入ると率先して強姦を兵士にやらせました。
ドイツ全土で約200万人の女性がソ連軍に強姦されました。産院を兼ねた修道院ダーレムハウスでは修道女、妊婦、その付き添いの女性まですべてが犯されました。統計のあるベルリンでは13万人が犯され、92000人が市内の二つの病院で手当てを受けました。そのうち2万人が不法妊娠して中絶手術をしたが2000人が出産したとあります。
このソ連は、終戦間際から日本女性に対しても多くの強姦、虐殺をしてきました。(その一例が上の画像)
 
戦後、日本に進駐した米軍が最初に要求したのが女でした。
性の要求に対して花街などの女性が身を挺身して米国兵の相手をしていましたが、米兵は日本政府の用意した慰安所だけでは足りず、一般の民家に押し入って“女”を漁っていたのでした。
押し入った米兵は民家の家人をも暴行し、殺したケースもあり、米軍の占領期間に殺された日本人は2536人に上り、その中には強姦に絡むものが多かったといいます。
 
そして今、韓国では日本兵による性の奴隷として従軍慰安婦なる作り話が騒がれています。
しかし、韓国がベトナムに派兵した1965年~1973年の間、韓国軍は残忍なやり方で女性をレイプしてから殺し、またライタイハン(ベトナムでの韓国兵によるレイプで出来た混血に対し「敵国の子」として迫害されてきた)という問題も起こし、ベトナムでは「韓国兵に会ったら死に出会ったも同然だ」という証言もあるのです。
アメリカに住んでいるヨーコ・カワシマ・ワトキンスさんが書いた「ヨーコ物語」という著書があります。ヨーコ・カワシマ・ワトキンスさんは11歳だった時、朝鮮半島で終戦を迎え、家族とともに日本へ引揚げる際に、多くの同胞が朝鮮人に襲われ、強姦され、虐殺される場面に行き合わせ、その事実を書いた本です。この本はアメリカほぼ全州の中学校で副読本として採用されていましたが、2006年に在米韓国人が「歴史の歪曲」「朝鮮人を残忍な民族のように偽って描いた」と騒ぎだし、その騒ぎはアメリカ全土に広がり、当時73歳だった彼女が記者会見に引きずり出され、怒号の中でつるしあげられ、謝罪を求められたのです。その後、この本は副読本から外されてしまいました。
現在、日本では敗戦直後の日本人避難民の対しての暴漢の多さはソ連人だと思い込んでいますが、実際は半分以上が朝鮮人であり、日本人に対してソ連軍よりひどいことをしてきたのは朝鮮人であり、その残忍さはこの本を読むとよくわかるといわれています。
しかし、この本は日本では出版されていません。韓国では売られていましたが都合の悪い部分は削られていました。
現 在の日本のテレビ局の極端な韓国寄り、つくられた韓流、韓国人の強姦の多さ(通名で隠されている)、日本政府の韓国贔屓など、間違った韓国人への認識への くさびとして、今の日本にこそ、過去の事実に学ぶべく、このような本を日本語に訳し、広く日本人に広めるべきであります。
 
 
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         (日本の学校で副読本にすべき「ヨーコ物語」)
 
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転載元 転載元:さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

 


占領で押し付けられた、虚偽の歴史観と国家体制

2012年01月18日 00時19分14秒 | 歴史

前回に続きさくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

さて、前回の最初に紹介した ですが、中国共産党 「日本解放第二期工作要綱」ですが、 

第2.マスコミ工作というところには、こんなことも書いてあります。

人間の尊重、自由、民主、平和、独立の強調
ここに言う「人間の尊重」とは、個の尊重、全の否定を言う。
「自由」とは、旧道徳からの解放、本能の開放を言う。
「民主」とは、国家権力の排除を言う。
「平和」とは、反戦、不戦、思想の定着促進を言う。
「独立」とは、米帝との提携の排除、社帝ソ連への接近阻止をいう。

さらには、

2-2.テレビとラジオ

  1. これらは、資本主義国においては「娯楽」であって、政府の人民に対する意志伝達の媒介体ではない。この点に特に留意し、「娯楽」として利用するこ とを主点とすべきである。具体的な方向を示せば、「性の解放」を高らかに謳い上げる劇又は映画、本能を剌激する音楽、歌謡等は望ましい反面、スポーツに名 を借りた「根性もの」と称される劇、映画、動画、または歴史劇、映画、歌謡並びに「ふるさとの歌祭り」等の郷土愛、民族一体感を呼び醒ますものは好ましく ない。前者をより多く、後者をより少なく取り上げさせるよう誘導せねばならない。

  2. テレビのニュース速報、実況報道の利用価値は極めて高い。画面は真実を伝えるものではなく、作るものである。目的意識を持って画面を構成せねばならない。

  3. 時事解説・教養番組等については、新聞について述べた諸点がそのまま適用されるが、これは極めて徐々に、少しずつ注意深くなされねばならない。

実に微に入り細に入り工作の仕方が書かれています。これは占領政策においてもよく似たやり方がされました。こうした占領政策における日本人改造計画の意図を、全く知らずに無防備に受け入れた日本人は、あっという間に洗脳されてしまいました。そして、その無防備なままの日本人が今度は、中国共産党の工作員の周到な情報工作にどんどん乗せられつつあるのではないでしょうか。ただ、今やインターネットの発達が、その工作をなんとか防ぐ役目をしているといえるでしょう。

 

 

歴史学者であり、高知大学名誉教授、新しい歴史教科書をつくる会副会長であります福地惇先生の貴重な小論文を掲載いたします。・・・ 

 

 

連合国厳命の「虚偽の歴史観と国家体制」を打破しよう 

 
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高知大学名誉教授 福地惇 

 

シナ共産党の対日戦略の展開は彼らの建国以降脈々と継続したから、60有余年の努力だ。 

日本は「敗戦ボケ」で世界戦略も国家戦略も曖昧なまま過ごしてきたから60有余年の空白だ。 

そ して、経済大国になったと慢心していた時が日中共同宣言だった。それ以降およそ四半世紀で、歴代政権と国会は歴史の教訓を真剣に学ぼうとせず、国際社会の 風評に押されて、シナ共産党や韓国政府の威圧に恐れて、「日本戦争犯罪国家観」を「政府見解」として公然化してしまった。 

また、シナ共産党の対日戦略の推進に関与した日本人も想像以上に多かったと推測される。 

従って、日本民族衰亡への頸木(くびき)は、容易には打破し難い形で国際社会のルールの中で公然化・固定化されてしまった。米国の世界制覇戦略の枠組みの中に日中摩擦の増大は配置されていると私は見るのであるが、どうであろうか。 

思想的外交的敗北の蓄積を打破することは並大抵の努力ではとても出来まい。 

い ずれにせよ、独立主権国家を本質的には否定した占領憲法体制の清算を目指さねばならない。その前提にあの戦争の本質を自分たちの目で見直して、日本人によ る日本人のための国家観・歴史観を再構築しない限り、真の独立主権回復は、永久に夢幻の事案に属することになるであろう。 最後に、説明は省くが、現今の 重大課題のTPP問題も実は独立主権の回復か、それともその望みを完全放棄するかの選択問題なのだということを付言しておく。 

(日本戦略研究フォーラム季報掲載より) 

・・・・・・・・・ 

 

白人がやってきた残忍極まる植民地支配と略奪、強姦、虐殺、また支那がやってきた略奪、強姦、虐殺の歴史。 アメリカは湾岸戦争でも「赤ん坊を銃剣で」話を目撃した少女が米議会公聴会で証言し、イラク軍は獣であると言いました。しかし戦後これは作り話であると判明します。

これは、かつて第一次欧州戦争の時も「赤ん坊を云々」でドイツ軍がブリュッセルの産院を襲って妊婦を強姦し乳児室の赤ん坊を銃剣で刺したと言われ米国参戦の口実となりましたが、ドイツ敗戦後、これも作り話であると判明しました。

しかし、彼らは自分たち嘘や残虐性のことは触れずに日本には「日本軍は残虐な行為をした」とニューヨーク・タイムズが言い続け、支那も韓国も言い続けて、日本軍の悪口ならどんな嘘でも歓迎する朝日新聞が書き立てる、ついには日本の政治家もそれを認めてしまったのです。

白人、支那人は嘘を言い立てて自分たちの優位にことを運ぶことに長けております。韓国もそれを見習い日本に嘘を言い続けているのです。

そして、一番ダメなのは真実を知らずに嘘も見抜けずそれを受け入れる日本の政治家たちであり日本人自身なのです。福地先生のおっしゃる通り、「あの戦争の本質を自分たちの目で見直して、日本人による日本人のための国家観・歴史観を再構築」こそ急務であります。 

   

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転載元 転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

 

 


昭和天皇陛下の御心を伝えるために戦地に飛び立つ皇族たち 終戦直前の命がけ任務

2012年01月17日 22時26分26秒 | 歴史

サイタニのブログからの転載です。

この方たちが、皇族ならではの任務を命がけで行われたことは、この一連の記事で初めて知りました。国を護るために命がけの戦いをする兵士に停戦命令を伝えることは、また同じように命がけの伝達であり、天皇の真実の命令であることの証明ができなくては、兵士たちは受け入れがたかったでしょう。その為には皇族の身分が必要であり、それによって、兵士たちは停戦を納得して受け入れたのです。

 

竹田 恒泰著  「皇族たちの真実」より


三皇族、南方戦線に陛下の心を伝える為飛立つ

命拾いした竹田宮
 
 
閑院宮を乗せた陸軍爆撃機は福岡に一旦着陸した後に上海に向かい一泊。
翌日広東経由で仏印南部のツーランに着陸してもう一泊し、19日の午前10時
半にサイゴンに到着した。
 
宮が南方軍総司令官寺内寿一元帥に聖旨を伝達すると、寺内元帥は涙を溢れさせ、部下に体を支えられてかろうじて起立を維持している有様であつたという。このとき閑院宮も一緒に泣いたそして翌20日には昭南(しゅうなん)(日本占領時のシンガポールの呼称)に行き、海軍司令部において第十方面艦隊司令長官福留繁(ふくとめしげる)中将に同様に聖旨を伝え、サイゴン、南京、富山を経由して24日、東京に戻った。
 
一方、竹田宮は東京・立川から専用機で飛び立ち、新京へ向かい、関東軍司令部二階の広い総司令官室を埋め尽くすほどに集まった関東軍総司令官山田乙三(やまだおとぞう大将以下幕僚等に対して・昭和天皇の御決意と、そして仰せられたことをできるだけ詳しく謹んで伝達した。
 
そこには竹田宮の幼年学校の二級下の後輩で、宮の後任として新京に着任したばかりの瀬島龍三参謀の姿もあった。宮は「どんな返答が戻ってくるか、この時ほど心配したことはなかった」と後に書き残している。しかし、厳粛な空気の中、山田大将から「謹んで聖旨に沿い奉ります」との奉答を受けた。誰もが目頭に熱いものを浮かべていたという。

その晩竹田宮は山田大将の官邸に宿泊し、翌18日の朝、奉天(現在の瀋陽)に向かった。だが、新京を離陸した飛行機は間もなく故障を生じ、再度新京へ戻ることになる。幸い故障は一時間ほどで修理され、奉天に向かった。19日には新京にソ連軍が進駐することになるため、このとき速やかに修理できず、宮が新京にもう一泊することになっていたら、シベリアに抑留されていただろう。運命の分かれ道である。

奉天に着いた竹田宮は第三方面軍司令部で、昨日と同様に聖旨を伝達し、その日のうちに京城(けいじょう)(日本統治時代のソウルの呼称)に行き、朝鮮軍司令部にも同じく聖旨を伝達した。これで天皇の特使としての任務は全て終了した。

前述のように、竹田宮には東久邇宮首相からの密命があった。宮は満州国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が通化(つうか)の山中にいることを知っていた。17日に当時不通だった電話が幸いにも通じ、翌18日午後に京城で皇帝と会う約束をしていたのだ。

ところが、京城の朝鮮軍令部で聖旨伝達が終わり、竹田宮が朝鮮総督阿部信行(あべのぶゆき)大将〔元首相〕と朝鮮軍司令官上月良夫(こうづきよしお)中将に招かれて会食をしているところへ、通化にいる皇帝から「小さな飛行機しかないので長白山脈が越えられないから、明日(19旦午後奉天に出る」との電報が来た。

このことが溥儀皇帝の運命を決することになる。これこそ「運命の悪戯」としか表現のしようがないが、もしこの日溥儀皇帝が無事に京城に到着していれば、皇帝はその日のうちに日本への亡命を果たしていたに違いない。そうなれば、極東国際軍事裁判(東京裁判)における日本の評価もまた違ったものになったと思われる。

竹田宮は新京に赴任中、溥儀皇帝とは特に親しくしていた。食事をともにすることも多く、宮が第一総軍に転任で新京を去るときには、皇帝はお忍びで宮の官舎に見送りにきたほど二人は親密だった。竹田宮はなんとか溥儀皇帝を日本にお連れしたいと強く思っていたに違いない。

竹田宮は翌日再び奉天に戻って溥儀皇帝との再会を果たそうとする。だが阿部朝鮮総督と上月朝鮮軍司令官が口を揃えて「あなたの主任務聖旨伝達の結果を一刻も早く帰って陛下に復命し、御安心を頂かれるべきではありませんか」と注意した。その言葉に竹田宮はハッと目を覚まし、直ちに東京に帰ることを決した。そしてこの一言が竹田宮に命拾いをさせることになる。

ソ連軍が満州帝国に侵攻している状況において、奉天が間もなくソ連軍に占拠されることは明白であり、奉天は京城より格段に危険な状況にあった。宮が奉天での任務を終了させて一旦京城に至っておきながら、再び奉天に戻るということは、いくら首相の密命があったとはいえ、極めて危険な行為であった。

 

パイロツトの壮絶な死
 
19日、やはり奉天はソ連軍に占拠され、通化から出てきた溥儀皇帝は奉天飛行場でソ連軍に身柄を拘束され、そのままシベリアに送られてしまう。竹田宮が皇帝に会うべく奉天に戻っていたら、同様の運命を辿っていたことであろう。

シベリアに抑留された溥儀皇帝は、その後昭和21年(1946)に東京裁判に証人として出廷、1950年に身柄を中国に引き渡される。1959年に特赦で出所が認められて35年ぶりに北京に戻り、北京植物園に勤務し、1967年に61歳で波乱の生涯を閉じることになる。

竹田宮が関東軍へ聖旨を伝達するに当たり、宮が中国大陸の上空に差しかかってから朝鮮半島に帰るまでの間、四機の戦闘機「隼」が編隊を組んで宮の搭乗機を終始護衛していた。その搭乗員はいずれも若く優秀なパイロットであった。
 
 
竹田宮が本国に戻るに当たって、宮は厚く礼を述べ、その一人一人と堅い握手を交わし「今後、いろいろの情勢になろうが、くれぐれも自重して、日本の再興に尽してくれ」と言って別れた。しかし、彼らは間もなく壮絶な最期を遂げることになる。四人のパイロットは奉天飛行場で翼を休めるソ連機を目撃し、奉天が既にソ連軍に占拠されていることを悟った。奉天飛行場で帰りを待っていた羽(はね)飛行団長の島田安也中佐は、そのときの様子を次のように話している。

「四機は超低空で入って来て転回し、もう一度それを繰り返してから、三度目に飛行場のど真ん中で急上昇に移った。ほぼ垂直に上りつめた四機は、なんと編隊を組んだまま、真っ逆さまに空港中央に突っ込んで自爆した」
(竹田恒徳『雲の上、下思い出話』に所収)

四人のリーダーである鎌田正邦(かまたまさくに)大尉が20歳、他の三人は21歳前後という若さだった。その壮絶な自爆を間近に見たソ連軍の指揮官は、目を丸くして驚き、側にいた日本の将校が「日本武士道には、戦いに敗れた際腹を切る習わしがある。これこそパイロットの切腹ですと答えたと伝えられている

8月20日、竹田宮は無事に帰国し復命することができた。そして南方軍に
出かけた閑院宮春仁王と、支那派遣軍に出かけた朝香宮鳩彦王も任務を終えて無事に帰還する。この事実は、8月23日付の新聞で報じられた。

「三殿下、現地へ特派聖旨、停戦の大命御伝達大本営発表〈中略〉陸軍少将春仁王を南方に、陸軍中佐孚彦王を支那に、陸軍中佐恒徳王を満州に特派、各陸海軍最高指揮官に対し夫々聖旨及停戦に関する大命を伝達せしめられたり」(『朝日新聞』昭和20年8月23日付、1面トップ)
〔「陸軍中佐孚彦王」は「陸軍大将鳩彦王」の誤り〕
 

注:4人のパイロットの御冥福を祈ります。

 

竹田宮三度目の御召
 
終戦の聖旨伝達はこれで終わったわけではなかった。既に述べた八・一五事件でも明らかなように、軍部の若手将校の中には日本のポツダム宣言受諾に反発する者もあり、連合国の進駐に当たり最後の抵抗を試みる動きがあった。

そして現に敵の上陸に備えてあからさまに攻撃の準備をしている部隊もあった。陸海合わせて789万人〔終戦時の残存兵員数〕の巨大な日本軍が一斉に武装解除することは実際には極めて困難なことであったのだ。

竹田宮が帰国してから2日後の8月22日、昭和天皇から竹田宮に三度目の御召があった。昭和天皇は連合軍の本土進駐のときに不心得があってはいけないと大変御心配になり、我が国最南端を守っていた福岡の陸軍航空部隊(第六航空軍)に行って、決して不心得なことをしないようによくよく自分の気持を伝えること、また宇品の陸軍船舶司令部が敵の上陸に備えて水上特攻を準備していたので、これにも自重するよう聖旨の伝達を命ぜられた。

竹田宮は直ぐに福岡、そして宇品に行って聖旨を伝達し、それぞれ矛を収めさせた。また23日には高松宮が海軍航空部隊へ出かけて行き、同じように 天皇の思召を伝達した。そして25日に高松宮、久邇宮、竹田宮の三名は御所を訪れ復命した。

8月26日は、連合国進駐軍の先遣隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だった。その日までには日本の飛行機は全て武装解除し、飛べないようにしておく必要がある。しかし厚木飛行場の相模原航空隊は命令を無視し、進駐軍を撃退すべく演習を続けていた。海軍は強い態度でこれを抑えようとするが、彼らは決死の覚悟であり、容易に言うことをきかない。

そこで時の首相東久邇宮稔彦王は 昭和天皇に高松宮の御差遺を願い出た。高松宮が直接説得することで、24日の夕方、飛行場を占拠していた強硬派の地上勤務部隊が海軍治安部隊に厚木飛行場を明け渡した。翌25日には米軍機が東京上空を盛んに飛んだため、もし厚木飛行場の武装解除が半日遅れていたら、日米の交戦状態に至った可能性もあり、非常に危険な状態だった。

天候の都合により、進駐軍先遣隊の到着は28日に延期され、マッカーサー元帥の到着も30日に順延された。マッカーサー元帥は日本に進駐軍を送り込むに当たり、相当の混乱があることを予測していた。だが、8月30日、平穏のまま、マッカーサーはサングラスを掛けてパイプを咥(くわ)えながら厚木飛行場に降り立った。

敵と向かい合っている部隊の一部は、8月15日に玉音放送で終戦が伝えられているにもかかわらず、また陸軍省や海軍省から武装解除の指令が出ているにもかかわらず、いまだ武装解除することなく、上陸する敵を迎え撃つ準備を進めていた。だが皇族が出向いて直接天皇の御心を伝えることで、彼らは初めてポツダム宮言受諾、敗戦、そして武装解除を受け入れたのだ。

この任務を遂行することができたのは皇族しかいなかった。昭和天皇は27日、天皇の特使を果たした高松宮、三笠宮、朝香宮、竹田宮、閑院宮を宮城の表拝謁間に御招きになり、御慰労をなさった〔朝香宮は体調不良につき欠席〕。この特使の任務は、混乱する最前線を転々とする極めて危険な任務であったため、ここに集まった皇族たちは生きて帰ったことの喜びを分かち合ったに違いない。