しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <私は偉大な者となった>

2022-05-11 | 伝道者の書

「こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。」(伝道2:9新改訳)

これはあきらかにソロモン王が自分の生涯について述懐した言葉である。ふつうなら、最高の繁栄を得たとき、限りない満足と喜びを実感するはずだが、予想に反して彼を満たしたのは空しさ(11)、生そのものに対する憎しみ(17)、絶望であった(20)。▼ただ、ソロモンが味わったこの悲哀感が、かえって私たちの救いにつながっていることも事実だ。というのは、地上に生きるほとんどの人が、ソロモンと同じものを得ようと生涯を費やしているからである。彼らが本書を読めば、その結論がすでにソロモンによって出ている以上、「そうか、やっても無駄なのだ」と悟り、あきらめることができるであろう。そして改めて人生とは何かを考えた時、私たちはキリストとそのおことばに出会う。その意味で、ソロモンはまさに伝道者だ。すべてを最高最大の形で実現した人が、「そこに救いはなかった」と証ししているからである。

「私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」(伝道2:17同)▼これはソロモン王の口から出た名言である。たぶん世界の多くの人が、そのとおりだと同意する名言にちがいない。なぜなら人は真面目に、神とキリストなしに生きる意味と目的を考え、突き詰めようとすると、しまいには発狂するであろう。あの華厳の滝に身を投じた一学生のように・・。だから大部分の人は快楽を求めて一時的に「我を忘れ、陶酔に浸る」のである。しかし素面(しらふ)に戻ると、ふたたび暗黒と苦痛がやって来る。そこで、また次の快楽を捜し求め、そこに身を渡す、つまり快楽の「はしご酒」をせずにはいられない。あるいは「快楽依存症」と言ったらよいだろうか。ソロモン王の人生はたしかにそれだったのだ。▼こうして空しさの果てに疲れ切って、からだも心もぼろぼろになったとき、中毒症状からほんのわずかでも正気に戻ることができたわずかの人が聖書に出会う。そこには何と書いてあるだろうか。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58同)▼ソロモンはすべてがむなしく、風を追うようなものだ、と告白した。だが聖書は言う。すべての労苦は無駄でなく、すべてのわざには意味がある、そのひとつひとつが素晴らしい価値と意味を持ち、永遠性を持っているのだ、と。つまり私たちは神とキリストのところに来ると、その真相を発見するのである。エルサレムの伝道者は、自己の繁栄の空しさを語ることにより、じつは人がキリストのみもとに行くためのバックアップをしているのだ。もちろんそう計画されたのは神であり、彼は知る由もなかったかもしれない。だからどんな生涯を送っているにせよ、彼に背中を押されるようにしてキリストのところに来ることができた人は、真に幸福というべきである。


朝の露 <生々流転の果てに>

2022-05-10 | 伝道者の書

「一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。」(伝道1:4,5新改訳)

私は毎朝、川の堤防に続く桜並木を歩き、青空と朝日を見ながらフト思う。この美しい空と朝日、二千年ほど前の卑弥呼や千年ほど前の清少納言も眺めて暮らしていたのだ。人とはいかに短く、はかない存在なのだろう。そして自然はなんと悠久で大きく広いのだろう。それを実感するのである。▼だが今の私たちは聖書を手にし、万物をお造りになった天の父を知ることができた。それどころか、その父が私たちをかぎりなく愛し、ひとり子を遣わして御国へ入る道を設けて下さったことも知った。生々流転してやまない歴史の中で、私たちはいちばん幸福な時にめぐり合ったことを知る。▼日本人が愛した自然、不変に見える世界、それさえもやがて一新される時がやって来る。私たちは今の世界の向こうに新天新地が近づいていることも知った。幸せである。

やがてこの世界は主の日を迎える。「天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまう」(Ⅱペテロ3:10同)。その日、あらゆる時代の人々は生前の姿をもって永遠の審判者の前に立たなければならない。隠れている場所がなくなるからだ。▼冒頭の卑弥呼や清少納言だけでなく、ネブカドネツァル、アレキサンダー、釈迦、カエサル、始皇帝、日本の天皇たち、ヒトラー、有名無名を問わず、時代も地域も問わず、すべての人々が創造主の前に進み出て自分のしたことを報告し、調べられ、審判を受けなければならない。そのとき、私たちはどのような人をもありのまま、神の前で震えおののく様子を見るであろう。人の歴史で偉大な人物、大いなる者と呼ばれていた人も、自分のして来たことにおびえながら審判を受ける様子を見、人間はいかに空しく、はかない者かを見せつけられることになる。▼その逆もあるかもしれない。残酷に殺された人々、人間扱いされず、虫けら以下に消された人々もそこに進み出、慰められ、永遠の新天新地に入ることをゆるされる、そのような光景も見られるかもしれない。▼主の日はかならず来る。審判者にして創造主、絶対者なるお方が誓って仰せられたからである。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」(黙示録21:5同)

 

 


朝の露 伝道12章 <あなたの若い日に>

2017-11-08 | 伝道者の書

ざくろ「あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」(伝道12:1新改訳)

この聖句は伝道の書でもっとも有名かつ万人の胸をうつことばである。もし、創造主を認めないまま晩年を迎えるなら、たとえあらゆる事柄に恵まれていても、「老いた自分には、今や何の喜びもない」との思いが実感としてわいてくるのを、どうすることもできない。▼ソロモン王は最後の日々をこのとおりに過ごしていたにちがいない。黄金の宮殿、千人を越える妻妾、思いのままに動く無数の仕え人たち、それでも寂寥(せきりょう)の鉄格子(てつごうし)から出られなかった知恵の王が、「あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えよ」と言っていることを、軽く考えるべきではない。▼創造主を覚えるとは、ただ、神の存在を知っているということではない。神に愛されている事実を喜び、その御心をいのちとして生きることを意味する。すなわちキリストの贖いによっておいで下さった御霊とともに歩むことだ。それが早ければ早いほど、幸福の月日も長くなる。◆◆小生は今から54年前の9月22日、生まれて初めて教会の礼拝に出席した。何もわからなかったが、ふしぎに、語られた聖書箇所はおぼえている。22日はヘブル書11章1節、次の29日はここ、伝道の書12章1節であった。そして心開かれて主イエスを人生にお迎えし、同じ年のクリスマスに受洗した。◆若い日に、創造主を覚えることができたのは何にも代えられない喜び、幸せであった。そして今74歳が目前である。ソロモンが「何の喜びもない」と記したが、小生には大きな喜びがある。太陽、月、星がほの暗くなり、いなごはのろのろ歩く生に入ったが、行く手が明るいのである。まさにヨハネが言う通り、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5同)のだ。とはいえソロモンは神なき小生の生涯を、そのまま見事に描き、言い当ててくれた。そして、救い主イエス・キリストへ通じる橋のたもとまで案内してくれたのである。その意味で、彼はたしかに「伝道者」であり、今なお世界の万人に語り続けている。


朝の露 伝道11章 <神とともに>

2017-11-07 | 伝道者の書

パンジー「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。」(伝道11:8新改訳)

ソロモンの抱いた人生観を完全に否定した人物はエノクである。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。」(創世記5:22同)▼たしかに彼の生涯には楽しみとともに、「やみの日」も数多くあったにちがいない。なにしろ365年という長さだったのだから。ところが御霊はエノクの生涯を総括し、短いひとこと、「三百年、神とともに歩んだ」(24)と証しておられる。これは、「すべて起こることはみな、むなしい」の反対で、満ち足りた三百年だったのである。その証明として、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」との結論がある。つまり死ななかったのだ。▼葬儀のとき、〇〇さんは主と共に歩まれました、と人々から証される人は幸いにちがいない。しかし神ご自身からそう言われる人は、もっと幸いではないか。なぜなら、人はお世辞や儀礼で述べることが多いが、神の証はその後に祝福となって現われるからだ。エノクが生きたまま天に移されたように。◆伝道者は本章で悲観的なことばかりを述べているわけではない。たとえば、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」(1)は、宣教に従事する人をどれだけ励ましてきたかわからない素晴らしいことばである。この古い天地が過ぎ去り、復活されたイエス・キリストが審判者として御座に着かれるとき、ほんとうの収穫が始まるであろう。私たちがそこに視点を定め、人生のあらゆる場面で御霊と共に歩ませていただくなら、喜びにあふれて「パンを水の上に投げ」ることができるようになる。「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58同)とパウロが記したとおりだ。


朝の露 伝道10章 <喧噪の世紀>

2017-11-06 | 伝道者の書

東大阪の朝「愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることをだれが告げることができよう。」(10:14新改訳)

TVやラジオのスイッチを入れると、一日中だれかがしゃべっている。都会では、あらゆる場所でBGMが聞こえ、沈黙の世界はほとんど見出せない。こうして人は神の声を聞くことなく、ざわつく心のまま一生を終える。これを愚かと言わずして何と言おう。▼それでも神に選ばれたごくわずかな人が喧噪(けんそう)から離れ、聖書に戻って来てイエスのお声を聞き、平安の道を発見する。彼らは畑の中に眠っている宝を見つけた人のようだ。だから自分の生き方に不安をおぼえたからといって、夢中でだれかと話をしたり、メールをやりとりする必要はない。何千年も読み継がれている神のことば、聖書に帰って来ればよい。人はだれでもそこで、永遠に変わらない救い主のことばに出会う。▼イエスは耳や目よりはるかにすばらしい、「心にひびく声」をお持ちである。そして永遠の世界を、虚像ではなく実像として見せて下さる。こうして私たちは、全く新しい生き方を始めることができるのである。◆主イエスの実の弟といわれる使徒ヤコブは、「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」(ヤコブ1:19同)と警告している。彼は人が口から出すことば、いわゆる「舌の罪」について、ひじょうにするどい感覚を持っていた。ヤコブ書3:1~12を見るなら、私たちはあまりにも軽率かつ不用意にことばを出していることを意識させられ、身震いがするほどだ。◆一日を終えたとき、キリスト者は主の御血潮を仰ぎ、その日出した言葉についてゆるしを求めてから床に着くべきであろう。