「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして『私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか』とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。」(箴言4:8新改訳)
本書を読んで誰もが感じるのは「孤独の深い闇」である。そしてその孤独感は生きている意味と目的を見出せないところから生じている。おそらくここは多くの日本人が、もっとも共感できる箇所であろう。▼だがソロモンが述懐する空しさと孤独は、もしイエス・キリストに目が開かれるならば、すぐ解決する。パウロは述べた、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」(Ⅰコリント15:58同)と。インマヌエルの神が昼も夜も共におられる、という確信が御聖霊によってもたらされるとき、孤独は完全に消え去るのである。
栄華をきわめたソロモン王の生涯、じつは孤独だったのではないか?と思う。むろん彼がダビデの数多い息子たちの中から後継王として選ばれたのは、神によることであった。しかしそれを快く思わない連中は少なくなかったろう。▼ダビデがヘテ人ウリヤの妻を盗み、謀略によってウリヤを殺したあと、産ませたのがソロモンだ。しかし、「自分こそ次王に」と思っていた息子たちがたくさんいたことも、じゅうぶんあり得る。彼らはひそかにソロモンをその出自ゆえに見下していたかもしれない。だからソロモンが繫栄をきわめればきわめるほど、ねたみやひそかな中傷に囲まれることになったと想像できる。彼の知恵、名声に向けられた世辞追従、称賛と驚きに満ちた王宮、エルサレムとイスラエル全国、であればあるほどソロモンは孤独を意識したのではなかろうか。母バテ・シェバが死んだあとは、なおさらそうだったろう。▼それを打ち消すごとく事業を拡張し、邸宅を建て、森や庭園の造営に情熱を注ぎ、金や宝石を集め、多くの女性を囲い、世界中の賓客をもてなし、宴に明け暮れたソロモン、心には孤独と空しさの風が強まるばかりであった。主イエスのおことばが響くではないか。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、何を差し出せばよいのでしょうか。」(マタイ16:26同)