三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

「真実を伝え続ける絵画」展

2015年03月30日 | 雑記帳
1927年竣工の早稲田大学大隈記念講堂
(住所:東京都新宿区戸塚町1-104)

先日、早稲田大学で開催中の『真実を伝え続ける絵画-アウシュヴィッツに生きたM・コシチェルニャック展』を見てきた。ミェチスワフ・コシチェルニャック(1912-1993年)はポーランド人の画家。反ナチの政治犯として捕らえられ、アウシュヴィッツに収容されたが、そこで同房のコルベ神父と親しくなった。神父は画家に「私は死に、灰だけが世に流されるが、あなたは生き残れる。アウシュヴィッツの犯罪と、何百万人もの苦しみを世に伝えるのが、あなたの使命となるでしょう」と予言したという。

都営バスの早大正門停留所で下車。目の前の大隈講堂を仰ぐと、早大生ならずとも「都の西北」を口ずさんでしまう。この大隈講堂を見おろすように建つのが地上16階の大隈記念タワーで、そこの10階にある125記念室が「コシチェルニャック展」となっている。会場ではコルベ神父の最期の様子や収容所の出来事を描いた19枚の作品が並んでいた。とくに「Father Maksymilian Kolbe」という作品は、鉄条網がコルベ神父の頭上で交叉する構図だが、それはイエスの「荊冠」を意識したものだろう。

コシチェルニャックは、「コルベ神父が(餓死刑の)身代わりを申し出たとき、わずか数メートル離れたところにいた。一歩前へ進み出ることができなかった負い目を生涯抱き続けていた」(展示文より)。だから、画家は神父の予言通り、戦後も一貫して真実を世に伝えてきた。「貴方は、アウシュヴィッツから何を学ぶか。コシチェルニャックが命がけで描き残した絵から聞こえる声に耳を傾けていただければ幸いである」(展覧会チラシより)。多くの若い人々に見てほしい絵画展だ(4/23まで開催)。


早稲田大学會津八一記念博物館
(1925年竣工の旧図書館。今井兼次設計)

<付記>
展覧会の後、私は早稲田キャンパス内の會津八一記念博物館(上写真)で企画展『学徒たちの戦場-戦後七〇年-』も見てきた。現在、安倍晋三と「国家神道原理主義」の自民党、及び「平和と福祉の党」を詐称する公明党が「戦争への道」をせっせと整えている。「敬虔なカトリック信者」の麻生太郎が「ナチスの手口」や「八紘一宇」を称賛する危機的な状況だからこそ、私たちは戦没学徒兵の遺品から聞こえる「わだつみのこえ」に耳を傾けなければならない(4/25まで開催)。

◆主な参考文献など:
・「東京新聞」夕刊 (2015年3月16日付記事「亡き神父の遺志継ぎ描いた19枚 アウシュビッツに帰る」)
・展示図録「学徒たちの戦場-戦後七〇年-」 (早稲田大学大学史資料センター・2015年)
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四旬節第4主日のミサ

2015年03月24日 | ミサ聖祭
カトリック府中教会の聖母子像
(住所:東京都府中市府中町1-40-11)

ドイツのメルケル首相は来日講演で、ヴァイツゼッカー元大統領の「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」という警句を引用しながら、この傲慢で恥知らずな島国に「隣国との和解」「慰安婦問題の解決」「脱原発」を促した。だが、安倍晋三や「昭和のテレビ中毒世代」にメルケル氏の善意を汲み取るほどの良識は全くない。「彼らは思慮に欠けた国民、彼らには洞察する力がない。もし、彼らに知恵があれば、悟ったであろうに。自分の行く末も分かったであろうに」(申命32・28-29)。

3月14日(土)、カトリック府中教会で四旬節第4主日のミサに与った。このところ、私は「業務多忙」で教会へ行く機会が減っている。だが、イエスも荒れ野で言われたように、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命8・3)。私の霊的な飢え(?)は増すばかりだから、時間の都合がつき次第、最寄りの教会へ行くことに決めた。聖書の解き明かしが聞けるなら「教派不問」なので、カトリックも外国宣教会・修道会系の教会を中心に再訪の予定。

午後7時、ミサ開祭。福音朗読は、イエスとニコデモの場面(ヨハネ3・14-21)。ビッフィ・マウリツィオ神父(ミラノ外国宣教会)は、「神様は私たちに救うチャンスを与えています。そして、イエスの十字架は神様からの救いを示しています。そのことを悟ったら、私たちも神様の手足となって人を救うチャンスになりましょう。本日の福音は喜ばしくも、責任を持たせるメッセージです」と話された。その尊い責任を曖昧にするのが「あなたはすでに、救われている」宣言という被造物の身勝手な空想だろう。


夕暮れのカトリック府中教会聖堂

◆主な参考文献など:
・「過去の克服・二つの戦後」 ヴァイツゼッカー著、山本務訳(日本放送出版協会・1994年)
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カトリック東金教会

2015年03月18日 | 千葉のカトリック教会
カトリック東金教会(教会堂名:聖家族)
創立:1959年 ◇ 住所:千葉県東金市東金251-2

JR東金(とうがね)線の東金駅で下車。「東金市は、東京都心まで約60キロメートル、千葉県のほぼ中央部に位置しています。人口は約6万人で温暖な気候に恵まれ、平野部は良質な田園地帯が太平洋に向かって広がり、丘陵地は山武杉の森林に覆われています」(東金市公式サイトより)。東金は九十九里浜(くじゅうくりはま)に近い。私は習志野の団地っ子だった頃、よく海水浴に訪れていたものだ。砂浜の生き物、貝殻拾い、焼きハマグリの香りを懐かしく思い出す。

カトリック東金教会の沿革をおさらいしよう。「カトリック東金教会は、1959年3月に、東京教区の今田健美(こんだ・たけみ)神父によって献堂式が行われ、茂原(もばら)教会の巡回教会としてスタートしました。このころの信徒数は7~8人の小さな集まりでした。これから7年後の1967年に、小教区として認められ、念願の東金教会となったのです。当教会には、千葉寺、茂原、鴨川などから多くの司祭が来て、信徒たちを支えてくださいました」(東京大司教区サイトから転載)。

駅から徒歩10分ほどで、カトリック東金教会に着いた。閑静な住宅街の中に、塔屋付きの古い聖堂が建っている。「平日だから閉まっているかもしれない」と思われた聖堂の扉が開いていた。そこはかとない郷愁が漂う空間の中で、金色(こんじき)の聖櫃を前に静かな祈りの時を過ごす。耳を澄ませば、九十九里浜からの潮騒が聞こえてきそうである(?)。さて、上り電車の到着が近づいてきたので、再び東金駅へ向かう。終点の大網で外房線に乗り換えて帰京することにしよう。


現聖堂献堂:1967年?


聖堂内の聖母像
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国際基督教大学礼拝堂(ICU教会)

2015年03月12日 | プロテスタント
国際基督教大学礼拝堂
(住所:東京都三鷹市大沢3-10-2)

小田急バスの富士重工前停留所で下車。戦前、この辺りは中島飛行機の敷地が広がっていた。同社は旧陸軍の戦闘機「隼」「疾風」等を製造した軍用機メーカーである。小学生時代の私は、これら「傑作戦闘機」のプラモデル(ハセガワの1/72シリーズ)に熱中していたことを「懺悔」しなければならない。戦後、中島飛行機の広大な跡地は富士重工業(スバル)、そして国際基督教大学(ICU)、ルーテル学院大学、東京神学大学となった。今や日本のプロテスタント神学の「聖地」である。

ICUチャペルの沿革をおさらい。「国際基督教大学教会は様々な教派のクリスチャンが共に礼拝を守る超教派(エキュメニカル)の教会です。日曜礼拝には大学教職員や学生の他、卒業生や近隣の方々が日英両語による礼拝を守っています。日本語、もしくは英語で語られる説教にはイヤホンによる同時通訳がつきますので、どなたでもご参加いただけます」(ICU教会公式サイトより)。授業期間中は「チャペル」としての大学礼拝が、日曜は「教会」としての聖日礼拝が捧げられる。

国際基督教大学に着いた。とてつもなく広いキャンパスで、正門から中心地までの距離は「ひと駅歩こう」の体力が必要だ。チャペルの扉を開けると、パイプオルガン(オーストリア・リーガー社製)の音色が響き渡っていた。どうやらオルガニストの演奏練習らしい。堂内の荘厳な雰囲気と相俟って、豊かな祈りの時を過ごすことができた。さて、木々に囲まれたチャペルを出ると、中庭の向こうに古い大学本館(下写真2)が見えた。これが戦前の旧中島飛行機三鷹研究所の建物である。


礼拝堂内観(1954年竣工)


国際基督教大学本館
(戦前の旧中島飛行機三鷹研究所本館)
コメント (7)
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カトリック木更津教会

2015年03月06日 | 千葉のカトリック教会
カトリック木更津教会(教会堂名:聖コールマン)
創立:1952年 ◇ 住所:千葉県木更津市富士見3-1-13

JR内房線の木更津(きさらづ)駅で降りる。ここは東京湾に面した古い港町だが、駅前の商店街は少しさびれている印象。このローカルな「木更津」の名を全国的にしたのは、2002年放映のテレビドラマ「木更津キャッツアイ」(TBS系)かもしれない。だが、戦前の木更津は「軍隊の町」であり、旧海軍航空隊の基地があった。敗戦直後の1945年8月19日、マニラで米国との降伏受理協議に臨む日本代表団を乗せた飛行機(特殊な塗装を施した「緑十字機」)は、ここから南方へ飛び立った。

カトリック木更津教会の沿革をおさらい。「その歴史は1884年頃のパリ外国宣教会の房総伝道に遡る。第二次大戦後は進駐軍の蒲鉾兵舎が聖堂の時期もあった。1951年、木更津海岸の埋立地に仮の教会が建てられた。これが木更津教会の始まりである。1955年 、司祭・信者の信仰と努力、及びアイルランドからの暖かい寄付によって現聖堂が献堂。近隣には新日本製鉄(現・新日鐵住金)君津製鉄所等があり、九州から転勤してきた方も多くおられる」(東京大司教区サイトから要約)。

木更津港を右に眺めながら、カトリック木更津教会に到着。木造平屋の聖堂は質実剛健の造りだが、祈りの家に相応しい雰囲気がある。木更津教会も聖コロンバン会(The Missionary Society of St.Columban)の「房総伝道」によって建てられた教会の一つである。聖コルンバヌスの名を戴くこの宣教会は、1916年にアイルランドで創立された(日本管区は東京)。戦後、聖コロンバン会が房総、及び湘南地域のカトリック教会を次々に設立・司牧(注)した働きは、もっと注目されてもよいと思う。


現聖堂献堂:1955年


聖堂内の聖母子像

(注):鴨川教会、木更津教会、五井教会、佐原教会、館山教会、千葉寺教会銚子教会東金教会、茂原教会。東京・神奈川では豊島教会藤沢教会平塚教会大磯教会二宮教会国府津教会など。

◆主な参考文献など:
・「千葉県の戦争遺跡をあるく」 千葉県歴史教育者協議会編(国書刊行会・2004年)
・「横浜教区設立50周年記念誌」 教区設立50周年記念誌編集委員会編(カトリック横浜司教区・1988年)
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