しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <知恵の陰に>

2022-05-19 | 伝道者の書

「知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」(伝道7:12新改訳)

ここでの金銭とは、本当に大切なもの、真理のことばを指すととるべきであろう。それはまさにイエス・キリストのことである。「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」(コロサイ2:3同)とあるように。またモーセも歌った、「いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る」(詩篇91:1同)と。▼やがて来る世の終わりと最後の審判の日、あらゆる人々は神の前に立たなければならない。そのとき人を救い、永遠の世界に入れるのは、地上で蓄えた富であろうか。はたまた、ソロモン王が持った知識という財産であろうか。答えは否である。最後の最後に人を救うのは神の御子が十字架で流された比類なき血潮であり、恵みのことばである。▼だから私たちは地上に生きている間に、キリストご自身の陰に宿る術を学ばなければならない。永遠から永遠にわたって信じる者を保護する御つばさの陰とは、キリストのふところだからだ。主は言われる、「人よ、地上に宝を蓄え、それに信頼するという愚かな生き方をやめよ」。

伝道の書全体に流れる「すべてが空しい」、「風を追うようなものだ」との感慨は何を意味しているのか。ただひとつハッキリしていることがある。それは富と名声の極点をきわめた王の王であるソロモンが「私は神の領域に達した」と言わなかった、否、言えなかったことである。そうさせていたのは彼の中にあった「空しさという感慨」なのだ。▼ネブカドネツァル王はバビロン城を見ながら自分に栄光を帰し、神に撃たれて獣同然になった(ダニエル書)。ツロの王は富におごり、「私は神だ」と言って滅びた(エゼキエル28章)。ヘロデ・アグリッパ王は虫にかまれて息絶えた。みな愚かにも頂上に立った時、自分を神とみなしたからであった。しかしソロモンは間一髪のところで、それを逃れることができたといえる。その原因と理由が、彼の心を占めて離れなかった「すべてが空の空」という思いなのである。だから伝道者の書は、その意味において、ほんとうに「伝道者の書」なのである。▼つまりこの世のあり方に対する空しさをおぼえることは、じつは神のあわれみである。こうして、ソロモンは自分の子孫として出現するイエス・キリストを指さしながら、さびしく生涯を終えて行った。彼に与えられた伝道者としての使命を果たして。


朝の露 <饒舌(じょうぜつ)の空しさ>

2022-05-18 | 伝道者の書

「多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。」(伝道6:11新改訳)

世界一の知恵者だったといわれるソロモン、彼のところには知恵の言葉を聞こうと多くの人々が集まって来た。そのうち、典型的な人物はシェバの女王であった。「彼女は非常に大勢の従者を率い、バルサム油と非常に多くの金および宝石をらくだに載せて、エルサレムにやって来た。彼女はソロモンのところに来ると、心にあることをすべて彼に問いかけた。ソロモンは、彼女のすべての問いに答えた。王がわからなくて、彼女に答えられなかったことは何一つなかった。」(Ⅰ列王10:2、3)▼だがその実、知恵を語れば語るほど、彼は心に空しさをおぼえていたことが、伝道者の書を読むと見えて来る。ヤコブは言う、「舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます」(ヤコブ3:6同)。ソロモンが語れば語るほど空しさを増したのは、そこに知恵はあっても、真理の本源であられるキリストがおられなかったからである。▼主イエスはソロモンより大いなるお方であった。その御口から発せられることばは天のいのちに溢れ、聞く者を立たせ、病める人を癒やした。単に難問を解いたり、謎を解明できる知恵ではなく、救いの恵みに満ちたことばだったのである。

現代人の多くがソロモン王の前に立ったら、きっと言うであろう。「宇宙を動かす力の本体は何ですか?」、あるいは「生命の中心である遺伝子の仕組みを教えてください」と。また別の人は言うかもしれない。「株や証券取引で絶対損をしない理論はありますか?ぜひ知りたいのです」などと。▼たぶんソロモンは言うであろう。「それを知ってどうするのか?あなたの生涯は空しさでいっぱいになるだけだよ」と・・。シェバの女王は少なくとも現代人にまさっていた。なぜなら彼女はソロモンを崇拝しないで、まことの神をほめたたえたからである。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主はあなたを喜び、イスラエルの王座にあなたを就かせられました。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義を行わせるのです。」(Ⅰ列王10:9同)▼つまり彼女はソロモンを賛美したり、神と同列には決して置かなかった。それゆえ主イエスは言われたのである。「南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。」(マタイ12:42同)


朝の露 <神の宮へ行くときは>

2022-05-17 | 伝道者の書

「神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近くに行って聞くことは、愚かな者たちがいけにえを献げるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ。」(伝道5:1新改訳)

私たちが日曜日に教会で礼拝を守るとき、もし主のお声を聞き、その御心にふれることがなければ、からだは礼拝に出席していても心は養われないであろう。つまりそこから生まれるのは、「今日も礼拝出席の義務を果たした。あとは自由にしよう」という考えで、世の人たちがお宮参りをするのと大した違いはないことになる。▼真に敬虔な信仰者はそうはしない。なぜなら、礼拝の中で神が自分に語られる声を聞こうと「心の耳をすませる」ことを怠らないからである。すなわち、「耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい」(黙示録2:7同)とある通りにするのだ。▼そこで私たちは深い謙遜と飢え渇きを抱き、主のおことばに聞き入ったベタニアのマリアのように、主の膝下に膝まずこうではないか。教会の会員であるのはもちろん大切だが、その努めや義務を果たすことだけで満足するとしたら、心の奥深くまで届く信仰的養いを受けることがむずかしくなる。ソロモンの時代も今も、神は心からご自身のみもとに近づく者を喜びたもう、という事実を忘れまい。


朝の露 <存在しなかった者>

2022-05-16 | 伝道者の書

「また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」(伝道4:3新改訳)

人はこの世に生まれないほうがよい、なぜならこの世に生を受けたばかりに、見てはならない不幸を見、受けるべきではない苦しみを受けるから。▼これが世界一の富と栄華を手にしたソロモン王の言葉だとは、にわかに信じがたい。だがまぎれもなく彼の告白である。毎日、黄金と宝にかこまれ、世界からひっきりなしに来る賓客を迎え、豪華な食事と並み居る従者たちを従えていた王の王、にこやかな笑顔と口から出る神のような知恵に満ちた言葉の数々、その本人が、じつは心の奥で冒頭のような思いを抱いていたのであった。いったいどうしてなのか。▼答えは、人の心に宿る罪の根深さにある。すべての人間はひとりの例外もなくこの罪を宿しており、たとえソロン王でも逃れられなかった。いわば心が牢獄に閉じ込められたまま生涯を終わってしまうわけで、誰がどんな生涯を送ろうと、結局は「生まれて来ないほうがよかった」との結論に行き着くしかない。皮肉にもソロモンはその人生が繁栄の極致に達したため、何人(なんぴと)よりも深く、罪から生じる空しさを意識したのであった。▼イエス・キリストはこれと全く反対であられた。野原に咲く一輪の花に神の与えた装いの豪華さを見、一羽の雀に御父の豊かないつくしみを見てほめたたえたのである。これが罪を持つ人間と、罪を持たない人間の落差といえる。だが私たちは主に深く感謝しよう。イエスによる永遠の救いを頂くことができたのだ。その主イエス様が、昼も夜も私と共にいて歩んでくださっているとは、どんな宮殿や超豪華な食事、博学や名誉地位もおよばない幸せだということを!今は、「生まれて来てよかった」と心底から叫べるのだから。

 

 


朝の露 <私はだれのために>

2022-05-12 | 伝道者の書

「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして『私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか』とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。」(箴言4:8新改訳)

本書を読んで誰もが感じるのは「孤独の深い闇」である。そしてその孤独感は生きている意味と目的を見出せないところから生じている。おそらくここは多くの日本人が、もっとも共感できる箇所であろう。▼だがソロモンが述懐する空しさと孤独は、もしイエス・キリストに目が開かれるならば、すぐ解決する。パウロは述べた、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58同)と。インマヌエルの神が昼も夜も共におられる、という確信が御聖霊によってもたらされるとき、孤独は完全に消え去るのである。

栄華をきわめたソロモン王の生涯、じつは孤独だったのではないか?と思う。むろん彼がダビデの数多い息子たちの中から後継王として選ばれたのは、神によることであった。しかしそれを快く思わない連中は少なくなかったろう。▼ダビデがヘテ人ウリヤの妻を盗み、謀略によってウリヤを殺したあと、産ませたのがソロモンだ。しかし、「自分こそ次王に」と思っていた息子たちがたくさんいたことも、じゅうぶんあり得る。彼らはひそかにソロモンをその出自ゆえに見下していたかもしれない。だからソロモンが繫栄をきわめればきわめるほど、ねたみやひそかな中傷に囲まれることになったと想像できる。彼の知恵、名声に向けられた世辞追従、称賛と驚きに満ちた王宮、エルサレムとイスラエル全国、であればあるほどソロモンは孤独を意識したのではなかろうか。母バテ・シェバが死んだあとは、なおさらそうだったろう。▼それを打ち消すごとく事業を拡張し、邸宅を建て、森や庭園の造営に情熱を注ぎ、金や宝石を集め、多くの女性を囲い、世界中の賓客をもてなし、宴に明け暮れたソロモン、心には孤独と空しさの風が強まるばかりであった。主イエスのおことばが響くではないか。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、何を差し出せばよいのでしょうか。」(マタイ16:26同)