北円堂を知らずして奈良の歴史は語れない
「私版/東京図絵(水上勉著・朝日文庫1999刊/1996版の文庫化/朝日新聞日曜連載1994.6~95.9)」を読んだ。水上勉(みずかみつとむ1919~2004)氏は、旧制花園中学卒、立命館大学(国文学科)を中退している。9歳で京都の寺に小僧として出されて、得度はしたが後年出奔し還俗した。様々な仕事を転々として、1940年に丸山義二を頼って東京に出る。-----
「私版/東京図絵」は、1940年から戦争/終戦を挟んで、東京で暮らした赤裸々な生活の様子を隠さずに、その時々の住んでいたアパートなどを再訪しながら、水上勉氏自身の来し方を振り返る企画を纏めたものである。-----
最期には“雁の寺(1961)”で直木賞を受賞してよりは作家に専念するのだが、それまでは出版社の編集手伝いであるとか、宇野浩二の口述筆記とか既製服の行商とか、あるいは女性にもてるのを幸いとして紐生活に近い暮らしを長年続けていたようだ。女性に負担をかけた話はこの本には書かないと最初に断わっているから相当に振り返れば負んぶに抱っこの生活をされたものなのだろうと水上勉氏の出世前の暮らしの荒(すさ)みを想わざるを得ないのである。それでも最期は良い伴侶に巡り合って流行作家に成り上がられたのであって、その秘訣は女性に持てるだけでなく、既に名士となっている男性とのお近付き更には付き合いの上手さが功を奏したのだろうと思った。憎めない性格がどこかにあったのだろう。水上勉氏の大工の父親は、大工になるには無理であり、人づきあいで暮らしていく僧侶になることを望んだそうであるが、その判断は間違いではなかったとも云えるのだ。-----
大作家になると過去の汚点を知られたくないものだが、水上勉氏は晩年この企画を進んで受けて自身の最も大変だった時代の様子を世間に詳らかにした。自らもそれを振り返って世に出るまでに過去に世話になった方への届かぬお礼の言葉とされたのだろう。