もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
先日、CS放送で「津山事件」を題材にした映画「丑三つの村」を観た。
津山事件とは小説や映画の「八つ墓村」の題材にもなったあの大量殺人事件である。
しかし「八つ墓村」はあくまで横溝正史の創作である。山深い村が負った業や言い伝え、忌まわしい血の蘇りと復讐などを描いたのだが、その冒頭に「津山事件」の凄惨な光景を横溝は借用した。だから殺人の動機は現実の事件とはまったく違うわけである。
一方、映画「丑三つ村」の方は事実に基づいて作られていて、大量殺人に至る動機が明らかになっていく。
山間の村に若い男が祖母と二人で暮らしていた。
男は肺を病んでいて、徴兵検査に通らなかった。
男の父も母も祖父も肺病で亡くなっていた。そのことで親類からも酷い仕打ちを受けた。
噂は村中に広まり、男は除け者笑い者にされた。
兵隊になれないこと。胸を患っていること。当時においてこれは若い男として落第であった。
今まで夜這いに通っていた家の女たちもこの男を拒絶するようになった。
男は次第に追い詰められ、心も病み、猟銃などを買い集め、山で練習を始めた。
1938年5月21日午前2時前後、男はまず自分の部屋の隣で寝ていた祖母を鉈で殺した。
その後、朧月夜の外に出ると近隣の顔見知りの家を次々に襲った。
1時間半ほどの内に28人を殺害し、重軽傷者は5人、内2人は後に死亡、女子供も容赦せず、老婆であっても凶行に及んだ。
犯行が終わると山の上まで歩き自殺をした。その時に山で書かれた遺書の一行がこの文章の冒頭の言葉である。
私の感想はというと、
社会は不平等であり、そして、
私も社会に対してけっして公平ではない、
というところでしょうか。
おつかれさまでした。
E V O L U C I O
立石はタツイシではなくてタテイシだった。
ずっとタツイシと読んでいた。
タツイシバーガーとかね。
あ、立石バーガーだっ、と声が出た。
ちなみに中野坂上にも坂上バーガーがあるが、
それも食べたことはない。食べる勇気が出ない。
ローカルな話でした。
死のうと思い見知らぬ駅に降り、しばらく歩き、踏切に立つが決心はつかず、
ふと目についた風俗店に入る。
男についた若いソープ嬢ヒナは自分は頭も器量も悪く
何も出来ないからここで働いていると思い込んでいる。
すると仕事が終わったヒナが店の常連らしく偶然そこに顔を出す。
相席しかなく、しかしヒナは嬉しそうに男の向かいに座る。
店の営業も終わり、男はヒナを近所のアパートへ送る。
部屋に上がるつもりはなかったが、酔ったヒナに引きずり込まれてしまう。
どうせ行くところがなかった男はヒナの言葉通りに居候することになる。
ヒナは自分の心の隙間を埋める存在として、また母性の発露から
それは今まで何度も繰り返した同じ失敗に懲りていない証でもあった。
一方ヒナの安アパートの隣の部屋にも
男と大倉くんはそれぞれの女が出勤の間に洗濯物を干している時、
その湯舟で大倉くんは、ボクはこのままでは終わらない、
と熱く語るのだった。
ここまでで起承転結の起。
以下感想。
導入がありきたりで、展開もとくに目新しさはないが、
役者と演出にリアリティがあり、
同じような、
彼女と義弟を代表とする周囲との関わりの中で自己を再生していく
物語の深さも広がりも、そして到達点も「皆月」が上である気がした。
とはいえ、「皆月」も映画化されていて、
映画の方はまるでダメ。
なんだこれ?レベルの出来だった記憶がある。
何が悪かったか今では憶えていないが、
私は小説を先に読んだからかもしれない。
映画の「皆月」と今回の「どうしようもない」を比べたら、
私の中では「どうしようもない」の勝ち。
「どうしようもない」の冒頭で、
行き詰まった男が死に場所として選んだ「場末の駅」として
描かれているのが京成立石駅で、
それじゃあ立石の人に悪いだろうと思ったが、
立石出身のまだ生きているらしいつげ義春は何を思うだろうか。
おわり。
E V O L U C I O
CSで「シッピング・ニュース」という映画を放映していて、
映像の空気感も良く、
冴えない男が妻に逃げられ破産して、娘と叔母と一緒に
島の小さな新聞社に職を得て記事を書き始めるが、うまくはいかない。
しかしそのうち文章の切り口に個性が出てきて周囲に認められ始める。
ところが島のあちこちで取材をするうちに、
厳寒の島。
漁師ばかりの島民たち。
生きるだけでも厳しい環境。
辺境の閉鎖的かつ排他的な村社会と歴史。
人々の心に残る忌まわしい記憶や言い伝え。
がしかし物語全体はけっして闇に染まることなく陽を迎える。
私の好きな女優ケイト・ブランシェットがまたとんでもない悪妻を演じ、
まだ少し若いケビン・スペイシーは適役だった。
ただし、あまり面白くはなかった。
消化不良。
原作がピューリッツアー賞受賞作らしいが、
この作品の最大の良いところを堪能するには、
たぶん英語という言語を十分に理解した上で、
原作を英語で読まないと、まったく手が届かないことだと思った。
〈開業医の妻〉は夫が隠していた手紙を見つけ真実を知ってしまう。
錯乱し帰宅した小学一年生の陽子〈犯人の娘〉の首に手をかけてしまう。
しかし殺すまでには至らず、
それからの日々は陽子にとってつらい毎日となった。
父〈開業医の男〉はもともと陽子を可愛がらなかったし、
息子よりも陽子をより可愛がってきたような
あの忌まわしい日から急に冷たくなってしまい、
先生に叱られた陽子は新聞配達をすることになるが、
その店の夫婦の会話から自分が継子であることを知ってしまう。
物心がついてからずっと世界は暖かかったが、
急に冷たく色のない世界になってしまった。
しかしそんな中で
ところが〈開業医の息子〉はある日の父母の言い争いから陽子が継子で、
幼い頃から好きで誰よりも大事に思ってきた妹の陽子が
自分と血の繋がりがないと知り、思いは激しい愛に変わった。
しかし世間体をいえば戸籍上兄妹であり、結婚はできない。
結婚を望めばそれは陽子の出生がいずれ明らかになってしまう。
愛するがゆえの苦悩に苛まれる。
悩んだすえに〈北原〉という自分の親友を陽子に紹介する。
〈北原〉と陽子は初めて会った時から愛を感じ合う。
文通をするが、母〈開業医の妻〉に度々邪魔をされる。
何度もの危機を乗り越えて二人の心は固く結ばれようとするが、
陽子は自分が継子であることは知っていたが、
負けず曲がらず明るく乗り越えて生きてゆくことを胸に秘めていたが、
とうとう心が凍ってしまった。
驚愕の結末は本編もしくは原作にてどうぞ。おわり。
事件後ようやくおちついた〈開業医の妻〉は女の子が欲しいと言い出す。
妻が〈眼科医〉と密会をしていて事件の原因を作ったことを知っていた。
〈開業医の男〉は妻に復讐するつもりで友人〈乳児院の院長〉に頼み込み、
まだ生後間もない〈犯人の娘〉を引き取ってしまう。
──現在の感覚であればそんな簡単に子供をやり取りすることは考えられないが、まだ戦後の混乱と貧しさが残り、孤児もたくさんいた。そして両方が医者であったことも手続き上、有利であっただろう。ここで重要なのが〈開業医の男〉がそんな無茶なことを頼んだ理由と言い訳である。それは聖書にある「汝の敵を愛せよ」という言葉で、これは〈開業医の男〉が学生時代から持つ自分への命題であった。そのことを友人〈乳児院の院長〉もよく知っていた。ついにその試練を自分に課す時が来た、というのである。しかし実際は妻への復讐であった。───
引き取る前に布を腹に巻いたり、引き取り後の数か月は家にも帰らなかった。
〈開業医の男〉と〈乳児院の院長〉だけが真実を知っている中で
苦悩を告白する手紙を偶然に見つけ読んでしまい、ついに真実を知ってしまった。
〈犯人の娘〉陽子はまだ小学一年生であった。
〈開業医の妻〉は仏壇の死んだ〈ルリ子〉に泣いて詫びた。
帰宅した〈犯人の娘〉陽子の首に手をかけてしまう。
つづく。
───1946年(終戦の翌年)
美しい〈開業医の妻〉は夫の留守中に若い〈眼科医〉に迫られる。
まんざらでもなかった〈開業医の妻〉は
〈犯人の男〉は妻が子供を産んですぐに死んでしまったばかりであった。
もともと貧しく妻も死に世話する方法もわからず、赤ん坊は泣き止まず、
誰も遊んでくれず淋しかった〈ルリ子〉は男についていった。
一緒に人気のない川まで来ると〈ルリ子〉が泣き出した。
慌てた男は〈ルリ子〉の首を押さえているうちに絞め殺してしまう。
夜になって大騒ぎになり〈ルリ子〉は雪の中に死体で見つかる。
男は捕まり獄中で首を吊る。
遺された〈犯人の娘〉は乳児院(産院と孤児院の複合施設)に引き取られる。
だから妻は乳児院から女の子を引き取りたいと言うのだった。
つづく。
見ない理由は、そんなことしている場合じゃないから。
それに「俺たちの旅」はある意味で毒(もしくは薬)になる場合がある。
これはカフェインのように効く人と効かない人があって、
ある人にとって「俺たちの旅」はひと時の娯楽であっても、
またある人にとっては、
うっかりと会社を辞めてしまうきっかけになるかもしれない。
現実逃避の丁度いいオカズにはなり得るから、だから見ないと決めた。
そう決めた自分に満足しながらまだ未練がましくYoutubeを探っていたら、
1966年のドラマ「氷点」を見つけてしまった。
白黒である。新珠三千代、内藤洋子である。
全13回。13時間。さてどうするか。
その時間をどう捻出するか。
いやどうするもこうするもないのだ。
実はもう見てしまったのだから。
コンプリート。
13時間ぶっ通しで。
昼過ぎから朝方まで。
だから怖いと言ったのだ。自分を。
今日もいい天気。
明日もいい天気。
おつかれさまでした。
E V O L U C I O
二日ほど前に、
Youtubeで「俺たちの旅」を見るか見ないかを書いていたが、
以下はそのつづき。
なぜ見ないかというと、
大人へと変わりつつある青春のモラトリアムにおいて、
すべった転んだをする物語を私が今見てどうするの?と思ったからだ。
だいたいやる気を出して見始めたら
きっと全45話?コンプリートしてしまうであろう自分の怖さもある。
「今が楽しければいいじゃないか」と勘違いをするほど若くはないが、
物語を自分への言い訳にする狡猾さは十分に持っていることが怖いのだ。
だから私はもう見ないと決めた。
これを全部見るほど私には人生の余裕がありはしないのだ。
この決断に私は満足した。
私も大人の判断が出来るじゃないか。
楽しさの中にも必然のスパイスのような衝突や焦りがあり、そして挫折、
責任や義務の出現、組織に属することの苦労と安定。
「社会的」になるほど遠ざかってゆくような「自由というもの」
そこでまだもがく、抵抗する、しかし人は「もう大人になれよ」と笑う。
その笑う顔を見ればあきらめの色と確かに大人の匂いがする。
旅人を辞め、やがて人の善意や祝福に囲まれて、
ところがある日ふと見た鏡に映るのはあきらめ色の自分の顔。
そんな時に思い出す。
「自由」とはなんだったか。
手にした幸せと引きかえに「自由」を手放したのではないか。
いや俺が手放したのではなく「自由」が俺を手放したのではないか。
どこにあるのか。
自由とは、きっと夢の坂道の果てにあるのだ。
その坂道は、
たどり着けない山の中へ、続いているものなのです♪ (小椋佳)
すみませんね。すっかり言葉の遊びでした。
まあそんなことを今さら私が追体験しても気持ち悪いだけであるしね。
などと考えながらガチャガチャしていたら、
E V O L U C I O
しかし70年代当時に放映された時にはほとんど見たと思う。
今と違って他に見るものなかったからね。
八千草薫が初回から出てきて、あのおっとり感に癒されるのだが、
1975年?に見た時に私はこのオメダのお母さんが八千草薫だと認識していなかった。
というより当時私は八千草薫を知らなかった、というのが正解だろう。
それからグズろくの婚約者のノリコサン、これがまたかわいい。
一生懸命に演技をしている感じがとても好ましく愛らしく、
これは今見るべきじゃないな、ということ。
極論で書けば「今が楽しければいいじゃないか」
というような勘違いを少なからず感じさせるドラマを私は今見てはいけない。
もちろんドラマの主題がそんなに単純なことではなく、
70年代放映当時の日本がバブルに向かって離陸しようとしている姿および
庶民までもが浮つき始めている様子に対してのアンチテーゼで
しかも今でもまあまあ面白い。
出演者も文句をつけようのない顔ぶれである。
それにロケーションのほとんどが私の長年の生活エリアであり、
70年代の懐かしい風景を再確認することは大変に興味深いことでもある。
しかしこれ以上は見ないと決めた。
つづく。
E V O L U C I O
原題は「Meet Joe Black」だったかな。ブラッド・ピット主演である。
若い時のブラッド・ピットを私はあまり好きではないのだが、ヒロイン役のクレア・フォーラニを観たかったのと、だいぶ以前に一度観た記憶があるのに話をほとんど思い出せなかったから、それも確かめたかった。
前回に観たのは10年くらい前か。今回観てやはり何も憶えていなかった。
主役が死神の話だったことも忘れていて、ほんの冒頭の事故の場面とか、ピーナッツバターのくだり、それくらいが頭に残っているだけだった。
メディア系の大会社を経営しているがそろそろ老いを感じ始めた男(アンソニーホプキンス)がある独りの夜、死神の声を聞く。
翌朝、その老年の男が自分の娘に「ときめくような恋を知らずに過ごす人生は意味がないぞ」というような言葉を伝えるがそれを死神も聞いていて、死神は男の寿命が終わり次第ただ単に仕事上のスケジュールとして男を連れていこうと予定していたが、この言葉によって人間が短い命の中で経験することや感じることに興味が湧き、若い男の身体を借りてこの富豪の一家の中に現れてしまう。
しかし富豪はまさか死神が人間の経験をするために生身の姿で現れたとは知らなかった。
正体不明のまま富豪の大邸宅にしばし住むことになった若い男の姿(ブラッド・ピット)の死神は人間としての日常にいくつかの面白い発見をしながら富豪の言葉による人生の深みというものを探す。
しかし富豪の次女(クレア・フォーラニ)の婚約者だけはもともと野心があり、この降って湧いたような、しかも常に富豪のそばにいて何か重要な決定権さえ持っているような若者が気に食わなかった。本来なら自分がその役であったはずの席に突如涼しい顔で座っている若者に敵意を隠すことなく抱き始めた。
ところが次女はその降って湧いた若者の不思議な魅力にすっかり心を奪われてしまい、富豪の言葉である「ときめき」を今まで婚約者には感じたことがなかったのに、実は死神である若者にはまるで稲妻に撃たれたがごとくそれを感じ恋に落ちてしまうのだった。
一方、富豪の会社はひとつの大きな岐路に差し掛かっていた。他社と合併をせずには生き残れないかもしれないという経営判断に迫られていたのだ。
顔をつぶされたもののしかし野心のある婚約者は能力の高い男でもあり、取締役会をまとめ上げ、緊急動議を発動させ、自分の父親になるはずであった富豪を社長から降ろしてしまう。
そんな緊張感のある日々の中、死神と次女との距離が近づき、互いが思いを深くしていくのだった。
そしてとうとう以前から計画されていた富豪の誕生日の大パーティーの日が近づく。しかしそれは同時に富豪の寿命の終わりを意味し、死神は富豪にパーティが終わったら共に旅立つことを告げる。
会社は婚約者の手に渡ってしまうのか。次女は冥界に連れてゆかれてしまうのか。続きは本編にて。ただしゴールデンラズベリー賞「最低リメイク部門」受賞作品です。
E V O L U C I O
昨日のつづきで、
映画「マージンコール」でも、ある投資銀行が翌日に破綻することを若い数学者の社員が夜遅くに突き止めてから話が動き出す。
バーで飲んでいる上司に報告をし、そのまた上司が帰る途中でオフィスに引き返し、その後、上司の上司の上司くらいのまだ若いパリッとした奴が現れて、そして最後に一番偉いオーナーがヘリコプターで降りてくる。
オーナーの頭には自社もしくは自分の保身しかなく、市場の混乱などは二の次で、出した結論は、まだ誰も知らないうちに何が何でも自社保有の紙屑(サブプライムローン)を全部売ってしまえ、ということだった。信用がなくなることも今後のことも考えるな。相手は誰でもいい。自分の母親にでも売れ! と檄を飛ばし、数十人のディーラーにボーナスをチラつかせ売り飛ばすことを迫る。しかしそれが終わり次第、業界での信用を失った全員が首になる予定。
厳しい世界。今日もおつかれさまでした。
E V O L U C I O
二三日前、CSで「日輪の遺産」という映画を放映していて、見る気はなかったのに八千草薫が出てきたからそのままにしていたら最後まで観てしまった。
まさかユースケ・サンタマリアに涙腺が切れそうになるとは思わなかった。
まあどうしたって泣かせにくる作品だから仕方がない。
本日もおつかれさまでした。evolucio
20210303
ついさっきまでCS放送で「マグノリア」という映画を観ていた。
しかしもう眠くて眠くて映画どころではなかったのだが、何か特別な予感を覚え、がんばって最後まで観た。
トム・クルーズが主演ではないが出演する。他にジュリアン・ムーアやフィリップ・シーモア・ホフマンなどが出てくる。
10人を超える登場人物にそれぞれ焦点を当てながら話は進み、最初は何がテーマなのかわからなかったが、だんだんと心の傷のようなことについて描かれていることはわかってきた。
トム・クルーズの演技のいいところで私は5分ほど寝落ちしてしまったのだが、ちょうど同じ頃に別の場所で、ある非番の警官がデートを彼女に中断されてしまい呆然と家に帰る途中、知っている顔が暗闇で何かをしているのを発見し、やれやれと思いながらもUターンをするのだが、その瞬間、目が覚めて再び観ていた私もまったく予期しなかったことが起きる。起きる。起きる。
予想も予期も予測も推測もできない。どんなに考えてもあの展開は読めない。
ポカーンと私は観ながら、あれは臭いだろうな、と考えていた。
シーモアがまだ若い。
おつかれさまでした。
E V O L U C I O
20210112
時系列を箇条書きにしますが、映画を観た人の確認用に書いているので、観ていない人にはわかり難いでしょう。
昭和16年12月(1941) 戦争始まり
昭和17年夏(1942) 親子、家(石川県)を捨て流浪の旅に出る。父36才くらい。子は5才。
2年間の親子流浪。
昭和19年夏(1944) 親子、三木さんに保護される。
親子の別れ。
父は療養所へ。
子は三木さんに引き取られるがすぐに家出する。
昭和19年暮(1944) 家出をした子、大阪の自転車屋の住み込み店員になる。7才。
昭和20年3月(1945) 大阪大空襲で店が焼け、店員の子だけ助かる。8才。
昭和20年8月(1945) 戦争終わり
昭和23年 三木さん退職、岡山に帰り雑貨屋を始める。
昭和46年6月(1971) 東京都大田区蒲田にて事件起こる。
以上、たぶんこれで合っていると思います。あくまでも1974年映画版での設定です。
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