
カトリック八王子教会聖堂
(住所:東京都八王子市本町16-3)
(住所:東京都八王子市本町16-3)
「教会の門はいつも開かれています」。この言葉に誘われ、東京郊外の多摩地域にあるカトリック教会を訪ねています。都市化の進む多摩ですが、いまなお里山などの自然が豊富で、武蔵野の面影が残っています。平日の教会は訪れる人も少なく、聖堂は静寂に包まれた「祈りの家」そのものです。都心の喧騒も聞こえません。未信者の私は、この聖なる空間に魅せられ、謙遜と畏れをもって念祷を捧げます。
数年前に『多摩の百年(上)悲劇の群像』(朝日新聞社・1976年)を読み、明治初期に「横浜から八王子の片田舎にキリスト教が飛び火した」(前掲書)事実を知るにつれ、多摩のキリスト教受容、外国人宣教師の足跡などに心が惹かれました。ことにカトリックへの親近感もありました。祖父は敬虔なカトリック信徒で、幼い私を教会に連れて行ってくれました。熱心に祈る祖父の姿を覚えています。
多摩っ子の私が、身近な教会を巡る動機は、「聖堂ウォッチング」「歴史的関心」もありますが、やはり「主を畏れ、主の道に歩む人」(詩編128)への憧れです。多摩にはノートルダムのような大聖堂はありませんが、武蔵野の大地に根を張った教会が点在しています。多摩丘陵の森に抱かれた修道院もあります。そうした教会のある光景、多摩の風土などを拙く綴ります。どうぞよろしくお願い致します。
2010年11月22日 聖セシリア殉教者の記念日に
エウティコ(Eutychus)記す。
◇略歴:カトリック系の病院で生まれ、プロテスタント系の高校を卒業、聖公会系の大学を中退。現在、京王線沿線在住。(追記:2016年3月26日、某修道会系のカトリック教会にて受洗。けがれなき聖母の騎士会会員。なお、当ブログ内には日本のカトリック教会批判等の不適切な表現を含む記事もありますが、当面それらは受洗前の「恥の記録」として残しています)
偶然ですが、エウティコさんのブログに立ち寄りました。私も洗礼は授かっていませんけれどロザリオで祈り、教会を巡り、マリア様のお写真に納めています。
紹介されている教会にもずいぶんと足を運んだのでもしかしたら、すれ違っていたかもしれませんね。更新楽しみにしています。
Peace of the lord.
はじめまして。
いつも「三多摩の鐘」をご覧いただきまして、厚く御礼申し上げます。
今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
そうですね、どこかの教会で「ニアミス」していたのかもしれません。やはり、聖堂の内外にマリア様の御像(特にイエス様を「抱っこ」されている聖母子像)を見ると、心が安らぎますね。
聖堂では独りで祈ることが多いのですが、私の好きなお祈りの一つをご紹介致します。
『神の御母(みはは)』(グランメゾン師)
神の御母、聖マリアよ、
幼な子の心を保たせてください。
泉のように清く澄みとおった心、
寂しさにもくじけぬ心、
惜しげもなく自分を与えて微笑む心、
同情に満ちたやさしい心、
憎むことなく思いやりのある心、
誠実で寛やかな心、
愛を惜しまず同情を求めない心、
柔和にしてけんそんな心を・・・。
(カルメル修道会編「カトリック祈祷書 祈りの友」より)
教会で神のみ前に立つたびに、「幼な子の心」を取り戻すことの難しさを痛感している私です。
<付記>
るりるり様のURLをクリックしたのですが、なぜか私のパソコンでは見ることができません(泣)。いろいろと試行錯誤してみますので、しばらくお待ちください。
●いろいろな教会のことを知ることができて、写真、文章にも、こころを安らぐことができる、すばらしいホームページですね。
●ありがとうございました。
はじめまして。
いつも「三多摩の鐘」をご覧いただきまして、厚く御礼申し上げます。
今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
ホームページを拝見しました。幅広い関心と趣味をお持ちで、しかも非常に豊富な内容ですね。また、カトリック相模原教会の諸行事などを知ることもできました。首都圏でルドビコ茨木を守護聖人に戴く教会は、埼玉県の上福岡教会があるようです。私の「ルドビコ参り」の旅は、まだまだ続きそうです。
“心を制することは楽しい。汝らは心を守れ。怠るな。心がよく守られているならば、或る生けるものどもは、やすらぎ(ニルヴァーナ)に達する。”(中村元訳「ブッダの真理のことば・感興のことば」より)
私が好きなブッダのことばです。「汝らは心を守れ。怠るな」。しかし、これが極めて難しく、つまらぬことに執着している日々を送っています。
昨秋、大浦天主堂でおさめた日本之聖母像がはじまりで、長崎から始まって北は小樽の住ノ江教会まで訪れました。
昨日は早朝の金沢教会に参りましたが、こちらも穏やかで美しいマリア様が迎えてくださいました。
いつもロザリオを唱えていますが「神の御母」もお祈りして参ります。
url ご覧頂いたんですね。ありがとうございます。これは短縮 url というものなので何かセキュリティソフトでブロックされていたりすると、出ないかも知れません。
もし iPhone や iPod touch をお使いでしたら、アプリの Instagram というものがあります。ruriruri で検索頂くと私のアカウントです。こちらでマリア様のお写真を公開しています。
全て自分で足を運び、祈り、撮影しています。また撮影を禁じられている御御堂や、信徒の方がいらっしゃる時は撮りませんので、数はなかなか増えませんが、80枚ほどになりました。
本当にどこかですれ違えたら素敵ですね。これからも楽しみにしています。
きょうから5月。この若葉がまぶしい季節に、カトリック教会は「聖母月」を迎えます。ロザリオの祈りを唱える機会も多くなることでしょう。
カトリック八王子教会では、主日の午前10時ミサが始まる前に、会衆全員でロザリオの祈り一環を唱えています。また、聖母月の毎土曜日の主日ミサ(夕方)後は、ルルドの前でロザリオの祈りが唱えられます。
私の祖父が信徒だった時代と比べると、ロザリオの祈りを唱える機会は、やや減っているのかもしれません。それでも、カトリック八王子教会などのように、今なおロザリオの祈りを大切に守っている教会も多いようです。
長崎の大浦天主堂を巡礼されたのですね。聖堂内の歴史的な「信徒発見のマリア像」も御覧になったことと思います。いつの日か、私が訪れたいと思っている教会です。
現在、私は首都圏のカトリック教会を巡っていますが、将来は東北地方や西日本の教会も訪れたいと考えています。
マリア様のお導きで、いつかどこかの教会で、本当に「ニアミス」するかもしれませんね。
<付記>
URLの件、ご教示ありがとうございました。この連休中に、色々と試してみます。「IT音痴」のアナログ人間なので(笑)、しばらく時間はかかるかもしれませんが・・・。
キリスト教について、知識と行動において、すごく深く実践しておられる方だと思い、読ませていただいています。
それほどキリスト教に触れておられるのに、信者になられずに、未信者でおられることに、深いご理由があるのではないかなと思いまし。ぶしつけで失礼ですが、教えてもらえたらなと思い、コメントいたしました。
失礼ながら、すべてのブログ記事に目を通しておりませんので、記事にすでに書いておられるようでしたら、おすすめの記事の場所などを教えていただければ、うれしいです。
よろしくお願いいたします。m(_ _)m
「三多摩の鐘」をご覧いただきまして、厚く御礼申し上げます。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
お尋ねの件につき、私は「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレトの言葉3・1)と思っています。気ながに「その時」が訪れるのを待っています。
ただ、洗礼のお恵みを望んで、カトリック教会の入門講座を受けようと決意した時期はありました。ところが、現在の私は半年近くもミサに与っておりません。
「一時的な平安」を求めるのであれば、晴佐久昌英神父の「福音宣言」で癒されると思います。しかし、それでは本当の艱難辛苦に遭った時、キリストの十字架のもとから一目散に逃げ出してしまうでしょう。やはり、十字架にあげられたキリストの苦しみを、しっかりと見つめなければならないのです。聖母マリアのように。
私は「赤裸々に最も露骨に」キリストを求めたいと考えています。「み~んな救われちゃう」という生ぬるい信仰、また「日本人の感性に合ったキリスト教」などは必要ありません。この点で私は日本の(東京教区の?)カトリック教会の現状に少なからぬ失望感を抱きつつあります。カトリック信徒だった私の祖父は、この「不肖の孫」の姿に草葉の陰で泣いていることでしょう・・・。
実はこちらのブログに何の検索ワードできたかと申しますと「晴佐久昌英神父」でたどってきたのです。
実は私自身、晴佐久神父のネット上のメッセージから励まされていたのですが、ある時期から疑問を抱き始めました。
そして、とうとう晴佐久神父のメッセージは間違っているのではないか?との結論に達しつつあります。
そのような状況でネット情報を検索していまして、こちらにたどりつきました。
晴佐久神父のメッセージにストレートに「否」を表明するエウティコさんの言葉に、私自身の中のもやもやした言語化できなかった思いが明確にされる思いがいたしました。
しかしその時にはまだエウティコさんが未信者だとは気がついてなかったのです。気がついた時には驚きました。私は一応プロテスタントの信者です。よろしくお願いいたします。
初台教会に船越保武の十字架の道行があるのを初めて知りました。近いうちに訪ねてみようと思います。船越保武といえば、数か月前、たまたま東京純心の講堂に出かけることがあったのですが、ホワイエにある立像がなぜかとても気になって……、よく見ると、船越氏の「マグダラのマリア」でした。
それから…、もう5年ぐらい前になるでしょうか、たまたま仕事で出向いた平戸。市内から少し足を延ばし木ケ津教会を訪ねた折に、永井隆博士の「十字架の道行」がありました。
思わぬところで、すてきな出合いがあり、ふしぎな時間を過ごすのは楽しいものですね。大きな恵みを感じます。
また、立ち寄らせていただきます。ありがとうございました。