読売新聞の連載 「死刑」 に、 服役中の無期懲役囚や、
死刑判決を受けて 上告中の被告から 手紙が送られてきたそうです。
改めて 自分の罪と向き合う きっかけになったといいます。
「 人を殺してしまったとは どういうことなのかを、 考え直そうとしている 」
宮城刑務所の長岡義宏受刑者 (50) からの 手紙にそうありました。
「 連載で取り上げられている死刑囚は 自分の姿でもあったのではないか 」
「 連載を読み、 改めて 『自分は殺人犯』 なのだという 自覚を新たにした 」
梶原利行受刑者 (65) は、
「 犯人が 反省していようがいまいが、 気持ちに変化はない 」
という 被害者の父親の心境を 記事で読み、
事件から 30年近く経った今も 変わらぬ遺族の悲しみを 知りました。
「 被害者の悲しみや怒りは もっとものことです。
事件について 改めて考える 時間を頂きました 」
刑務所の運動場に咲く 桜を見て、 心を動かされたといいます。
「 春になると、 何があっても 花を咲かす草花に、
本当に 頭が下がる思いです。
外にいた時に、 今の気持ちが 少しでもあったらと 悔やんでいます 」
「 死刑か無期か、 究極の選択をする 裁判官の苦悩を知りました 」
複数の命を奪った 60代の被告は、 そんな感想を寄せました。
二審の判決日が 被害者の命日に指定され、
「 裁判官の心は 最初から被害者側にあったのではないか 」 と感じ、
判決公判を欠席しました。
「 裁判官の顔を見たくない と思う前に、
命日を判決日に 選んだ下さった、
心から 遺族にお詫びできる 最後の機会を与えてくださった、
と受け取っていたら……。
自分の狭い心が 悲しくてなりません 」
「 大きな後悔をしている 」 とも書かれていました。
「 人様を何人も 殺した自分は、 死刑以外にないと思っています。
でも、 生きて外に出て やりたいこともあります。
( 刑が確定していない自分は )
まだ、 どこかで 甘えているんだと思います 」
〔 読売新聞より 〕
中学生時代に名前も年齢も同じの友人がいた。中学卒業後音信不通に、別人であって欲しいと願っているが
調べる方法が解らない。
誰か方法を教えて下さい。
同姓同名・同年齢であっても不思議ではないと思いますが、非常に気にかかりますね。
読売新聞や千葉刑務所に問い合わせても、出身地などは教えてもらえないものでしょうか。
ちょっと気になったもので書き込みさせていただきました。
>井上秀明さん
今手元にある資料によると、梶原受刑者は宮城県出身とのことです。いかがでしょうか。
中学卒業後、鉄工所に半年勤めて、その後上京しています。
事件時には山梨に住んでいましたが、これは妻の実家だそうです。
第一報は昭和55年8月15日頃。
当時の新聞記事を調べれば詳しいことがわかるかも知れませんが…この時期は富士山落石、地下街爆発、バス放火が数日間に立て続けに起きて、すぐに扱いが小さくなってしまったと思われます。
東京の国会図書館等でしたら、山梨日日新聞の縮刷版が置いてあるのですが…。
井上さんが読んでいただけることを願っています。
山梨日日新聞の第一報の年月日まで教えていただけたので、国会図書館で調べることはできますね。
コメントを感謝いたします。
こんばんは。
お返事がおそくなってすみません。
調べてみたところ、当時の山梨日日新聞に小中学校名まで出ていました。
ここでは伏せますが、梶原受刑者の経歴が事細かに書かれています。
全国紙では扱いが小さくなってしまった事件ですが、地元紙では連日大きく報道されていました。
全国紙一面トップだったバス放火事件が小さな記事しかないのも印象的でした。
発生から2週間もの間、報道が規制され、そして最悪の結末…
ずっと事件を見守り続けてきた記者たちにとっても耐え難い結果だったということが伝わってきました。
中学校名も分かるのですね。
とても貴重なことです。
報道の裏にもドラマがあったようですね。
井上さん、読んでいらっしゃるでしょうか?
ぜひ伝わることを祈っています。