三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

聖書通読40日間・<読了>

2012年09月12日 | 本を読む
ある晴れた日のカトリック山手教会
(住所:神奈川県横浜市中区山手町44)

聖書通読40日間を決意してから、40日が経過した。去る9日の時点で新約の「ヨハネの黙示録」まで、つまり旧約の「創世記」からの全文書を読み終えた。新約の「福音書」は極力「注解書」を参照し(イエスのたとえ話は全て参照)、また旧約が引用されている個所は、その都度、原典に戻って確認した。最後まで「字面(じづら)を追っている」苦境に変化はなかったが、通読を「辛うじて終えた」のは、ひとえに聖霊の御導きと御助けによるものであろう。

私が初めて聖書を読んだと言えるのは、プロテスタント系の高校時代に国際ギデオン協会から配布された『新約聖書』(新改訳)だ。学校からは日本聖書協会版の『聖書』(旧・新約合冊)が与えられていたが、私は国際ギデオン協会版聖書の「新改訳」の文体(リズムと言ってもよい)に惹かれた(注)。その後、カトリック信徒だった祖父の遺品からフェデリコ・バルバロ神父訳の『新約聖書』(ドン・ボスコ社版・注釈付き)を見つけ、こちらを愛読するようになった。

恥ずかしながら、「創世記」から「ヨハネの黙示録」まで一気に通読したのは今回が初めてだ。もっとも、「早く読み終えたい」という思いが先走り、「とにかく読み終えた」という自己満足に終わった感は否めない。また、シナイ山のモーセや荒れ野のイエスに倣って(!)、強引に「40日」という期間を設定したのだが、辞典や注解書を参照しつつ「精読」するには、あまりにも短すぎたようである。だから、「毎日、聖書を読み続けること」。これを今後の日課としたい。


カトリック木更津教会の聖母子像
(住所:千葉県木更津市富士見3-1-13)

(注):新改訳聖書はプロテスタントの福音派などで多く読まれている。ちなみに、ヨハネ福音書の同一個所(8・51)を比較すると、新改訳は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」、バルバロ訳は「まことにまことに私はいう、私の言葉を守るなら、永遠に死なないだろう」、新共同訳は「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」となっている。

◆私の聖書通読40日間、座右の書:
「聖書辞典」(新教出版社・2010年)、「聖書百科全書」(三省堂・2000年)、「カトリック聖書新注解書」(エンデルレ書店・1980年)
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聖書通読40日間・<30日目>

2012年08月31日 | 本を読む
初夏のカトリック川越教会
(住所:埼玉県川越市六軒町1-17-15)

聖書通読40日間を決意してから、30日が経過した。昨日の時点で「第二正典」まで、つまり「旧約続編」を全て読み終えた。「字面(じづら)を追っている」苦境に変化はないが、やや読み進む分量を落として、トビト、ユディトなどの物語を味わい、「知恵の書」や「シラ書」からは、好きな聖句を拾い集めていた。「エズラ記(ラテン語)」には苦しめられたが、この文書はカトリックでも正典と見なされていないので、今回は注釈参照などの深入りは避けた。

かくして、私は『旧約聖書』を「辛うじて読み終えた」が、「事典」や「辞典」などの助けがなければ、独力では不可能だった。「創世記」は順調に読み進んできた人も、「出エジプト記」の20章あたりからつまずき始め、「レビ記」で律法アレルギー(?)となり、旧約の通読を断念してしまうのではなかろうか。私も雨宮慧神父の著書『旧約聖書のこころ』と出会うまで、旧約の律法、裁く神のイメージは「新約のよさを浮き立たせるにとどまるもの」と考えていた。

「神の怒りは憎しみから生じるのではない。そこにはあわれみと慈しみが満ちている。神の怒りは愛に裏打ちされている」、「救いとはかぎりなく優しい神のまなざしに出会うことであり、おきて(律法)とはそのまなざしを見続けようとする心のこと」。私は雨宮神父の言葉によって、聖書は旧約から一貫して「神の救いの計画」が中心になっていることを認識した。 今回は旧約の関連書籍からも多くの示唆を受けた。さて、いよいよ、今日から『新約聖書』を読む。


カトリック深谷教会の聖水盤
(住所:埼玉県深谷市栄町1-48)

◆私の聖書通読40日間、座右の書:
「聖書辞典」(新教出版社・2010年)、「聖書百科全書」(三省堂・2000年)、「カトリック聖書新注解書」(エンデルレ書店・1980年)

◆主な参考文献など:
・「旧約聖書のこころ」 雨宮慧著(女子パウロ会・1989年)
・「旧約聖書の世界」 池田裕著(三省堂・1982年)
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聖書通読40日間・<20日目>

2012年08月21日 | 本を読む
炎天下のカトリック草加教会
(住所:埼玉県草加市松江1-6-11)

聖書通読40日間を決意してから、20日が経過した。昨日の時点で「マラキ書」までを、つまり「旧約」を全て読み終えた。「読み終えた」とは言っても、やはり「字面(じづら)を追っていた」に過ぎない。今回、やや読み進む速度が上がったのは、「詩編」などの余白が多い文書があったからである。それでも、難解な「エゼキエル書」などには苦しめられた。ここ数日は少し時間的な余裕が生まれたので、「第二正典(旧約続編)」へ入る前に、預言書を再読していた。

預言書を読むときは、「聖書百科全書」と「カトリック聖書新注解書」を、文字通り座右に置いた。預言者が現れた歴史的背景を押さえるのが不可欠と痛感したし、「注解書」の助けがなければ、「エゼキエル書」のような幻視に基づく複雑な内容、突飛と思える象徴的行為の意味は分からなかった(4章や38章など)。また、37章の「枯れた骨の復活」を、私は「新約の『体の復活』を先取りしている」と曲解していたことも判明。多くの勘違いがあぶり出された。

同じことは、「ダニエル書」にも言える。7章の「四頭の大きな獣」や「日の老いたる者」などの意味を理解せず、「読んでいた」とは羞恥の至りだ。それでも「注解書」を通して、各預言者の「視点」、例えばエゼキエルが強調した「罪の個人的責任、心からの回心」などを見出したのは大きな収穫であり、私のエゼキエルに対する苦手意識もかなり減った。もちろん、「読書百遍義自ら見(あらわ)る」の実感には程遠く、そろそろ独学の限界も見えてきたようである。


カトリック加須(かぞ)教会の聖母像
(住所:埼玉県加須市富士見町3-22)

◆私の聖書通読40日間、座右の書:
「聖書辞典」(新教出版社・2010年)、「聖書百科全書」(三省堂・2000年)、「カトリック聖書新注解書」(エンデルレ書店・1980年)
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聖書通読40日間・<10日目>

2012年08月11日 | 本を読む
炎天下のカトリック行田教会
(住所:埼玉県行田市旭町16-2)

聖書通読40日間を決意してから、10日が経過した。昨日の時点で、創世記からネヘミヤ記までを読み終えた。「読み終えた」とは言っても、それは「字面(じづら)を追っていた」に過ぎない。私は日常生活でも人名を覚えるのが苦手なので、例えば王妃イゼベルが将軍イエフを「主人殺しのジムリ」(王下9・31)と罵った場面では、わざわざ「聖書辞典」で「ジムリ」の項を参照しなければならず、あたかも英文和訳に四苦八苦する中学一年生のようであった。

また、当初は全文を「注解書」で確認しようとしたが、難解な個所(例えば創6・1-4「神の子らと人の娘たち」の解釈)を除き、今回は時間的な理由で諦めた。従って、「読み終えた」とは言っても、独善的な解釈に陥っている恐れがある。さらに「注解書」によっても、個人的に釈然としない個所もあった。「レビ記」などの微に入り細を穿つ律法(動物の血による「あがない」の意味など)、モーセの「捕虜虐殺」命令(民31・14-17)、ヨシュアの「ジェノサイド」等々。

一方、その「注解書」の概説によって、「釈然としない個所」を含む各文書の中心主題が、かすかに浮かび上がってきたのも事実である。それによって、例えば「レビ記」の退屈な条文を読むときも、「聖なる者となれ」(レビ11・44)の趣旨を意識した。ところが、「士師記」からは歴史小説のように読んだので、その背後に働く「神の御業」は見落としたようである。それにしても、私が辞典などを参照する労を厭わず、かくも書物と格闘したのは何年ぶりだろうか。


カトリック北浦和教会の聖母像
(住所:さいたま市浦和区皇山18-1)

<付記>
「聖書百科全書」(三省堂・2000年)の豊富な図版と写真は、私の貧しい読解力を視覚的に補っていることも特記したい。また、歴史的な流れの大要をつかむには、あずみ椋氏のマンガ「旧約聖書(全3冊)」(日本聖書協会)の併読が役に立った。なお、聖書通読期間中はブログ記事の更新が、やや滞りますので、悪しからずご了承ください。

◆私の聖書通読40日間、座右の書:
「聖書辞典」(新教出版社・2010年)、「聖書百科全書」(三省堂・2000年)、「カトリック聖書新注解書」(エンデルレ書店・1980年)
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聖書通読40日間に挑む

2012年08月01日 | 本を読む
炎天下のカトリック熊谷教会
(住所:埼玉県熊谷市末広2-115)

きょうから、聖書を通読することにした。使用する聖書は、日本聖書協会の新共同訳(旧約続編つき・小型版)。創世記からヨハネの黙示録まで(旧約:1,502頁+続編:382頁+新約:480頁=総計:2,364頁)、毎日70ページ前後を目安に、40日間(8/1~9/9)で読み終えたいと思う。最初から「計画倒れ」の危険性をはらみつつ、哀れな未信者が小舟で大海に漕ぎ出すようなものだが、水先案内人として「辞典」と「事典」、そして「注解書」を座右に置くことにした。

まず、「聖書辞典」(新教出版社・2010年)。用語の意味や固有名詞の確認に役立てたい。プロテスタント系の出版社だが、本書は第二正典もカバーしている。次に「事典」としては、「聖書百科全書」(三省堂・2000年)。豊富な図版と詳細な解説で、聖書の歴史的・文化的背景を理解する。そして、「カトリック聖書新注解書」(エンデルレ書店・1980年)。独善的な解釈に陥らないために。なお、「百科全書」と「注解書」の2冊は、数千円の格安価格で入手した古本である。

聖書は「祈りつつ読め、読みつつ祈れ」という。これまでの私は、とても「聖書を読んだ」とは言えない。難しいと感じた箇所は読み飛ばし、歴史的背景となる古代オリエントの理解も浅い。何よりも、教会での説教を通して、自分の勘違いを痛感した。枝葉末節にこだわると今回も挫折してしまうので、疑問はノートにまとめてから、先へ読み進もうと思う。だが、独学は毒学に通ず。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(使徒8・31)との不安を抱えて。


カトリック本庄教会のイエス像
(住所:埼玉県本庄市千代田1-3-28)

<重要なお知らせ>
本日(8/1)より、gooブログは「記事下にテキスト広告を表示」するようになりました。「無料ブログ」とはいえ、記事の内容とは無関係な「41歳、小悪魔な女と言われるワケ(化粧品)」「なぜこんなにフサフサに?(育毛)」などの広告文に困惑しています。ドン・ボスコ社やサンパウロなら大歓迎なのに。
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