LGBTの家族と友人をつなぐ会ブログ

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの家族や友人による会のブログです。

ドキュメンタリー映画【 i am アイアム】感想

2024年04月14日 | 雑記

2024/4/6  フェミニスト・アクティブドキュメンタリー・ビデオフェスタ 連連影展                               @hako gallery(代々木上原)

ビデオフェスタの中の1作品 【 i am 】ソナリ・グラ‐ティ監督 2011年 71分
インド出身のレズビアン映像作家が、かつて暮らしたデリーを再訪し、同性愛が犯罪だった時代、ゲイやレズビアンの子どもを持つ親との対話を通して「家族」の真の意味を紡ぎ出しながら、「カムアウト」する前に亡くなった母との対峙と和解への道を模索するドキュメンタリー映画。

セクシャルマイノリティーを描くドキュメンタリーを見るたびに、様々な当事者と家族のそれぞれの困難に胸が潰れます。
私自身は子どもから当事者であることを告げられたその場で、親として何が出来るか、どうやって応援していこうか即座に考えましたが、同性愛が犯罪だったインドのこの時代に子どもからカミングアウトされていたら、同じように受け入れられたか全く自信はありません。
生まれ育った時代、場所、法律、宗教、価値観、子どもへの期待や役割、世間体など、多くの障害によって子どものセクシャリティをなかなか受け入れられない家族が大多数なのが現実。社会の中で苦悩している当事者である子どもを、世界で一番愛している親こそ支えていけたら・・・。そのためにも、子どもを受け入れられずに葛藤している親御さんに、この映画のような当事者のリアルが届きますように。子どもに向き合うきっかけを持てたら、対話や学びによって理解を進めることにより当事者が救われることはもとより、親御さん自身の気持ちも穏やかになるのでは。作品の中で、受け入れている母親の一人が「神様は存在してはいけないものをお造りにならない」と語っていた柔らかな表情がとりわけ印象的でした。

インドの同性愛に関する法律の歴史にも思いを馳せることが出来ました。
この映画の締めくくりに、2009年、同性愛を非合法=刑法上の犯罪とする法律がデリー高等裁判所により違憲とされ多くの当事者達が喜びに涙するシーンがありましたが、2013年には最高裁にて有効と覆され、2018年に再度の違憲判決が出るまで長い闘いがあったと、映画をきっかけに調べたことから知りました。
世界で法的に同性婚が認められている国・地域は欧米を中心に38。アジアでは台湾とネパールに、この3月タイが加わりましたが、インドも日本も未だ認められていません。

上映会の後には日米同性カップル在留資格訴訟をテーマに交流会がありました。
同性婚の二人がいずれも外国人であれば定住が認められるのに、一方が日本人だと認められないのは不公正として最高裁へ訴訟を行っている原告のお二人と弁護団の方のお話を伺い大変勉強になるとともに、お二人の揺るぎない想いと活動の継続、周囲で支えていらっしゃる皆さんの温かさに感銘を受けました。
我が子も外国籍のパートナーと結婚が出来ない状況にあるため、今後の進め方についてアドバイスをいただくことが出来、大変ありがたかったです。

誰もがありのままで安心して暮らせる、幸せな将来を思い描ける日が一日も早く来ることを願ってやみません。

Y----------


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性欲と性愛

2020年10月23日 | 雑記

珍しくブログ連投です。

少しフラストレーションが溜まることがあってタイピングする指もなんだか軽快です。

良くも悪くも心に圧がかかっていると何かを書きたくなります。

 

しかしばんばん更新する、なんて言っていたのはどこのどいつでしょうか……

 

 

これはずっと考えていることなのですが、『性欲』と『性愛』って別のお話だと思うのです。

「ちょっと何言っているかわかんない(サンドイッチマン風)」

って言われそうですね。

 

そいや私、性欲はあっても性愛ってのを感じないな、というところから話は始まります。

 

そもそもこれを性愛と思っていいのかわかりませんが、例えばとてもグラマラスな人が歩いていたとします。

めっちゃスタイル抜群で思わず目が行ってしまいそうなそんな人です。

確かにそんな人がいたら目が行ってしまうでしょう。

ええ、それは認めますとも。

申し訳ないけれども。

でもかといってその人とどうこうなりたいかと聞かれれば答えはノーです。

なんか面倒くさくないですか?

肌を重ねるとかちょっとだるいかなって……

 

あと衛生的にどうなのかとか潔癖な所あるので気になっちゃいます。

知らない人が握ったおにぎり食べられない派の人間です。

知っている人でも食べられる人は数えるほどでしょう。

そんな私なので性的接触にわりと抵抗があります。

別にそんなのなくても一緒にいて楽しくて毎日がハッピーな人が現れないなかとか思っています。

だって一緒にいるからって必ずしも性的なことをしないといけないわけじゃないでしょう?

その人と一緒に居たいという気持ちと、その人といちゃこらしてそのあといい気持になりたいのという気持ちは別の感情だと思うのです。

感情というか欲……?

 

でもここで問題が!

なら性欲はないの?って聞かれたらぐぅの音も出ません。

そりゃ人間気持ちいいことは誰しも気持ちいいわけで、快楽だけを求めて生きていると言っても過言ではない私は当然美味しいものを食べたいしぐっすり12時間眠りたいし気持ちいいことだってしたいわけです。

大丈夫かな、こんな話題……。

ただ私の性的なことを暴露して私がダメージを受けるだけのような気がしなくもないです。

しかしこの問題を語るにあたっては最初に私のスタンスというものを明らかにしておく必要があるのです。

仕方がないのです。

どうか生暖かい目で続きを読んでいってください。

 

んでですよ。

ここまでくるとだいたい何が言いたいかわかってもらえるのではないかと思います。

ようは性的な快感って必ずしも自分とは違う誰かを伴わないといけないわけではないのではないか?

そういうことです。

むしろ他人と性的な行為をすることに忌避感すら感じるわけです。

じゃあおかずはどうするの?という質問に対しては言明を避けます。

これはさすがにここで話すことではないですしね。

逃げではありません。

踏み越えちゃいけない一線なのです。

誰が見るかもわらかないのに。

ここで私の性癖を暴露しようものならこのブログは閉鎖ですよ。

 

 

性的指向なんて言葉をよく聞きますが、それって一緒に居たいと思う人の性別とセックスしたい思う人の性別が一致していなくても別にいいんじゃないかな。

そもそも性的指向なんて一緒くたに言っているからよくないんです。

好きになるのに性別が関係あるのか、と言いたい。

とてもありふれたセリフですがこれはそんじょそこらのそういうセリフより一段階深い話をしています。(そうだったらいいな……くらいの気持ちですが

一緒にいて心地いい人がいます。

それは友達かもしれないし恋人かもしれない。

一緒にいる理由も、腐れ縁かもしれないしなにか仲間意識とかあるいはまったく別の絆からかもしれない。

そこに性的要素が絶対にあるのかというとそれはどうなのでしょう。

または性的要素が必要かどうか。

 

なくてもよくないですか?

 

ってことはですよ。

性的指向がマッチする人が必ずしもパートナーになるとは限らない!

パートナーってのはここではまあ一緒に人生歩む人とでもしておきます。

一生一緒にいるつもりの人とはやっぱり性的な行為って……する…………の?

なんか自信なくなってきました。

みんなやっぱりそういう感覚なんかなぁ……

みんなって誰?とか意地悪言わないでください。

 

 

とまあここまでが私のスタンスなのですが、本題はここからです。

性愛と書いたように、愛なわけです。

愛っていうと大げさに感じますが誰かと誰かが一緒にいればそこには何かしらの愛があるのだと私は思っています。

古代ギリシアの時代でもすでに愛というものは4つに大別されていますし。

愛にもいろいろあるのです。

親が子を思うのも愛ですし、友達を思う気持ちも愛です。

もちろん誰かとセックスしたいというのも愛の形なのでしょう。

宗教に特に造詣が深かったりなんてしないのですが、4つに大別された愛についてはなるほどと思っています。

 

家族愛

性愛

友愛

真の愛(無償の愛)

 

うち仏教徒なんですけどね。

信心なんてありませんし。

ただ性愛というものが他の愛と分けて考えられるのであれば、私のスタンスも理解していただけるのではないかと思います。

無償の愛ってのは私には生涯縁がなさそうですけどね……

 

そんなの知らねーよ、愛があったらセックスするんだよぉ!

と言われるともう何も言えませんが、誰かがこんなことを考えるきっかけにでもなればいいなと思います。


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