しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <わが岩なる主>

2022-03-03 | 詩篇

「わが岩なる主がほめたたえられますように。戦いのために私の手を 戦のために私の指を鍛えられる方が。」(詩篇144:1新改訳)

ダビデは決して自分が強いとは思っていなかった。巨人ゴリアテを倒したのも、強敵ペリシテ人を破ったのも、自分の能力や力によるのではなく、共にいて下さる主によったのだ、と彼は告白する。▼ところが神を知らない異邦人の王たちは、戦いに勝ったときは必ず戦勝記念碑を建て、栄誉と称賛を自分に帰すのを常とした。ダビデはそうしなかった。記念碑を建てる代わりに詩篇を作り、曲をつけて神を賛美したのである。世界の王たちが岩壁に刻んだ記念碑、凱旋門あるいは自己の名を冠した町々は何も語らず、年月とともに風化し、砂に埋もれ、廃墟の丘と化す。バビロン、ニネベ、殷墟、ピラミッド等々。▼それに比べ、ダビデの歌は数千年後の今に至るまで、数えきれない人々の心にいのちを与え、神への信仰を奮い立たせ、人生を新しく変容させて来た。彼が生きていれば言うにちがいない。すべての栄光を主にささげて生きる者こそ、真の意味で王であり勇士なのだ、と。

「主よ 人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(3)。▼これは人間の小ささを詠ったものと解釈されるが、神の子の受肉を預言したものともとれる。全知全能の神は、ご自身のひとり子により、天地宇宙と万物をお造りになったが、そのひとり子をナザレのイエスとして地上にお遣わしになった。すなわち、人の子イエスこそ神愛の究極的創造だといってよいかもしれない。当時のパリサイ人をはじめ、指導者たちは、よもや眼前に立っておられる青年が人類の罪を身に負い、のろわれた姿をとられた神であるとは認めることができなかった。ましてや父なる神の全愛を傾けた存在、かけがえのない愛子であるとは夢の夢にも思わなかったのである。それこそ、人の子イエスが愛の究極的出現であることを知り得なかった。知っていたなら当然、十字架につけることはしなかったであろう。▼私たちは聖書と聖霊により、このお方に日々お会いしているのである。そこに深いおどろきと感動がともなうのは当然であろう。そしてこのことが全キリスト者において、ディボーションの出発点とならなければならない。