「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。」(Ⅱコリント13:4新改訳)
キリストは弱さのゆえに十字架につけられました、とパウロが言うのは、主が無力だったということではない。万民のあがないのため、ご自分を犠牲の小羊として十字架に差し出された事実をいうのである。▼もし主がそのように従順であられなかったら、罪の解決は永遠にあり得ず、私たちはほろびに行くしかなかった。つまり、キリストの弱さとは私たちに対する愛の強さの逆表現である。「父よ彼らをおゆるしください」と、鮮血(せんけつ)に染(そ)みながら祈られた主イエスに、計り知れない神のご愛の強さをおぼえ、ひれ伏すことが私たちにできるすべてである。そのとき、人ははじめてキリストと共に神の力によって生きるという、復活の世界を体験する。▼この世的な力と強さは、圧倒的に見えても、いずれは消滅(しょうめつ)し、消え去っていくものでしかないのだから。「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」(Ⅰペテロ1:24,25同)