goo blog サービス終了のお知らせ 

三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

チマッティ資料館

2012年01月29日 | 東京のカトリック教会
チマッティ資料館
(住所:東京都調布市富士見町3-21-12)

調布サレジオ神学院の一角に、白亜のチマッティ資料館がある。その功績を称えられた人の名は、ヴィンチェンツォ・チマッティ神父(Vincenzo Cimatti:1879-1965年)。極東に於けるサレジオ会発展の礎を築いたイタリア人司祭である。チマッティ神父は、日本の青少年や貧しい人々のために教育・福祉事業を興し、サレジオ会の創始者ドン・ボスコの理想を実践した。楽才豊かなチマッティ神父は作曲を得意とし、その優れた音楽は複数のCDで確認できる。

ある日曜日の午後、私はチマッティ資料館を訪れた。事前に見学の旨を伝えていたので、館長のガエタノ・コンプリ神父からご説明いただく光栄に浴した。私がチマッティ神父のアヴェ・マリアに感激したことを申し上げると、コンプリ神父は「それでは、まずCDを聴きましょうか」と別室へ案内された。美しい調べに耳を傾けながら、コンプリ神父はこんなエピソードを披露された。「チマッティ神父はネ、鳥のさえずりを聞くと、それを直ぐに音符で書き留めたのです」。

2階の展示室へ移動。そこには、チマッティ神父の膨大な遺品が陳列されていた。ボロボロの衣服などから、チマッティ神父の清貧が偲ばれる。現在、チマッティ神父の遺体は記念聖堂の地下に安置されているが、改葬前の古い柩もあった。コンプリ神父は展示品を前にして、恩師のチマッティ神父と調布で過ごされた日々を話された(注)。資料館の見学を終え、私は神学院の広い構内を散策。その時、チマッティ神父がヒョッコリ現れた!ような気配であった。


尊者ヴィンチェンツォ・チマッティ神父
(チマッティ資料館内の肖像画)


調布サレジオ神学院本館
<矢印の部分がチマッティ神父臨終の部屋>

(注):コンプリ神父から伺った『チマッティ師の思い出(抄)』
 ・チマッティ神父は非常に小柄な人。身長は160センチくらいでしたネ。
 ・チマッティ神父は即興で伴奏することもありました。それを採譜したのはマルジャリア神父たち。
 ・すぐそこのグランド(神学院北側)で、チマッティ神父もサッカーをしました。
 ・チマッティ神父が亡くなった場所は、神学院2階の角部屋。今は院長室になっています。
 ・神学院の地下聖堂にあるオルガンは、実際にチマッティ神父が弾いていたものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カトリック八王子教会

2012年01月03日 | 東京のカトリック教会
カトリック八王子教会(教会堂名:諸聖人)
創立:1877年 ◇ 住所:東京都八王子市本町16-3

京王線の京王八王子駅で下車。盆地の八王子は、養蚕(ようさん)と織物が盛んであった。絹をつくる蚕(カイコ)は桑の葉を主食とするので、古くから八王子は「桑都(そうと)」と呼ばれる。八王子の生糸は海外から珍重され、幕末期は横浜へ運ぶ「絹の道」も開通した。私が子どもの頃、JR八王子駅前に、「織物の八王子」と書かれた巨大なモニュメント(織物タワー)があったのを思い出す。現在、それは撤去され、「絹の道」も多摩丘陵の草木に覆われている。

八王子教会を目指して、甲州街道の商店街を歩く。呉服店やミシン専門店が多いことに気づく(余談ながら、八王子教会近くの荒井呉服店は、松任谷由実の実家である)。また、仏具店もよく見かける。八王子は仏教寺院が多く、その数は140ヶ寺に及ぶ。明治初期、八王子を訪れたテストヴィド神父の目には、「偶像崇拝に明け暮れる町」と映ったらしい。1877年、元八王子に泉町教会が献堂されてはいたが、テストヴィド神父は市街中心部でも宣教を始めた。

1896年、市内の信徒宅や伝道所を経て、現在地に本格的な聖堂が建てられた。これによって、八王子での宣教活動は泉町から本町へと移行する。テストヴィド神父の遺志を継いだメイラン神父は、44年間の長きに渡る主任司祭を務め、戦前の八王子教会発展の礎を築いた。当時、多摩地域における宣教の拠点は八王子だったので、メイラン神父は川越などの広域も巡回した。2012年、創立135周年を迎えた八王子教会は、関東屈指の古教会である。


現聖堂献堂:1950年


カトリック八王子教会のおん助けの聖母像

◆主な参考文献など:
・「八王子教会百年」 カトリック八王子教会百年記念誌編集委員会編(同教会百年祭委員会・1977年)
・「明治期 多摩のキリスト教」 沼謙吉著(法政大学多摩地域社会研究センター・2000年)
・「多摩の百年(下) 絹の道」 朝日新聞東京本社社会部著(朝日新聞社・1976年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カトリック泉町教会

2011年10月27日 | 東京のカトリック教会
カトリック泉町教会(教会堂名:聖マリア)
創立:1877年 ◇ 住所:東京都八王子市泉町1287

西東京バスの泉町(いずみちょう)停留所で降りる。ここは八王子の中心部からバスで20数分を要し、北に浅川を望み、南西は八王子城が築かれた城山が聳えている。バスが無ければ、陸の孤島になってしまう。現在も交通アクセスが良いとは言えない泉町に、今から百年以上前の明治初期、横浜からカトリックの信仰が伝えられたのは驚きである。この泉町が下壱分方村と称していた頃、宣教に燃える青年・山上卓樹が伝道士として故郷の村に戻ってきた。

山上卓樹(1855-1931年)はカトリック信徒で民権家。 恩師のテストヴィド神父の命を受け、泉町で伝道士として活躍すると、封建時代の不条理に苦しんできた村人はカトリックに改宗する者が続出した。その勢いは卓樹が「燎原の火の如く」と評し、テストヴィド神父も「全村こぞってカトリックになる」と喜んだ。1877年、早くも天主堂(現・泉町教会)が建てられ、教会の付属学校も完成。しかし、村の大火やテストヴィド神父の死などによって、急速に勢いが衰えた。

1927年、泉町教会の創立50周年を記念して、現在の聖堂が再建された。式典には年老いた卓樹の姿もあった。戦後、この聖堂は信徒数の減少で荒廃したが、八王子教会の創立百年を機に補修・整備された。去る7月24日、私は泉町教会で年間第17主日のミサに与った。戦前の古い聖堂内は、今も卓樹やメイラン神父、往年の村人たちの賛美の歌声が残っているかのようだ。泉町教会は小さな佇まいだが、鐘楼を戴く聖堂に遠い歴史の記憶が蘇える。


現聖堂献堂:1927年
<埼玉の入間宮寺教会聖堂と似ている>


<聖堂内後方。 右手に足踏み式オルガンがある>

◆主な参考文献など:
・「多摩の百年(上)悲劇の群像」 朝日新聞東京本社社会部著(朝日新聞社・1976年)
・「八王子教会百年」 カトリック八王子教会百年記念誌編集委員会編(同教会百年祭委員会・1977年)
・「山上卓樹・カクと武相のキリスト教」 町田市立自由民権資料館編(町田市教育委員会・2006年)

<付記>
現在、泉町教会は八王子教会の分教会となっている。毎月第二・第四日曜日の主日ミサを除き、聖堂は施錠されている場合が多い。聖体訪問などで巡礼する場合は、事前に開堂時間の確認をお勧めしたい。(なお、本記事の続編「八王子・泉町を歩く」、「主の降誕(日中のミサ)」もあわせてお読みください)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カトリック府中墓地

2011年10月15日 | 東京のカトリック教会
カトリック府中墓地
(住所:東京都府中市天神町4-13-1)

京王バスの「学園通郵便局前」停留所で降りる。バス通りに沿って歩くと、カトリック府中墓地の正門が見えてきた。広大な園内に入ると、晴れた秋空が本当に高く見える。東京大司教区がこの墓地を開設したのは1927年だから、すでに80年以上の歴史が流れている。府中墓地には、メイラン神父(注)、フロジャク神父、カンドウ神父、ゼノ修道士らの外国人宣教師が永久の眠りについている。 そして、カトリック信徒で作家の遠藤周作氏の墓もここにある。

「秋晴れの日、菊の花をもって墓参りに行った。母の墓は府中市のカトリック墓地にある。学生時代から、この墓地に行く道を幾度、往復したか知らない。昔は栗や橡の雑木林と麦畑とが両側に拡がって、春などは結構、いい散歩道だったここも、今は、真直ぐなバス道路が走り、商店がずらりと並んだ。(中略)来るたびに一つ一つの思い出が心に浮かぶ。大学を卒えた日も墓参した。留学で仏蘭西に行く船にのる前日にもここにきた」。(遠藤周作著「切支丹の里」)

中学時代の私は遠藤文学の熱心な読者ではなかった。むしろ、遠藤氏のイエス観に反発さえ覚えた。だが、敢えて「転び者」を描く遠藤氏の視線は、遥か彼方に注がれていたのだ。「弱者たちもまた我々と同じ人間なのだ。彼等がそれまで自分の理想としていたものを、この世でもっとも善く、美しいと思っていたものを裏切った時、泪を流さなかったとどうして言えよう。後悔と恥とで身を震わせなかったとどうして言えよう」(前掲書)。主よ、あわれみたまえ。


カトリック府中墓地聖堂


現聖堂献堂:1990年
“ Requiem aeternam dona eis, Domine... ”

(注):メイラン神父の墓は、カトリック八王子教会の丸山墓地(八王子市緑町)にも分骨されている。

◆主な参考文献など:
「切支丹の里」 遠藤周作著(人文書院・1971年)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カトリック下井草教会

2011年10月07日 | 東京のカトリック教会
カトリック下井草教会(教会堂名:キリスト信者の扶助者聖マリア)
創立:1949年 ◇ 住所:東京都杉並区井草2-31-25

西武新宿線の下井草駅で降り、旧早稲田通りに沿って歩く。新青梅街道を越えると、下井草教会の鐘楼が見えてきた。だが、その背後には巨大なマンション群が、エリコの城壁のように建っているではないか。これには驚いた。数年前、教会の北側にあった育英工業高等専門学校(現サレジオ高専)が町田市に移転し、その跡地の大規模開発によって風景が一変してしまったのだ。献堂時はこの辺りで最も高く聳えていたはずの聖堂が、とても小さく見える。

教会の前庭には、古い切支丹燈籠がある。その説明板を転載。「この燈籠は江戸幕府の弾圧に対して、隠れ切支丹がひそかに礼拝したとされるものです。その特徴は、全体の形が横の短いラテン十字架になっており、竿石の正面下部にはお地蔵さまなどが彫られています。表向きはお地蔵さまとしていますが、キリストやマリアを表します」。だが、江戸時代の悪代官や私のような未信者にはお地蔵さまとしか思えず、十字架や聖母の姿は見えないのだ。

聖堂内には、「扶助者聖マリアとチマッティ神父」のステンドグラスがある。チマッティ神父については、調布教会三河島教会などの記事で触れた。戦時中、チマッティ神父は「宣教師が助かるならば、扶助者聖マリアに聖堂を捧げる」と誓願した。その願いは叶い、戦後に献堂されたのが下井草教会である。1965年、ロザリオの月にチマッティ神父は帰天。葬儀は下井草教会で行われた。美しい聖堂は、チマッティ神父の慈愛に満たされているかのようだ。


現聖堂献堂:1956年

◆主な参考文献など:
・「チマッティ神父・日本を愛した宣教師」 T・ボスコ、G・コンプリ共著(チマッティ資料館・2001年)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする