しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <高ぶって>

2022-02-24 | 詩篇

「主よ 悪者の願いをかなえさせず その企みを遂げさせないでください。彼らは高ぶっています。」(詩篇140:8新改訳)

少年時代に神からイスラエルの王として選ばれ、油注ぎを受けたダビデの生涯は、あなどられ、軽んじられる生涯ともなった。兄のエリアブは彼を軽視し、王サウルは手柄をたてたダビデを邪魔者にした上、いのちをねらい、家来ヨアブもダビデに逆らい、妻ミカルも夫ダビデを軽蔑し、最後には息子のアブサロム、アドニヤたちさえ反逆したのである。だがそこには深い摂理がこめられていた。▼すなわちダビデの一生は、その子孫、イエス・キリストの御生涯を預言的に物語る「ひな型」になっていたのだ。ダビデの子として現れたキリストこそ、万民の罪をその身に負い、一介のナザレ人として現れたとき、人々から嘲られ、捨てられ、どん底に落とされたお方であった。しかしそのことは反対に、人間というものが神の前にどれほど高ぶっている存在かを、天地にあきらかにする結果となった。▼こうして主イエスの御生涯を見るとき、私たちは初めて自らの罪深さを悟り、救いを求めて御前にひざまずく者となる。やがて来る永遠の御国には、謙遜という大気が満ちていることを、努々(ゆめゆめ)忘れてはならない。「二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。『主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。』」(黙示録4:10,11同)

 

 


朝の露 <海の果てに住んでも>

2022-02-23 | 詩篇

「私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも そこでもあなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇139:9,10新改訳)

臨在の喜びを歌った詩篇で、詩篇の最高峰ともいえる。ダビデがこれほど深く神の臨在を洞察し、その中に入り浸っていたとは、驚きを通り越し、神への讃嘆しかことばに出ない。▼パウロはエペソ教会のために祈っているが、本篇はそれとつながっている感がする。「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:18,19同)▼しばしば、新約の栄光は旧約のそれよりすぐれていると言われるが、キリスト者の中にもこれだけ深い霊性で神を賛美できる人は、たぶん存在しない。神の聖霊にとらえられたダビデ、その心の奥から歌い出されたインマヌエルの世界。古来おおくの信仰者たちが、この詩によって我を忘れ、主なる神をほめたたえたのは当然であった。それにしても、神の愛に占領され、その中に生きている人は幸いだ。それこそが永遠の昔から選ばれていた証拠にほかならないのだから。

本篇の13~16節は、イエス・キリストの受肉の神秘を詠(うた)っているのではないか?と私には思える。▼神の御ひとり子が一女性の胎に宿られた。神の限りない御知恵と御計りによってその肉体は造られ、組み立てられていった。そのみわざの執行者が御聖霊であられたのはもちろんである。罪を持つ人間の生命の中にあって、一点の罪もない全き人が造られて行く不思議さと無限の深さ、それはもはや私たちの理解や想像が到底およばない、またそんなことがゆるされない、神の栄光と叡智(えいち)の領域であった。このようにして、全世界をあがなうに足る完全なそなえもの、全き人、最後のアダムが世に出現したのである。▼イスラエル人たちは律法に従って、何百年ものあいだ無数の牛や羊を屠ってささげて来た。だが、ヘブル書が述べているように、それらは人間の罪とのろいを取り除き、きよめることはできなかった。が、ゴルゴタでただ一度ささげられたキリストのおからだといのちは、全世界の罪ののろいを永遠から永遠にいたるまで完全にきよめ、除いたのである。なぜか?イエス・キリストこそ、神ご自身が備えられた全きそなえものだったからである。こうしてみると、マリアに聖霊によって宿られた幼子のいのちは、どんな言葉でも十分には言い表わせない尊さと崇高さを持っていたことがわかる。今も世界中でクリスマスが祝われ、神がほめたたえられるのは当然ではないだろうか。▼御父の御心を喜び、ご自分を空しくしてそれに完全に従い、赤子の生命となって一女性に宿られた御子、そのご謙遜と信頼が栄光となって罪の世界に輝き渡る。まさに「光は闇の中に輝いた」のである。罪のため空しくなってしまった私たち人間の心と闇、その空しさをもうひとつの空しさが埋めた。というより、二つの空しさがひとつにされた。喜びと謙遜と従順、父への信頼という空しさで・・・。こうして私たちのすべてを支配していた罪による空しさは、人と成られた神により、喜び、従順、信頼に変貌してしまったのである。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17同)

 


朝の露 <聖なる宮に向かって>

2022-02-22 | 詩篇

「私は あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し 恵みとまことのゆえに 御名に感謝します。あなたがご自分のすべての御名のゆえに あなたのみことばを高く上げられたからです。」(詩篇138:2新改訳)

ダビデの時代、エルサレム神殿はまだ存在していなかった。それは息子ソロモンのとき建立されたからである。にもかかわらず、詩篇にはダビデがいつも神の宮を仰いでいた、と記されている。▼彼が見ていたのは天にある神の座であった。サウル王に追われ、ユダの荒野をさ迷い歩いたとき、またペリシテ人のところに難を避けて捕らわれの身となったとき、さらに息子の反逆により、死の危険にさらされた時、彼は天とそこにおられる神を仰ぎ、すべての助けを請い求めた。その心が詩篇に歌として記されたわけである。▼戦いにつぐ戦い、休む間もなく剣をもって走り回っていた彼が、なぜこのような深い霊性を保ち得たのか、普通では理解できない。ただひとつの答えは、ダビデを選ばれた神が恵みと憐れみのゆえに彼と共におられたから、ということであろう。▼この主こそ私たちの主と同じお方である。

ダビデの詩を思い巡らしていると浮かぶのは、夜遅く、または朝早く荒野や戦場でひれ伏し祈るひとりの武将の姿だ。彼にとって聖なる宮とは星空の彼方にあり、夜明けに目にした遠い山々の彼方であったろう。そしてそれは同時に、祈るうちに心に開かれてくる神の御臨在の世界だった。こうしてダビデは共におられるキリストの霊に捉えられていった。▼御子イエスは御自身を空しくされ、人となって地上に住まわれたが、朝早く夜遅く寂しき場所にひれ伏し、天の聖なる宮に向かって御父に祈られた。永遠の昔から父と離れなかったお方が、地上に来られたゆえに孤独を意識し、天に向かって祈られたとは実に不思議である。祈りとは神と我のあいだに距離をおぼえた人が、その隔たりを埋めたいとの欲求に駆られて取る行動ではないかと思う。私たちキリスト者は救われ御霊を宿したとき、祈りたいとの強い渇望を抱く。そして朝に夕に、主に向かってよびかけることを日々の喜びとする生き方に導かれる。▼それにしても、全能の神にして万物の源であるお方が大地にひれ伏し、涙を流しつつ祈られたゲッセマネの夜は、崇高な祈りの頂点というしかない。それはさらに十字架上の「父よ、彼らをおゆるしください」との祈りにつながっていく。そしてついには降臨された聖霊によって全時代のキリスト者の心に流れ込み、無数の祈りとなって天に立ち上り続け、御国を来たらせてください!との懇願に姿をかえて父の宝座に届いている。じつにイエス・キリストの再臨と復活世界の扉は、この雄大な祈りの渦潮によって開かれるともいえる。

 


朝の歌 <シオンの歌を>

2022-02-21 | 詩篇

「それは 私たちを捕らえて来た者たちが そこで私たちに歌を求め 私たちを苦しめる者たちが 余興に『シオンの歌を一つ歌え』と言ったからだ。」(詩篇137:3新改訳)

この詩篇はバビロンに捕えられていったユダヤ人たちが、そこでどのような扱いを受けたかを示す数少ない詩のひとつ。▼征服者たちは、あわれにも捕虜奴隷となったユダヤ人たちを笑い、おそらく宴会のなかで「シオンの歌を歌ってみろ」と命じたのだろう。かつてはエルサレム神殿の中で聖なる神にささげた賛美、身をきよめ、盛装し、敬虔のかぎりを尽くして御名をほめたたえたレビ人の聖歌隊であった。その歌を酔っぱらった人々のあざけりの中で歌わなければならなかったとは何という屈辱、はずかしめか。▼本篇には悲痛な憤り、神を知らない偶像礼拝者たちへの反発が渦を巻いている。7~9節はその現れとして記されたもので、たんに復讐を求めた祈りと思うべきではないだろう。ともあれ、このような悲しみの中で七〇年、選民たちは帰還を祈り続けたのであった。

「もしも 私があなたを思い出さず エルサレムを至上の喜びとしないなら 私の舌は上あごについてしまえばよい」(6)との一節には、ユダヤ人たちのエルサレムに対する思慕がこめられ、読む人の胸に迫って来る。▼だが私たちキリスト者にとっては、エルサレムはあのパレスチナのエルサレムではない。天にある永遠の都・キリストのはなよめなるエルサレムである。それは世の終わりに、新天新地の出現とともに、神のもとを出て地上に降って来る。ヨハネは圧倒的な美しさと威容を見せられ、感動のうちにそのありさまを黙示録21章に記した。旧約の信仰者たちは、滅亡した都の回復を願い、思いのかぎりをつくして詩篇に歌った。▼それなら、まして私たちは彼ら以上に、天の都エルサレムの降下を願い、心が焼けるばかりになって当然ではないだろうか。それなのに、世界の教会から「御霊と花嫁が言う。『来てください。』これを聞く者も『来てください』と言いなさい」(黙示録22:17同)との切々たる叫びが聞こえないのはなぜか。ユダヤ人たちはこの二千年間、西壁の廃墟でエルサレムの回復を祈り続けている。では私たちキリストのはなよめは、どこでどのように彼ら以上に、この二千年祈って来たのか。「主よはやくおいでください」と。貴方様と共に永遠の都エルサレムに住まう日が早く来ますように!と。

 

 


朝の露 <英知をもって>

2022-02-17 | 詩篇

「英知をもって天を造られた方に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。」(詩篇136:5新改訳)

天が造られたのは神の英知によってであるとは、旧約聖書がくり返し宣言するところだ。果てしない宇宙空間に浮かぶ星雲のふしぎで見事な形と美しさ、それに魅了され、一生を宇宙の研究にささげている科学者は数多い。今日、人間は何億キロ彼方の小さな惑星にも探査機を着陸させることができる。それは暗黒の空間にも精密極まりない物理法則が張り巡らされ、それに従って行けば、どのような地点にも到達することが可能だからだ。▼広大な真空空間も、じつは真空ではない。そこには創造主の英知が満ちている。しかも百億光年の彼方まで満ちている。人間のあまりにも小さな存在と、神のあまりにも大きな存在を思うと、私たちはこのお方の前に跪(ひざまづ)くほかはないことがわかるであろう。天の父はしかし、私たち無きに等しい者を愛し、いつくしみ、日々生かしておられる。どうして感謝せずにいられよう。どうして賛美と礼拝の一生を続けないでいられよう。

私たち人間が真に英知を持つとは、創造主とキリストに礼拝の姿勢をとることである。もちろんそれは、からだが平伏する姿勢であればよい、というものではない。身も心も思いも知恵も、すべてのすべてが御父と御子をこの上なく崇め、喜び慕い、その御心に従う事をもっていのちとすることをいう。▼キリストは人となられたとき、天の父を敬い、喜び、尊び、その御心に従う事を自分の食べ物のように重んじられた。その結果がナザレのイエスとしての御生涯であった。これが英知ということである。イエスはまさに地上に「神の英知が顕現した」状態にあられたといえる。天体を観測する、自然の神秘と法則を探求する、それらのすべてにまさって、すばらしいことは、神の英知が人となって現れ、全ての人々がそれを目にすることが出来たことにほかならない。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」(コロサイ2:3同)