三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

狐狸庵先生と歩く町田

2013年01月30日 | 多摩の風景
雪景色の玉川学園礼拝堂
(住所:東京都町田市玉川学園6-1-1)

1963年、カトリック信徒で作家の遠藤周作氏は東京郊外の町田に転居し、その柿生(かきお)の里の家を狐狸庵(こりあん)と名付けた。小田急線の玉川学園前駅を右に出ると、玉川学園の広大なキャンパスがある。構内の丘の上に立つ礼拝堂は1930年の建築で、「好奇心のかたまり」の遠藤氏も拝観しただろう。遠藤氏は玉川学園2丁目に住み、春になると駅周辺の桜並木を愛でたという。この界隈には遠藤氏が免許取得のために通った自動車学校もある。

再び小田急線に乗って、隣り駅の町田で下車。駅周辺は遠藤氏が立ち寄った書店(久美堂)や飲食店(柿島屋など)、そして遠藤夫妻が通ったカトリック町田教会がある。遠藤氏が町田に住んだ約25年間、『死海のほとり』『侍』などの傑作が生まれ、「狐狸庵もの」「ぐうたらシリーズ」のエッセイは好評を博した。それらの中でも、キリシタンの転び者を描いた小説『沈黙』(1966年)はベストセラーとなったが、日本のカトリック教会内では戸惑いや反発も生じたようである。

遠藤氏の思いは『切支丹の里』(1971年)に記されている。「弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう」。遠藤氏は「殉教者の背後にうなだれる多くの弱虫」に目を注ぎながら、自分の内に潜むキチジローの姿を認めたのではないか。今、狐狸庵先生はカトリック府中墓地に眠っている。


カトリック町田教会
(住所:東京都町田市中町3-2-1)

◆主な参考文献など:
・「遠藤周作とPaul Endo」 町田市民文学館編(町田市民文学館・2007年)
・「沈黙」 遠藤周作著(新潮文庫・1981年)
・「切支丹の里」 遠藤周作著(人文書院・1971年)
・「夫の宿題」 遠藤順子著(PHP文庫・2000年)
コメント (8)
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秋川の小さな旅

2012年07月06日 | 多摩の風景
秋川の流れ
(住所:東京都あきる野市五日市)

一昨年、あきる野教会を巡礼した折、内山安兵衛(1866-1936年)の墓を発見できなかった。そこで今回、再び安兵衛の墓を探し求め、初夏の秋川沿いを巡った。JR五日市線の終点・武蔵五日市駅で下車。檜原街道を西へ歩く。途中、西東京バスの車庫の脇を通ったが、ここは安兵衛の屋敷跡。若き日の安兵衛は政治に関心を持ち、明治初期の自由民権運動に熱中。五日市有数の資産家だった内山邸は、血気盛んな同志が集まる「梁山泊」と化した。

安兵衛が八王子の泉町(注)を訪れた時、村人たちが既に「天賦人権思想」を知っていたことに驚いた。安兵衛はキリスト教的な平等観に惹かれ、泉町出身の山上卓樹を通して、テストヴィド神父から洗礼を授かった(安兵衛が秋川で受洗した場所を、地元では「ヤソ渕」と呼んでいる)。聖堂が置かれた内山邸は、五日市でのカトリック信仰の中心となった。関口天主公教会(現・東京カテドラル)聖堂の一つは、安兵衛の有する山林の材木で献堂されたという。

安兵衛の墓は秋川を望む崖上にあった。「聖名保禄(パウロ)」と刻まれた墓石の上には、フランスから取り寄せたというブロンズの十字架が立つ。同じ敷地には内山家や他の信徒の墓もあり、小さな「カトリック墓地」のようだ。安兵衛の父が亡くなった時、内山家の墓所は広徳寺にあったが、寺側は仏式以外の埋葬を認めなかったので、安兵衛は現在の墓地を開いた。古いブロンズの十字架は、安兵衛がキリストと出会った八王子方向に面しているという。


内山安兵衛の墓
(住所:東京都あきる野市五日市)


臨済宗龍角山 広徳寺 山門
(住所:東京都あきる野市小和田234)

(注):多摩地域で最古のカトリック泉町教会がある。併せて「八王子・泉町を歩く」の記事もご参照ください。

◆主な参考文献など:
「多摩の百年(上)悲劇の群像」 朝日新聞東京本社社会部著(朝日新聞社・1976年)
「キリストを背負って六十年 メイラン神父の伝道記録」 塚本昇次著(私家版・1987年)
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からし種と絹の道

2012年06月18日 | 多摩の風景
八王子から輸出用の生糸を運んだ「絹の道
(住所:東京都八王子市鑓水)

6月16日(土)、八王子の緑濃き山間にある「絹の道資料館」を訪ねた。八王子は養蚕と織物が盛んであった。その生糸は海外から珍重され、幕末期に横浜へ運ぶ「絹の道」が開通。資料館がある鑓水(やりみず)地区は、生糸商の豪邸が並んでいたという。だが、生糸バブルが崩壊し、商人たちは次々と没落。鑓水地区は再び静かな里山になった。この資料館も生糸商の屋敷跡に建っている。館内は絹の道や鑓水商人に関する資料が展示されている。

館内の一角に、「西洋文明の道」というコーナーがある。「生糸が運ばれた道をたどって、横浜から各地にキリスト教の布教が行われました。多摩地方では、最初に福音を伝えたのは、カトリックのテストヴィド神父で、1877年のことです。神父は翌年、布教の拠点として、下壱分方村に、聖マリア教会(泉町教会)を設立しています」(展示パネル)。鑓水には当時の古道が今も残っている。ここを往来したであろう、テストヴィド神父と山上卓樹の姿が偲ばれる。

資料館を見学した後、八王子教会で年間第11主日のミサ(土曜日夕方の子どもミサ)に与った。福音朗読は、イエスのたとえ話「からし種」の場面(マルコ4・26-34)。主任司祭の辻茂神父は、「イエス様は神の国を大自然の営みにたとえられた。神様に支えられ人は育つ。私たちはその力に委ねていくことを教えられています」と話された。閉祭の歌を子供たちと一緒に歌う。絹の道を通って蒔かれた種が、八王子に大きな枝を張っている、と歴史浪漫に浸る。


絹の道資料館は入館無料です。
(住所:東京都八王子市鑓水989-2)

◆この日のミサ中の主な歌:
ミサ曲2(典礼聖歌207-210。感謝の賛歌のみ上村幸一郎詩・曲)、入祭:子供の歌「祈ってごらん わかるから」、奉納:子供の歌「先ず神の国を」、拝領:子供の歌「あかしびと」、閉祭:子供の歌「心をつないで」。
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八王子・泉町を歩く

2011年11月19日 | 多摩の風景
カトリック泉町教会を望む
(住所:東京都八王子市泉町1287)

「北浅川べりに近い八王子市泉町は、団地や住宅が建ち、商店がふえても、ひなびた村落の面影はまだ消え去っていない。そんな街角の、曲がりくねった道を抜けると、不意に教会があらわれた。十字架をいただいた尖塔。その下に続く聖堂は古ぼけ、ホコリにまみれている。しかし、周囲の低い家並みと異質なその姿は、やさしくも訳ありげな光を投げかけてくる」(「多摩の百年(上)」より)。今から36年前、新聞記者が描いた泉町教会周辺の情景である。

明治初期、絹の道を通って多摩にキリスト教が伝わった。泉町が下壱分方村と称していた頃、宣教に燃える青年・山上卓樹が伝道士として帰郷すると、封建時代の不条理に苦しんできた村人はカトリックに改宗する者が続出。西南戦争が勃発した1877年、早くも泉町教会が献堂。横浜から視察に訪れたオズーフ大司教を、村人は凱旋将軍のように熱狂的に迎えたという。教会付属の天主学校で多くの若者が公教要理を学び、朝夕は村にアンジェラスの鐘が鳴り響いていた。

いま、泉町は静けさを取り戻したが、栄光の時代を偲ばせる旧跡がある。まず、教会裏手の墓地。ここは明治期に廃れた喜願寺跡と思われ、「寺の墓地はいつの間にか十字架の墓石が立ち並ぶようになった」。現在も十字架が刻まれた新旧の墓石が混在している。次に、教会に程近い泉町会館。ここは卓樹の同志の邸宅跡で、民権運動の全盛期は板垣退助が訪れたという。敷地の一角に、卓樹らを顕彰した先覚之碑がある。何となく燎原の残り火のようだ。


泉町会館の敷地内にある先覚之碑
(住所:東京都八王子市泉町134)


カトリック八王子教会丸山墓地にある山上卓樹の墓
(住所:東京都八王子市緑町)

◆主な参考文献など:
・「多摩の百年(上)悲劇の群像」 朝日新聞東京本社社会部著(朝日新聞社・1976年)
・「八王子教会百年」 カトリック八王子教会百年記念誌編集委員会編(同教会百年祭委員会・1977年)
・「山上卓樹・カクと武相のキリスト教」 町田市立自由民権資料館編(町田市教育委員会・2006年)
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国立の桜並木

2011年04月17日 | 多摩の風景
大学通りの桜並木
(住所:東京都国立市中3丁目付近)

JR南武線の谷保駅で降り、立川教会の国立(くにたち)集会所を訪ねてから、桜が満開の大学通りに寄った。このメインストリートを北へ進むと、一橋大学の国立キャンパスがある。先ごろ、「花見の自粛」をブチ上げた石原慎太郎都知事の母校だ。私は慎太郎の放言を聞くたびに、「ファシズム復古」を感じ取ってしまうのだが、それは気のせいだろうか。広々とした構内を散策すると、時計台のある附属図書館やロマネスク様式の兼松講堂などの建物が美しい。

関東大震災で校舎が倒壊した一橋大学は、神田から国立と小平へ移転。旧校地には、現在も如水会館などの建物がある。大学を迎えた国立は、農村から学園都市に変貌した。見事な桜並木の大学通りは、その遺産である。この日も多くの老若男女でにぎわっていた。自粛を押しつける石原都知事は、ささやかな花見を楽しむ人々の幸せが妬ましいのだろう。まったく野暮な男だ。ちなみに、“野暮天”の語源とされる谷保天満宮は、ここから徒歩圏内にある。

谷保駅へ戻る途中、富士見台第一団地の脇を通った。私が過ごした団地と、よく似ている。郷愁に駆られて、広々とした敷地内を散策した。富士見台の造成は1965年だから、千葉の習志野台団地と、ほぼ同世代と言えよう。住棟間の芝生も贅沢なスペースが確保されている。快晴になると、団地のベランダに洗濯物や布団が満艦飾のように干されていたのを思い出す。ただ、この日はそれらが少ないことに気がついた。 放射性物質の付着を恐れているのだろうか。


国立富士見台第一団地
(住所:東京都国立市富士見台1丁目)
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