奈良

不比等

古都奈良・修学旅行と世界遺産の街(その597)

2018-04-13 08:15:00 | 奈良・不比等
「縄文の思想(瀬川拓郎著・講談社現代新書2017刊)」を読んだ。瀬川拓郎(せがわたくろう1958生れ)氏は岡山大学(史学科)卒で、考古学者・アイヌ研究者である。現在は、旭川市博物館・館長である。-------
「縄文の思想」では、従来の縄文文化の知見への言及は少ない。寧ろ、日本列島の先住民であった縄文人がどのように後発の渡来人である弥生人に同化あるいは住み分けて行ったのかについて論及している。勿論そのための考古学的出土品を挙げて論証しているのである。------
縄文のDNAは現在の日本人に数%残っている事から、一部の縄文人が同化したことは確かだが、では各地域でどのようにして弥生文化を受容し、弥生人と折衝交易したのであろうかと云う具体像を提示して呉れている処は流石に考古学者であると思える。------
非定住に近い縄文人達が日本列島周辺の海民としてずっと後の時代まで生き残ってきた事も確かであり、その比率の高い地域が琉球や北海道であり、アイヌの歴史を調べると縄文人のことが分かって来るのだと云う。倭寇は西日本だけの事ではなく東日本も日本海・オホーツク海を渡って海民が活躍してきたのだ。要するに弥生人は海上を行き来する事は不得手であったが縄文人由来の海民はそれが得意だったと云うことだろうと言っている。勿論、九鬼や村上水軍などは海民のルーツが濃いことだろう。また、農耕社会に特化していた弥生人に対して、従来の漁業・製塩や狩猟・牧畜などは矢張り縄文人ルーツの人々がその任務を司ったのであろうと考えられると云う。勿論、親方は弥生人だっただろうが。------
アイヌに限ってみれば、南下してきたオホーツク人と同化し逆に樺太・千島まで活動圏を拡げていたのだそうだ。------
縄文人でも弥生人の鉄器文化を受容できた賢い人々だけが生き残れたのだろうけれど。勿論混血してのことだが。-----
奈良県ではどの辺りに、縄文人の痕跡が有り、そのルーツが今も存在するなどの研究は中々難しいだろうが、やがては究極の個人情報であるDNAの研究が深化することにより分かることになるのだろう。
コメント
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