LGBTの家族と友人をつなぐ会ブログ

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの家族や友人による会のブログです。

性欲と性愛

2020年10月23日 | 雑記

珍しくブログ連投です。

少しフラストレーションが溜まることがあってタイピングする指もなんだか軽快です。

良くも悪くも心に圧がかかっていると何かを書きたくなります。

 

しかしばんばん更新する、なんて言っていたのはどこのどいつでしょうか……

 

 

これはずっと考えていることなのですが、『性欲』と『性愛』って別のお話だと思うのです。

「ちょっと何言っているかわかんない(サンドイッチマン風)」

って言われそうですね。

 

そいや私、性欲はあっても性愛ってのを感じないな、というところから話は始まります。

 

そもそもこれを性愛と思っていいのかわかりませんが、例えばとてもグラマラスな人が歩いていたとします。

めっちゃスタイル抜群で思わず目が行ってしまいそうなそんな人です。

確かにそんな人がいたら目が行ってしまうでしょう。

ええ、それは認めますとも。

申し訳ないけれども。

でもかといってその人とどうこうなりたいかと聞かれれば答えはノーです。

なんか面倒くさくないですか?

肌を重ねるとかちょっとだるいかなって……

 

あと衛生的にどうなのかとか潔癖な所あるので気になっちゃいます。

知らない人が握ったおにぎり食べられない派の人間です。

知っている人でも食べられる人は数えるほどでしょう。

そんな私なので性的接触にわりと抵抗があります。

別にそんなのなくても一緒にいて楽しくて毎日がハッピーな人が現れないなかとか思っています。

だって一緒にいるからって必ずしも性的なことをしないといけないわけじゃないでしょう?

その人と一緒に居たいという気持ちと、その人といちゃこらしてそのあといい気持になりたいのという気持ちは別の感情だと思うのです。

感情というか欲……?

 

でもここで問題が!

なら性欲はないの?って聞かれたらぐぅの音も出ません。

そりゃ人間気持ちいいことは誰しも気持ちいいわけで、快楽だけを求めて生きていると言っても過言ではない私は当然美味しいものを食べたいしぐっすり12時間眠りたいし気持ちいいことだってしたいわけです。

大丈夫かな、こんな話題……。

ただ私の性的なことを暴露して私がダメージを受けるだけのような気がしなくもないです。

しかしこの問題を語るにあたっては最初に私のスタンスというものを明らかにしておく必要があるのです。

仕方がないのです。

どうか生暖かい目で続きを読んでいってください。

 

んでですよ。

ここまでくるとだいたい何が言いたいかわかってもらえるのではないかと思います。

ようは性的な快感って必ずしも自分とは違う誰かを伴わないといけないわけではないのではないか?

そういうことです。

むしろ他人と性的な行為をすることに忌避感すら感じるわけです。

じゃあおかずはどうするの?という質問に対しては言明を避けます。

これはさすがにここで話すことではないですしね。

逃げではありません。

踏み越えちゃいけない一線なのです。

誰が見るかもわらかないのに。

ここで私の性癖を暴露しようものならこのブログは閉鎖ですよ。

 

 

性的指向なんて言葉をよく聞きますが、それって一緒に居たいと思う人の性別とセックスしたい思う人の性別が一致していなくても別にいいんじゃないかな。

そもそも性的指向なんて一緒くたに言っているからよくないんです。

好きになるのに性別が関係あるのか、と言いたい。

とてもありふれたセリフですがこれはそんじょそこらのそういうセリフより一段階深い話をしています。(そうだったらいいな……くらいの気持ちですが

一緒にいて心地いい人がいます。

それは友達かもしれないし恋人かもしれない。

一緒にいる理由も、腐れ縁かもしれないしなにか仲間意識とかあるいはまったく別の絆からかもしれない。

そこに性的要素が絶対にあるのかというとそれはどうなのでしょう。

または性的要素が必要かどうか。

 

なくてもよくないですか?

 

ってことはですよ。

性的指向がマッチする人が必ずしもパートナーになるとは限らない!

パートナーってのはここではまあ一緒に人生歩む人とでもしておきます。

一生一緒にいるつもりの人とはやっぱり性的な行為って……する…………の?

なんか自信なくなってきました。

みんなやっぱりそういう感覚なんかなぁ……

みんなって誰?とか意地悪言わないでください。

 

 

とまあここまでが私のスタンスなのですが、本題はここからです。

性愛と書いたように、愛なわけです。

愛っていうと大げさに感じますが誰かと誰かが一緒にいればそこには何かしらの愛があるのだと私は思っています。

古代ギリシアの時代でもすでに愛というものは4つに大別されていますし。

愛にもいろいろあるのです。

親が子を思うのも愛ですし、友達を思う気持ちも愛です。

もちろん誰かとセックスしたいというのも愛の形なのでしょう。

宗教に特に造詣が深かったりなんてしないのですが、4つに大別された愛についてはなるほどと思っています。

 

家族愛

性愛

友愛

真の愛(無償の愛)

 

うち仏教徒なんですけどね。

信心なんてありませんし。

ただ性愛というものが他の愛と分けて考えられるのであれば、私のスタンスも理解していただけるのではないかと思います。

無償の愛ってのは私には生涯縁がなさそうですけどね……

 

そんなの知らねーよ、愛があったらセックスするんだよぉ!

と言われるともう何も言えませんが、誰かがこんなことを考えるきっかけにでもなればいいなと思います。


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2020年10月17日 福岡ミーティング&交流会

2020年10月23日 | 講演会 つなぐ会 LGBT トランスジェンダー 当事者 アライ

2020年10月17日、NPO法人LGBTの家族と友人をつなぐ会福岡ミーティングと交流会を行いました。

 

午前のミーティングではとあるビデオを視聴し、その内容について各々が思ったことなどを話し合ったそうです。

私自身が参加できていないので詳細なことはわかりかねますがとても有意義な時間だったみたいです。

こういった場で個人の意見を発信していくという取り組みは常に行っていくべきだと思っています。

セクシャルマイノリティを取り巻く環境は刻一刻と変化をしており、その流れや認識をみなで確認し合うという行為は現代を生きる当事者にとって必ず有益なものとなりうると私は思っています。

 

午後からの交流会に参加した私ですがあまり目立ちたくないのでおとなしく座っておりました。

しかしタイミングが良かったのか悪かったのか私の存在が少し影響を及ぼすこともあり参加しておいてよかったと思う次第です。

影響を及ぼすなどと傲慢な物言いですが今回に限っては事実かと思われます。

詳しくは書けないので、私がトランスジェンダー当事者であるという事実をここに提示し、あとはみなさまのご想像にお任せします。

 

昨今の教育現場での取り組みについての話が活発に行われていたように思いました。

トイレのことや身体測定や健康診断なんかですね。

自分が中学生や高校生だった当時のことを思い出してわりと動揺してしまいました。

あれイヤですよね、健康診断の時に効率がいいからと最初から上半身裸にさせられるの。

別に誰が気にしているわけではないのですが自分が気にします。

さらに誰も何も周りは思っていないのに自分の心の中だけが忙しいのもなんかモヤっとした思い出です。

 

トイレはなんかもうあきらめていました。

どうしようもないですからね。

変に目立ったりするのもイヤでしたし。

なるべく学校ではしない、くらいでしょうか。

今はわりとそういうのなくなっているのかな。

学校に事情を話せば何かしらのアクションを起こしてもらえるみたいですが、高校は私立なんかだと対応が様々なようです。

入学時にしっかりとしたスタンスを示せるかどうかというのも大切なようです。

学校側も『慣れ』のようなものが必要みたいですし、自分が最初の一人になって人柱になるみたいなことは誰しもイヤでしょうが、そういうケースを作ることにも意味があるようです。

するとあとになってまた同じようなケースで入学してくる人間がいても学校側はその対応をしやすくなるのかな、と。

でもやっぱり私だったらイヤです。

学校との交渉でガリガリと精神を削られる青春というのももったいないですし。

さも青春が尊いものであるかのような物言いですが、大切なことはおそらく『若さ』でしょうか。

私の体内の時計はまだ寝台特急レベルのスピードですが、もうちょっと歳を重ねるとこれが新幹線くらいになるそうです。

しかし10代半ばのそれは恐らく各駅停車の鈍行、あるいは西鉄バスか何か。

体感時間が長いのでその中でトイレだの健康診断だので心を痛め続けるのも辛いとは思いませんか?

 

さてさてではこの問題の終着点について私なりの考えを述べさせていただこうかと思います。

なんのために学校側は性的少数者の声に耳を傾けその対応をしてくれているの?

面倒くさいけどあとでごねられてもことだしとりあえず言うことを聞いとけば不満は出ないだろう、と?

それとも本当に親身になって性的少数者、主にトランスジェンダーの日常を想像してくれている……?

それはその当事者とその周囲の人間にしか知ることができませんが、いずれにしてもその対応は当事者の『未来』をきちんと想定している必要があるのではないでしょうか。

その場しのぎで対応、それも結構です。

仮に私もそんなことが許されていたのならそれだけで満足していたかもしれません。

トイレは職員室の横のを使ってね。

身体測定や健康診断は別室でやろうね。

修学旅行の部屋はどうにか考えようね。(これに関しては実は私は中学の時はなんかしてもらいました、なお自身がトランスジェンダーであることは話していなかったのでかなり強引に。)

 

こうやって環境が整っていけば当事者が青春に割くリソースの多くを学生の本分とやらにつぎ込むことができるでしょう。

しかし実際はやっぱり自分の中のセクシャリティと葛藤しちゃうのではないかと。

そこのフォローってのは誰ができるわけでもなく、結局は自身の問題として自分の中で消化しないといけないわけです。

でもやはり誰かの助けというのも欲しい。

我がままではあるけれども自分一人の問題を自分一人では解決できない。

今この場では多くの問題が解決されている、しかしここを卒業した先でまた何かに何処かに所属することになる。

そんな時に今度は誰も助けてくれない。

だから厳しいようだけれどこれは当事者自身がちゃんと知っている必要がある。

そして周りの人間はそれを当事者にちゃんと意識させることが必要なのではないかと思います。

学校で学ぶことってのは勉強だけだと私は思っていましたし、実際大学に入学するまではそれでなんの問題もなかったのです。

でも違いました。

とりあえず大学に、なんて考えはよくない。

早く。

一秒でも早く抜け出したい気持ちで高校を卒業したけど、結局何も変わらない。

なぜならしっかりとしたビジョンを描けていなかったから。

想像力に乏しかったから。

周りは何も教えてなんてくれなかった、……なんて言うとちょっといやらしいですね。

 

まあ要はトイレとかその他セクシャリティが絡む出来事で気を揉む必要がない分、その他のことをしっかりと考えなさいってスタンスでいないとダメなんだと思います。

当事者も周囲の人間も、です。

中学あるいは高校を卒業したとして、勝手に状況が好転するなんてことはあり得ないのですから。

むしろ自分で考えないといけない分きついです。

学生の本分は確かに勉学に励むことにあるのだと思います。

しかしその学びをどこに向けるのか、これをしっかりと考えさせる場でもあるべきなのではないかと。

特にトランスジェンダー当事者なんかは自身はこうありたいと望む姿はあっても、ではそこからどうするのかということまではなかなか想像できないのではないでしょうか。

自我が芽生えた瞬間になりたい姿は想像できてもなりたいものは見当もつかない、そんな感じです。

性自認になんの疑問も持たない人間。

性自認にしか疑問を持てない人間。

この間にはスタート地点からしてかなりの距離差があるように感じます。

 

結局は性的少数者であろうとなかろうと将来の明確なビジョンってのは描けているに越したことはないのです。

ただ、そのビジョンを描くためのリソースがトイレやらなんやらに割かれてしまうのは避けるべき。

そのための学校側の措置。

この認識を両者の間できちんと持っておく。

するとその他無数に出てくるであろうセクシャリティ絡みの出来事への対応にも、自ずと答えが出てくるのではないでしょうか。

 

とりあえずやってみるのも悪くはありません。

大歓迎です。

でもやる意味や意義を考えることも必要なのではないかと思います。

 

 

そんなことをぐるぐると考えつつ皆さんの話に耳を傾けておりましたとさ。

当時のことを思いだすだけでまだ心臓がバクバクするのに自分で驚きました。

まだまだ功夫が足りないようです。


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10月東京ミーテイングの報告

2020年10月14日 | Weblog

10月4日(日)、コロナ禍による厳しい情勢の中での東京つなぐ会、今月も何とか開催でき、参加者12名。久しぶりに会うお顔も多く、旧交を親しむ感の交流会となりました。

親もLGBTQ当事者も背景が様々な参加者によるフリートーク。

セクシュアルマイノリティの子どもを持つ親、とりわけ世間体に囚われがちな世代の親には、セクシュアリティで悩む子どもの思いはなかなか推し量ることができません。男女二元論社会で育ち、セクシュアリティについての教育も受けていない為、当然のことでしょう。ですからつなぐ会のような交流会で語られる他者の言葉は大切です。当事者ご本人が語られる、「社会との軋轢と葛藤という苦闘の体験と思い」、他の親御さんが語る「カミングアウト受容のプロセス」について聴くことで、自身の親子関係を振り返り、更に親自身直接には尋ねられない子どもの心情をうかがい知ることができたり・・・ 

親子では感情的になってなかなか冷静に語り合えない、そのちぐはぐな思いを修正できるのがこの場でしょう。

学童期の子どもを抱える親の苦悩には、先輩の親達のアドバイスがあります。今回の話題の中心はトイレ問題でしたが、更衣室や水泳授業、修学旅行等子どもたちを取り巻く問題は未だ山積み。それぞれの親子が個別に学校と交渉し、課題をクリアしていく状況は未だ続いています。LGBTQの子どもたちが現れて初めて「合理的配慮」に取り組むのではなく、彼らがいつ入学してきても困らないような教育環境の整備が急務なのに、と毎回嘆息。親も教師も困惑し対応に苦慮しますが、肝心なのは当事者の子どもの気持ちですね。セクシュアリティのカテゴリーも対応のマニュアルもあまり意味を持ちません。人の心は杓子定規に決めつけられないものですから。安心できる環境の中で、落ち着いた態度で子どもの胸の内を聞き出せたら良いのですが・・・。言葉にできない子どもの気持ちまで汲む周りの大人達の度量も必要でしょう。

他にも、孤独を抱え悩む若者には、コミュニティ以外の仲間が支えになるケースを教えてくれる参加者がいたりと、縦横無尽に繰り広げられる対話が暖かかったです。

 

始めての参加者もお馴染みさんも、会場に入ってきた時とは打って変わって和やかな表情で帰路につく。ここに仲間がいる、心の内を明かして軽くなった身体で明日に向かっていく。

今回もそんな交流会となりました。                    M

 

 


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