しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <豊かないつくしみの思い出>

2022-03-07 | 詩篇

「人々はあなたの豊かないつくしみの思い出をあふれるばかりに語り あなたの義を高らかに歌います。」(詩篇145:7新改訳)

ダビデの名前が標題についた詩篇は、本篇が最後である。このあとの五篇(146~150)はハレルヤ詩篇と呼ばれ、詩篇の最後を大いなる喜びと賛美で飾っている。▼ハレルヤ詩篇ではないが、この一四五篇もダビデ王の神に対する賛美として、これ以上ないほど美しい詩である。個人的な悩み、苦しみの吐露は影をひそめ、世界をいつくしみ、愛をもって支え給う神をほめたたえている。▼そしてダビデの視線は小さなイスラエル王国を離れ、永遠の神の国、キリストが統治される新天新地へ移って行く。同時に来るべき王の愛といつくしみは、すでに今、全世界に注がれており、悩む者、倒れている者は主によって起こされる。すなわち御霊によって広がっているキリストの福音である。かくしてダビデの霊性は完全に解き放たれ、天地の生きとし生けるものへの愛と恵みをほめたたえつつ「ダビデの賛歌」を結ぶ。

私たちは少年の頃、羊を飼いながら琴を奏でていたダビデを思い、王に選ばれてからの苦難と喜びを歌った彼とともに歩んで一四五篇までやって来た。そして改めて思うのである。神が人間を創造された目的は、ご自身をほめたたえ、賛美をささげさせるためではないか、と。もちろん古来からそれぞれの民族には雄大な叙事詩や歴史賛歌、祖先への回顧と崇拝などがある。しかしそれらは、全世界を網羅し、あらゆる時代とあらゆる地域の人間を活かす歌とはなりえなかった。天におられる唯一の神、その御心と直結する霊性をもった詩人が作者でなかったからである。神の霊感に突き動かされて、あるいは押し出されて詠ったものではなかったからである。▼ダビデの歌はダビデの歌というより、彼の生涯と心を支配された神の聖霊から流れ出た歌である。だからこそ時を超え、国や民族を超え、天地を結びつつ永遠を満たしている。そしてさらにダビデの賛美はレンズの焦点に光が集まるように、受肉された神の御子イエス・キリストに収斂(しゅうれん)していく。この驚くべき啓示、神の愛と恵みの完全な顕現であるキリストにダビデの全賛美が吸い込まれる。まるで巨大な河がひとつの滝つぼに轟音とともに流れ落ちるように。そしてそこにこそ、全時代の信仰者たちが引き寄せられる理由がある。▼使徒ヨハネは第三の天で激しく泣いていた時、一人の長老から言われた。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます」(黙示録5:5同)と。結局、ダビデの全詩篇は一本の矢となって「ダビデの根」である方を射止めているのだ。全時代の全信仰者の目をそこに注がせるために・・・。

 

 


朝の露 <わが岩なる主>

2022-03-03 | 詩篇

「わが岩なる主がほめたたえられますように。戦いのために私の手を 戦のために私の指を鍛えられる方が。」(詩篇144:1新改訳)

ダビデは決して自分が強いとは思っていなかった。巨人ゴリアテを倒したのも、強敵ペリシテ人を破ったのも、自分の能力や力によるのではなく、共にいて下さる主によったのだ、と彼は告白する。▼ところが神を知らない異邦人の王たちは、戦いに勝ったときは必ず戦勝記念碑を建て、栄誉と称賛を自分に帰すのを常とした。ダビデはそうしなかった。記念碑を建てる代わりに詩篇を作り、曲をつけて神を賛美したのである。世界の王たちが岩壁に刻んだ記念碑、凱旋門あるいは自己の名を冠した町々は何も語らず、年月とともに風化し、砂に埋もれ、廃墟の丘と化す。バビロン、ニネベ、殷墟、ピラミッド等々。▼それに比べ、ダビデの歌は数千年後の今に至るまで、数えきれない人々の心にいのちを与え、神への信仰を奮い立たせ、人生を新しく変容させて来た。彼が生きていれば言うにちがいない。すべての栄光を主にささげて生きる者こそ、真の意味で王であり勇士なのだ、と。

「主よ 人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(3)。▼これは人間の小ささを詠ったものと解釈されるが、神の子の受肉を預言したものともとれる。全知全能の神は、ご自身のひとり子により、天地宇宙と万物をお造りになったが、そのひとり子をナザレのイエスとして地上にお遣わしになった。すなわち、人の子イエスこそ神愛の究極的創造だといってよいかもしれない。当時のパリサイ人をはじめ、指導者たちは、よもや眼前に立っておられる青年が人類の罪を身に負い、のろわれた姿をとられた神であるとは認めることができなかった。ましてや父なる神の全愛を傾けた存在、かけがえのない愛子であるとは夢の夢にも思わなかったのである。それこそ、人の子イエスが愛の究極的出現であることを知り得なかった。知っていたなら当然、十字架につけることはしなかったであろう。▼私たちは聖書と聖霊により、このお方に日々お会いしているのである。そこに深いおどろきと感動がともなうのは当然であろう。そしてこのことが全キリスト者において、ディボーションの出発点とならなければならない。

 


朝の露 <朝にあなたの恵みを>

2022-03-02 | 詩篇

「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」(詩篇143:8新改訳)

ダビデはサウルに追われ、二〇代の大部分を荒野で過ごしたのではないかと思われる。人生でいちばん辛く苦しい時期だったといえよう。▼ところが不思議なことに、彼の信仰と霊性がもっとも輝いたのは荒野時代だったのである。それが現れているのが詩篇だといってよい。サムエル記にはあまり出て来ないが、軍団の長というだけでなく、祈りの人として朝に夜に、絶えず祈り続けたと思われる。巨人ゴリアテを一石で倒した勇士であったが、ひとり、神の前に出ては哀願し、泣き、自分の弱さと苦しみをありのまま言いあらわし、主の恵みによりすがったダビデ。▼これはまさに、涙の人として生涯をお送りになった主イエスのひな型であった。そしてそこにキリストの御生涯、十字架、信頼する者から裏切られた悲しみ、さらに復活の預言と輝く御国の栄光が描き出されたのである。

思えば不思議ではないだろうか。信仰者がいちばん苦しく、つらい生涯を送っているとき、反対に、そこに主なる神の愛といつくしみの栄光が輝くとは。▼創世記からヨハネ黙示録まで聖書66巻のうち、罪と苦しみが記されていないのはわずか4章だけといわれる。つまり、創世記1,2章と黙示録21,22章だけなのだ。あとは園を追われ、神との交わりを失った人類の詛われたありさま、悲しみと流浪と争いと罪深さの記録にほかならない。これが聖書の描く人間歴史の暗黒である。▼が、その暗黒の最中に救い主の受肉降誕があり、十字架と復活、教会の誕生と形成、聖典の成立、イスラエルの民の信仰とそこに現れた神のみわざの数々がある。逆の言い方だが、人間に反逆と堕落の歴史がなければ十字架も死も復活もなかったことになる。神はまさに、闇の世界を御自身の栄光が燦然と輝く舞台へと変え、ご自身の英知と無限の栄光の富をお現わしになった。ダビデの生涯もまたそのようであり、御子イエスの御生涯もそうであった。私たちキリスト者の地上生涯も同じである。苦しみと涙の中で、キリストのはなよめは完成されて行く、と言う事ではないかと思う。それが創造主にさわしい御手の進め方なのだ。「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。」(ヘブル2:10同)

 

 


朝の露 <あなたは私の道を>

2022-03-01 | 詩篇

「私の霊が私のうちで衰え果てたときにも あなたは私の道をよく知っておられます。私が歩くその道に彼らは罠を仕掛けています。」(詩篇142:3新改訳)

私たちキリスト者が神に愛される存在であることに寸毫(すんごう)も疑いの余地はない。だがそれは、地上の歩みのすべてが順風満帆(じゅんぷうばんぱん)ということを意味しない。それどころか、事態は予想もしないところに発展し、途方に暮れることが何度もある。▼本篇の表題が「ダビデが洞窟にいたときに。祈り」とあるように、彼は予期しない時にサウルに追いつめられ、絶体絶命の事態に立たされてしまった。神に油注がれた王でさえ、立ち上がる力も失せ、信仰も勇気も完全になくなってしまったのである。最後に残された唯一の道、それは天の神に向かい、叫び、あわれみを乞い、心の苦しみを言いあらわすことだった。おお、しかしダビデの子孫イエス・キリストもまた涙を流し、叫びながら御父に嘆願されたお方であられた。人の子イエスの三十数年に及ぶ御生涯、その隠された時間のほとんどは涙の祈りで埋まっていた。▼私たちの生涯に悲しみと悩み、霊が衰え果てるときがあるとすれば、それはキリストの十字架に近づき、その御苦しみをつぶさに眺めることにより、神の愛といのちにあずかるためだ、ということを知りたい。

「水のように 私は注ぎだされ 骨はみな外れました。心は ろうのように 私のうちで溶けました。私の力は 土器のかけらのように乾ききり 舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上に あなたは私を置かれます。犬どもが私を取り囲み 悪者どもの群れが私を取り巻いて 私の手足にかみついたからです。私は 自分の骨をみな数えることができます。彼らは目を凝らし 私を見ています。彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします。主よ あなたは離れないでください。私の力よ 早く助けに来てください。救い出してください。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。救ってください。獅子の口から。野牛の角から。」(詩篇22:14~21同)

 

 

 


朝の露 <私を守ってください>

2022-02-28 | 詩篇

「どうか 彼らが私に仕掛けた罠から 不法を行う者の落とし穴から 私を守ってください。」(詩篇141:9新改訳)

主イエスが公生涯に入られたとき、ユダヤ教の指導者たち、特にパリサイ人たちは執拗(しつよう)にねらい続けた。彼らは主があまりにもすばらしい不思議と奇蹟をするので、ねたみや怒りを抑えきれなくなり、なんとかして辱(はずかし)め、あわよくば殺してしまおうと機会をうかがった。▼答えられないような質問を考え出し、ローマ政府に反逆者として訴えるため、毎日集まっては協議し、罠を考え、落とし穴を掘ったのであった。その執拗さ、あくどさが福音書の至る所に記され、読む人をあきれさせる。だが彼らがそうすればそうするほど、彼ら自身の偽善的な生きかた、内面の醜さが一層明らかになるだけであった。▼天の父は朝夕祈る御子の祈りを聞き、羊飼いのように、すべての罠と落とし穴から守って導かれたのである。私たちキリスト者も同じで、御霊はあらゆる災いから逃れさせ、最後に天の御国へ入れて下さるであろう。

それにしてもパリサイ人や指導者たちの愚かさ、傲慢さに驚かされる。御子は全知全能の神が人と成られた御方である。パウロが言うとおりだ。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(コロサイ2:3同)▼主は私たちのように地から出た人間ではない。天から来られた御方、神が受肉して人と成った方である。その御方をだまし、言葉のワナにかけ、落とし穴で捕まえることができると考えたのだ。なんと無知で愚かきわまりない姿であろうか。だがほんとうに恐ろしいのは、自分の愚かさ、反逆性の底知れない実態が見えない、という盲目性にある。▼それを示す一コマが福音書にある。「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」(ヨハネ9:39同)▼すると、イエスのそばにいたパリサイ人がムッとしたのだろう。いわゆる「あたまに来た」のだ。「じゃあ、私たちも盲目だって言うんですか」と反問したのである(→40)。これが人の神の前における高ぶりと不信仰の罪にほかならない。この腐敗性から救われる道はただひとつだ。「主よ、仰せられるとおり私は霊的盲目者です。どうか私をあわれみ、心の目が開かれ、あなたがハッキリ見えるようにしてください」とひざまずき、懇願することである。