2015年、主の降誕の日
(場所:調布サレジオ神学院聖堂にて)
(場所:調布サレジオ神学院聖堂にて)
忙しさにかまけてブログの更新を放置していたら、トップ記事に広告が表示されてしまいました。前回の記事でも触れましたが、私は昨年6月より某修道会系の教会で入門講座を受講しています。開講に当たり、主任司祭は次のように言われました。「信仰は一生の学びです。この講座はキリスト者として生きるスタートラインに過ぎません。その生きる力となるのが、神のみ言葉(聖書)と御聖体です。キリストの死と復活を信じ、希望して、キリストのように生きる。これが私たちの信仰です」。
定期的な入門講座との日程調整がつかなかったため、講義は神父様との「個人授業」のスタイルで行われています。私の勝手な都合に合わせて講義日程を組んでくださる神父様には、ただただ感謝の思いでいっぱいです。講座は聖書の勉強を終え、先日は秘跡について学びました。神父様の「熱血講義」を通して、カトリックの基本の「き」も分からなかった自分の無知に恥じ入るばかりです(汗)。いまは復習に追われていますが、機会があれば講座のふりかえりを記事にしたいと思います。
先月、神父様に「洗礼申込書」を提出し、また代父様にもお会いしました。私の守護の聖人となる洗礼名も決めました。おそらく、来月26日(土)の復活徹夜祭で洗礼のお恵みに与ることになるでしょう。思い起こせば、私は日本のカトリック教会の現状にひどく落胆し、他教派を巡ったこともありましたが、やはりカトリック信者として生きることを望みました。その理由はうまく説明できませんが、神様の不思議なお導きなのかもしれません。遅ればせながら、本年も当ブログを宜しくお願い致します。
私も勉強始めたばかりの求道者なので、とても親近感を覚え思わずコメントさせていただきました。
来月、受洗なさるのですね!本当におめでとうございます!主任司祭さまのおことばに、なぜか私まで胸がいっぱいになってしまいました。良き指導者に恵まれ、マンツーマンの「熱血講義」を受けておられるとのこと。すべてエウティコさんのために神さまが準備していらっしゃったのだな・・・と思いました。
入門講座のふりかえりを記事にするというご計画、非常に楽しみです。記事がUPされるのをわくわくしながら(のんびり)お待ちしています。
過去に何度かこちらのブログを拝見させて頂いたことがありましたが、洗礼を受けられるとのことで思わず初コメントさせて頂きました。
私はクリスチャンホーム出身でもキリスト教系の学校出身でもなく、まったくキリスト教と無縁(遠藤周作先生や曽野綾子先生や渡辺和子先生等カトリックに好きな方は多いのですが)で来たのですが、神様のお導きにより教会に通い始め、こちらのブログでも紹介されました聖公会の教会で今月洗礼を受ける予定です。
洗礼名は自分は美術系出身なので、福音記者のルカにちなんだ名前にしたのですが、聖ルカが光に由来する名前ときいて、自分は真逆な性格な為、名前にふさわしい人間に少しでも近づけるよう頑張っていきたいと考えております。
来月に洗礼予定とのこと、おめでとうございます。
たくさんの教派での学びや、礼拝を経験されて、いよいよ洗礼を受けられるのですね。きっと今までのご経験も神様が祝福して用いてくださるのではないでしょうか。
私はプロテスタントの者ですが、これからもエウティコさんの信仰の歩みをブログを通して発信してくださればうれしく読ませていただきたいと思っています。
カトリック信者です。
以前こちらのブログを拝見した時には、
カトリックへのがっかり感を感じさせる内容でしたので、
今日久しぶりに拝見してびっくり!そして嬉しいです!
どの教派であろうと神様とつながっているとは思いますが、
カトリックを通して信仰の道を歩まれるとのこと、ついテンションが上がってしまいました(笑)
私も成人洗礼で、やはりお導きがありカトリック信者となりました。勝手に親近感を感じています!
エウティコさんがすばらしい洗礼式を迎えられますよう、お祈りしています。
>>通りすがりの者さん、はじめまして。
「受洗後も『生涯、求道者』の覚悟で」とは、入門講座で賜った神父様のお言葉です。今は求道者の身分ではありますが、これからも「生涯、求道者」の気持ちを忘れずに、イエス様の光の道を歩みたいと思います。通りすがりの者さんにも洗礼のお恵みがありますようにお祈り致します。
>>カビリアさん、ご無沙汰しております。
約5年間、教派を超えて多くの教会を巡りましたが、やはりカトリック信者として生きることを望みました。私の祖父がカトリック信者だった影響が強かったのですね。幼い頃、夕暮れの誰もいない御聖堂で跪いて祈る祖父の姿を通して、私は初めて神様というお方を(漠然と)意識するようになりました。これが私にとって、ささやかな「神体験」と言えるものです。その場所は、某修道会系のカトリック教会の主聖堂でした。
作家の遠藤周作氏が「カトリック信仰は母からのお仕着せだったが、捨てるに捨てられなかった」と、どこかの本(おそらく、『私にとって神とは』光文社)で告白されていたことを思い出します。私の場合、「お仕着せ」ではなく、ほんの軽い気持ちで入門講座を受講したのですが、これが本当に「神さまが準備していらっしゃった」信仰生活の門出となっているのです。
>>ルカさん、はじめまして。
聖公会の教会で受洗されるのですね!心からお慶びとお祝いを申し上げます。これからの信仰生活、常に聖ルカのご保護がありますようにお祈り致します。ルカさんはキリスト教とは無縁だったとのことですが、受洗に至るお恵みに、神様の不思議なご計画を実感せずにはいられません。
私は幼児期から「平均的日本人」よりはキリスト教と接する機会があったのですが、洗礼志願には(あまりにも)長い歳月を費やしたようです。この間、聖公会系の学校ともご縁があり、その入学式で歌われた勇壮な聖歌「見よや十字の旗高し」は、今でも私の愛唱歌・応援歌となっております(現行版『日本聖公会聖歌集』には未収録です)。聖公会には英国生まれの優れた聖歌が多いですね。
>>メロさん、ご無沙汰しております。
「分け登る 麓(ふもと)の道は 多けれど 同じ高嶺(たかね)の 月をこそ見れ」(一休宗純)。これから先、私はカトリックの道を歩むことになりますが、すべてのキリスト者の国籍は天の国にあると思います。カトリックとプロテスタントとでは、歌う聖歌や讃美歌さえも異なりますが、「同じ高嶺の月」を仰ぎながら、いつか主の御許で共に歌える日が来ますようにとお祈り致しましょう。
>>りかさん、はじめまして。
入門講座の神父様が仰っていたように、キリスト者の生きる力は「神のみ言葉(聖書)と御聖体」なのです。そして、イエス様に倣って生きていくのであれば、これまでの「がっかり感」など、まったく「取るに足りないこと、どうでもいいこと」だと、ようやく私の鈍いアタマも悟ったようです(苦笑)。このブログには日本のカトリック教会への「がっかり感」が満載の記事もありますが、それらは受洗前の「恥の記録」として残しておくつもりです。
とはいえ、今後の信仰生活では「がっかり感」が生じてくる場合があるかもしれません。しかし、カトリック教会には「がっかり感」を打破するための(?)多彩な「メニュー」が用意されています。個人の信心業(ロザリオや霊的読書など)、御聖体訪問(教会巡り)、国内外の聖地巡礼、教会や修道院での黙想会などなど・・・。これらを活用する前に、まずは御聖堂で独り静かに念祷することが、私の「がっかり感」打破の特効薬となるでしょう。
信仰薄き否不心得者といったほうがいいような
私ですが、この一年少しは人間的に
成長したかなあ。。。
教会も所詮人間の集団、
キリスト教も長い歴史のあいだ
様々な政治的な影響を受けてきました。
加えていろいろなことが科学的に説明され
、聖書にどう向き合うかという問題もあります。
でも 精霊というか
大きな大きなエネルギーの時空を超えた存在というものを考えると キリスト教の魅力は増えることはあれ
減ることはないと思うのです。
返信が遅れまして、誠に申し訳ありませんでした。
正教会で受洗されたのですね。実は昨年の春頃、私もニコライ堂の伝道会で学ぼうと考えていた時期があったのです。しかし、「三つ子の魂」何とやらでカトリック信者として生きることを強く望むようになりました。ただ、未信者のうちに正教の復活大祭を経験できなかったことが、ちょっと心残りです。
仰る通り、キリスト教には不思議な魅力があります。これまで教会は様々な混乱や分裂を繰り返してはいますが、その「試練」の内には「大きな大きなエネルギーの時空を超えた存在」すら感じられるのです。つい最近、教皇フランシスコとロシア正教会のキリル総主教との歴史的会見が実現しました。このような一致と希望へ向かう「大きな大きなエネルギー」もまた、神様の不思議なご計画だと思うのです。
いま、西方教会は四旬節(Lent)を迎えておりますが、正教会は今週から聖大斎となりますね。どうぞよい復活祭をお迎えください。