三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

顕現後第7主日の聖餐式

2014年02月28日 | 聖公会の礼拝
日本聖公会 立教学院諸聖徒礼拝堂
(住所:東京都豊島区西池袋3-34-1)

ソチ五輪が閉幕。「オリンピック大好き人間」の某カトリック邦人司祭はテレビにしがみつき、フィギュア観戦で「寝不足」になったらしい(呆)。ニッポン人は「感動をありがとう!」と集団催眠のように酔い痴れていた。五輪選手のメダルは一喜一憂しても、自分たちの人権、自由、平和が危機的な状況にあることは無関心。その間、ニッポンは大量の放射能汚染水を垂れ流し、米国のメディアは連日のように「安倍独裁」を批判。だが、ニッポン人は刹那的な「感動」に耽って、頑なに思考停止中。

2月23日(日)、立教大学チャペル(日本聖公会)で顕現後第7主日の聖餐式に参列した。午前10時、司祭団が厳かに入堂。福音朗読は、「汝の敵を愛せ」の場面(マタイ5・38-48)。金大原(キム・デウォン)司祭は「イエス様が言われた『完全な者』とは、人が神に似せて創造された時の姿。その表れの一つが平和の実現。これが私たちの使命であり、神に倣う完全な道です」と話された。今や憎しみの坩堝(るつぼ)と化した「異様な国、ニッポン」。平和を蔑み、社会的弱者や隣国を罵っている。

礼拝後、キャンパス周辺を散策。正門前に「Carmel(カーメル)」というカフェがある。学生街の「昭和が漂う喫茶店」だが、その店先で雑誌「St. Paul's Campus」(通称SPC)が配布されていた。本誌は立教唯一の学内ミニコミ誌だったが(と思う)、現在はフリーペーパーに転じた。私の学生時代、SPCの表紙は清楚な女子学生の写真が微笑み、記事は立教内外の情報、著名人インタビューなどを組んでいた。だが、久しぶりに入手した最新号は、不注意な誤植が多かった。がんばれ、SPC!


立教大学正門前、Coffee Shop Carmel
(住所:東京都豊島区西池袋5-10-2椿ビル1F)

◆聖餐式で歌われた聖歌:
ミサ曲譜1(キリエ、大栄光の歌、サンクトゥス、アニュス・デイ)、入堂聖歌:357「まぶねの中に」、続唱聖歌:489「心を尽くして」、奉献聖歌:493「愛のわざは」、陪餐聖歌:265「つつしみて近く寄り」、派遣聖歌:317「われら主をたたえまし」。(番号は「日本聖公会聖歌集」による)

◆主な参考文献など:
・「St. Paul's Campus」Vol.103 (立教大学St. Paul's Campus・2013年)
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原町田教会(日本基督教団)

2014年02月23日 | プロテスタント
日本基督教団 原町田教会
(住所:東京都町田市原町田3-9-16)

小田急線の町田駅で下車。早速、原町田教会(日本基督教団)の沿革をおさらいしよう。「1875年、米国バプテスト派のクララ・A・サンズ宣教師は、相模原・町田地域を伝道。その影響を強く受けた川勝鉄弥らが牧師となり、1882年頃に相模原の上溝で伝道活動を開始。1910年、原町田講義所(伝道所)を開設。1928年、現在地に会堂を建築、『原町田バプテスト教会』と称し、現在の原町田幼稚園も設立された。2010年、創立100周年を迎えた」(原町田教会公式HPから要約)。

原町田教会に到着。ここも、多摩の百年教会(注)の一つだ。礼拝堂の長椅子に座ると、私が卒業したプロテスタント系高校の日々が甦ってきた。メソジストの宣教師が創立し、内村鑑三が教壇に立った我が母校。「敬神愛人」の校訓を掲げ、チャペルで様々な礼拝を守った。牧師先生の長話が苦痛だった春季伝道週間や、毎年2月11日の忌まわしい「国民の祝日」を、「信教の自由を考える日」と呼んでいたことなども思い出す。プロテスタント教会を巡る度、高校時代を懐かしむ私。

原町田教会の近所には、町田市民文学館がある。「狐狸庵先生と歩く町田」でも触れたが、遠藤周作氏は町田在住の約25年間に小説『死海のほとり』『侍』などを発表した。この文学館にも遠藤氏の蔵書が寄贈されている。どちらかと言えば、私は遠藤文学の愛読者ではなかったし、狐狸庵先生が描く「母なる神」には違和感を覚えている。それでも、小説『沈黙』は冷徹な筆致が冴えた不朽の作品と思う。「生れつき根性の弱か者」のキチジローに、私は感情移入してしまうから。


礼拝堂内観(1972年竣工)

(注):多摩地域で百年以上の歴史を有する教会は次の通り(カッコ内の数字は創立年)。カトリック泉町教会(1877年)、カトリック八王子教会(1877年)、日本聖公会・聖マルコ教会(1885年)、日本聖公会・八王子復活教会(1908年)、日本基督教団・青梅教会(1888年)、日本基督教団・八王子教会(1905年)、日本基督教団・原町田教会(1910年)。

◆主な参考文献など:
・「遠藤周作とPaul Endo」 町田市民文学館編(町田市民文学館・2007年)
・「沈黙」 遠藤周作著(新潮文庫・1981年)
・「内村鑑三」 鈴木範久著(岩波新書・1984年)
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亜使徒聖ニコライ祭の聖体礼儀

2014年02月18日 | 東方正教会
日本正教会 東京復活大聖堂教会
(住所:東京都千代田区神田駿河台4-1-3)

大雪から一夜が明けた2月16日(日)、東京復活大聖堂教会(通称ニコライ堂)で蕩子の主日の聖体礼儀に参祷した。この日は日本の亜使徒聖ニコライ祭、即ちニコライ大主教(1836-1912年)の「命日」でもあった。「1861年、ニコライ・カサートキンは函館のロシア領事館付司祭として来日。日本の言葉と文化を学び、正教の教えを日本人に伝えました。聖書や祈祷書の翻訳をし、ニコライ堂を始めとして、聖堂を日本各地に建立。1970年に聖人とされました」(ニコライ堂案内書から要約)。

ニコライ大主教の死を悼む内村鑑三の弔辞が胸を打つ。「予がニコライ師に対して殊に敬服に耐へないのは、師が日本伝道を開始せられて以来、彼の新教派の宣教師の如く文明を利用することなく、赤裸々に最も露骨に基督を伝へた事である」。現代ニッポンの某カトリック司祭は「悪い子のままでOK!神に愛されてるから、み~んな救われちゃう」と豪語しているが、それは実に不可解な「ゆるキャラ的神々」の創作としか思えない。私は「赤裸々に最も露骨に」キリストを知りたいのである。

午前10時、聖体礼儀の開始を告げる鐘と共に、ダニイル府主教と司祭が入堂。福音経の誦読は、蕩子(放蕩息子)の場面(ルカ15・11-32)。北原史門神父は「帰るべき父の家を誤らない人は幸い。神は痛悔した人を受け入れてくださると、主イイスス(イエス)は教えられたのです」と話された。領聖後、聖ニコライへの感謝祈祷が行われ、転達(取りなし)を願う歌声が響いた。ニコライ大主教が日本に伝えた荘厳な奉神礼。そこには、確かに「赤裸々に最も露骨に」ハリストスの息吹が感じられる。


大雪後の東京。ニコライ堂境内もロシア的な景色に。
“ 亜使徒聖ニコライや、我等のために神に祈り給え ”

<付記>
この日の北原神父のお説教から。「聖ニコライ祭に当たり、記憶しておきたいこと。聖ニコライは福音の光が全日本を照らすことを望み、それは間もなく成就すると信じていました。この予言は外れてしまったのでしょうか。まだ幼い日本の正教会は、これから伸びてゆく存在です。私たちは聖ニコライの望みと教えを受け継いでまいりましょう。ぜひ『聖人ニコライ事蹟伝』もお読みください」・・・。この『事蹟伝』はニコライ大主教の記録に残された説教の殆どを収めているという。早速、探書リストに追加。

◆主な参考文献など:
・「宣教師ニコライと明治日本」 中村健之介著(岩波新書・1996年)
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顕現後第5主日の聖餐式

2014年02月13日 | 聖公会の礼拝
日本聖公会 立教小学校チャペル「諸天使礼拝堂」
(住所:東京都豊島区西池袋3-36-26)

「やはり」と言おうか、都知事選の結果は「安倍独裁」への絶大な信任投票となった。極右化したニッポンに対する厳しい批判が国際社会で高まっていたが、強欲拝金主義と排外的国粋主義が渦巻く「不浄の都」東京で、能天気な有権者に理性的な判断を求めることは不可能であった。一方、大阪では「出直し市長選」とやらで、品性下劣な「橋下笑劇場」の猿芝居が始まる。だが、懲りないニッポン人はテレビ(特に「安倍チャンネル」のNHK)にしがみつき、今日もヘラヘラ笑うだけ。

2月9日(日)、立教学院諸天使礼拝堂(日本聖公会)で顕現後第5主日の聖餐式に参列した(大学入試期間中のため、立教小学校チャペルで礼拝)。福音朗読は「地の塩、世の光」の場面(マタイ5・13-20)。市原信太郎司祭は、「塩は個々人の尊さ、光は命の輝きを表しています。それを世界に宣言することがキリスト信者の証しです」と話された。私がプロテスタント系高校に入学した時、そこで最初に出会った聖書の言葉が「地の塩」だったことを思い出す。ちょっと、しんみり(注)

礼拝後、キャンパスの塀沿いに歩く。5号館前にセントポールプラザという学内売店がある。私の学生時代は貧しい品揃えの書籍部を併設した文房具店の雰囲気が漂っていた。当時の「立教グッズ」は野暮ったいセンスだったが、一度だけ私は校章入りバインダーを購入した。現在は幅広い商品展開で、ペットボトルのミネラルウォーター「立教水」(500ml)も販売中。折しも受験シーズンたけなわである。この「聖水」を飲み干せば、入試突破のお恵みがもたらされるかもしれない(?)。


大雪後の東京。立教小学校の校庭も銀世界。


セントポールプラザ池袋店の立教グッズ・コーナー
(営業時間等はホームページでご確認ください)

(注):高校3年間の学年ニュース(週刊の校内報)のタイトルが『ちのしお』であった。その創刊号の巻頭言は次のように記されている。「地の塩とは、この世でなくてはならない塩の役目を果たそうというのである。それは塩という姿はなくなるが、それによって物に味をつけることができる。自分を犠牲にしても、他のために役立とうという教えである。諸君も“地の塩”として生きてほしい」・・・。今の私は「地の塩」どころか、諸先生の学恩に報いることすらできていない状態だ。

◆聖餐式で歌われた聖歌:
ミサ曲譜1(キリエ、大栄光の歌、サンクトゥス、アニュス・デイ)、入堂聖歌:12「大空に満つ」、続唱聖歌:473「見つめます 心から」、入信の式(洗礼式):274「古い行い改めて」、奉献聖歌:475「光の子どもらしく」、陪餐聖歌:268「たたえよう主のまつり」、派遣聖歌:486「みやま(深山)を追われて」。(番号は「日本聖公会聖歌集」による)
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山手ハリストス正教会

2014年02月08日 | 東方正教会
日本正教会 山手ハリストス正教会
(住所:東京都杉並区宮前3-28-10)

2月2日(日)、杉並の山手ハリストス正教会で五旬祭後第32主日の聖体礼儀に参祷した。私にとって正教会の「町の教会」は初めてとなる。「山手正教会は都内最古の正教会としての歴史を持ち、創設は1876年に遡る。当初は『麹町洗礼教会』、その後『四谷神現教会』となり、関東の中心的存在だった。しかし、戦災で聖堂が消失し、ニコライ堂に寄留して活動を続けた。1954年、現在地に土地・建物を取得し、戦後復興を果たした都内唯一の教会となる」(山手教会HPから要約)。

JR西荻窪駅から徒歩10分ほどで、山手教会に到着。すでに奉献礼儀が始まっており、司祭はイコノスタスの内側でパンとぶどう酒を準備されていた。午前10時頃、聖体礼儀の開始を告げる鐘と共に、啓蒙者の聖体礼儀(約50分)となった。山手教会では輔祭(助祭)、堂役(侍者)、誦経者が司祭を輔佐し、10数名編成の聖歌隊の見事な歌声が響いていた(説教を除き、殆ど歌頌の聖体礼儀)。私は「町の教会」と侮っていなかったが、大聖堂に勝るとも劣らない荘厳な奉神礼に驚いた。

福音経の誦読は、税吏ザクヘイ(ザアカイ)の回心(ルカ19:1-10)。桝田尚神父は「木から降りたザクヘイのように、ハリストス(キリスト)の言葉に従うこと。その実践によって、私たちは欲から解放され、精神的な平安に目覚めるのです」と話された。信者の聖体礼儀(約60分)となる。領聖の場面を間近で見ることができた。私もザクヘイに倣い、ハリストスの元へ近づこう。この日は以前から探していた新書判『正教要理』も入手。物心両面で聖神(聖霊)の恵みに満たされた一日となった。


山手教会 主の降誕聖堂(1971年竣工)

<付記>
この日の聖体礼儀後、ある永眠された信徒のための三年祭のパニヒダが行われた。三回忌の法要を思わせるが、「パニヒダ」とは「永眠した人々のために夜通し祈るという意味をもっていますが、永眠者を思い起し祈ることから記憶祭とも呼ばれています。死してこの世を去った人々が神のみ国に安住するために祈り、またその人の信仰を受け継いで共に永遠のみ国にあずかれるように祈ることです」(『正教要理』から)。約30分間、切々たる哀歌と連祷、そして乳香の煙が流れていた。「永遠の記憶・・・」。

◆主な参考文献など:
・「正教要理」 日本ハリストス正教会教団編(日本ハリストス正教会教団・1980年)
・「ギリシア正教入門」 高井寿雄著(教文館・1980年改版)
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