三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

カトリック徳田教会

2011年05月29日 | 東京のカトリック教会
カトリック徳田教会(教会堂名:聖ビンセンシオ・ア・パウロ)
創立:1953年 ◇ 住所:東京都練馬区豊玉中1-39-1

西武新宿線の沼袋駅で降りる。新青梅街道を越えて、カトリック徳田(とくでん)教会を目指す。間もなく、慈生会病院の大きな建物が見えてくる(2010年、慈生会病院は経営母体が変わり、現在は東京病院と改称された)。秋津教会、及び上野教会の記事でも触れたが、この中野界隈にもフロジャク神父の足跡が残されていた。しかも、その社会福祉事業の第一歩が記された地である。ここに、フロジャク神父は慈生会病院の前身「ベタニアの家」を創立した。

1927年、フロジャク神父は中野の結核療養所を訪問した。当時、結核は不治の伝染病とされ、患者は社会的・精神的な孤立を強いられていた。その惨状に胸を痛めたフロジャク神父は、中野に療養施設「ベタニアの家」を開設し、結核患者に安らぎの場所を提供した。その数年後には、清瀬に広大な療養農園「ベトレヘムの園」を拓いた。戦争中毒の「大日本帝国」から見捨てられた人々に、フロジャク神父のような外国人宣教師が救いの手を差し伸べた例は多い(注)

徳田教会に到着。フランスの田園にあるような美しい聖堂だ。すると、中からオルガンの音が聞こえてきた。ちょうど訪れた日は、3月の初金ミサであった。会衆は20人ほどが集まっている。シスターの姿も見かけたが、近所のベタニア修道女会から来ているのだろう。この日のミサは、ささやかな集まりであったが、オルガンの本格的な伴奏で聖歌を歌った。フロジャク神父の息吹きが感じられるような雰囲気だ。この美しい聖堂でミサに与ったことを神に感謝しよう。


現聖堂献堂:1953年

(注):サレジオ会のチマッティ神父(三河島教会の記事参照)、イエズス会のラッサール神父(町屋教会の記事参照)、戦後は「蟻の町」のゼノ修道士(潮見教会の記事参照)。そして、邦人司祭では戸塚文卿神父(小金井教会の記事参照)。

◆主な参考文献など:
「創立者フロジャク神父の小伝」 五十嵐茂雄著(ベタニア修道女会・1976年)
「ベタニア修道女会とフロジャク神父」 清水須巳子著(清水弘文堂・1991年)
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カトリック小岩教会

2011年05月27日 | 東京のカトリック教会
カトリック小岩教会(教会堂名:聖ボニファチオ)
創立:1958年 ◇ 住所:東京都江戸川区西小岩4-4-1

JR総武線の小岩駅で降りる。市川教会の記事でも触れたが、かつて私は船橋市内の団地で幼少期を過ごした。当時、私たちの家族は日曜日になると、よく東京のデパートへ出かけ、ちょっとした「おのぼりさん」気分を楽しんでいた。その時、津田沼駅から利用した電車が、総武線(または総武快速線)だった。幼い私は、たちまち「ばくろちょう」「きんしちょう」、そして「こいわ」などの駅名を覚えてしまった。総武線の鉄橋から望む江戸川の流れも強く印象に残った。

東京と千葉の境界線である江戸川は、私が生まれてから最初に見た「大河」であった。習志野台団地に住んでいた頃、友だちと私は近所の小川に出かけて、アメリカザリガニなどの採集に熱中したものだ。日が暮れるまで、そこで遊んだことを思い出す。団地の周辺には、まだ雑木林や水田などの豊かな自然が残っていたのだ。今から2年前、私はそこを訪れたが、小川は暗渠となり、雑木林は消え失せ、水田は宅地に変わった。幼い頃の原風景は失われていた。

思い出の小川に比べると、江戸川は滔々と流れる大河のようであった。そんなことを考えているうちに、小岩教会に到着。併設の幼稚園の奥に、切妻造りの聖堂が見えた。この日は他に訪れる人もなく、聖堂内はひっそりとしていたが、園舎から子どもたちの元気な声が聞こえる。私は小さな祈りを捧げた後、安らかな気分になって聖堂を出ると、江戸川特有の(?)澄んだ青空が広がっていた。 それは、私が幼い頃に総武線の車窓から見たのと同じ青空である。


現聖堂献堂:1958年
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復活節第5主日のミサ

2011年05月23日 | ミサ聖祭
晴天に恵まれたカトリック八王子教会
(住所:東京都八王子市本町16-3)

5月22日(日)、八王子教会で復活節第5主日のミサに与った。四旬節第3主日復活の主日(復活祭)復活節第3主日に続き、この日も晴天に恵まれた。八王子教会に着くと、私は聖堂裏のルルドへ向かった。そこは、古い塀の角にある。「八王子教会百年」によれば、1925年に「屋敷境のブロック塀(現在のもの)を作る」とあった。そうであれば、メイラン神父時代の遺構だろうか。フランス出身のメイラン神父は、半生を八王子教会に捧げた「歩く宣教師」の末裔。

「(メイラン)師は毎朝の水浴をかかしたことはなかったそうだ。師の起床は夏冬に拘わらず五時、そして井戸端の大きな水槽にザンブと飛込むのである。寒中は、水浴が終るとスータンを召し、大きなサボ(木靴)を引かけて地響き立てて聖堂の周囲を幾回となく駆け足で廻り、体にほてりが来る頃聖堂で静かにミサ前の黙想をされたそうだ」(青山鷲夫・「追憶の樹蔭」より)。 聖堂裏の西隅にあるルルドの前に立つと、今にもメイラン神父の靴音が響いてくるようだ。

この日、私は午前7時のミサに参列した。福音書朗読は、イエスが弟子たちに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と諭された場面(ヨハネ14・1-12)。主任司祭の稲川圭三神父は、「私たちも揺らぐことなく、ともにおられる神を信じましょう」と話された。東日本大震災の後、私たちは漠然とした不安の中にいる。放射能の恐怖も収束しない。だから、本日の朗読箇所と説教は心に銘するものとなった。「神よ、あなたの道を示してください」。


聖歌隊の歌声が響くカトリック八王子教会聖堂
(午前7時ミサ終了の後、午前10時ミサ前の練習)

◆主な参考文献など:
「八王子教会百年」 カトリック八王子教会百年記念誌編集委員会編(同教会百年祭委員会・1977年)
「追憶の樹蔭・メイラン神父の面影」 聖ベルナデッタ会編(中央出版社・1955年)
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カトリック北町教会

2011年05月21日 | 東京のカトリック教会
カトリック北町教会(教会堂名:聖アンデレ)
創立:1959年 ◇ 住所:東京都練馬区北町3-16-1

東武東上線の下赤塚駅で降りる。川越街道を東へ進み、北町教会を目指す。この界隈には、陸上自衛隊の練馬駐屯地がある。ここは、かつて旧陸軍の造兵廠練馬倉庫があったところ。造兵廠(ぞうへいしょう)とは、「兵器・弾薬・器具などを製造・修理する機関」とされる。川越街道の西方には、自然が豊かな光が丘公園が広がっている。ここも、戦前は旧陸軍の飛行場があった。 関町教会の記事でも触れたが、練馬周辺が空襲の標的となった背景が窺える(注)

北町教会に着いた。幼稚園の園庭の向こうに、ネオゴシック風の聖堂が目に入る。メルヘンに出てくるような愛らしい「おみどう」だ。「北町教会の生みの親は元板橋教会主任、フランシスコ会のゲレオン・ゴルドマン神父です。同神父は、増加する板橋区周辺の信者のために、東上線沿線に、もう一つの教会を建てることを思い立たれた」という。ゴルドマン神父(1916-2003年)は、東久留米に「聖グレゴリオの家」宗教音楽研究所を創立したことでも知られる。

ゴルドマン神父は、ドイツ出身のフランシスコ会司祭。戦前の神学生時代、運命のいたずらか、ナチス親衛隊員になった。無線兵として活躍したが、信仰上の理由で親衛隊から追放。その後、陸軍の衛生兵に転籍し、苛酷な戦場を経て、連合軍の捕虜になった。当時の重苦しい体験は、ゴルドマン神父の告白録「翼の影」に詳しい。1954年に初来日、板橋教会の主任司祭を務めた。北町教会の美しい聖堂は、今もゴルドマン神父の祈りが込められているような佇まいだ。


現聖堂献堂:1959年

(注):練馬周辺には、中島飛行機武蔵製作所(武蔵野市)などの大規模な軍需工場もあった。

◆主な参考文献など:
「翼の影」 ゲレオン・ゴルドマン著、工藤京子訳(コルベ出版社・1975年)
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カトリック蒲田教会

2011年05月19日 | 東京のカトリック教会
カトリック蒲田教会(教会堂名:聖フィリポ)
創立:1961年 ◇ 住所:東京都大田区新蒲田1-13-12

JR京浜東北線の蒲田駅で下車。ホームの発車メロディが、軽快な「蒲田行進曲」だった。「青春もゆる 生命はおどる キネマの天地」と歌われた松竹蒲田撮影所は、現在の大田区民ホールの地にあった。「蒲田行進曲」は、この撮影所の所歌だったのだ。まさしく、蒲田は日本映画の揺籃の地と言えよう。しかし、私の邦画に対する印象は最悪だった。物心がついた頃、任侠映画や角川映画などによって、邦画といえば「野蛮、内容空疎」としか思えなかった。

ハリウッドなどの洋画一辺倒だった私が、ようやく邦画の魅力に開眼したのは、衛星放送で小津安二郎監督と木下恵介監督の作品を見てからだ。それらの中でも、小津監督の映画「大人の見る絵本 生まれてはみたけれど」(1932年)などの初期作品は、蒲田撮影所で製作されている。「生まれてはみたけれど」は、子どもの目を通して、大人の卑屈な処世術を風刺したサイレント映画の傑作。木下監督の「破れ太鼓」(1949年)とともに、私の好きな日本映画だ。

蒲田教会に到着。三角屋根の聖堂は小平教会と似ているが、ここも親建会の設計・施工。教会堂名の聖フィリポは十二使徒の最古参だが、あまり詳しいことは知られていない。ただ、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったフィリポに対し、イエスが「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」と諭されたこと(ヨハネ14・8-9)など、印象的な場面に登場している。


現聖堂献堂:1961年
“ナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、
フィリポは、「来て、見なさい」と言った。(ヨハネ1・46)”

◆主な参考文献など:
・「小津安二郎新発見」 松竹編(講談社+α文庫・2002年)
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