しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <私を守ってください>

2022-02-28 | 詩篇

「どうか 彼らが私に仕掛けた罠から 不法を行う者の落とし穴から 私を守ってください。」(詩篇141:9新改訳)

主イエスが公生涯に入られたとき、ユダヤ教の指導者たち、特にパリサイ人たちは執拗(しつよう)にねらい続けた。彼らは主があまりにもすばらしい不思議と奇蹟をするので、ねたみや怒りを抑えきれなくなり、なんとかして辱(はずかし)め、あわよくば殺してしまおうと機会をうかがった。▼答えられないような質問を考え出し、ローマ政府に反逆者として訴えるため、毎日集まっては協議し、罠を考え、落とし穴を掘ったのであった。その執拗さ、あくどさが福音書の至る所に記され、読む人をあきれさせる。だが彼らがそうすればそうするほど、彼ら自身の偽善的な生きかた、内面の醜さが一層明らかになるだけであった。▼天の父は朝夕祈る御子の祈りを聞き、羊飼いのように、すべての罠と落とし穴から守って導かれたのである。私たちキリスト者も同じで、御霊はあらゆる災いから逃れさせ、最後に天の御国へ入れて下さるであろう。

それにしてもパリサイ人や指導者たちの愚かさ、傲慢さに驚かされる。御子は全知全能の神が人と成られた御方である。パウロが言うとおりだ。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(コロサイ2:3同)▼主は私たちのように地から出た人間ではない。天から来られた御方、神が受肉して人と成った方である。その御方をだまし、言葉のワナにかけ、落とし穴で捕まえることができると考えたのだ。なんと無知で愚かきわまりない姿であろうか。だがほんとうに恐ろしいのは、自分の愚かさ、反逆性の底知れない実態が見えない、という盲目性にある。▼それを示す一コマが福音書にある。「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」(ヨハネ9:39同)▼すると、イエスのそばにいたパリサイ人がムッとしたのだろう。いわゆる「あたまに来た」のだ。「じゃあ、私たちも盲目だって言うんですか」と反問したのである(→40)。これが人の神の前における高ぶりと不信仰の罪にほかならない。この腐敗性から救われる道はただひとつだ。「主よ、仰せられるとおり私は霊的盲目者です。どうか私をあわれみ、心の目が開かれ、あなたがハッキリ見えるようにしてください」とひざまずき、懇願することである。