三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

聖霊降臨後第7主日の聖餐式

2014年07月29日 | 聖公会の礼拝
日本聖公会 聖アンデレ教会
(住所:東京都港区芝公園3-6-18)

7月24日、国連人権規約委員会は“世界に冠たる人権後進国”ニッポンに対して、ヘイトスピーチの禁止、死刑の廃止検討、さらに従軍慰安婦問題の国家責任を認め、その公式謝罪などを勧告。だが、厚顔無恥なニッポンは黙殺するだろう。そして、「昭和のテレビ中毒世代」は中国産チキン問題で大騒ぎ。「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7・3)。自国の原発事故への批判は封印しつつ、隣国に罵詈雑言を浴びせる「斜陽国家」の断末魔。

7月27日(日)、聖アンデレ教会(日本聖公会)で聖霊降臨後第7主日の聖餐式に参列した。飯倉交差点を曲がると、炎天下の東京タワーがお出迎え(下写真)。この日、私は熱中症寸前だった。午前7時30分、司祭団が厳かに入堂。福音朗読は、「天の国」のたとえ(マタイ13・31-33、44-49a)。笹森田鶴司祭は「今、世界の教会はNGOなどと共に、イスラエルのガザ侵攻を止めるように働きかけています。そのことによって、この世に隠されている“天の国”を示さなければならないのです」と話された。

現在、イスラエルは一方的な自衛権を主張し、ガザでの大虐殺を正当化している。「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」(ヨシュア6・21)。だが、“世界に冠たるチキン野郎”の安倍晋三は、シオニストの蛮行をゆるす米国に迎合して、イスラエルとの「準同盟国」関係を高らかに謳い、兵器共同開発の「ビジネス・チャンス」を狙っている。安倍がほざく「積極的平和主義」とやらは、天の国の実現を阻む“まやかし”に過ぎない。


聖アンデレ教会から徒歩1分の東京タワー
(住所:東京都港区芝公園4-2-8)

◆聖餐式で歌われた聖歌:
ミサ曲は読誦。入堂聖歌:349「神の知恵ぞ」、奉献聖歌:431「新しきエルサレムは」、退堂聖歌:428「光にあふれる」。(番号は「日本聖公会聖歌集」による)
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聖霊降臨後第6主日の聖餐式

2014年07月24日 | 聖公会の礼拝
日本聖公会 立教学院諸聖徒礼拝堂
(住所:東京都豊島区西池袋3-34-1)

立教大学チャペル(日本聖公会)の祭壇正面の右側に、両翼を広げた鷲の姿の聖書台がある(下写真)。これは、戦時中に立教大学の小川徳治教授(1905-2001年)が英国聖公会のウィルソン主教の知遇を得たことに由来する。陸軍少尉として召集された小川氏はシンガポールでウィルソン主教を保護し、さらに宗教活動も認めた。戦後、立教チャペルを再建する際(注)、ウィルソン主教は聖書台を含む教会用具の提供を申し出た。つまり、この鷲は鳩のような「平和の象徴」と言えるだろう。

7月20日(日)、立教大学チャペルで、聖霊降臨後第6主日の聖餐式に参列した。午前10時、振り香炉と行列用十字架を先頭に、司祭団が厳かに入堂。福音朗読は「毒麦」のたとえ話(マタイ13・24-30、36-43)。この日は東京教区の環状グループ(豊島区などの教会群。カトリック東京大司教区「宣教協力体」に相当)の説教交換日で、清瀬聖母教会、及び全生園聖フランシス・聖エリザベツ礼拝堂の井口諭司祭が話された。私にとって井口司祭の説教は、昨年10月の聖霊降臨後第21主日以来だ。

「毒麦を抜こうとする僕(しもべ)たちに、主人は『育つままにしておきなさい』と言います。『ままにしておく』は(ギリシャ語の)“アフィーエーミ”という言葉で、去らせる、放棄する、罪を赦すという意味があります。麦はパンになり、毒麦はそのパンを焼く燃料になるでしょう。主イエスは清濁合わせて、一緒になって欲しいのです。両方を愛するがために、主イエスは十字架につけられたのです」。“アフィーエーミ”の不思議な意味に「毒麦男」の私もしんみり。ハンドベルの優しい音色が心に沁み入った。


立教学院諸聖徒礼拝堂の「鷲の聖書台」
(英国マンチェスター大聖堂で使用されていた!)

(注):戦時中、軍部によって倉庫(!)とされたチャペルは、説教壇、聖書台、会衆席などが防空壕の材料となり、大理石造りの聖卓は破壊の跡が残されたままで、堂内は惨めな姿になっていたという。このような狂気の時代が、安倍晋三によって再び現実となりつつある。だが、相変わらず「昭和のテレビ中毒世代」はヘラヘラ笑いながら、目先のカネと飲み食いのことで頭がいっぱい。自分たちの子や孫が戦争や原発事故の犠牲にならない限り、多くのニッポン人は本日も「絶賛思考停止中」。

◆聖餐式で歌われた聖歌:
ミサ曲譜2(キリエ、大栄光の歌、サンクトゥス、アニュス・デイ)、入堂聖歌:314「みもとに集い 恵み受け」、続唱聖歌:440「神の言葉よ」、奉献アンセム(聖歌隊奉唱):「I will worship(詩編138・2)」(ダイソン)、奉献聖歌:427「世界の国と民の神よ」、陪餐アンセム1(ハンドベル奏楽):464「I need thee every hour(恵み深き)」、陪餐アンセム2(管楽合奏、聖歌隊奉唱):「二階の広間で」、陪餐聖歌:256「地に来たまいし神」、派遣聖歌:389「主イェスよ われらの礎となり」。(番号は「日本聖公会聖歌集」による)

◆主な参考文献など:
・『チャペルニュース・第576号』から五十嵐正司主教(立教学院チャプレン長)著「鷲の聖書台」 (立教学院諸聖徒礼拝堂・2014年)
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聖使徒ペトル、パウェル祭の聖体礼儀

2014年07月19日 | 東方正教会
日本正教会 東京復活大聖堂教会
(住所:東京都千代田区神田駿河台4-1-3)

7月13日(日)、正教会の東京復活大聖堂教会(通称ニコライ堂)で、聖使徒ペトル、パウェル(聖ペトロ、聖パウロ)祭の聖体礼儀に参祷した。午前9時30分、聖体礼儀の開始を告げる鐘とともに、ダニイル府主教、仙台のセラフィム大主教が厳かに入堂。ア・カペラの聖歌が流れ、乳香の煙が漂う。この日は日本正教会の大きな会議(全国公会)が開催されていたので、聖堂内はミトラやカミラフカ(円筒型の帽子)を戴く多くの神品(聖職者)であふれていた。力強い男声合唱の讃詞に圧倒された。

福音経の誦読は、ペトロの信仰告白の場面(マタイ16・13-19)。説教壇に立たれた司祭(お名前を失念しました)は、「本日の五旬祭後第5主日は、聖使徒ペトル、パウェル祭を繰り下げて祝っています。第5主日の福音は、悪霊に取りつかれたゲルゲシン(ガダラ)の人が癒される箇所(マタイ8・28から)。罪の源は悪魔と聖書は教えています。人は誘惑に負けたが、ハリストスの復活は悪魔が支配する陰府を壊滅させました。そこは空とされ、神様の愛があふれる場所となったのです」と話された。

「ハリストスによって悪魔の力は滅ぼされましたが、それでも救いは私たち個人の意志に関わっている。天使の一部が悪魔になり、人が楽園から追放されたのは、自己中心的な高慢からでした。神に心を向けるには、痛悔(悔い改め)が必要です。ハリストスを拒んだペトル、キリスト教徒を迫害したパウェルのその後の人生は、私たちに痛悔することの大切さを教えています」。日本の西方教会の一部に蔓延する万人救済説など、人間の高慢の極みだろう。私は正教が説く「救い」に強く惹かれる。


禅寺の火灯窓を思わせる(?)ニコライ堂の意匠
“ 主は我が力、我が歌なり、彼は我が救となれり・・・ ”

<付記>
この日の説教で触れた「意志」につき、ウェア府主教の次の指摘も興味深い。「堕落とその結果について正教会は、人間は神の像をかろうじて保持しているばかりではなく、善と悪の選択の自由も保持していると理解します。人間の選択の自由の能力は堕落によって傷つき限界はありますが、決して絶滅されてはいません。堕落の状態にあって人間の意志は病んではいますが死んではいません。健康な時よりはるかに困難ですが、人間は依然として善を選択することができます」。

◆主な参考文献など:
・「主日奉事式」 全国宣教企画委員会編(日本ハリストス正教会教団・2014年)
・「私たちはどのように救われるのか」 カリストス・ウェア主教著、水口優明、松島雄一共訳(日本ハリストス正教会西日本主教教区教務部・2003年)
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高幡教会(日本基督教団)

2014年07月14日 | プロテスタント
日本基督教団 高幡教会
(住所:東京都日野市三沢4-2-3)

私は小学5年生のとき、千葉の習志野台から東京の日野市に引っ越した。そこは典型的な「ベッドタウン」だったが、近代的な団地の街並み(?)を見慣れた目には、東京の郊外というよりも「ど田舎」のように映った。その頃の日野市は急速に宅地開発が進んでいたが、まだ多摩丘陵の緑は濃く、豊かな水田も広がっていた。そして、京王線の高幡不動(たかはたふどう)駅周辺には、「関東三大不動」と称される高幡不動尊金剛寺(真言宗智山派)があり、千百有余年の法灯を守っていた。

小学生時代の私は頻繁に高幡不動尊周辺の商店街に出没していたものだ。ジュピター模型、難波書店、古本の高幡文雅堂、レコード店のBOXなどがあった頃を懐かしく思い出す。1968年、この名刹の門前にプロテスタントの高幡教会(日本基督教団)が創立。当時の教団総会が「新開拓伝道適地」として選定し、高幡不動駅前に小さな伝道所が開設された(ほぼ同時期にカトリック高幡教会も創立)。日野市の人口急増に伴い、手狭になった伝道所は高幡不動尊参道の雑居ビルに移転。

1977年、高幡教会は駅から徒歩数分の現在地に移転、新しい会堂と牧師館を建設した(1982年増改築)。小中学生時代の私は「地元の教会」という微かな認識はあったが(しかも、それは人生初のプロテスタント教会だった)、高幡教会へ行ったことは一度もなかった。そこで、教会巡りをするオトナになった私は、今回初めて「地元の教会」を訪ねることにした。ある日曜の午後、アポ無しで闖入する私を迎えた牧師先生は、やや当惑されたご様子・・・。だから、次回は主日礼拝に参列してみよう。


会堂内観(1977年竣工/1982年増改築)


我が母校、東京都日野市立日野第八小学校
(住所:東京都日野市三沢200)

◆主な参考文献など:
・「高幡教会二十周年記念誌」 二十周年記念誌編集委員会編(日本基督教団高幡教会・1988年)
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カトリック飯能教会

2014年07月09日 | 埼玉のカトリック教会
カトリック飯能教会(教会堂名:聖ヨセフ)
創立:1966年 ◇ 住所:埼玉県飯能市東町23-11

東京の八王子からJR八高線に乗車して、埼玉の東飯能(ひがしはんのう)駅で降りる。駅前では数台のタクシーが所在なげに客待ち中。ここは西武池袋線に接続しており、秩父路への玄関口ともなっている。「飯能」という地名は平安時代末期にこの辺を支配した判乃氏から起こったものらしい。さて、カトリック飯能教会の沿革をおさらい。「パリ外国宣教会によって、上福岡(1962)と飯能(1966)に小教区が設立され、それぞれの地域で宣教と司牧が開始された」。

「飯能での宣教活動は、1932年、未亡人が二児を伴って、入間郡精明村(現・飯能市双柳)に東京から移り住み、自宅で聖書の集いを始めたことに始まる。飯能は、川越教会の広域司牧地域の一つであったが、1955年に宮寺教会と共に、所沢に設立された小教区の管轄地域となった。1962年、飯能教会が所沢小教区の巡回教会として発足、1966年、飯能市の区画整理に伴い、現在地に移転すると共に、飯能小教区として独立した」(『北関東のカトリック』より)。

線路沿いに飯能教会が現れた。私が訪ねた時(2012年8月)、ここは司祭が常駐していなかったが、現在はポーランド出身の神父が司牧されているという。聖堂内で小さな念祷を捧げた後、再びJR八高線の東飯能駅に戻る。「東京のローカル線」の代表格(?)八高線は、十数年前まで非電化路線だった。現在も高麗川(こまがわ)から高崎の区間は、むかし懐かしい気動車(下写真)が走っている。これに揺られながら、次は群馬のカトリック藤岡教会を訪ねよう。


現聖堂献堂:?年


JR八高線のキハ110系気動車
(埼玉県日高市・JR高麗川駅にて)

◆主な参考文献など:
・「北関東のカトリック」 カトリック浦和教区史誌編集委員会編(カトリック浦和教区事務所・1990年)
・「滅びゆく武蔵野」 桜井正信、岡田沢治共著(有峰書店・1971年)
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