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LGBTの家族と友人をつなぐ会ブログ

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの家族や友人による会のブログです。

ある対話から

2006年10月02日 | Weblog
 先日ある新聞記者さんとお話をする機会がありました。口論になりかけた瞬間もありましたが、記者さん曰く、権利を主張する人たちは、理解してもらえないことがあるとすぐに、どうせおまえなんかには解らない、と言って自分から線を引いてしまう、と。たとえば障害者には「自分たちは障害があるのだから手伝ってもらって当たり前」という考えを持つ人がいる。差別されている同性愛者やの人たちには「さぞ辛いだろうと理解してもらって当たり前」という考えがある。少しでもそこに疑問を投げかけると、当事者にしかその辛さはわからない、と言われると。

 そう言えば私の大好きな「にじ」の8号の中で、あるHIVの研究者の方が次のように締めくくっておられました。「ゲイのことはゲイでなければわからない、その言葉に遠慮して、ゲイにかかわろうとしない有能な人がいっぱいいます。・・・たしかにゲイのほんとのしんどさは、当事者でなければわからないと思います。だけど、それをいっしょに考えて、その課題を解決していく努力をする人は、ゲイ以外にもたくさんいるということを、知ってほしいのです」と。

 また先日ある方が送ってくださった「自分らしく生きる」という、あるゲイの方とフェミニストの方の対談本を読んでいましたら、ダブル・バインドという言葉が出てきました。(私も少しずつ難しい言葉を覚えて、賢くなっていってるような気が。錯覚でしょうが・・)ゲイの方曰く「マイノリティというのは、マジョリティに理解されていない存在なのだから、いつもにこにこして、怒ったりせずわかりやすくマジョリティに説明しなくてはいけない、と言われた。しかしニコニコしゃべっても通じないし、怒ると逆に怖いとか言われてしまう。そのダブル・バインド(二重の縛り)をどうやって切り抜けて発言していったらいいのか・・」フェミニストの方曰く「フェミニズムの思想を広げたかったら、穏やかに、誰にでもわかりやすく、受け入れられやすい言葉で話したほうがいい、という声があります。ある面では理解できます。でも・・っていつも思うんです。足を踏まれてきた側の人間がそれを語るときに、なぜいつも踏まれた側ばかりが言葉を選び、気を遣い、せつないほど共感を求め、デリカシーがすり減るほど気を遣ってやっていかなければならないのって」「セクシャル・ハラスメントについても、男性に理解を得るにためには、怒らないで、説得力のある言葉で語ったほうがいいんじゃありませんか、って。だけど被害を受けているのはこっちなんだよ。被害を受けた人間が、その被害を語るときに興奮してなぜ悪いの。・・・」なるほど。

 再び「にじ」に戻りますが、創刊号の中で、数年前の「新木場ゲイ殺人事件」についてのある人の言葉が記憶に残っています。今貸し出し中なので手元に本がないのですが、その人は確か次のようなことを書いていたと思います。「そういう(ゲイを脅したりするような)若者は腹立たしいけど、向こうはこっちのことは何も知らないでやっている。ではこっちはそんな若者(中学生や高校生)のところに出かけていって、例えばゲイがどんな存在で、どんな思いでいるのか、ということを伝えたことがあるかというと、たいていのゲイはそんなこともしていないわけで・・」と。これを読んだとき、この人はすばらしいなと思いました。犯罪なのですから、悪いのは誰か、それは明白です。それでも、もし彼らに対する自分たちからの働きかけがもっとあれば・・という視点に立って考えることができる人なんですね。

 理解しあうって、ほんとうに難しいことですね。でもこれはマイノリティとマジョリティに限ったことではありません。セクシュアリティに限ったことでもない。年寄りと若者、先生と生徒、親と子もそうです。「断絶」なんて言葉がいつか流行ったことがありました。違いを乗り越える、認め合う、共感する、共生する、弱者の視点に立つ、など、いろいろな表現がありますが、どちらの側も相手の立場に立って考える、想像力というんでしょうか、必要だと思います。口論になりかけたとき、私は理解できないという新聞記者さんの立場に立って考えることができないでいました。でも、いつかわかりあえると、今は思っています。

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