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三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

年間第28主日のミサ

2012年10月16日 | ミサ聖祭
カトリック府中教会の聖家族像
(住所:東京都府中市府中町1-40-11)

東日本大震災の復興予算が、被災地の再建と全く無関係な事業に使われていたという。まさしく、役人どもによる血税の飽食だ。ところが、つい最近まで「がんばろう!ニッポン」と念仏のように唱えていた多くの人々は、今や「中韓を許すな」と激昂し、極右の石原慎太郎や安倍晋三らに快哉を叫んでいる。そのくせ、政・官・財界の凄まじい強欲と放縦に対しては、滑稽なほど寛容なのだ。なぜなら、テレビが中国の反日デモのように大きく取り上げないから。

10月14日(日)、府中教会で年間第28主日のミサに与った。聖堂に入ると、受付に「信仰年」開始ミサの式次第があった。先週の11日、即ち「信仰年」の初日に、府中教会では記念ミサが行われたようだ。私も(未信者のくせに)教皇ベネディクト十六世の自発教令『信仰の門』を読んでいる。それによると、信仰内容を体系的に知るには、『カテキズム』が「まことの道具」になるという。恥ずかしながら、私はその要約版さえも読んでいないことを、ここに告白します。

午前8時、ミサ開祭。福音朗読は、イエスが金持ちの男を諭された場面(マルコ10・17-30)。主任司祭のビッフィ・マウリツィオ神父は、「持っているものの無力さを感じる時が来ます。だから、財産や権力よりも、いちばんに神様を置くこと。何もかも捨て去ったとしても、永遠の命という報いがあるのです」と話された。小泉政権後、強欲拝金主義が「国是」となったニッポン。天に富を積むことを忘れ、人々の心も虫に食われ、さび付いてしまったのだろうか。


<カトリック府中教会聖堂>

◆この日のミサ中の主な歌:
ミサ曲4(典礼聖歌215-217。栄光の賛歌は読誦)、入祭:典礼聖歌163「よろこびに」、奉納:典礼聖歌120「主はわれらのささえ」、拝領:典礼聖歌177「わたしの心は神のうちに喜ぶ」、閉祭:典礼聖歌389「キリストのように父を仰ぎ」。

◆主な参考文献など:
・「自発教令 信仰の門」 教皇ベネディクト十六世著(カトリック中央協議会・2012年)

<付記>
ビッフィ・マウリツィオ神父は、ミサ中に「信仰年」に関する短い講話もされた。「信仰年には2つの大きな目的があります。まず、私たちの信仰を再確認し、深めること。それによって、すべての人に福音を宣べ伝えること。つまり、信仰と福音宣教の2本立てになっています」。
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カトリック川口教会

2012年10月12日 | 埼玉のカトリック教会
カトリック川口教会(教会堂名:聖ペトロ)
創立:1953年 ◇ 住所:埼玉県川口市本町2-4-15

東京の赤羽教会を訪ねたあと、JR京浜東北線に乗車。荒川の鉄橋を渡ると、そこは埼玉である。そして川口と言えば、吉永小百合が主演した映画「キューポラのある街」(1962年・日活)の舞台だ。キューポラとは鉄の溶解炉のこと。川口は鋳物の街として栄えたが、今はキューポラの姿も消え、工場跡地には高層マンションが建っている。映画の中で描かれた高度成長期の陰のような雰囲気は過去のものとなり、川口駅周辺は近未来都市に変貌した(?)。

川口教会の沿革をおさらい。「川口では1952年まで、現在の文化放送送信所にあった聖パウロ女子修道院の指導司祭によって伝道活動が進められ、市内の南幼稚園や済生会病院でミサと集会が行われていた。1953年、パリ外国宣教会が、市の有力者の協力を得て、土地を購入。(中略)15人程の信徒で発足した川口教会も、17年目にして信徒数が増加し、1969年、当時としては斬新なデザインの新聖堂の落成式を行った」(「北関東のカトリック」より)。

川口教会に着いた。ロザリオを手にした聖母子像がお出迎え。さすがに、これは鋳物ではないようだ。誰もいない聖堂で、独り静かに念祷を捧げる。隣りは小学校なので、校庭から子どもたちの声が聞こえてきた。「川口は、鋳物の町として発展した土地らしく、『勤労者の教会』といったものが、この教会のムードをなしていた」(前同)という。かつては多くの鋳物工が祈っていたのだろう。さて、私は再び川口駅へ。次は浦和教会(さいたま教区司教座聖堂)を訪ねよう。


現聖堂献堂:1969年


カトリック川口教会の聖母子像

◆主な参考文献など:
・「北関東のカトリック」 カトリック浦和教区史誌編集委員会編(カトリック浦和教区事務所・1990年)

<付記>
今回より「埼玉のカトリック教会巡り・<JR京浜東北沿線編>」を不定期連載いたします。川口教会から、浦和教会(さいたま教区司教座聖堂)、北浦和教会を経て、大宮教会までを訪ねます。
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年間第27主日のミサ

2012年10月10日 | ミサ聖祭
年間第27主日を迎えたカトリック立川教会
(住所:東京都立川市錦町2-8-10)

「大日本帝国の正義」を信奉する人々が、執拗に中国への憎悪を煽っている。だが、米国はニッポンの領土的主張に与せず、「中立」を保っている。欧米のメディアは尖閣問題で露わになった「日本の右傾化」に懸念を示した。「無責任一代男」の安倍晋三を蘇らせたのは、「排外的国粋主義に沸く世論」だ。「中韓を許すな」と憤る人々は、大増税や原発再稼働は「あっさりと」容認した。なぜなら、テレビが中国の反日デモのように大きく取り上げないから。

10月6日(土)、立川教会で年間第27主日のミサに与った。前晩ミサは昨秋の年間第28主日以来である。この日は主任司祭のチェレスティーノ・カヴァニャ神父が不在で、代わりにミラノ外国宣教会日本管区長のフェルッチョ・ブランビッラスカ神父が司式された。今年の四旬節、私は八王子教会の黙想会でフェルッチョ神父の講話を聞き、その示唆に富む内容に大きな感銘を受けた。その後、多摩教会での年間第14主日に続き、今回で3度目のミサ説教となる。

午後5時、ミサ開祭。福音朗読は、イエスが子供たちを祝福された場面(マルコ10・2-16)。フェルッチョ神父は、「今日の福音の中で、イエス様が示された愛とは、相手に対する温かい気持ちです。愛は人間が生きていく上で必要なもの。愛とは人を赦すことです。私たちキリスト者には愛を示す役割があります」と話された。大震災後、ニッポンは苦しみの分かち合いを忘れ、血眼になって憎悪の対象を探し求めているようだ。「政治主導」とメディアの「扇動」によって。


<カトリック立川教会聖堂>

◆この日のミサ中の主な歌:
入祭:典礼聖歌48「神の名は」、閉祭:典礼聖歌387「神はキリストのうちに」。 賛歌などは読誦。
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チマッティ神父の「命日」ミサ

2012年10月08日 | ミサ聖祭
尊者ヴィンチェンツォ・チマッティ神父
(Venerabile Vincenzo Cimatti:1879-1965)

10月6日(土)、調布サレジオ神学院のチマッティ記念聖堂で、チマッティ神父の取り次ぎを願うミサに与った。1926年、サレジオ会の宣教師として来日したチマッティ神父は、日本の青少年や貧しい人々のために教育・福祉事業を興し、サレジオ会の創立者ドン・ボスコの理想を実践。豊かな楽才にも恵まれ、名歌「アヴェ・マリア(作品番号191)」を含む900曲以上の作品を残した。毎月6日の「月命日」には、その遺徳を偲ぶ特別なミサが捧げられている。

午前10時30分、ミサ開祭。私は「月命日」のミサに与ったことはあるが、今回は年に一度の「命日」ミサだった。1965年10月6日、今から47年前のこの日にチマッティ神父は帰天された。当時、私はこの世に生を受けておらず、チマッティ神父と時代をともにすることはなかった。そんなことを考えているうちに、入祭の歌「刈り入れは」が始まった。ミサ曲を始め、主な歌はチマッティ神父の作曲である。司式はチマッティ資料館館長のガエタノ・コンプリ神父。

コンプリ神父は、「第2ヴァチカン公会議の開催から50年が経ち、間もなく信仰年が始まります。教会の使命は福音宣教ですが、そのためには信仰を知ること、公会議の趣旨を学ぶことが必要です。チマッティ神父は会期中に帰天しましたが、最後まで公会議の理解に努めていたのです」と話された。ミサ後、コンプリ神父と会衆は野外のルルドに移動し、ロザリオ一連を捧げた。この聖母像にはチマッティ神父の特別な思いが込められているという(注)


ミサ当日、調布サレジオ神学院のルルドにて


チマッティ記念聖堂、入口前の聖ドメニコ・サヴィオ像

(注):コンプリ神父は説教の中で、チマッティ神父が調布の神学院で綴った日誌を紹介された。それによると、この御像は1962年10月11日に祝別されている。その日は神の母聖マリアの祭日で(現在は1月1日)、第2ヴァチカン公会議の開会式が行なわれた。

◆この日のミサ中の主な歌:
チマッティ神父のミサ曲(1940年作の日本語ミサ曲)、入祭:「刈り入れは」、閉祭:「アヴェ・マリア」(以上、チマッティ神父作曲)。福音朗読は、イエスが派遣された72人が帰還する場面(ルカ10・17-24)。
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カトリック山手教会

2012年10月04日 | 神奈川のカトリック教会
カトリック山手教会(教会堂名:イエスのみ心)
創立:1862年 ◇ 住所:神奈川県横浜市中区山手44

JR根岸線の石川町駅で下車。小高い丘の上を目指して、急勾配の坂道を登る。横浜教区は坂の上の教会が多く、体力不足の私にはキツい。息切れをもよおしながら、ようやく尾根伝いの道路にたどり着いた。周辺はカトリック系の横浜雙葉、プロテスタント系のフェリス女学院など、学校施設が多い。間もなく、天を衝くような尖塔を戴く山手教会が見えてきた。ここは横浜教区の司教座聖堂で、150年前に日本再宣教の拠点となった歴史を継承している。

幕末の横浜開港によって、山下町の外国人居留地に天主堂が建てられた。これは鎖国が解かれてから最初の教会である。ここを拠点として、パリ外国宣教会が日本再宣教の使命を担った(注)。1906年、天主堂は山手へ移転し、1933年にチェコ出身のヤン・ヨセフ・スワガー(1885-1969年)設計による現在の聖堂を献堂(市認定歴史的建造物)。三廊式の美しい聖堂の左脇祭壇には、横浜天主堂時代の初代司祭を務めたジラール神父の遺骨が安置されている。

聖堂に接する庭園内に聖母像が佇んでいた。これは横浜天主堂時代の遺物で、1868年にフランスから贈られたもの。当初は天主堂の鐘楼に造られた壁龕(へきがん)の中に、ド・ロ神父(ド・ロさまそうめんなどの救貧活動で知られる)自らこれを設置した。まさしく、この聖母像は「浦上信徒発見」のプティジャン司教、そして八王子小田原に旅立つテストヴィド神父を見守っていたのである。私も巡礼のお恵みに感謝し、「天使祝詞」の祈りを古い文語体で捧げた。


現聖堂献堂:1933年


カトリック山手教会の聖母像

(注):明治初期、パリ外国宣教会の尽力によって献堂された教会は多い。都内では、東京カテドラル築地教会神田教会八王子教会本所教会麻布教会など。

◆主な参考文献など:
・「カトリック生活(特集:横浜発・日本再宣教150周年)」2012年8月号 (ドン・ボスコ社・2012年)
・「横浜教区設立50周年記念誌」 横浜教区設立50周年記念誌編集委員会編(カトリック横浜司教区・1988年)

<付記>
今回の山手教会巡礼によって、私は神奈川県内すべてのカトリック教会を訪ね終えました(聖堂再建中の横浜・末吉町教会を除く)。今月は「埼玉のカトリック教会巡り」を不定期連載する予定です。
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