LGBTの家族と友人をつなぐ会ブログ

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの家族や友人による会のブログです。

【みんなで保護者会】の報告

2021年03月10日 | Weblog

令和3年3月7日

オンラインで、「みんなで保護者会」を行いました。

NPO法人ASTAさんからお誘いいただき、つなぐ会のメンバーも参加して、約20名。

グランドルールをみんなで共有して、多様な性の基礎知識を学んでから、できる人は自己紹介をして、現在の状況や困ってることを傾聴し、それに対して、みんなで話し合いました。性別に違和のあるお子さんを授かったお母さまが多かったので、学校の事、制服の事、ダブルマイノリティの事、話し合いました。今回、医療の事でお話しできる方がいたのですが、通信の調子が悪く参加できず、次回、医療のお話を集中して教えて頂きましょうということになりました。

私個人の印象ですが、初めての試みで、東京の学校の様子や福岡の行政の取り組みなど経験豊かなお母さまからの助言もあり、ものすごく勉強になったと思います。

10年間否定的な母でしたとおっしゃるお母さまが涙ぐんで、「今のお母さまたちは子供さんの事をとても肯定的に考えて、学校にかけあって、すごいです。自分はできなかった。」とおっしゃっていました。が、現在は親子で啓発活動されるくらい理解と応援されているので、お互いがやさしさであふれているのではと感じました。これからの親子さん達のロールモデルとなっていくと思いました。

コロナ禍で名古屋のミーティングは一年ほどお休みをしてしまいましたが、今回のイベントを体験して、今後はウイズコロナを意識しながら、多様な性を授かった子供たちと一緒に成長していく親御さんの支えになっていきたいと改めて感じました。

当時私が先輩のお母さま方から支えてもらったように。。。

ASTAさん!オンラインでの共同開催お誘いいただき感謝します。

LGBTの家族と友人をつなぐ会 名古屋 浦狩知子


【出櫃(カミングアウト) 中国 LGBTの叫び】/房満満監督 ~東京ドキュメンタリー映画祭2019短編部門グランプリ受賞作品~ を観て

2021年02月14日 | Weblog

セクシュアルマイノリティの子どもから親へのカミングアウト、これはどの国においても悩ましい。受け取る親にとっては受け入れ難い事実だろうし、告白する当人には勇気のいる行為だろう。それが中国ではどうなのか、二組の親子のカミングアウトを通して中国のセクシャルマイノリティの現状、親子関係を描きだした映画であった。

私自身、日本においてセクシャルマイノリティの支援に関わっているので、この映画に出てくるゲイの青年「谷超」もレズビアンの「安安」も、日本で出会ってきた誰かが思い出されて身につまされる。子どもたちはありのままの自分を理解してほしい、それだけ。だが、親には同性愛の知識がないゆえに誤解を生む。だから、変えてくれという。異性愛に変えてくれと。それは子どもに「嘘をついて生きろ」という残酷な言葉なのに。

だが、昔の日本と同じような旧態依然とした社会の雰囲気、情報統制されているからなのか、同性愛は偏見と差別にまみれている。カミングアウトはどうしたってうまくいかない。私自身、十数年前、カミングアウトを受けた当時の事を思い出して、現中国の親達の反応は至極当然と思う。だから、カミングアウトの場面で、親の思いに共鳴して涙ぐんでしまう。と同時に、親の言葉のあまりの無知さに天を仰ぐ。

親はどうやってその無知の壁を乗り越えていけるのか。子どもへの愛情か、子育て当時の記憶が邪魔をして子どもの言葉を否定するのか、反対に思い当たる節があって理解を早めるのか、親自身の人生への問いかけも関わってくるかもしれない。いずれにしても子どものセクシャリティは変わりようがないのだから、親自身が理解を深め変わるしかない。異性を好きになる親とは違って同性を好きになる人もいる、それが自分の子どもなのだという事実を認めるしかないが、その道は果てしなく遠いように感じられる。

それにしても、この濃密な親子関係・・・安安と母親はお互いに譲らない、娘は親に自分を分かってもらいたいと10年以上訴え続けている、そのしぶとさ!どれだけ親に愛されたがっている事か。母は愛すればこそ人並みな幸せを願う。結婚こそが女の幸せだと。そうなのか? 離婚してる人だっているだろうに・・・

片や谷超は父子の絆なのか、父親に認められたいとの思いが強すぎる。息子はセクシュアリティを変えられるわけがなく、父は自分の価値観を変えられない、でもお互いに相手を思いあうから、その苦しみは増すばかり。谷超が歩くシーン、どの歩き姿も足取りが覚束ない。自分の人生を歩けていない心がその頼りない足取りに顕れているようで、私にはこれからの彼が心許ない。どこかのタイミングで親離れして自身の人生を歩き始めてほしい。

それぞれの親子の会話を聞きながら、親の誤解だらけの、でも、子どもへの愛情がちりばめられている言葉に、親心が感じられて痛いほど胸に沁みる。一方で、若者が、自分を隠して生きているのに疲れた、親にだけはわかってもらいたいという、その切なる思い故に、苦しむ親の理解を得ようと、自分の心を奮い立たせて難関受験する息子、片や親の切なる願いで偽装結婚まで考えようとする娘の苦渋の心根に涙した。親心に共感しつつも「間違ってる!」と諫めたい自分、親を思いやる子どもの優しい気持ちに、「自分の心を曲げちゃダメ!」と発破をかけている自分、観ている私も心が千路に乱れる。

日本にも同じような親達がいて、ゲイやレズビアンの若者がいる。皆、苦しみ、幸せの道を探ってもがいている。正しい知識を得て、異性愛者も同性愛者も、愛する対象の性が違うだけで人の価値に差はないのだという思いに至れば、幸せはすぐそこにあるのに。

ひとつ羨ましかったのは、中国には親の支援団体が5万人規模であること。それに比べて我が団体の規模のなんと小さいことか。この差は何故なのか、帰り道、考えあぐねてしまった。                          M.M


12月東京ミーテイングの報告

2020年12月20日 | Weblog

 

新型コロナ感染拡大真只中でも、LGBTsの悩みは待ったなし!

というわけで、12月6日(日)開催決行。キャンセルもあり6名での交流会。参加人数が少ないおかげでじっくりとテーマを掘り下げながら語り合うことができました。我が子以外の当事者に会ったことがないという親御さんには最適の場となったかも♥

日本では、2003年に「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が施行されて以来、性同一性障害という言葉が認知されてきたが、2013年にアメリカ精神医学会の『精神障害の診断と統計マニュアル』第5版(DSM-5)ではgender identity disorders(性同一性障害)ではなくgender dysphoria性別違和)という新しい診断名を用いており、最近の若い世代ではトランスジェンダーとか性別違和と自身を語る方が多い。トランスジェンダーと語る方はFTM、MTFと称されることが多く、生物学的性が如実に表れている肉体への違和感、嫌悪感が強い。性別違和の方は、生物学的性により(社会的に)認知される自分の性に居心地の悪さを感じる、あるいは性別のどちらも違う感じ、もしくはどちらでもある、真ん中みたい、稀に揺れている(時によって、年月によって)方もいたりする。Xジェンダーと称することも多い。(人により感じ方は違うので、自ずと表現の仕方も違っている)

尚且つ性的指向も様々。性的感情を持たない人もいたりするので、トランスジェンダーは、百人いれば百通り、千差万別とはよく言ったものだと思う。

けれども社会は相も変わらず性別二元論で成り立っている。自身の生物学的性に合点がいかなければ性別を変えるしかない、と思い詰めるセクシャルマイノリティの子ども達。今の生きづらさから逃れたい一念で別の性をと願う。そこで、親はたじろぐ。「一体どうしたらよいのか⁉」親は子どもを愛するゆえに、どうしたら我が子は幸せに生きられるのか、と悩み、問う。

その問いに対して、答えは自分で見つけるしかない。異性装をしながら、あるいはホルモン投与で様子を見ながら、社会の中で折り合いをつけることができるのか、やっぱりこの肉体が嫌ならば脱ぎ捨てるしかないかもしれない。

 

他人の目を気にせず、ありのままの自分で生きていけたら・・・、

相手が同性であれ好きな人と愛し合うことができれば・・・鬱屈せず生きられるのに。

そのためには、社会全体が、いろんな人がいていいんだ、十人十色が当たり前との多様性の意識を持つ事が大事だし、柔軟性のある社会制度であれば、セクシャリテイが何であれ、偽ることなく生きられる。

 

これは夢のまた夢なのか…

でも、夢の未来に向かって進んでいくつなぐ会でありたいと思う。       M


性欲と性愛

2020年10月23日 | 雑記

珍しくブログ連投です。

少しフラストレーションが溜まることがあってタイピングする指もなんだか軽快です。

良くも悪くも心に圧がかかっていると何かを書きたくなります。

 

しかしばんばん更新する、なんて言っていたのはどこのどいつでしょうか……

 

 

これはずっと考えていることなのですが、『性欲』と『性愛』って別のお話だと思うのです。

「ちょっと何言っているかわかんない(サンドイッチマン風)」

って言われそうですね。

 

そいや私、性欲はあっても性愛ってのを感じないな、というところから話は始まります。

 

そもそもこれを性愛と思っていいのかわかりませんが、例えばとてもグラマラスな人が歩いていたとします。

めっちゃスタイル抜群で思わず目が行ってしまいそうなそんな人です。

確かにそんな人がいたら目が行ってしまうでしょう。

ええ、それは認めますとも。

申し訳ないけれども。

でもかといってその人とどうこうなりたいかと聞かれれば答えはノーです。

なんか面倒くさくないですか?

肌を重ねるとかちょっとだるいかなって……

 

あと衛生的にどうなのかとか潔癖な所あるので気になっちゃいます。

知らない人が握ったおにぎり食べられない派の人間です。

知っている人でも食べられる人は数えるほどでしょう。

そんな私なので性的接触にわりと抵抗があります。

別にそんなのなくても一緒にいて楽しくて毎日がハッピーな人が現れないなかとか思っています。

だって一緒にいるからって必ずしも性的なことをしないといけないわけじゃないでしょう?

その人と一緒に居たいという気持ちと、その人といちゃこらしてそのあといい気持になりたいのという気持ちは別の感情だと思うのです。

感情というか欲……?

 

でもここで問題が!

なら性欲はないの?って聞かれたらぐぅの音も出ません。

そりゃ人間気持ちいいことは誰しも気持ちいいわけで、快楽だけを求めて生きていると言っても過言ではない私は当然美味しいものを食べたいしぐっすり12時間眠りたいし気持ちいいことだってしたいわけです。

大丈夫かな、こんな話題……。

ただ私の性的なことを暴露して私がダメージを受けるだけのような気がしなくもないです。

しかしこの問題を語るにあたっては最初に私のスタンスというものを明らかにしておく必要があるのです。

仕方がないのです。

どうか生暖かい目で続きを読んでいってください。

 

んでですよ。

ここまでくるとだいたい何が言いたいかわかってもらえるのではないかと思います。

ようは性的な快感って必ずしも自分とは違う誰かを伴わないといけないわけではないのではないか?

そういうことです。

むしろ他人と性的な行為をすることに忌避感すら感じるわけです。

じゃあおかずはどうするの?という質問に対しては言明を避けます。

これはさすがにここで話すことではないですしね。

逃げではありません。

踏み越えちゃいけない一線なのです。

誰が見るかもわらかないのに。

ここで私の性癖を暴露しようものならこのブログは閉鎖ですよ。

 

 

性的指向なんて言葉をよく聞きますが、それって一緒に居たいと思う人の性別とセックスしたい思う人の性別が一致していなくても別にいいんじゃないかな。

そもそも性的指向なんて一緒くたに言っているからよくないんです。

好きになるのに性別が関係あるのか、と言いたい。

とてもありふれたセリフですがこれはそんじょそこらのそういうセリフより一段階深い話をしています。(そうだったらいいな……くらいの気持ちですが

一緒にいて心地いい人がいます。

それは友達かもしれないし恋人かもしれない。

一緒にいる理由も、腐れ縁かもしれないしなにか仲間意識とかあるいはまったく別の絆からかもしれない。

そこに性的要素が絶対にあるのかというとそれはどうなのでしょう。

または性的要素が必要かどうか。

 

なくてもよくないですか?

 

ってことはですよ。

性的指向がマッチする人が必ずしもパートナーになるとは限らない!

パートナーってのはここではまあ一緒に人生歩む人とでもしておきます。

一生一緒にいるつもりの人とはやっぱり性的な行為って……する…………の?

なんか自信なくなってきました。

みんなやっぱりそういう感覚なんかなぁ……

みんなって誰?とか意地悪言わないでください。

 

 

とまあここまでが私のスタンスなのですが、本題はここからです。

性愛と書いたように、愛なわけです。

愛っていうと大げさに感じますが誰かと誰かが一緒にいればそこには何かしらの愛があるのだと私は思っています。

古代ギリシアの時代でもすでに愛というものは4つに大別されていますし。

愛にもいろいろあるのです。

親が子を思うのも愛ですし、友達を思う気持ちも愛です。

もちろん誰かとセックスしたいというのも愛の形なのでしょう。

宗教に特に造詣が深かったりなんてしないのですが、4つに大別された愛についてはなるほどと思っています。

 

家族愛

性愛

友愛

真の愛(無償の愛)

 

うち仏教徒なんですけどね。

信心なんてありませんし。

ただ性愛というものが他の愛と分けて考えられるのであれば、私のスタンスも理解していただけるのではないかと思います。

無償の愛ってのは私には生涯縁がなさそうですけどね……

 

そんなの知らねーよ、愛があったらセックスするんだよぉ!

と言われるともう何も言えませんが、誰かがこんなことを考えるきっかけにでもなればいいなと思います。


2020年10月17日 福岡ミーティング&交流会

2020年10月23日 | 講演会 つなぐ会 LGBT トランスジェンダー 当事者 アライ

2020年10月17日、NPO法人LGBTの家族と友人をつなぐ会福岡ミーティングと交流会を行いました。

 

午前のミーティングではとあるビデオを視聴し、その内容について各々が思ったことなどを話し合ったそうです。

私自身が参加できていないので詳細なことはわかりかねますがとても有意義な時間だったみたいです。

こういった場で個人の意見を発信していくという取り組みは常に行っていくべきだと思っています。

セクシャルマイノリティを取り巻く環境は刻一刻と変化をしており、その流れや認識をみなで確認し合うという行為は現代を生きる当事者にとって必ず有益なものとなりうると私は思っています。

 

午後からの交流会に参加した私ですがあまり目立ちたくないのでおとなしく座っておりました。

しかしタイミングが良かったのか悪かったのか私の存在が少し影響を及ぼすこともあり参加しておいてよかったと思う次第です。

影響を及ぼすなどと傲慢な物言いですが今回に限っては事実かと思われます。

詳しくは書けないので、私がトランスジェンダー当事者であるという事実をここに提示し、あとはみなさまのご想像にお任せします。

 

昨今の教育現場での取り組みについての話が活発に行われていたように思いました。

トイレのことや身体測定や健康診断なんかですね。

自分が中学生や高校生だった当時のことを思い出してわりと動揺してしまいました。

あれイヤですよね、健康診断の時に効率がいいからと最初から上半身裸にさせられるの。

別に誰が気にしているわけではないのですが自分が気にします。

さらに誰も何も周りは思っていないのに自分の心の中だけが忙しいのもなんかモヤっとした思い出です。

 

トイレはなんかもうあきらめていました。

どうしようもないですからね。

変に目立ったりするのもイヤでしたし。

なるべく学校ではしない、くらいでしょうか。

今はわりとそういうのなくなっているのかな。

学校に事情を話せば何かしらのアクションを起こしてもらえるみたいですが、高校は私立なんかだと対応が様々なようです。

入学時にしっかりとしたスタンスを示せるかどうかというのも大切なようです。

学校側も『慣れ』のようなものが必要みたいですし、自分が最初の一人になって人柱になるみたいなことは誰しもイヤでしょうが、そういうケースを作ることにも意味があるようです。

するとあとになってまた同じようなケースで入学してくる人間がいても学校側はその対応をしやすくなるのかな、と。

でもやっぱり私だったらイヤです。

学校との交渉でガリガリと精神を削られる青春というのももったいないですし。

さも青春が尊いものであるかのような物言いですが、大切なことはおそらく『若さ』でしょうか。

私の体内の時計はまだ寝台特急レベルのスピードですが、もうちょっと歳を重ねるとこれが新幹線くらいになるそうです。

しかし10代半ばのそれは恐らく各駅停車の鈍行、あるいは西鉄バスか何か。

体感時間が長いのでその中でトイレだの健康診断だので心を痛め続けるのも辛いとは思いませんか?

 

さてさてではこの問題の終着点について私なりの考えを述べさせていただこうかと思います。

なんのために学校側は性的少数者の声に耳を傾けその対応をしてくれているの?

面倒くさいけどあとでごねられてもことだしとりあえず言うことを聞いとけば不満は出ないだろう、と?

それとも本当に親身になって性的少数者、主にトランスジェンダーの日常を想像してくれている……?

それはその当事者とその周囲の人間にしか知ることができませんが、いずれにしてもその対応は当事者の『未来』をきちんと想定している必要があるのではないでしょうか。

その場しのぎで対応、それも結構です。

仮に私もそんなことが許されていたのならそれだけで満足していたかもしれません。

トイレは職員室の横のを使ってね。

身体測定や健康診断は別室でやろうね。

修学旅行の部屋はどうにか考えようね。(これに関しては実は私は中学の時はなんかしてもらいました、なお自身がトランスジェンダーであることは話していなかったのでかなり強引に。)

 

こうやって環境が整っていけば当事者が青春に割くリソースの多くを学生の本分とやらにつぎ込むことができるでしょう。

しかし実際はやっぱり自分の中のセクシャリティと葛藤しちゃうのではないかと。

そこのフォローってのは誰ができるわけでもなく、結局は自身の問題として自分の中で消化しないといけないわけです。

でもやはり誰かの助けというのも欲しい。

我がままではあるけれども自分一人の問題を自分一人では解決できない。

今この場では多くの問題が解決されている、しかしここを卒業した先でまた何かに何処かに所属することになる。

そんな時に今度は誰も助けてくれない。

だから厳しいようだけれどこれは当事者自身がちゃんと知っている必要がある。

そして周りの人間はそれを当事者にちゃんと意識させることが必要なのではないかと思います。

学校で学ぶことってのは勉強だけだと私は思っていましたし、実際大学に入学するまではそれでなんの問題もなかったのです。

でも違いました。

とりあえず大学に、なんて考えはよくない。

早く。

一秒でも早く抜け出したい気持ちで高校を卒業したけど、結局何も変わらない。

なぜならしっかりとしたビジョンを描けていなかったから。

想像力に乏しかったから。

周りは何も教えてなんてくれなかった、……なんて言うとちょっといやらしいですね。

 

まあ要はトイレとかその他セクシャリティが絡む出来事で気を揉む必要がない分、その他のことをしっかりと考えなさいってスタンスでいないとダメなんだと思います。

当事者も周囲の人間も、です。

中学あるいは高校を卒業したとして、勝手に状況が好転するなんてことはあり得ないのですから。

むしろ自分で考えないといけない分きついです。

学生の本分は確かに勉学に励むことにあるのだと思います。

しかしその学びをどこに向けるのか、これをしっかりと考えさせる場でもあるべきなのではないかと。

特にトランスジェンダー当事者なんかは自身はこうありたいと望む姿はあっても、ではそこからどうするのかということまではなかなか想像できないのではないでしょうか。

自我が芽生えた瞬間になりたい姿は想像できてもなりたいものは見当もつかない、そんな感じです。

性自認になんの疑問も持たない人間。

性自認にしか疑問を持てない人間。

この間にはスタート地点からしてかなりの距離差があるように感じます。

 

結局は性的少数者であろうとなかろうと将来の明確なビジョンってのは描けているに越したことはないのです。

ただ、そのビジョンを描くためのリソースがトイレやらなんやらに割かれてしまうのは避けるべき。

そのための学校側の措置。

この認識を両者の間できちんと持っておく。

するとその他無数に出てくるであろうセクシャリティ絡みの出来事への対応にも、自ずと答えが出てくるのではないでしょうか。

 

とりあえずやってみるのも悪くはありません。

大歓迎です。

でもやる意味や意義を考えることも必要なのではないかと思います。

 

 

そんなことをぐるぐると考えつつ皆さんの話に耳を傾けておりましたとさ。

当時のことを思いだすだけでまだ心臓がバクバクするのに自分で驚きました。

まだまだ功夫が足りないようです。


10月東京ミーテイングの報告

2020年10月14日 | Weblog

10月4日(日)、コロナ禍による厳しい情勢の中での東京つなぐ会、今月も何とか開催でき、参加者12名。久しぶりに会うお顔も多く、旧交を親しむ感の交流会となりました。

親もLGBTQ当事者も背景が様々な参加者によるフリートーク。

セクシュアルマイノリティの子どもを持つ親、とりわけ世間体に囚われがちな世代の親には、セクシュアリティで悩む子どもの思いはなかなか推し量ることができません。男女二元論社会で育ち、セクシュアリティについての教育も受けていない為、当然のことでしょう。ですからつなぐ会のような交流会で語られる他者の言葉は大切です。当事者ご本人が語られる、「社会との軋轢と葛藤という苦闘の体験と思い」、他の親御さんが語る「カミングアウト受容のプロセス」について聴くことで、自身の親子関係を振り返り、更に親自身直接には尋ねられない子どもの心情をうかがい知ることができたり・・・ 

親子では感情的になってなかなか冷静に語り合えない、そのちぐはぐな思いを修正できるのがこの場でしょう。

学童期の子どもを抱える親の苦悩には、先輩の親達のアドバイスがあります。今回の話題の中心はトイレ問題でしたが、更衣室や水泳授業、修学旅行等子どもたちを取り巻く問題は未だ山積み。それぞれの親子が個別に学校と交渉し、課題をクリアしていく状況は未だ続いています。LGBTQの子どもたちが現れて初めて「合理的配慮」に取り組むのではなく、彼らがいつ入学してきても困らないような教育環境の整備が急務なのに、と毎回嘆息。親も教師も困惑し対応に苦慮しますが、肝心なのは当事者の子どもの気持ちですね。セクシュアリティのカテゴリーも対応のマニュアルもあまり意味を持ちません。人の心は杓子定規に決めつけられないものですから。安心できる環境の中で、落ち着いた態度で子どもの胸の内を聞き出せたら良いのですが・・・。言葉にできない子どもの気持ちまで汲む周りの大人達の度量も必要でしょう。

他にも、孤独を抱え悩む若者には、コミュニティ以外の仲間が支えになるケースを教えてくれる参加者がいたりと、縦横無尽に繰り広げられる対話が暖かかったです。

 

始めての参加者もお馴染みさんも、会場に入ってきた時とは打って変わって和やかな表情で帰路につく。ここに仲間がいる、心の内を明かして軽くなった身体で明日に向かっていく。

今回もそんな交流会となりました。                    M

 

 


8月東京ミーティングの報告

2020年08月10日 | Weblog

 東京のコロナ感染者数が日ごとに増していく8月2日(日)、ミーティングを開催しました。

 今年はオリンピックイヤーどころか日本中コロナに席巻され、イベントはことごとく中止、あるいはリモート開催に切り替え。けれども、家族の会はリモートでは難しいし、当事者以上に親は孤立気味なのでリアルに会って話したいとの声もあり、開催を決めました。感染者数が500に達しようかという時期の為、参加予約数の半数がキャンセル。けれども親御さん、当事者の方、allyの方、とバリエーションに富む集いとなりました。

 この数か月のコロナ旋風の中出現したマスク警察にみられる様に、日本の社会は相変わらず同調圧力が強い。その一致団結力が日本の強みでもあっただろうと思いますが、その中で黙って耐えてきたのが各マイノリティの方々でしょう。その中でもセクシュアルマイノリティは親とも異なるマイノリティのため、長年、誰にも言えず、自分すら偽って暮らしてきた方が多いと思います。それが近年のセクシュアルマイノリティの可視化に伴いカミングアウトする人たちが増えてきました。若者は彼らに対して受容的ですが、画一的な教育を受けてきた親世代はなかなかそうはいきません。特に我が子となれば尚更。それは、この国の同調圧力を身に染みて感じながら生きてきたからに他なりません。マスク警察の有り様に、今更ながら生きづらさを覚える人も多いことでしょう。

 つなぐ会に出向く親は「理解しよう」と思う親です。が、この社会の荒波の中で可愛い我が子がセクシュアルマイノリティとして生きていけるのか不安に思うのはさもありなん。彼らのロールモデルが水商売か芸能界にしかいないと思い込んでいるからです。いえいえ、現実には彼らはあらゆる場所に存在しており、埋もれて暮らしているだけですが。

 先輩の親曰く、親が心配するほど自立の道は遠のくし、親が支援姿勢をとれば子どもは己の道を突き進む。頼もしい限りだ、と。

 確かに社会の態勢はいまだ旧世代が握っているので、厳しい。けれども、確実に次の世代も育っていて理解者は数年前より格段に増えています。この波を進める為に、親世代は我が子を受け入れるのは勿論、子どもが生きていく社会の地ならしをせねばと思います。幼少児であれ青少年であれ、社会人であれ、どの局面であっても受容され安心・安全な社会が今、求められています。親が我が子を理解するに留まらず、子どもたちが生きていく社会が変わるよう働きかけていく力が必要でしょう。カミングアウトを受けた親同士つながり声を上げていきたい。彼らが再び同調圧力の波に巻き込まれてしまわないように。

 今回もシニア世代の親御さんが久しぶりに顔を見せて下さいました。最初に訪れた時よりも晴れやかな表情で。親子の絆はあるにも関わらず、世間体や常識という枠組みにとらわれて、我が子の有り様を容認するのはなかなか難しい。その苦悩を、身の回りにいる人たちに世間話のようには語れません。でも、つなぐ会なら言いたい放題です。皆、そんな時を乗り越えてきた親達だから✌ 

皆さん、また、お会いしましょう❣                    M


6月東京ミーティングの報告

2020年06月21日 | Weblog

 東京の緊急事態宣言が明け、早々の6月7日(日)、巷間では東京アラートの只中、ミーティング開催を決行しました。コロナ感染者数がなかなか減らない中での開催は如何なものか、世話役としては悩みどころでしたが、自粛期間中の電話相談に切迫感も有り、相談先を求めている方もあろうかと開催を決めました。
 勿論、予防対策は万全に、定員は通常の半数、検温、マスク着用で臨みました。

 さて、当日のテーマはトランスジェンダー。しかも百人いれば百通りに分かれると言われるXジェンダーが話題の中心となりました。


 最近の傾向として、幼少期から性別違和を訴える子ども達が増えています。その背景にあるのは、メディア等でLGBTが取り上げられることが増え、社会的認知度も増し、若い親御さん達の理解が進んできたことがあると思います。これが更に思春期に入ると、性自認、性指向の違和感はますます強まり、子ども達は混沌と葛藤の渦に巻き込まれていきます。その中からある子どもはトランスジェンダー、あるいはXジェンダーではないかと自問自答が始まります。(もちろん同性愛で悩む子どもも、自分のセクシュアリティがわからず不安に陥る子どももいます)
 従来、男女二元論が当然、男は男らしく、女は女らしくという教育がなされていた時代は、セクシャリティで悩むこと自体あり得ないこととされ、実際に悩んでいる当事者は誰にも言えず苦しんできました。今やその枷は徐々に薄れ、悩める子ども達はネットで情報を得、自分自身の答えを見つけることができるようになったのは喜ばしいことです。
 ところが、中高生以上の親世代にはXジェンダーの認知はまだまだです。トランスジェンダーのFTMやMTFは男女二元論で理解することができますが、Xジェンダーはそうはいかない。男でも女でもないという無性、男でも女でもあるという両性、他に中性、流動性もあり、男女二元論で生きてきた親世代には理解しがたいものがあります。理解を超えて、そのまま受容するしかない。この理解の壁を、子どもを愛する親心で乗り越えられるといいのですが・・・

 最近は講演会への参加者に、男性然、女性然としながら「長年、性別の違和感で悩んできました」と仰る方が見受けられるようになってきました。潜在的に性別違和の方は多いのではないかという印象です。そういう方々にとっては、Xジェンダーというカテゴリーが現れたのは、自分自身を受け入れる良い兆候と言えるでしょう。

 けれども、依然としてセクシュアリティにおける親子の壁はかなり大きい。それを乗り越えられるのは親子の情しかないのでしょうか。今や社会全体の価値観の変換が求められていると思います。                    M


FTM Female to Male  トランスジェンダー男性
MTF  Male to Female トランスジェンダー女性


1月名古屋ミーティング報告

2020年03月11日 | Weblog

1月26日 名古屋ミーティング 

参加者・トランスジェンダーの子をもつ母 7名
    トランスジェンダー当事者 2名
    xジェンダーの子を持つ母 1名
    レズビアン女性1名
    同性愛者の娘を持つ母1名
    FTMの子を持つ父母姉3名  合計15名

22歳の娘さんから戸籍を変えたいとカミングアウトあり、母は本人を尊重するも手術をしないで済む方法はないかと涙が止まらない様子。子供を否定したくないから、「わかったよ」と答えたが、すぐに手術して、戸籍変更するのは少し、時間が欲しい。
父は手術する必要性を考えたら必要なのかと迷っている。
姉は味方になりたいが、どうしたらいいかわからない。
本人は、小6の時に男の子と気が付いていたが今まで黙っていた。が、現在会社で仕事がやりずらく男になりたい、女扱いされるのがいやで、5月にタイで性別変更手術を予約した。
⇒手術は生きるか死ぬかにかかわるほどのことと知ってほしい、生きるための緩和外科である。手術に重点を置きがちだが、まずコミュニケーション、親子関係の再構築のチャンス。
当事者は、手術をすることは人生が変わることで、その子が自分らしく元気になること。親には誰よりも手術を応援してほしいと思っているはず。


自分は男性ではないという自覚はあるが、トランスジェンダーかはわからない方について、
⇒「あいまいでいいし、わからなくていいし、ゆらいでもいいし、かわってもいいし、かわらなくてもいいし、また戻ってもいい」といわれ、とても、気持ちが楽になった。男か女にきめようとしなくていい。精神科を受診して、整理するのもあり。

決めたいけど決められない自分にしんどくなる。
⇒自分自身のこだわりが自分を苦しめていることもある。自分を解放するといいかも。今日の自分でいい、ノートに思いを書いていくのもいい。


2月東京ミーティングの報告

2020年02月21日 | Weblog

2020年スタート!

コロナウイルス情報が出始めた影響かキャンセルが相次ぎました。参加人数が少ないと、一人一人が思う存分話せる、という思わぬ+効果がありました。

親の対応は年代によって違います。若い親御さんは子どもの有り様に対して理解が早い。
親自身が学生時代に知識を得ていたり、メディア情報で理解を深めていたりで、子どもの言い分を素直に受け止めようとするお母様が増えているようで嬉しい限りです。ただ、周りはそうとも限らず孤軍奮闘になりやすく、ミーテイングでの援護射撃で力を得ているようです。


年代が上がるにつれ、また、当事者のお子さんの年齢が上がるにつれ、親の思いは千々に乱れるようです。ただでさえ思春期世代は気難しく、親と衝突しがちなのに、そこにセクシュアリティの悩みが入ってくると親子の意思疎通もうまくいかず、緘黙か爆発、あるいは暴走と、子どもの振る舞いに親は戸惑うばかり。


これらの年代の親子関係の悩みは、その年代にふさわしいコミュニティを紹介し、ジェンダークリニックが必要な場合には地域の病院を紹介、かつ情報収集に見合う書籍や映画等もお知らせしています。そして当事者が語る学生時代の思い出、彼らが語る苦悩と苦闘の思い出が、親にとっても子どもにとっても、一番の良薬かもしれません。

さて、一番大変なのは、シニア世代の親と成人した当事者の子どもでしょう。
この世代の親は、性的少数者に対する知識は皆無、ミーテイングや講演会に出席して初めて理解した、という方が多い。理解型の親御さんの場合でも、両親間で理解の温度差があったり、親戚や隣近所との関係に苦慮する方も多く、世間体と子どもへの愛情との板挟みになりやすい。勿論、理解なんてあり得ず、拒絶、勘当も相変わらず多いのです。

「あなたのセクシュアリティは受け入れるけれども、他人がいるところでは開示しないでね」という態度には世間体を気にする親の困惑が顕れていますが、子どもの側からすると「わかってないなぁ」ということになる、よくある親と子のすれ違いです。すれ違いが溝になり、その溝が段々深くなっていき、疎遠になるのはよくあることです。

長年の価値観、プライドを脱ぎ捨て、その溝ひとっ跳びしてみませんか?
自分の思いを傍らに置いて、お互い、相手の苦悩やジレンマを想像してみる・・・
相手の心情に心を寄せる時、人と人との距離はぐんと近くなるものです。
親と子が更に親密になり、理解を深める時、豊かな世界が広がります。

・・・跳びたくないって⁉ 躊躇・・・(>_<)
自分の可能性を閉じ込めないで❕

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